ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
出産を経て、産後うつを経て、元の病状が悪化しつつも、何とか周りの助力を得ながら子育てに従事してきた。そのつもりだ。
自分が死ぬか、子どもを養子に出すかで悩んだ末に、実家に子どもを預け、毎日会いにいくという生活を選んだ。
頭が混沌としていた自分は、その時に何かを決めるのが非常に億劫だった。選べたのはそれくらい。
世間と比べれば、随分と楽な子育て環境にあったと思う。
それでも、時に病状に悩まされ、動けなくなることもあった。
友人と会ったり、睡眠時間を削ってでも自分に戻る時間を確保したり、日々を全うするのに精一杯だ。
周りから見れば、遊ぶ気力があるねって呆れるだろうが。
それらの苦痛や苦悩は誰とも共有できない。自分にしか解らない。
だから孤独なのだ。子どもですら、自分の敵に回るものなのだ。
そんなことを強く思った、父親との口論があった。
もっと強くなれとか、ずっとこのままじゃいけないとか、駄目でも先ずはやってみろとか、被害者はお前じゃなく子どもだとか、腐るなとか、それはもう好き勝手言われてしまった。
いや、相手からすれば、自分が健常者側だと思っている人からすれば、そう言いたくなるだろうよ。
人間は自分に起きたことしか理解できない。相手の立場に立って、寄り添ってってのは、一部の人にしかできない固有スキルみたいなものだ。
誰しもできるものではないと、自分も解っている。
だから望まないようにしてきた、特に両親に対しての諦めは早くにつけたいと、中学生頃から言い聞かせてきた。
その分の希求を友人に向けたがために、何年も経ってからしっぺ返しのよーなものを喰らったわけだが……
友人に対しても、親に対しても、望めることなど僕には無い。というか、許されていない。
父親と話していて、「そういえば、こういう人だったから、自責思考が強くなったし、卑屈になったんだっけな」と、ぼんやり抱懐した。
言っても解ってもらえない、否定ばかりされる、どうせどうせって、頭は飽和した。
悔しいのか悲しいのか、涙だけは出て、言葉少なに言い返しはしたが、聞いてもらえた感じがしない。
親と過ごす時間が少ないのは、子どもが可哀相だ。
そう何回か言われたが、正直、僕のよーな病んだ母親とぴったり一緒に居る方が、悪影響を及ぼす気がする。
それが怖くて、鬱が極まった時に「もっと健康的な親のところへ、そうだ、養子しかない」と思い込んでいたわけだし。
その間、まったく踏ん切りはつかなかった。
養子に出すのも、自分が死ぬのも、恐らく失敗すると解っていた。
何もできなくて、薬を増やすことで日々を全うすることに注力した。
ポケモンのアルセウスをやっていた時、シマボシさんの言葉に奮い立った。
他人の称賛も批判も所詮は他人の感情でしかなく、大事なのは己がどうしたいか。そんな内容だった。
後者はよくよく身に染みていることだが、前者は目からうろこだった。
自分にとって良いものも悪いものも、他人が他人の眼鏡を通して見たものを口にしているだけ。
言葉にした時点で、それはもう別物になっているのだろう。
そんな胡乱なものに振り回されて、自分のやりたいことや気持ちが押し殺されるなんて、随分と退屈な話だ。
だから、父親から言われたことも、父親から見た側面というだけで、僕を破壊するまでのものではない。
というか、もう破壊されきってて何も残っていなかった。
この人は知らない。子どもを産む前の僕の悩みも、地獄の期間も、そこに附随する精神がどれだけ捻れつつ日々を凌いでいるかを。
本当は子どもを持つに値しない存在なのに、分不相応なことをしてしまった。責任は取らなくてはと思っても、病状によっては投げ出したくもなる。
言い訳? そりゃたくさんある。出来損ないの自分に子育てなんて、不可能なのだ。
でも、そうも言ってられないから、薬をのんで、自分に戻る時間を少しでも確保して、どうにかやってきている。
自分のタイミングで決めたかったが、相手からすればちんたら遅いのだろう。
子どもが可哀相ってのも、どうかな。病んだ親の元に居た方が可哀相ってやつなんじゃないの。
話をしている間、自分には味方なんて居ない。誰しもが敵になる。自分を労わってあげられるのは自分だけ、と強く感じた。
子ども優先でやってきたつもりだが、自分の世界の中心は自分だ。
被害者は子ども? 確かにそうだ。僕も被害者なんだ、あなた方の。
だから尚更感じる。歪んだ親元から、一定の距離を保った方がいいと。
本当に、親は僕を追い詰めることにだけは余念がないと嗤いたくなった。
この歳で「親の所為で!」なんて言うつもりはなかったし、子どもを救ってもらえただけで積年の怨恨を帳消しにできる。そう思った。
しかし、所詮は他人。家族で過ごすことが最良だなんて、偶像崇拝みたいなもんだ。
僕にそれを教えられなかった者の敗北で、家族で過ごすことの安心感を理解できない僕が、子どもと四六時中関わるのを是とできないのは当たり前なのだ。
そこまでは頭が回らないらしい。
そりゃそうだ、自分が病の原因のひとつなんて思わないだろう。
ちらっとでも内省したことあんのかい? 無いんだろうね。
いつでも自分が正しいと盲信できる。それも才能だ。
あの子みたいで、腹立たしい。
死にたい気持ちは強く、子どもも大事にしてあげたいが自信は無い。
親は孫のことは大事にするが、手元を離れた子どもは攻撃対象でしかないらしい。
そうやってまだ親に期待する自分に泣ける。目を醒ませ、アホなのか、期待するんじゃないよ。
子どもはいざとなれば、親が面倒をみるのだろ。
あとは僕が如何にして死への恐怖を克服できるか。
死にたいのか、逃げたいのか、そこも判然としない。
薬を増やして挑むべきかもしれない。
何も意味なんて無い。
ただ、やはり出産などするべきではなかった。
僕のような存在がやっていいことではなかった。
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これがそうだとしたら、愚か極まりない。
月の満ち欠け、毎月の体内での現象、いろんな理由を付けてみるけど、結局は精神がまたしても囚われているだけ。
のめりこんでいられるものが無ければ、こんなにも簡単に過去に舞い戻って、ぶすぶすと燻った怒りを持て余す。なんという時間の無駄。
それが解っていても、自分ではどうすることもできない。本当にそこで諦めていいのだろうか。
出産を経て、子育ての間中、いろんなところに対して牙を剥いている気はする。
余裕など無いし、ふとした時に考えは飽和するし、自分を保つので精一杯だ。産んだことに後悔は無いが、相手を見る度に「お前がこうなると解っていれば産まなかった、だから子を持つことを躊躇ったというのに、阿呆め!!!」と侮辱したくなる。
信頼など、とうに失せている。好きにやればいい。家族として生きていくには申し分ないどころか、自分のスペックでは付き合えない部類の人間だということは重々承知しているが、それでも僕が信頼を置けるような人間ではなかった。やっぱりそうだった。
心の拠り所に人間を据えるのは、さすがにもうやめたい。
そう思って、ゲームに没頭していった。隙間時間さえあればゲーム、書くことの内容を考える、それで自分を保っている。
前に自分が書きなぐった小話なども、非常に役立っている。この時のためにも書き残したのだと思えるくらい。体調を崩したこともあるけど、書きたいものをどんどん書いて良かったと思える瞬間。
そうなのだ、やっぱり自分を救えるのは自分だけ。依存したところで、執着したところで、人間には重すぎる。僕のことを受け止めきる人間を捜していたけど、そんなもん存在せんわと諦めがつく。
だけど、友人からは「君はまだ人間に期待しているんだろう」と言われた。それもそう。
昔よりだいーーーーぶ、いや、かなりその頻度や度合は減った筈だが。
それでも、過去を思い出せば、こんなことを言われて傷付いた悲しかった悔しかったということを思い出してしまえば、それをぶつけて受け止めてくれるものを探したくなる。
人じゃないとすれば、不可視の存在か。最近は忙しくて、たまにしか会話をしていない。
一人の時はよく声が聞こえるが、誰かと居るとそっちに集中するから、まぁ聞こえない。
それもいつまで聞こえるんだろう。僕はいつまでその世界の住人でいられるだろう。漠然とした不安をいつも抱えている。
長年、信頼していた人間に梯子を外された。こいつは一生許さないが、どこかで会って冷静に話をしたいとも思う。今際の際で果たされるか。
長く付き合ってきた友人の中の自分の優先順位は下だったと解り、あれだけ話を聞いてきたのになぁと恨めしくなってしまう相手が居る。結局、自分が尽くした分だけのものが返ってこないから怒っているのだ、僕は。
この二人と関わった時間は長いように感じているが、この二人にとってはそうでもないのだろう。僕以外にいろんな出会いがあって、そっちの方が奇跡に近く、楽しいものだったから。
二人に費やした思考の時間も真心も、二人の中の僕の順位が低ければ屑にしかならない。僕はそれが受け入れられない。
諦めがつかず、二人に認められるか、謝ってもらえるまで、一生こうしてモヤモヤしたしょーもないもんを抱えるつもりなのか。不毛な。
これこそが、依存の後の執着だ。僕は執着している、まだ燻っている。
だから思い出して辛くなる。何であんなに僕のことを傷付けて平気なの、他の人と話しているのって落ち込んでいく。
SNSで空リプのよーなことをして試している時だってある、未だに。呆れたね。
そんな愚かな自分に転機は訪れるのか? 僕はちゃんと成長しているのか?
ハマれるものが少しでもあれば、気にせずにいられた。相手に良い感情を向けることができていた。
だけど、余裕が無くなってくると妬ましさや恨みが蘇ってくる。ってことは、その前にあった”良い感情”は嘘なんじゃないか。どんな時にも発揮されなければ、それは仮初なんじゃないか。
こんな相手を選んだ、こんな相手に期待した、自分が馬鹿だった。愚かだった。見る目が無かった。
そんなふうに自分を責めないと、次に進めない。他人を責めても謝ってくれない、認めてくれない。開き直って、逆に傷付けにくる。
だったら、そんな奴らより上にいく。お前達は持たざる者だから仕方ないな、と上から物を言ってやる。
馬鹿にすることでしか、自分を違う存在なのだと思えない。この方法はきっと間違っている。
かといって、世界平和を願えるほどの高尚な精神が今から持てるわけもない。
同じく余裕があれば、相手の幸せを願うことも可能だろう。今はそんなふうにはなれない。願えない。本当は願えない。
じゃあ不幸を願うのかと言うと、それも違う。何も願わない。ただ、また会って話したいとか、遊びたいとか、自分主体で考えているだけ。
僕にとって他者は何なんだろうか。自分が死ぬまで付き合ってくれる玩具か何かだと思っているのだろうか。
以前、診断メーカーをやった時に「他人は自分の玩具みたいなもんだと思っている」と出て、驚いたことがある。そんな指摘を受けたことはないが、妙にしっくりきた。じゃあ、そうなんじゃないか。とんでもないな。
そんな人間に好かれても、そりゃ誰だって逃げるよ。
それに、僕が正義感を翳して物を言ったことで、この二人も少なからず傷付いているし、どこかで嫌になったりもしただろう。
また仲良くなりたいってのも不毛かね。二人とも、自分の選択が正しいと信じている。本当は選んだんじゃなくて、時間切れでそれしかもう行く道がなかっただけなんだけど・・・・・・まぁ、それはこっちの視点からの話だ。
僕にとって、この二人は間違いなく友人だった。二人にとってもそうだったらいいけど、今となっては解らない。
でも、僕はこの二人を大事にしていたのだろうか。この二人の間でも何かあったりしたからな、ここは所謂、カルマメイトってやつかもしれない。魂のレベルで何かあったとしか思えない。
それを視るだけの力は僕には無いから、誰にも話せない憶測だ。いつまでも気になるのは、僕がこの二人を繋げるからだろう。たぶん。
それにしても、しんどい。もう思い出したくないし、嫌な感情を抱えたまま過ごしたくない。
子どもの相手でいっぱいいっぱいなのに、終わっただろう自分の傷痕に苛まれるのはどういうことか。自分の所為だとしたら、やはり最大の敵は自分なのだ。
仲良くできれば良かったけど、もっと僕が言い方を考えられたら良かったけど、今言っても詮無いこと。
これから先、どんなふうに関わっていけばいいのかを考える。
僕が関わらない方が幸せなのかもしれないけど、それは僕が決めることじゃない。僕が関わりたいと思っているなら、考えていかなくちゃ。
執着から手放す方向へ、まだその先は見えない。どうしたらいいか解らない。
感性が似ている友人に相談してみようか。彼ならどんなふうに考えていくだろう。
妊娠、後に出産という大仕事を、去年の今頃に終えた。
自分は子どもを持つに値しない人間だと既に解っていて、それでも産む決意をしたのは当時の自分に強力なバフが掛かっていたからだった。
案じてばかりでは何も始まらない、きっと書く時の糧になる。
そう考えて臨んだ十月十日だった。
いくら想像していても、やってくる現実は常に想像の一歩先からだ。
やっぱり自分は子を持つべきじゃないし、もう何もかも面倒だ終わらせてくれと何度願ったことか。
子どもは元気に育っている。
自我が強くて、悪戯が好きだけど、人の歌には耳を傾けるという不思議っぷり。
無事に一年を過ごせたことを、ただ嬉しく思うだけなら、こんな悲壮感漂う書き方などしなかったのに。
それとも何年か経てば変わるのだろうか。
何もかも置いて、ひとり消えたいと感じる精神が、少しはマシになっているといい。
嫌な夢は見るわ、友人に対して生来の依存体質を発揮しかけるわ(否、もう発揮されつつある)、家族とくっだらねぇ喧嘩するわ、仕事先で無くていいような下準備の件で厭味ったらしく文句言われるわ、もうさんざんだ。
この二週間あまりで、いろんなストレスを溜め込んだ。発散する前にどんどんゲージが溜まっていった。
その間も、子どもは追撃の手を緩めない。当たり前だ、子どもにこっちの事情など関係ないのだから。今はまだやりたいようにやって、大きくなるしかないのだから。
そんな子どもの事情を解っていても、不満を感じてしまう。自分に余裕が無い。解っているけど、どうすれば脱出できるのか、そこは解らない。
いつかの様に時間が経てば解決されることか?
それはそうかもしれないけど、解決されるまで一人でいられるわけでもあるまいに。
何と言っても、今は子どもが居るのだ。その成長速度は凄まじく、正直、こちらが鬱々としている暇などない。
死にたいと思いながら毎日会いに行き、消えたいと思いながら遊び相手をしている。そんなまんじりともしない日々が続いている。
それが母親の責務だと、胸を張って言えるわけがない。もっと心身が健康的な人間が母親をやるべきだ、それは強く思う。去年の産後うつで苦しんだ時の様に。
夏は元々、死にたくなる季節だった。昨今では異常気象で常に熱中症の危険に晒されていたから、身体にその損傷が蓄積されているだけなのかもしれないと思った。
例えば頭痛、例えば食欲減退、例えば倦怠感など・・・・・・熱中症になりかけているから、諸々を強く感じてしまうのだと思い込もうとしていた。
実際には違った。これはきっと鬱が悪化しているのだと、自覚せざるを得ない。
短い間隔でいろんなストレッサーがあったことと、減薬したタイミングが重なって、こんなことになってしまったのではないだろうか。
一度こうなると、底までいかねば上に行こうという気になれない。堕ちても堕ちても引っ繰り返るまで、堕ち続ける。
それでも三年前の地獄の日々よりはマシだ、そう思いたい。
まぁ絶対的に気を遣わねばならない他者が居るから、そこだけ三年前とは違う。自分のことだけ考えていられない。しんどいものだ。
自分で招いた未来だが、成程、しんどい。薬はむこう五年は必要かもしれない。せめて子どもが小学校に上がるまでは。
そこから先だって問題は起こるだろうが、子どもにも思考能力がつくだろうから、今よりは少し楽になるかもしれない。・・・・・・楽観的にならねば、心が死ぬ。
とにかくアウトプットが必要だと思って、雑でもいいから書き連ねる。今の気持ちを整理して、周りに迷惑を掛けないようにしたかった。
いや、無理だ。抱えきれない。休みたい。どこかに消えたい。もう死にたい。
でも、死んで楽になるものなど無い。どこに消えても、この記憶がある限り僕が消え去ることは無い。
例えば誰も知らないような離島にでも行ってしまえば、そこで新しい自分を造り出せるのか?
そこまでして獲得するほど、人生とは、自分とは素晴らしいものか?
休みが必要だ。いろんなことを受け止めきれず、飽和してしまったなら。
どこで、いつ休むかが問題だ。子どもにそんなことは解らない。というか、身内もその辺のことが解らない。僕の味方は僕だけだ。
そう思いながらも、周りを捨てきることができない。僕は弱い。気を遣いたくないと言いながら、結局は気遣いを見せている。とんでもない間抜けだ。
いくら自分を罵倒しようとも、楽になることはない。
子どもは旦那とさえ居れば、食うに困ることはない。不自由なく暮らせるだろう。
両親がいつまで元気かは解らないが、子どもが小学校に上がるまでは何だかんだで面倒を見てくれると思われる。
子どもが生きていく基盤に僕が居なくても、差支えない。なら、僕が消えても問題は無い筈だ。
鬱が悪化すれば、それだけ子どもに影響を与える。僕の所為で子どもの諸々を無駄にしたくはない。子どもには子どもの人生がある。付属物だなどと、どうして思える。
いま僕が死んだところで、子どもの記憶には残らない。なれば、最初から居なかったとでも言えば、どうとでもなるんじゃないか?
僕のことを憶えていたって、子どもの得になるようなことは無いと思う。それを決めるのは僕ではないけれど。
鬱が悪化して、だいぶ思考が偏っている。もういいじゃん、消えたいわ。
だけど、前から言っているように、死ぬ瞬間に「あぁ死にたくなかったんだ」と気付くのが何より怖くて、死ねない。
死のうと思うと世界が輝き出して、こんな綺麗な場所からもう居なくなるの? と誰かの声がする。
不可視の存在はあれこれ言わず、黙って僕の話を聞いている。
時折、「自分達が居ない方のがいいなら、そうして」と言ってくれるけど、それでは僕はもっと孤独感に苛まれることになる。どこまでも自分のことばかりだ。
だから、僕は何も言えなくなる。
どれだけ泣き言を言ったところで、辛さは軽減されない。
もういいじゃん、もう消えたい、誰かの言葉のサンドバッグになるのは嫌だ、僕を自己肯定感を上げるのに使うのはやめてくれ、まだ頑張れるだなんて口が裂けても言えない、話を聞いてくれ、でも依存はしたくないからどこかで捨ておいてくれ、僕のことなんて忘れてくれ、死んでしまえば何も無かったのと一緒なんだ。
そうして僕は帰るべき場所に帰る。魂だけでまた次の修行に赴く。永遠にそうやって苦しんで、歩み続けるのが、課された使命のようだ。
聖剣の世界に帰れるのはその後、ずっとずっと先の話。だから、ここで失うくらいが何だってんだ。
とはいえ、これだけ生きていれば愛着だって湧いてくる。
友人に話を聞いてもらおうとする辺りが、死なずに何とか過ごしたいと言う気持ちの表れなのではないかと感じる。
身内は当てにならない。だけど、友人たちとならまだやれるかもしれない。
それだって長く共に進めるわけではない。どこかで必ず別れが来る。裏切られるかもしれない。
それらを許し、成長の糧とするのが僕のような持てる者の宿命だと、不可視の存在は言った。僕だけがそうなるなんて理不尽だ。
しかし、この世の理不尽や不平等は全て当人の力量不足に因るものだから、それもやっぱり僕の所為なんだ。僕が中心の世界なら、僕の所為で当たり前なんだ。
本当はこんなこと考えたくない。こなすべきことをこなして、日々の感じたことを創作にぶつけたい。
書きたいし、歌いたいし、ゲームだってまだまだやりたいものがある。
なのに、身体が言うことをきかない。勝手に怠くなって、勝手に嫌になって、つまらんことを思い出して傷付き、早く消えたいとか言い出す。
人間に期待する方がどうかしている。それが解っているなら、僕のためだけに時間を遣うべきだ。
誰かと誰かが仲良くしているとか、僕には関係のないことだ。僕が相手を好きで、声をかけて繋がりが保てるなら、それでいいじゃないか。
そういった努力や言い分全てが無くなりそうになる。これが鬱だ。
頭の中に巣食う、一生ものの病気。僕の背負わなきゃいけない業はまだ深い。
鬱によって弱っていると言ったなら、誰かがここから救い出してくれるだろうか?
その時に差し伸べられる手は、自分の手以外に他ならない。
なら、終わりにするのも自分自身なんだ。
疲れた。明日は子どもが自宅に来る日だから、少しでも毒気を抜いておかないと、八つ当たりをしてしまいそうだ。
鬱が悪化したと言えば、両親は協力してくれるかもしれない。してくれないのなら、旦那とは離婚して、親権を旦那に託して、一切の資産を戻して、僕は消えるしかない。
そんな極端な思考は馬鹿げているけど、真剣に考えてしまう。それも病気の所為にしていいか。
誰かの所為にしたところで、誰も僕のために責任を取りたがらない。
だからモノの所為にする。病気の所為にする。自分の所為にする。
消えたくなって当然だよ、そんなの。
何故、こんな気持ちになったのかが解った。
同じことを繰り返そうとしているからだ。
誰かを信頼し、依存し、甘え、その期待を自ら膨らませて、相手の挙動で傷付くという一連の流れ。
それらをまた繰り返そうとしているから、自分に呆れている。相手には申し訳なく思う。
あれだけ痛い目に遭ったのに、何でなんだ?
ネトゲで知り合ったと思えないほど、趣味も好みも合う相手だった。
感性や物事への価値観が似ていたと思う。
相手もそうであれば嬉しいけど、まぁそうじゃなくても仲良くできていることが素晴らしいよな〜と気楽に構えていた。前回の訣別のことがあったから。
だけど、ここ2ヶ月くらいは深度のある話をできることが多くて、それが個人的には嬉しかった。
相手はそういう話をすること自体、嫌なんじゃないかと思っていたから、少しは距離が詰められたかな? と思った。
勿論、ここで詰めすぎてはいけない。
自分の感情の変遷は程々にして、相手と良い関係を保っていきたかった。
だけど、自分の精神はすぐに二律背反を呈し、相手と自分の特別な間柄を重視するようになる。
そのお蔭で心が壊れるほど悲しい目に遭ったというのに、何で懲りてないんだ?
二律背反を感じ取った時点で、自分に愕然とした。
勘違いしない、期待し過ぎない、依存しない、程よい距離感で長い付き合いを…と重んじていこうとしていた筈が、いとも簡単に相手との距離を見失った。
僕だけが特別視しているのか?
相手はどう思っているのか?
相手の環境が変われば、また去ってしまうのか?
そんな恐怖や諦観が忍び寄って、常に心を重くさせた。
自分の情けなさと弱さに苛立ちが隠せなくなった。
その矢先、家族と衝突し、心に打撃の痕だけが残る。
仕事先でも嫌なことが起こり、その合間に件の心を壊す原因となったあの子が夢に出てきた。
それだけ僕はあの子と話したいのだと思うが、日常からせっかく面影を追い出しても、夢の中に出てこられてはその努力など簡単に水泡に帰す。
あらゆる点が結びついて、身体に支障が出るようになってきた。
ひとつ、これは減薬したことの影響かとも考えた。
薬を服用しない方が、不可視の存在を感知できる。話せる。
だけど、薬で安定していた精神は徐々に均衡を崩し、人間との関係に軋轢を生みかねない。
かつて、不可視の存在の一人が「人間との仲が悪くなるくらいなら、私達とは話せなくていい」と気遣ってくれたことがあった。
僕は強欲で貪欲だ。そんなの嫌だとすぐに跳ね除けた。
人間だろうが不可視の存在だろうが、仲良くできるものはしたい。僕のことを知って尚、一緒に遊んでいてほしい。
死がもっと身近になりつつある今、もう何も失いたくなかった。全て手元に残しておきたかった。
だから、今回の相手にもあまり重くなりすぎず、かといって軽んじることなく、関係を維持したかった。
僕なりに大事にするとしたら、相手の心情を察して、嫌がることはしないのがいい、と。
しかし、失敗した。自分の不安に負けて、荷物を預けようとした。
相手は受けようとしてくれたと思うが、結局、他の人も交えて遊ぶことになって、有耶無耶になった。
それで良かったと思いつつ、何となく相手が親密になる関係を避けたようにも感じ、その傷付き具合に閉口した。
不可視の存在の一人は笑いながら言った。
「お前の精神の支柱になるのは大変なんだよ」
同じようなことを大学時代、友人にも言われたことがある。
支柱にならずとも、聞いてくれるだけで良かった。
それがそもそも重たくて、粘ついた依存なのかもしれない。
僕は間違えたくなかった。相手を巻き込みたくなかった。
それが自分なりの親愛だと思っていたのに、こんな容易く間違えるとは。失望だ。自分に失望した。
なにより、自分だけがまた期待している、心を寄せていると自覚するのが怖かった。
相手にとって、僕は大した存在じゃないと知ってしまうのが怖かった。
そうなる引鉄を自分で引いたというのに。
これではあの子の二の舞になる。もうそんな目に遭いたくないのに。
考え過ぎなのかもしれない。
疲れているのかもしれない。
休憩させてくれーと言いかけると、母親役を休憩とかあんの? と誰かの皮を被った何者かの声が責めてくる。
他人と比べても仕方ないのに、まだ比べている。
僕はもう期待したくない。嫌われたくない。
失うのは嫌なんだってば。