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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 実に20数年ぶりのポケモンだったんだけど、見事にハマった。これはもう帰れない。
 プレイしたのはまだピカブイのブイ、レジェンズアルセウスぐらいで、現在は盾をプレイ中。
 アルセウスにドハマりしたから元となるダイパをやろうってリメイクも借りていたけど、どうにも肌に合わなくて2つめのジムで断念した。こいつぁ細かいストレスが辛いやつだ。

 そんなこんなで、春くらいからずっとポケモンをやっている。
 そして秋にはレジェンズの新作が出ると聞いたので、これはもう運命だと思ったね。


 初代のポケモン直撃世代なので、懐かしきゲームボーイでならやったことがある。
 きょうだいが赤を欲しがったので、自分は緑を買ってもらえた。そこからして不満があったことを憶えている。当時から竜贔屓だったから、ヒトカゲを選びたかったんだね。
 しかし、育成系のゲームは苦手な部類だった。みんな可愛くてみんな育てたくなっちゃうから、いつまでもみんな弱いままで、ジム戦でも苦労することうけあい。メンバーの厳選というものがそもそもできない。
 第2世代の金銀も買ったけど、あまりやらずに終わってしまった。以来、自分にポケモンは向いていないのだと考え、自然と離れてしまったのである。

 それから20年近く経って、去年の暮れぐらいから始めたのがポケまぜ。カフェでポケモン達と楽しくパズルしながら、可愛いフードメニューを提供していくという、任天堂版ツ●ツムみたいなものだと理解した。
 で、パズルゲームもあんまり得意じゃないんだけど、無料だし、デザインも可愛いから、隙間時間にやろーと思ったら、ハマった。どういうわけかハマった。
 ポケモンの衣装が可愛かったり、知らないポケモンでも可愛かったり、とにかく可愛いは正義を体現したゲームだと思った。Switchでできたのもありがたい。

 そこからポケモンへの興味が再燃し、今の自分ならプレイできるかもと意気込んで、友人からポケモンのソフトを借りた。
 先ずはずっとやってみたかった、レッツゴーイーブイ。ピカとブイだと友人はブイが好きだというので、そっちを借りた。

 もう懐かしさ爆発。初代は一応、殿堂入りするまでやっていたから、こんなんだっけな~と思いながら進めていた。
 本当はミュウが欲しかったんだけど、あれは限定だというので諦めるしかなかった。ミュウツーは捕まえられるっていうから、それだけでも達成しようと頑張った。
 図鑑を埋めるほどの熱意は出せなかったが、結構捕まえたし、結構育てた。スタメンを決めて、属性を理解して、使っても無くならないわざマシンに感謝した。

 ただ、イーブイの声がアニメ準拠だったのかな? 昔から変わっていると聞いたから、まぁ知らないイーブイではあるんだが。
 そのイーブイの声がどーーーーしても声優さんそのままにしか聞こえなくて、途中からイーブイをどう捉えていいのか解らなくなってしまった。イーブイはポケモンから離れても好きだったのに・・・・・・。

 代わりにというか、ピカチュウにめちゃくちゃ惚れ込んだ。人生でこんなにピカチュウを可愛いと思ったことはない。
 ライチュウも可愛い。かみなりの時に尻尾を立てるのがめっちゃくちゃ可愛い。
 子どもに見せているポケモンキッズTVでピカチュウに傾きかけてはいたが、ゲームで更に傾いた。そらもう面白いくらい傾いた。

 クリア後のやり込み要素までは手がつけられなかった。
 なにしろ、この後の控えがいっぱいある。Switchで出たポケモンは一通りあるし、自分で検索して見つけた救助隊DXやりたいし、友人から勧められたゼル伝のちえかりも中古でお迎えした。
 ブイは60時間くらい掛かってクリアして、ミュウツーを捕まえて終わりになった。
 まぁピカ版を自分で買ったので、いくらでもできるんです。推しを持ち運べる喜び。


 そして次に始めたのがレジェンズのアルセウス。
 これがもうすんごいハマり方をした。今でも帰りたい。ヒスイ地方に帰りたい。
 最初はブイ版の癖が抜けなくて、あぁ~カントー良かったなぁ~なんてホームシックさながらにぶつくさ言っていたのだが、調査隊のランクが上がり、ポケモンを捕まえ、或いは戦い、衣装が増えて、行ける場所も増えてきた頃には、わくわく度が限界突破していた。

 ただ、主人公は喋らない系の子なので、現世に帰りたいんじゃないかとか、本当はこの仕事嫌なんじゃないかとかこっちが心配しても、荒事に巻き込まれるし解決していく。
 僕が選んだのはショウの方だったから、女の子だてらに崖を斜め登りする様を見て、現代で何をやっていたんだ? と不思議な気持ちに。いや、テルでも同じようには思ったか。
 総隊服、すっごく可愛いよ~。オシャレの幅は現代と違って狭いけど、着物の柄とか半股引とか、その時代らしくていいよね。

 とにかくフィールド探索がえらく楽しい。どこまでも行ける~って解放感が、グラを越えて僕の脳裡に強烈なゲーム体験を与えてくれた。
 その直前にやっていた二大困ったなゲームでかなり辟易していたので、ゲームとはこういうものだ、探索とはこういうものだってド正論を喰らったようで、爽快だったのだ。
 それに、ポケモンと戦わずに捕まえられるというのも、僕みたいな下手くそにはありがたい。戦って弱らせて捕まえるってのは理に適っているんだけど、ついついやりすぎちゃうこともあったので・・・・・・腕が無いトレーナーにとっては、戦わない選択肢は良いものだ。

 それに、ストーリーも良かったんだよ。途中で「え? どういうこと? は???」ってなったけど、土下座されたら許さないわけにはいかねぇ!!
 黒幕の髪型にも笑わせてもらったし、ギラティナすっげぇかっこよかった。一度負けてからの復活、痺れるね。
 キャラにも愛着が湧いて、今もそれは燻っている。セキさん、カイちゃんすっごい好き・・・・・・ラベン博士とテルとの家族みたいな感覚、あったけぇ・・・・・・。

 そうそうそう、ポケモンといえば戦闘BGMがかっこいいのだよね。
 ダイパのBGMのアレンジって話だったけど、どの曲もかっこよかった。久々に熱くなった。
 一番好きなのはトレーナー戦かな。最初のイントロの後、急に空気が変わった感じがして、鳥肌立つんだな、堪らんな。
 ギラティナ戦のBGMもかっこよかったな、ギラティナの強さを表したかのような・・・・・・いや、強かったな、ギラティナ。運よく黒幕からギラティナまで通しで勝てたけど、もう一回やったら何度か挑むことになりそう。

 最終的なスタメンはヒスイバクフーン、ルカリオ、ハピナス、シャワーズ、ガブリアス、ライチュウ。ハピナスはミミロップとかヒスイドレディアの時もあったけど、体力値が魅力的だったので・・・・・・シャワーズも同じく。
 ルカリオは入れざるを得なかった、かっこよすぎ。力業の時のカットイン、心が震える。
 ガブリアスは今作で初めて会ったんだけど、デザインいいな~。かっこいいなぁ。

 言葉では表現できないほどの何かに絡めとられ、未だに心がヒスイ地方から帰ってきていない。自分でも解っている。
 それまでやっていたゲームとの落差が激しいにしても、随分と凄い勢いで倒れ込んだよな。
 他にもやりたいゲームはあるし、楽しみにしているゲームもあるけど、今はアルセウスが頭から離れない。ポケモンと常に一緒に生きていたい。

 書きたいこと、歌いたいもの、やりたいゲームに満ち溢れているだけで、僕の幸福は約束されたものになる。良いことだ。

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 近頃はポケモンにハマって、去年からずっとポケまぜを、5月からはピカブイのブイ、それが終わった後はアルセウスを始めると、なかなか多忙なゲームライフを送っていた。その殆どがポケモンで、キャラグッズも集められるものは集めている。
 ただブイは60時間近くやって、アルセウスも寄り道ばかりしていた所為か、100時間を迎えそうなので、合間に何か挟もうと思って始めたのがこれ、NOSTALGIC TRAINだった。

 PSストアで安売りしているを見かけ、いかにも昭和の田舎といった風景と電車というSSに惹かれて購入。値引きもされていたので、良いADVを買えたぞ~とほくほくしていた。
 後にSwitchでも出ていると知ったのだが、せっかくPS5があるのだし、高画質で楽しもうと思った。
 ウォーキングシミュレーターってやったことないけど、こんな素敵な風景の中を歩いたり、電車に乗って出かけられるなら、昨今の荒んだ精神も癒されそうではないか!

 ・・・・・・なんて、いろんな期待を胸に始めたら、これはノベルゲームだった。
 サウンドノベルというほどSEやBGMがあるわけではなく、美しい原風景を背景にして、主人公のモノローグで話が進む。
 タイトル画面でストーリーモードと表示されているのを見て、「歩き方に話も何もあるか」と思ったが、ノベルゲーだというなら話は別。
 ということは、ジャンル分けが間違っているのではないだろうか。他の方の感想でもしばしば散見されたが、田舎をぼんやり散策する系ゲームだと思っている方は多かったのではないだろうか。

 風景の描写は個人で制作されたと思えないほど美しく、その時代に生きていたわけでもないのに懐かしさを覚える。家の中や学校には入れない。それがちょっと残念。
 電車でその風景の中を移動できることに感動はしたが、如何せんマップは狭く、閉ざされているなぁという閉塞感を覚えた。もっとあちこち歩き回れる集落だと思ったので・・・・・・白川郷みたいな・・・・・・。
 BGMも同じようなピアノ主体の曲ばかりで、食傷気味。ハーモニカとか、リコーダーとか、もっと素朴な楽器を使っても良かったのでは、と思ったけど、これは個人の趣味なのでね・・・・・・BGMの評価は現在のままでも充分に高いので、自分が可笑しいのだと思う。

 肝心のストーリーについては、ネタバレを伏せて書くと「成程ねぇ~」という文言以外、あんまり出てこなかった・・・・・・すんまっせん・・・・・・。
 ただでさえ、田舎を歩き回れるゲームと思っていたから、そこで話が展開しはじめて、しかもこんな綺麗な背景でこんな陰鬱な話かい! て言いたくなるような内容で、人によっては落ち込むんじゃないだろか・・・・・・。
 途中までは「村にもいろいろあったんだね~」と読んでいたけど、途中からファンタジーな要素が入ってきて(この捉え方は人によっては違うだろう)、「あ、そういう系の話だったの?」と魂消た。円環の理、か・・・・・・。

 システムについては、探索のしかたがちょっと面倒だったな。
 舞台となる夏霧の村の中を歩いて、探索のためにR2を押して、白い靄が見えたらそこに行って話を読むという仕様。
 この探索が、画面が白く発光してから靄を表示するため、目に痛い。あと靄が見つけにくい。途端に作業をしている感が強くなる。
 最初から最後までプレイヤーが介入できる部分は靄を触って話を進めることぐらいで、特に分岐があるわけでもない。風景描写に力を入れているのだから、話はおまけ程度かなって思っていたんだけど、壮大な展開を見せるので、人によっては好きかもしれない。苦手かもしれない。

 あとこれはものすっごく私見ですが、文章が・・・・・・ちょっと読みづらい・・・・・・。いやいや、これは自分の癖とかもあるので、あんまり人のこと言えないんだけど。
 誤字脱字とか、言い回しがとても気になった。個人で作ったのなら、そういうミスがあっても仕方ないとは思うけど、言い回しとかはミスではないだろう。
 何て言うか、回りくどい。情感のある語り口調にしようとして、こっちゃこちゃになっている気がする。
 モノローグだけならまだしも、登場人物が話している時もたまにそんな情感溢れる語りになることがある。話している時に遣わないでしょ、そんな表現・・・・・・ここは詩人の溜まり場か何かか。
 女性が書いたのかなと思わせるほど、柔かで回りくどい文章でした。そして、それはそのまま自分にも返ってくる評価です。・・・・・・精進します。

 そんなこんなで、SS撮るのは楽しめたけど、他は首を傾げることが多かった。
 一番楽しめたのはフリーモード。やりたかったゲームはここにある。

 SSコンテストなんてのもあったんですね、2022年に。3年も前かい。
 うーん、ちょっと参加してみたかったかも。


妊娠、後に出産という大仕事を、去年の今頃に終えた。
自分は子どもを持つに値しない人間だと既に解っていて、それでも産む決意をしたのは当時の自分に強力なバフが掛かっていたからだった。
案じてばかりでは何も始まらない、きっと書く時の糧になる。
そう考えて臨んだ十月十日だった。

いくら想像していても、やってくる現実は常に想像の一歩先からだ。
やっぱり自分は子を持つべきじゃないし、もう何もかも面倒だ終わらせてくれと何度願ったことか。

子どもは元気に育っている。
自我が強くて、悪戯が好きだけど、人の歌には耳を傾けるという不思議っぷり。

無事に一年を過ごせたことを、ただ嬉しく思うだけなら、こんな悲壮感漂う書き方などしなかったのに。
それとも何年か経てば変わるのだろうか。
何もかも置いて、ひとり消えたいと感じる精神が、少しはマシになっているといい。


 嫌な夢は見るわ、友人に対して生来の依存体質を発揮しかけるわ(否、もう発揮されつつある)、家族とくっだらねぇ喧嘩するわ、仕事先で無くていいような下準備の件で厭味ったらしく文句言われるわ、もうさんざんだ。
 この二週間あまりで、いろんなストレスを溜め込んだ。発散する前にどんどんゲージが溜まっていった。
 その間も、子どもは追撃の手を緩めない。当たり前だ、子どもにこっちの事情など関係ないのだから。今はまだやりたいようにやって、大きくなるしかないのだから。
 そんな子どもの事情を解っていても、不満を感じてしまう。自分に余裕が無い。解っているけど、どうすれば脱出できるのか、そこは解らない。

 いつかの様に時間が経てば解決されることか?
 それはそうかもしれないけど、解決されるまで一人でいられるわけでもあるまいに。
 何と言っても、今は子どもが居るのだ。その成長速度は凄まじく、正直、こちらが鬱々としている暇などない。
 死にたいと思いながら毎日会いに行き、消えたいと思いながら遊び相手をしている。そんなまんじりともしない日々が続いている。
 それが母親の責務だと、胸を張って言えるわけがない。もっと心身が健康的な人間が母親をやるべきだ、それは強く思う。去年の産後うつで苦しんだ時の様に。

 夏は元々、死にたくなる季節だった。昨今では異常気象で常に熱中症の危険に晒されていたから、身体にその損傷が蓄積されているだけなのかもしれないと思った。
 例えば頭痛、例えば食欲減退、例えば倦怠感など・・・・・・熱中症になりかけているから、諸々を強く感じてしまうのだと思い込もうとしていた。

 実際には違った。これはきっと鬱が悪化しているのだと、自覚せざるを得ない。
 短い間隔でいろんなストレッサーがあったことと、減薬したタイミングが重なって、こんなことになってしまったのではないだろうか。
 一度こうなると、底までいかねば上に行こうという気になれない。堕ちても堕ちても引っ繰り返るまで、堕ち続ける。

 それでも三年前の地獄の日々よりはマシだ、そう思いたい。
 まぁ絶対的に気を遣わねばならない他者が居るから、そこだけ三年前とは違う。自分のことだけ考えていられない。しんどいものだ。
 自分で招いた未来だが、成程、しんどい。薬はむこう五年は必要かもしれない。せめて子どもが小学校に上がるまでは。
 そこから先だって問題は起こるだろうが、子どもにも思考能力がつくだろうから、今よりは少し楽になるかもしれない。・・・・・・楽観的にならねば、心が死ぬ。

 とにかくアウトプットが必要だと思って、雑でもいいから書き連ねる。今の気持ちを整理して、周りに迷惑を掛けないようにしたかった。
 いや、無理だ。抱えきれない。休みたい。どこかに消えたい。もう死にたい。
 でも、死んで楽になるものなど無い。どこに消えても、この記憶がある限り僕が消え去ることは無い。
 例えば誰も知らないような離島にでも行ってしまえば、そこで新しい自分を造り出せるのか?
 そこまでして獲得するほど、人生とは、自分とは素晴らしいものか?

 休みが必要だ。いろんなことを受け止めきれず、飽和してしまったなら。
 どこで、いつ休むかが問題だ。子どもにそんなことは解らない。というか、身内もその辺のことが解らない。僕の味方は僕だけだ。
 そう思いながらも、周りを捨てきることができない。僕は弱い。気を遣いたくないと言いながら、結局は気遣いを見せている。とんでもない間抜けだ。
 いくら自分を罵倒しようとも、楽になることはない。

 子どもは旦那とさえ居れば、食うに困ることはない。不自由なく暮らせるだろう。
 両親がいつまで元気かは解らないが、子どもが小学校に上がるまでは何だかんだで面倒を見てくれると思われる。
 子どもが生きていく基盤に僕が居なくても、差支えない。なら、僕が消えても問題は無い筈だ。
 鬱が悪化すれば、それだけ子どもに影響を与える。僕の所為で子どもの諸々を無駄にしたくはない。子どもには子どもの人生がある。付属物だなどと、どうして思える。
 いま僕が死んだところで、子どもの記憶には残らない。なれば、最初から居なかったとでも言えば、どうとでもなるんじゃないか?
 僕のことを憶えていたって、子どもの得になるようなことは無いと思う。それを決めるのは僕ではないけれど。

 鬱が悪化して、だいぶ思考が偏っている。もういいじゃん、消えたいわ。
 だけど、前から言っているように、死ぬ瞬間に「あぁ死にたくなかったんだ」と気付くのが何より怖くて、死ねない。
 死のうと思うと世界が輝き出して、こんな綺麗な場所からもう居なくなるの? と誰かの声がする。

 不可視の存在はあれこれ言わず、黙って僕の話を聞いている。
 時折、「自分達が居ない方のがいいなら、そうして」と言ってくれるけど、それでは僕はもっと孤独感に苛まれることになる。どこまでも自分のことばかりだ。
 だから、僕は何も言えなくなる。

 どれだけ泣き言を言ったところで、辛さは軽減されない。
 もういいじゃん、もう消えたい、誰かの言葉のサンドバッグになるのは嫌だ、僕を自己肯定感を上げるのに使うのはやめてくれ、まだ頑張れるだなんて口が裂けても言えない、話を聞いてくれ、でも依存はしたくないからどこかで捨ておいてくれ、僕のことなんて忘れてくれ、死んでしまえば何も無かったのと一緒なんだ。
 そうして僕は帰るべき場所に帰る。魂だけでまた次の修行に赴く。永遠にそうやって苦しんで、歩み続けるのが、課された使命のようだ。
 聖剣の世界に帰れるのはその後、ずっとずっと先の話。だから、ここで失うくらいが何だってんだ。

 とはいえ、これだけ生きていれば愛着だって湧いてくる。
 友人に話を聞いてもらおうとする辺りが、死なずに何とか過ごしたいと言う気持ちの表れなのではないかと感じる。
 身内は当てにならない。だけど、友人たちとならまだやれるかもしれない。
 それだって長く共に進めるわけではない。どこかで必ず別れが来る。裏切られるかもしれない。
 それらを許し、成長の糧とするのが僕のような持てる者の宿命だと、不可視の存在は言った。僕だけがそうなるなんて理不尽だ。
 しかし、この世の理不尽や不平等は全て当人の力量不足に因るものだから、それもやっぱり僕の所為なんだ。僕が中心の世界なら、僕の所為で当たり前なんだ。

 本当はこんなこと考えたくない。こなすべきことをこなして、日々の感じたことを創作にぶつけたい。
 書きたいし、歌いたいし、ゲームだってまだまだやりたいものがある。
 なのに、身体が言うことをきかない。勝手に怠くなって、勝手に嫌になって、つまらんことを思い出して傷付き、早く消えたいとか言い出す。
 人間に期待する方がどうかしている。それが解っているなら、僕のためだけに時間を遣うべきだ。
 誰かと誰かが仲良くしているとか、僕には関係のないことだ。僕が相手を好きで、声をかけて繋がりが保てるなら、それでいいじゃないか。

 そういった努力や言い分全てが無くなりそうになる。これが鬱だ。
 頭の中に巣食う、一生ものの病気。僕の背負わなきゃいけない業はまだ深い。
 鬱によって弱っていると言ったなら、誰かがここから救い出してくれるだろうか?
 その時に差し伸べられる手は、自分の手以外に他ならない。
 なら、終わりにするのも自分自身なんだ。

 疲れた。明日は子どもが自宅に来る日だから、少しでも毒気を抜いておかないと、八つ当たりをしてしまいそうだ。
 鬱が悪化したと言えば、両親は協力してくれるかもしれない。してくれないのなら、旦那とは離婚して、親権を旦那に託して、一切の資産を戻して、僕は消えるしかない。
 そんな極端な思考は馬鹿げているけど、真剣に考えてしまう。それも病気の所為にしていいか。

 誰かの所為にしたところで、誰も僕のために責任を取りたがらない。
 だからモノの所為にする。病気の所為にする。自分の所為にする。
 消えたくなって当然だよ、そんなの。


何故、こんな気持ちになったのかが解った。
同じことを繰り返そうとしているからだ。
誰かを信頼し、依存し、甘え、その期待を自ら膨らませて、相手の挙動で傷付くという一連の流れ。
それらをまた繰り返そうとしているから、自分に呆れている。相手には申し訳なく思う。
あれだけ痛い目に遭ったのに、何でなんだ?

ネトゲで知り合ったと思えないほど、趣味も好みも合う相手だった。
感性や物事への価値観が似ていたと思う。
相手もそうであれば嬉しいけど、まぁそうじゃなくても仲良くできていることが素晴らしいよな〜と気楽に構えていた。前回の訣別のことがあったから。

だけど、ここ2ヶ月くらいは深度のある話をできることが多くて、それが個人的には嬉しかった。
相手はそういう話をすること自体、嫌なんじゃないかと思っていたから、少しは距離が詰められたかな? と思った。
勿論、ここで詰めすぎてはいけない。
自分の感情の変遷は程々にして、相手と良い関係を保っていきたかった。

だけど、自分の精神はすぐに二律背反を呈し、相手と自分の特別な間柄を重視するようになる。
そのお蔭で心が壊れるほど悲しい目に遭ったというのに、何で懲りてないんだ?
二律背反を感じ取った時点で、自分に愕然とした。
勘違いしない、期待し過ぎない、依存しない、程よい距離感で長い付き合いを…と重んじていこうとしていた筈が、いとも簡単に相手との距離を見失った。

僕だけが特別視しているのか?
相手はどう思っているのか?
相手の環境が変われば、また去ってしまうのか?
そんな恐怖や諦観が忍び寄って、常に心を重くさせた。
自分の情けなさと弱さに苛立ちが隠せなくなった。

その矢先、家族と衝突し、心に打撃の痕だけが残る。
仕事先でも嫌なことが起こり、その合間に件の心を壊す原因となったあの子が夢に出てきた。
それだけ僕はあの子と話したいのだと思うが、日常からせっかく面影を追い出しても、夢の中に出てこられてはその努力など簡単に水泡に帰す。
あらゆる点が結びついて、身体に支障が出るようになってきた。

ひとつ、これは減薬したことの影響かとも考えた。
薬を服用しない方が、不可視の存在を感知できる。話せる。
だけど、薬で安定していた精神は徐々に均衡を崩し、人間との関係に軋轢を生みかねない。

かつて、不可視の存在の一人が「人間との仲が悪くなるくらいなら、私達とは話せなくていい」と気遣ってくれたことがあった。
僕は強欲で貪欲だ。そんなの嫌だとすぐに跳ね除けた。
人間だろうが不可視の存在だろうが、仲良くできるものはしたい。僕のことを知って尚、一緒に遊んでいてほしい。
死がもっと身近になりつつある今、もう何も失いたくなかった。全て手元に残しておきたかった。

だから、今回の相手にもあまり重くなりすぎず、かといって軽んじることなく、関係を維持したかった。
僕なりに大事にするとしたら、相手の心情を察して、嫌がることはしないのがいい、と。
しかし、失敗した。自分の不安に負けて、荷物を預けようとした。
相手は受けようとしてくれたと思うが、結局、他の人も交えて遊ぶことになって、有耶無耶になった。
それで良かったと思いつつ、何となく相手が親密になる関係を避けたようにも感じ、その傷付き具合に閉口した。

不可視の存在の一人は笑いながら言った。
「お前の精神の支柱になるのは大変なんだよ」
同じようなことを大学時代、友人にも言われたことがある。
支柱にならずとも、聞いてくれるだけで良かった。
それがそもそも重たくて、粘ついた依存なのかもしれない。

僕は間違えたくなかった。相手を巻き込みたくなかった。
それが自分なりの親愛だと思っていたのに、こんな容易く間違えるとは。失望だ。自分に失望した。

なにより、自分だけがまた期待している、心を寄せていると自覚するのが怖かった。
相手にとって、僕は大した存在じゃないと知ってしまうのが怖かった。
そうなる引鉄を自分で引いたというのに。
これではあの子の二の舞になる。もうそんな目に遭いたくないのに。

考え過ぎなのかもしれない。
疲れているのかもしれない。
休憩させてくれーと言いかけると、母親役を休憩とかあんの? と誰かの皮を被った何者かの声が責めてくる。
他人と比べても仕方ないのに、まだ比べている。
僕はもう期待したくない。嫌われたくない。
失うのは嫌なんだってば。

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