と思えるくらいには、自分の興味を持てる範囲が狭まって、心底驚いている。
SNSを見ると疲れるから、TLはあまり追わずにいた所為ではあるが、聖剣のコンサートがあることを知らなかった。
知ったのは一般販売の始まった時で、しかも行けそうな日の昼公演はもうチケットが終了していた。
残っているのは夜公演と、地方遠征のみ。選択肢が殆ど無いに等しかった。
しかし、それを見ても「あー、縁が無かったんだな」としか思わなかった。
そういえば先月の終わりに、天地創造とロト紋の展示もあると知って、一人でも前半戦に行こうと思っていたけど、有明まで行くことを知って辛くなって行けなかった。
今週の土曜の後半戦は友人と行く予定なのだが、それだって友人が居なかったら一人で行っていたかどうかも解らない。
一人で出掛けることには慣れてきたつもりだ。ゲームに関するイベントがあれば、極力参加するつもりだ。
なのに、聖剣なのに、まったく興味が湧かなかった。聴いてみたいとも思えなかった。
メインビジュアルに映る各主人公達の笑顔を見ても、何だか知らないゲームのキャラクターみたいでピンとこない。
そうやって感じる自分の心に寒気がした。
あの聖剣だぞ? 数年前までは「僕が行かずに誰が行くんだ」と息巻いて、ライブでもコンサートでも絶対にチケットをもぎとっていたじゃないか。
そりゃ気付くのが遅くて、一番行ける時間を失ったのは痛手だけど、まだ参加できる余地はあるんだぞ?
自分に問いかけるけど、「うーん、まぁいいんじゃないかな。気付くの遅かった時点で、今回は縁が無かったんだよ。今回のを聴けなかったとしても、大した損失じゃないよ」と返ってくる。
それより子に会う時間を持ちたいのか? と問うけど、「それもちょっとしんどいなぁ。でも、最近は遊び過ぎたよねぇ」とヘラヘラ笑っている自分に、尚のこと寒気がした。
大丈夫か、自分。ちゃんと生きているのか、自分。
自宅にて家族で過ごすのがあまりに苦痛で、投げ込まれるものを処理するのに精一杯で、ある日の朝に起き上がるのが辛かった。腹は空いていたが、食べる気にもあまりなれなかった。
それでも子どもは可愛いし、ゲームだけはしなければと思った。FF14も気の合う友人とならできた。だから自分は大丈夫だと思っていた。
でも、それも頑張っていた結果だとしたら、どこかでしっぺ返しが来るんじゃないか?
無理のしすぎ、どこにでもいい顔しすぎで、潰れる日が来るんじゃないか?
その始まりが、聖剣コンサートに興味を示さないことなんじゃないのか?
ゲームはまだできているけど、それだってただルーティンになっているだけで、楽しめていないんじゃないか?
産後うつは良くなったと思っていたが、元から鬱を抱えているのだから、その境界線は曖昧で、本当に良くなったかどうかは解らない。
薬を何とか減らしていきたいと相談して、減薬したばかりだ。その影響も少なからずあるのだろうか。
こんな話をしたら、やっぱり量を戻されてしまう。或いは別の薬を処方されるかもしれない。
聖剣だよ、お前の好きな、お前の糧である聖剣だよ?
それだけじゃない、つい三日前まで楽しんでいたものが、今は頭に靄がかかったように見えない。
友人と会うことだけはできるよな? いきなり約束を反故にするようなことないよな?
だけど、詳細を決める気になれない。どうして。待ちに待った日じゃないのか。聖剣に行かないなら、せめて天地は行きたいよ。でも頭痛が治まらない。
自分は恵まれた環境で子育てをしていて、そのことを誰かに咎められるのをいつも恐れていた。
周りはワンオペ育児するしかなかったって友人が多く、そういう娘は例外なく病んでいる。どこかが壊れたままで生きている。
あんなふうになって子どもの面倒を見られる自信が無いから、僕は使えるものは何でも使わねばと思った。母もそう言った。
だけど、旦那が時々、敵になる。父の小言に対して感情を抑えるのに苦労する。
そうこうしているうちに子どもは大きくなり、僕も内面の成長を促され、だが今は興味の向く矛先が微かも無い。
歌いに行ってストレス発散だ、先週はそう思っていた。今はただ怠い。
ゲームしなくちゃと起動するけど、何がしたいか解らない。
鬱が一歩進んだ感じが否めない。聖剣に反応しない自分が怖い。
これが一時的なものであればいいんだけど、どうなんだろ。
夜公演に一応募集してみようかなって考えているんだけど、本当に指が動かない。食指、とかではなく、リアルに。
どうなってしまうんだ。それすらも受け入れねばならないのか。抗うだけの力が残っていないのか。
聖剣は僕の礎だ。何は無くなってもこれさえあれば。
たかだかコンサートひとつ行けなかったくらいで、そう思う人も居るだろう。
そうじゃない。もっと根本の危機感を抱いて、僕は言葉を綴っている。
鬱になんて負けたくない。脳の構造が可笑しいとしても、僕は僕の好きなものを好きであり続けたい。
邪魔しないでほしい。
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2025/06/10
日常
時折見に行っていた友人の個人サイトが見つからなくなった。
検索しても一向にそれらしいものが出てこないし、リンク集を辿ろうとしても、そこも閉鎖してしまっていて、足跡が追えなくなっている。
その事実が、少しの虚無感を与えた。
中学生の時に、二次創作のサイトがこんなにもたくさんあるのだと胸を躍らせた。そのことを今でもはっきりと覚えている。
いろんな人が自分の表現で、そのゲームやキャラへの愛を語っていた。
それはたった一人でずっと書き続けていた僕にとって、衝撃と同時に歓びを抱かせるものだった。
片っ端からサイトを覗いて、リレー小説に参加して、気に入ったサイトの管理人に「友達になってください」と馬鹿正直にメールを送り、その付き合いが今も続いている娘が居る。いや、一度こっちから途切れさせたけども。
件の子もこの界隈で知り合った子であり、この三人でもまぁいろいろ起きていて、でも僕は知らなかったっていう笑い話が幾つかあるんだけど、それはまたの機会に。
そんな思い出たくさん、魅力たくさんのサイトはどんどん消えていった。或いは、更新が停滞したり、閉鎖されてしまったり。
多くの管理人は当時、学生だったので時間に余裕があっただろう。けど、今は社会人になって二十年は経過しているだろうから、その時のような活動ができないのは当たり前なのだ。
そんなことは解っている。だけど、無性に寂しい。
好きだったものが、居場所だと思っていたものが、段々と消えていく。これはどうしようもない時間の流れを感じさせる。やがては自分もこうして消えていくんだな、という寂寞を呼び起こす。
友人のサイトが見えなくなっていることに、少なからず動揺した。
自分で消したのか、それとも提供先が消えたのかは解らないが、これでその子の作品は読めなくなった。
どうにかして残しておけなかったものかと、今更ながら悔やむ。僕は愚かだ。
その時はまだ、あの子にとって僕は珍しい存在だったから、詩に起こされたこともあった。
「大人になる」のではなく「成長する」と宣っていた僕の言葉に、あの子が耳を傾けてくれた瞬間があった。
そこからあれよあれよと付き合いを始め、いろんなことがあり、最終的にはめちゃくちゃ悔しい形で別離を経験することになって、僕の心は二度と戻らなくなった。
今は子育てや友人らのお蔭でだいぶ楽になったけど、ふとした時に思い出して、悲しい気持ちになる。
あの瞬間が、言葉が、ちゃんと存在していたのだという証が消えていく。
楽しく過ごした場所から誰もが去って、遂には跡形もなく消えてしまう。
それがこの世の摂理だと理解していても、納得ができていない僕は未熟なのだろう。
だから忘れたくなかった。どこでどんな思いをしたか、どんな人間と出会ったか。
僕もいずれ何も残さずに消えていくだろうが、その日までできることは続けていく。即ち、書くこと、歌うこと、会うこと、話すこと。
思い出は生きる糧にするには甘過ぎる。たまに思い出してしょんぼりしても、その先の展開なんて今から解るわけないのだ。
僕はそうやって生きることにした。また会えたらいいなも言わないことにした。
いつか必要があれば訪れる邂逅も、別離も、怯えずに受け入れることができるならいいのだけど。
にしても、勿体ないなー。僕にとっては宝の山だったのになー。
2025/04/22
日常
何だって変わるものだ。
生活も、仕事も、交友関係も変わった。
心持ちも、病状も、嗜好もそれなりに変わった。
それでも死ぬまで抱えていく罰はずっと変わらない。変わっちゃいけない。
何年もその様に考えて戒めてきた。
10年前の自分は、果たして想像できたろうか?
罪人だと自分を責めたて、一縷の望みを懸けた人間に全て捧げようとし、またしても仕事を変えたあの頃が懐かしい。
今はどうだ。
罪人でも子を残し、望みでもあった人間から遠ざかり、仕事はやっと何年も続くものに出会えた。
順調? それとも流れ流れてたどりついただけか?
時間や生活様式は確かに変わっているけど、その中でも適応できる自分のやり方を見つけつつある。
だから、環境が変わるのはそこまで怖くなかった。
どんな時でも書けることはあるし、歌いにも行けるし、会いたい人に会える。
それを可能にしたのは自分の行動力と、理解ある友人らのお蔭だ。
そして、もう無理だというところで、やっと手を差し伸べてくれた家族のお蔭だ。
想像できるか? 何の衒いも無く、実家に泊まって笑いながら話せているんだぞ。
10年前の自分では考えられなかったろう。
結婚し、子を成し、それでも根幹は変わらず、書いたり歌ったり遊びにいったりして、生きている間の全てを享受している。
最高の時間を過ごしているじゃないか。
そりゃ時折、落ち込んだり、病気が酷くなったりするけど、その度に誰かが助け舟を出してくれる。
そういう付き合い方を続けられるようになった、僕は成長したんだ。
今の自分なら、守れたかもしれない。
いや、たらればで語るのはもうよさないと。
それに、最近は自分の行いを客観的に分析する体験に恵まれた。
自分で動き回っている時はいいんだけど、これって他者から見たらこう見える(場合もある)か…うわーーーって引いたところだ。
うーん、あそこまで酷くなかったと思いたいけど、同じ穴の狢が何言ったところで、ねぇ。
だから、分かたれた者に対して、初めて憎悪以外の感情が生まれた。
子ができた時に関心が逸れて、昨今の恋愛沙汰で内省が生まれ、あの子に対する謝罪の気持ちへと変化しつつある。
これもまた驚いた。僕はあの子を呪うほど許せなかったのに、その気持ちが劇的に変容を遂げてしまった。
文句はまだあるし、居場所を壊されたのは間違いないし、その点を許す気は無い。
だけど、それはそれとして、相手の環境も破壊しかけたことは事実だから、それは認めようと思った。
必要なら謝罪もするようだ、と。
一番の罪は産んであげなかったこと。
もう転生の先にいったろうけど、嫌な思いをさせてしまった。
原因となった人間が今何をしているかは解らない。生きているかも定かじゃない。
お前も僕も根本的には幸せになどなれないぞ。失ったものの重みで、無意識にでも潰れてしまえ。
本当に憎んでいるとしたら、心が最初から壊れていたあの人間のみ。
今でも思い出すと腸煮えくり返る。
まぁ、そんな人間に絆された自分がいっとう愚かなのだが!!!!
笑い話に全てが変わる。
死ぬ時には違う話になっている。
それでも僕は憶えている。
忘れたくない。
だから13年前の今日も憶えている。
2025/04/12
語る
何となく思い出してほしい。
また笑って話せるほど、綺麗な分かたれ方ではなかったから、そこが残念。
他者の関係性や思惑に流されず、意思を貫ける人間であってほしかった。
そんな人間でないというなら、今後そうなるように努力してほしかった。
僕は変わり続けている。
でも、変わらないところもある。
書きたいし、歌いたいし、遊びたい。
そのなかに、情けないかな、まだあの子の影を見る。
だって、出会いの兆しはいつも突然なんだもの。
少し会わない間に環境が変わったよ。
いろんな人と知り合って、話して、勇気を持って始めてみたこともあるよ。
子どもだって、あんなに渋って恐れていたのに、前に進もうって決めたよ。
僕の人生だから、決めるのは僕自身。
あの子との再会を決めるのも、こっち側?
約束はしていない。できなかった。
だけど、ポポルは笑っていた。「だいじょーぶ、会えるようになるからね」と元気づけてくれた。
今年は書けなかっけど、次こそは。
生きている間は何だってできるさ。
2025/03/06
日常
何とか時間を作ることができたので、無料期間が終了する前に映画を観ておくことにした。
積んでいたのは『アンドリューNDR114』、それから『悪魔のいけにえ』の二本。
前者は友人から、映画そのものというより小説の話を聞いていて、映画があるらしいけど有料なんだね~って話をした。「どんな内容かも解らないのに支払わせるわけにもいかないし」と友人が渋っていたのも思い出した。
そんな映画が狙ったように無料で公開されていたので、感謝しつつ観ることにした。
ちなみに友人にもこの情報は伝えて、彼女は先に観ていた。曰く、恋愛描写が強めとのことだったので、原作を読んだらまた印象が変わるのかもしれない。
原作は読んだことがないので、まるっきり映画から入ったクチ。
それでもアイザック・アシモフの名前は聞いたことがあったし、サムネの画を観たらどういう話なのかは予想がつくようになっていた。機械が心を持って云々ってことかなぁ、と。
今でこそ機械にまつわる創作はたくさんあるけど、その原点となるのがこの原作と言っても過言ではないらしいので、それを映像化した作品ならきっと良い気付きを得られるだろう、とわくわくしながら観ていた。
今更どうこうあらすじを書き連ねるものでなし、ネタバレという程のこともなし、昔の名作に野暮なことは言わないのが吉だ。
人でないものが人のような感情や心を持った作品っていうと、僕が思いつくのは『ブレード・ランナー』だろうか。あとキツくて最後まで観られなかった『A.I.』とか??
この映画の主人公であるアンドリューは最初から感情があったわけじゃなく、長女の命令がきっかけで感情を会得したのね。業者から見れば確かに故障とか、不良品、欠陥品になるわね。
でも、このアンドリューが実に面白く、愛されるようなキャラクター性を持っている。見事な体現をしてくれたロビン・ウィリアムズに脱帽よ。この方、『ジュマンジ』でも凄く良い演技をなさっていたな。
とにかく感情が芽生えてからのアンドリューはコミカルで、愛嬌があって、見ていて気分の良いキャラだった。
そんな彼を友人とするサー、どちらかと言えば父親寄りの感性を持つリトル・ミスが良い味出しているのよね。立ち回りや、アンドリューへの影響等々。
母親とグレちゃった長女は「あくまでも機械」というスタンスだったけど、そういう視点もあった方がリアルだ。誰も彼もがアンドリューを”人間”のようには扱えないね。
アンドリューの外観が二足歩行だったからなのか、それとも演じた方のグッジョブなのか、不気味の谷現象はあまり発生しなかった。
そんなつもりないって自分で否定していたけど、僕はどうやら人でないものが人の真似をすることに嫌悪感を抱き易いらしい。そうなのかなって思ったのは初音ミクの台頭の時で、確信を持ったのはニーア オートマタの機械生命体の諸々を見た時だ。
これもまた自然な感情なんだと思うけど、相手からすればあまり気持ちのいいものではないよね。って、こうやって人間扱いしようとするのに、彼らが人間に限りなく近い振る舞いをしていると、理屈ではない部分で「うーん」て思ってしまう。
そも人間とは何かって定義をしないことには・・・・・・難しいなぁ。
劇中でも、一部に人工的な臓器を使っているなら、完全な人間なのか、それでも人間なのかって思わせるような問答があったけど、そうだよね、生身が人間なのか、機械でも心があれば人間と呼べるのかって、かなり複雑な内容だわ。
機械と人が愛し合うってのも、心があってこそだね。だって、人間を愛するメリットなんて機械には無いからね。
アンドリューは最後に人間らしい終わり方を選択し、好きな人の隣で目を閉じたけど、これって幸福な方法なのかね。そうかもしれないね。
ポーシャもまた生命を維持することをやめて、アンドリューと再会するべく静かに永眠したね。あの終わり方、とても綺麗だとは思った。
それを看取ったのがガラテアってのがね・・・・・・ガラテアは何を思うんだろう、彼女も感情を獲得しているんだよね?
主人が居なくなって、アンドリューも居なくなって、そうやって知っている人が減っていくことに対し、寂しいって思ったりするのかな。
寂しいといえば、アンドリューは自分が関わってきた人達を見送ってきたんだもんね。
歳を取ったからだと思うけど、最近こういう「皆を看取り、自分も息を引き取る」という展開にとても弱い。自分も最後はこうやって、関わった人達を見送ってから静かに去りたいなって思う。
幸い、僕は次世代を残すことに恵まれたけど、それが死ぬ時の満足感にどう繋がっていくのか、今からは何も解らない。自分の世界が存続できればいいって考え方も、勿論捨てていないけど。
人間が心を失うことだってあるわ、それって人間っていうより化け物って言われることの方が多い気がする。
心があるか無いかが人間の分かれ目なら、どういう分け方ができるのでしょう。感情じゃないよ、心だよ。じゃあ、感情と心ってどういうふうに違うんだろう。
あと素晴らしいのは音楽。大袈裟じゃなくて、素朴で、でも耳に残る良い音だった。
OPも良かったね。ものつくりの工程を見ていたら、『イノセンス』を思い出した。SF作品を作る人なら、アシモフは読んでいて当たり前だったりするのかね。
時間が無くてとっちらかった感想になったけど、観て良かった。
晩年にまた観たくなる気がする。それがいつのことになるのか、僕にも解らない。
いつその時が来るのか解らない、それが人間の寿命なんだって。怖いね。怖いけど、自然なことだ。
自然であること、あるがままを受け入れること、難しいけど人間だからこそやっていきたいね。
2025/01/22
(主に)映画感想文