ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
嫌な夢は見るわ、友人に対して生来の依存体質を発揮しかけるわ(否、もう発揮されつつある)、家族とくっだらねぇ喧嘩するわ、仕事先で無くていいような下準備の件で厭味ったらしく文句言われるわ、もうさんざんだ。
この二週間あまりで、いろんなストレスを溜め込んだ。発散する前にどんどんゲージが溜まっていった。
その間も、子どもは追撃の手を緩めない。当たり前だ、子どもにこっちの事情など関係ないのだから。今はまだやりたいようにやって、大きくなるしかないのだから。
そんな子どもの事情を解っていても、不満を感じてしまう。自分に余裕が無い。解っているけど、どうすれば脱出できるのか、そこは解らない。
いつかの様に時間が経てば解決されることか?
それはそうかもしれないけど、解決されるまで一人でいられるわけでもあるまいに。
何と言っても、今は子どもが居るのだ。その成長速度は凄まじく、正直、こちらが鬱々としている暇などない。
死にたいと思いながら毎日会いに行き、消えたいと思いながら遊び相手をしている。そんなまんじりともしない日々が続いている。
それが母親の責務だと、胸を張って言えるわけがない。もっと心身が健康的な人間が母親をやるべきだ、それは強く思う。去年の産後うつで苦しんだ時の様に。
夏は元々、死にたくなる季節だった。昨今では異常気象で常に熱中症の危険に晒されていたから、身体にその損傷が蓄積されているだけなのかもしれないと思った。
例えば頭痛、例えば食欲減退、例えば倦怠感など・・・・・・熱中症になりかけているから、諸々を強く感じてしまうのだと思い込もうとしていた。
実際には違った。これはきっと鬱が悪化しているのだと、自覚せざるを得ない。
短い間隔でいろんなストレッサーがあったことと、減薬したタイミングが重なって、こんなことになってしまったのではないだろうか。
一度こうなると、底までいかねば上に行こうという気になれない。堕ちても堕ちても引っ繰り返るまで、堕ち続ける。
それでも三年前の地獄の日々よりはマシだ、そう思いたい。
まぁ絶対的に気を遣わねばならない他者が居るから、そこだけ三年前とは違う。自分のことだけ考えていられない。しんどいものだ。
自分で招いた未来だが、成程、しんどい。薬はむこう五年は必要かもしれない。せめて子どもが小学校に上がるまでは。
そこから先だって問題は起こるだろうが、子どもにも思考能力がつくだろうから、今よりは少し楽になるかもしれない。・・・・・・楽観的にならねば、心が死ぬ。
とにかくアウトプットが必要だと思って、雑でもいいから書き連ねる。今の気持ちを整理して、周りに迷惑を掛けないようにしたかった。
いや、無理だ。抱えきれない。休みたい。どこかに消えたい。もう死にたい。
でも、死んで楽になるものなど無い。どこに消えても、この記憶がある限り僕が消え去ることは無い。
例えば誰も知らないような離島にでも行ってしまえば、そこで新しい自分を造り出せるのか?
そこまでして獲得するほど、人生とは、自分とは素晴らしいものか?
休みが必要だ。いろんなことを受け止めきれず、飽和してしまったなら。
どこで、いつ休むかが問題だ。子どもにそんなことは解らない。というか、身内もその辺のことが解らない。僕の味方は僕だけだ。
そう思いながらも、周りを捨てきることができない。僕は弱い。気を遣いたくないと言いながら、結局は気遣いを見せている。とんでもない間抜けだ。
いくら自分を罵倒しようとも、楽になることはない。
子どもは旦那とさえ居れば、食うに困ることはない。不自由なく暮らせるだろう。
両親がいつまで元気かは解らないが、子どもが小学校に上がるまでは何だかんだで面倒を見てくれると思われる。
子どもが生きていく基盤に僕が居なくても、差支えない。なら、僕が消えても問題は無い筈だ。
鬱が悪化すれば、それだけ子どもに影響を与える。僕の所為で子どもの諸々を無駄にしたくはない。子どもには子どもの人生がある。付属物だなどと、どうして思える。
いま僕が死んだところで、子どもの記憶には残らない。なれば、最初から居なかったとでも言えば、どうとでもなるんじゃないか?
僕のことを憶えていたって、子どもの得になるようなことは無いと思う。それを決めるのは僕ではないけれど。
鬱が悪化して、だいぶ思考が偏っている。もういいじゃん、消えたいわ。
だけど、前から言っているように、死ぬ瞬間に「あぁ死にたくなかったんだ」と気付くのが何より怖くて、死ねない。
死のうと思うと世界が輝き出して、こんな綺麗な場所からもう居なくなるの? と誰かの声がする。
不可視の存在はあれこれ言わず、黙って僕の話を聞いている。
時折、「自分達が居ない方のがいいなら、そうして」と言ってくれるけど、それでは僕はもっと孤独感に苛まれることになる。どこまでも自分のことばかりだ。
だから、僕は何も言えなくなる。
どれだけ泣き言を言ったところで、辛さは軽減されない。
もういいじゃん、もう消えたい、誰かの言葉のサンドバッグになるのは嫌だ、僕を自己肯定感を上げるのに使うのはやめてくれ、まだ頑張れるだなんて口が裂けても言えない、話を聞いてくれ、でも依存はしたくないからどこかで捨ておいてくれ、僕のことなんて忘れてくれ、死んでしまえば何も無かったのと一緒なんだ。
そうして僕は帰るべき場所に帰る。魂だけでまた次の修行に赴く。永遠にそうやって苦しんで、歩み続けるのが、課された使命のようだ。
聖剣の世界に帰れるのはその後、ずっとずっと先の話。だから、ここで失うくらいが何だってんだ。
とはいえ、これだけ生きていれば愛着だって湧いてくる。
友人に話を聞いてもらおうとする辺りが、死なずに何とか過ごしたいと言う気持ちの表れなのではないかと感じる。
身内は当てにならない。だけど、友人たちとならまだやれるかもしれない。
それだって長く共に進めるわけではない。どこかで必ず別れが来る。裏切られるかもしれない。
それらを許し、成長の糧とするのが僕のような持てる者の宿命だと、不可視の存在は言った。僕だけがそうなるなんて理不尽だ。
しかし、この世の理不尽や不平等は全て当人の力量不足に因るものだから、それもやっぱり僕の所為なんだ。僕が中心の世界なら、僕の所為で当たり前なんだ。
本当はこんなこと考えたくない。こなすべきことをこなして、日々の感じたことを創作にぶつけたい。
書きたいし、歌いたいし、ゲームだってまだまだやりたいものがある。
なのに、身体が言うことをきかない。勝手に怠くなって、勝手に嫌になって、つまらんことを思い出して傷付き、早く消えたいとか言い出す。
人間に期待する方がどうかしている。それが解っているなら、僕のためだけに時間を遣うべきだ。
誰かと誰かが仲良くしているとか、僕には関係のないことだ。僕が相手を好きで、声をかけて繋がりが保てるなら、それでいいじゃないか。
そういった努力や言い分全てが無くなりそうになる。これが鬱だ。
頭の中に巣食う、一生ものの病気。僕の背負わなきゃいけない業はまだ深い。
鬱によって弱っていると言ったなら、誰かがここから救い出してくれるだろうか?
その時に差し伸べられる手は、自分の手以外に他ならない。
なら、終わりにするのも自分自身なんだ。
疲れた。明日は子どもが自宅に来る日だから、少しでも毒気を抜いておかないと、八つ当たりをしてしまいそうだ。
鬱が悪化したと言えば、両親は協力してくれるかもしれない。してくれないのなら、旦那とは離婚して、親権を旦那に託して、一切の資産を戻して、僕は消えるしかない。
そんな極端な思考は馬鹿げているけど、真剣に考えてしまう。それも病気の所為にしていいか。
誰かの所為にしたところで、誰も僕のために責任を取りたがらない。
だからモノの所為にする。病気の所為にする。自分の所為にする。
消えたくなって当然だよ、そんなの。
PR
この記事にコメントする