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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

妊娠、後に出産という大仕事を、去年の今頃に終えた。
自分は子どもを持つに値しない人間だと既に解っていて、それでも産む決意をしたのは当時の自分に強力なバフが掛かっていたからだった。
案じてばかりでは何も始まらない、きっと書く時の糧になる。
そう考えて臨んだ十月十日だった。

いくら想像していても、やってくる現実は常に想像の一歩先からだ。
やっぱり自分は子を持つべきじゃないし、もう何もかも面倒だ終わらせてくれと何度願ったことか。

子どもは元気に育っている。
自我が強くて、悪戯が好きだけど、人の歌には耳を傾けるという不思議っぷり。

無事に一年を過ごせたことを、ただ嬉しく思うだけなら、こんな悲壮感漂う書き方などしなかったのに。
それとも何年か経てば変わるのだろうか。
何もかも置いて、ひとり消えたいと感じる精神が、少しはマシになっているといい。

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 嫌な夢は見るわ、友人に対して生来の依存体質を発揮しかけるわ(否、もう発揮されつつある)、家族とくっだらねぇ喧嘩するわ、仕事先で無くていいような下準備の件で厭味ったらしく文句言われるわ、もうさんざんだ。
 この二週間あまりで、いろんなストレスを溜め込んだ。発散する前にどんどんゲージが溜まっていった。
 その間も、子どもは追撃の手を緩めない。当たり前だ、子どもにこっちの事情など関係ないのだから。今はまだやりたいようにやって、大きくなるしかないのだから。
 そんな子どもの事情を解っていても、不満を感じてしまう。自分に余裕が無い。解っているけど、どうすれば脱出できるのか、そこは解らない。

 いつかの様に時間が経てば解決されることか?
 それはそうかもしれないけど、解決されるまで一人でいられるわけでもあるまいに。
 何と言っても、今は子どもが居るのだ。その成長速度は凄まじく、正直、こちらが鬱々としている暇などない。
 死にたいと思いながら毎日会いに行き、消えたいと思いながら遊び相手をしている。そんなまんじりともしない日々が続いている。
 それが母親の責務だと、胸を張って言えるわけがない。もっと心身が健康的な人間が母親をやるべきだ、それは強く思う。去年の産後うつで苦しんだ時の様に。

 夏は元々、死にたくなる季節だった。昨今では異常気象で常に熱中症の危険に晒されていたから、身体にその損傷が蓄積されているだけなのかもしれないと思った。
 例えば頭痛、例えば食欲減退、例えば倦怠感など・・・・・・熱中症になりかけているから、諸々を強く感じてしまうのだと思い込もうとしていた。

 実際には違った。これはきっと鬱が悪化しているのだと、自覚せざるを得ない。
 短い間隔でいろんなストレッサーがあったことと、減薬したタイミングが重なって、こんなことになってしまったのではないだろうか。
 一度こうなると、底までいかねば上に行こうという気になれない。堕ちても堕ちても引っ繰り返るまで、堕ち続ける。

 それでも三年前の地獄の日々よりはマシだ、そう思いたい。
 まぁ絶対的に気を遣わねばならない他者が居るから、そこだけ三年前とは違う。自分のことだけ考えていられない。しんどいものだ。
 自分で招いた未来だが、成程、しんどい。薬はむこう五年は必要かもしれない。せめて子どもが小学校に上がるまでは。
 そこから先だって問題は起こるだろうが、子どもにも思考能力がつくだろうから、今よりは少し楽になるかもしれない。・・・・・・楽観的にならねば、心が死ぬ。

 とにかくアウトプットが必要だと思って、雑でもいいから書き連ねる。今の気持ちを整理して、周りに迷惑を掛けないようにしたかった。
 いや、無理だ。抱えきれない。休みたい。どこかに消えたい。もう死にたい。
 でも、死んで楽になるものなど無い。どこに消えても、この記憶がある限り僕が消え去ることは無い。
 例えば誰も知らないような離島にでも行ってしまえば、そこで新しい自分を造り出せるのか?
 そこまでして獲得するほど、人生とは、自分とは素晴らしいものか?

 休みが必要だ。いろんなことを受け止めきれず、飽和してしまったなら。
 どこで、いつ休むかが問題だ。子どもにそんなことは解らない。というか、身内もその辺のことが解らない。僕の味方は僕だけだ。
 そう思いながらも、周りを捨てきることができない。僕は弱い。気を遣いたくないと言いながら、結局は気遣いを見せている。とんでもない間抜けだ。
 いくら自分を罵倒しようとも、楽になることはない。

 子どもは旦那とさえ居れば、食うに困ることはない。不自由なく暮らせるだろう。
 両親がいつまで元気かは解らないが、子どもが小学校に上がるまでは何だかんだで面倒を見てくれると思われる。
 子どもが生きていく基盤に僕が居なくても、差支えない。なら、僕が消えても問題は無い筈だ。
 鬱が悪化すれば、それだけ子どもに影響を与える。僕の所為で子どもの諸々を無駄にしたくはない。子どもには子どもの人生がある。付属物だなどと、どうして思える。
 いま僕が死んだところで、子どもの記憶には残らない。なれば、最初から居なかったとでも言えば、どうとでもなるんじゃないか?
 僕のことを憶えていたって、子どもの得になるようなことは無いと思う。それを決めるのは僕ではないけれど。

 鬱が悪化して、だいぶ思考が偏っている。もういいじゃん、消えたいわ。
 だけど、前から言っているように、死ぬ瞬間に「あぁ死にたくなかったんだ」と気付くのが何より怖くて、死ねない。
 死のうと思うと世界が輝き出して、こんな綺麗な場所からもう居なくなるの? と誰かの声がする。

 不可視の存在はあれこれ言わず、黙って僕の話を聞いている。
 時折、「自分達が居ない方のがいいなら、そうして」と言ってくれるけど、それでは僕はもっと孤独感に苛まれることになる。どこまでも自分のことばかりだ。
 だから、僕は何も言えなくなる。

 どれだけ泣き言を言ったところで、辛さは軽減されない。
 もういいじゃん、もう消えたい、誰かの言葉のサンドバッグになるのは嫌だ、僕を自己肯定感を上げるのに使うのはやめてくれ、まだ頑張れるだなんて口が裂けても言えない、話を聞いてくれ、でも依存はしたくないからどこかで捨ておいてくれ、僕のことなんて忘れてくれ、死んでしまえば何も無かったのと一緒なんだ。
 そうして僕は帰るべき場所に帰る。魂だけでまた次の修行に赴く。永遠にそうやって苦しんで、歩み続けるのが、課された使命のようだ。
 聖剣の世界に帰れるのはその後、ずっとずっと先の話。だから、ここで失うくらいが何だってんだ。

 とはいえ、これだけ生きていれば愛着だって湧いてくる。
 友人に話を聞いてもらおうとする辺りが、死なずに何とか過ごしたいと言う気持ちの表れなのではないかと感じる。
 身内は当てにならない。だけど、友人たちとならまだやれるかもしれない。
 それだって長く共に進めるわけではない。どこかで必ず別れが来る。裏切られるかもしれない。
 それらを許し、成長の糧とするのが僕のような持てる者の宿命だと、不可視の存在は言った。僕だけがそうなるなんて理不尽だ。
 しかし、この世の理不尽や不平等は全て当人の力量不足に因るものだから、それもやっぱり僕の所為なんだ。僕が中心の世界なら、僕の所為で当たり前なんだ。

 本当はこんなこと考えたくない。こなすべきことをこなして、日々の感じたことを創作にぶつけたい。
 書きたいし、歌いたいし、ゲームだってまだまだやりたいものがある。
 なのに、身体が言うことをきかない。勝手に怠くなって、勝手に嫌になって、つまらんことを思い出して傷付き、早く消えたいとか言い出す。
 人間に期待する方がどうかしている。それが解っているなら、僕のためだけに時間を遣うべきだ。
 誰かと誰かが仲良くしているとか、僕には関係のないことだ。僕が相手を好きで、声をかけて繋がりが保てるなら、それでいいじゃないか。

 そういった努力や言い分全てが無くなりそうになる。これが鬱だ。
 頭の中に巣食う、一生ものの病気。僕の背負わなきゃいけない業はまだ深い。
 鬱によって弱っていると言ったなら、誰かがここから救い出してくれるだろうか?
 その時に差し伸べられる手は、自分の手以外に他ならない。
 なら、終わりにするのも自分自身なんだ。

 疲れた。明日は子どもが自宅に来る日だから、少しでも毒気を抜いておかないと、八つ当たりをしてしまいそうだ。
 鬱が悪化したと言えば、両親は協力してくれるかもしれない。してくれないのなら、旦那とは離婚して、親権を旦那に託して、一切の資産を戻して、僕は消えるしかない。
 そんな極端な思考は馬鹿げているけど、真剣に考えてしまう。それも病気の所為にしていいか。

 誰かの所為にしたところで、誰も僕のために責任を取りたがらない。
 だからモノの所為にする。病気の所為にする。自分の所為にする。
 消えたくなって当然だよ、そんなの。


何故、こんな気持ちになったのかが解った。
同じことを繰り返そうとしているからだ。
誰かを信頼し、依存し、甘え、その期待を自ら膨らませて、相手の挙動で傷付くという一連の流れ。
それらをまた繰り返そうとしているから、自分に呆れている。相手には申し訳なく思う。
あれだけ痛い目に遭ったのに、何でなんだ?

ネトゲで知り合ったと思えないほど、趣味も好みも合う相手だった。
感性や物事への価値観が似ていたと思う。
相手もそうであれば嬉しいけど、まぁそうじゃなくても仲良くできていることが素晴らしいよな〜と気楽に構えていた。前回の訣別のことがあったから。

だけど、ここ2ヶ月くらいは深度のある話をできることが多くて、それが個人的には嬉しかった。
相手はそういう話をすること自体、嫌なんじゃないかと思っていたから、少しは距離が詰められたかな? と思った。
勿論、ここで詰めすぎてはいけない。
自分の感情の変遷は程々にして、相手と良い関係を保っていきたかった。

だけど、自分の精神はすぐに二律背反を呈し、相手と自分の特別な間柄を重視するようになる。
そのお蔭で心が壊れるほど悲しい目に遭ったというのに、何で懲りてないんだ?
二律背反を感じ取った時点で、自分に愕然とした。
勘違いしない、期待し過ぎない、依存しない、程よい距離感で長い付き合いを…と重んじていこうとしていた筈が、いとも簡単に相手との距離を見失った。

僕だけが特別視しているのか?
相手はどう思っているのか?
相手の環境が変われば、また去ってしまうのか?
そんな恐怖や諦観が忍び寄って、常に心を重くさせた。
自分の情けなさと弱さに苛立ちが隠せなくなった。

その矢先、家族と衝突し、心に打撃の痕だけが残る。
仕事先でも嫌なことが起こり、その合間に件の心を壊す原因となったあの子が夢に出てきた。
それだけ僕はあの子と話したいのだと思うが、日常からせっかく面影を追い出しても、夢の中に出てこられてはその努力など簡単に水泡に帰す。
あらゆる点が結びついて、身体に支障が出るようになってきた。

ひとつ、これは減薬したことの影響かとも考えた。
薬を服用しない方が、不可視の存在を感知できる。話せる。
だけど、薬で安定していた精神は徐々に均衡を崩し、人間との関係に軋轢を生みかねない。

かつて、不可視の存在の一人が「人間との仲が悪くなるくらいなら、私達とは話せなくていい」と気遣ってくれたことがあった。
僕は強欲で貪欲だ。そんなの嫌だとすぐに跳ね除けた。
人間だろうが不可視の存在だろうが、仲良くできるものはしたい。僕のことを知って尚、一緒に遊んでいてほしい。
死がもっと身近になりつつある今、もう何も失いたくなかった。全て手元に残しておきたかった。

だから、今回の相手にもあまり重くなりすぎず、かといって軽んじることなく、関係を維持したかった。
僕なりに大事にするとしたら、相手の心情を察して、嫌がることはしないのがいい、と。
しかし、失敗した。自分の不安に負けて、荷物を預けようとした。
相手は受けようとしてくれたと思うが、結局、他の人も交えて遊ぶことになって、有耶無耶になった。
それで良かったと思いつつ、何となく相手が親密になる関係を避けたようにも感じ、その傷付き具合に閉口した。

不可視の存在の一人は笑いながら言った。
「お前の精神の支柱になるのは大変なんだよ」
同じようなことを大学時代、友人にも言われたことがある。
支柱にならずとも、聞いてくれるだけで良かった。
それがそもそも重たくて、粘ついた依存なのかもしれない。

僕は間違えたくなかった。相手を巻き込みたくなかった。
それが自分なりの親愛だと思っていたのに、こんな容易く間違えるとは。失望だ。自分に失望した。

なにより、自分だけがまた期待している、心を寄せていると自覚するのが怖かった。
相手にとって、僕は大した存在じゃないと知ってしまうのが怖かった。
そうなる引鉄を自分で引いたというのに。
これではあの子の二の舞になる。もうそんな目に遭いたくないのに。

考え過ぎなのかもしれない。
疲れているのかもしれない。
休憩させてくれーと言いかけると、母親役を休憩とかあんの? と誰かの皮を被った何者かの声が責めてくる。
他人と比べても仕方ないのに、まだ比べている。
僕はもう期待したくない。嫌われたくない。
失うのは嫌なんだってば。


 と思えるくらいには、自分の興味を持てる範囲が狭まって、心底驚いている。
 SNSを見ると疲れるから、TLはあまり追わずにいた所為ではあるが、聖剣のコンサートがあることを知らなかった。
 知ったのは一般販売の始まった時で、しかも行けそうな日の昼公演はもうチケットが終了していた。
 残っているのは夜公演と、地方遠征のみ。選択肢が殆ど無いに等しかった。

 しかし、それを見ても「あー、縁が無かったんだな」としか思わなかった。
 そういえば先月の終わりに、天地創造とロト紋の展示もあると知って、一人でも前半戦に行こうと思っていたけど、有明まで行くことを知って辛くなって行けなかった。
 今週の土曜の後半戦は友人と行く予定なのだが、それだって友人が居なかったら一人で行っていたかどうかも解らない。

 一人で出掛けることには慣れてきたつもりだ。ゲームに関するイベントがあれば、極力参加するつもりだ。
 なのに、聖剣なのに、まったく興味が湧かなかった。聴いてみたいとも思えなかった。
 メインビジュアルに映る各主人公達の笑顔を見ても、何だか知らないゲームのキャラクターみたいでピンとこない。
 そうやって感じる自分の心に寒気がした。

 あの聖剣だぞ? 数年前までは「僕が行かずに誰が行くんだ」と息巻いて、ライブでもコンサートでも絶対にチケットをもぎとっていたじゃないか。
 そりゃ気付くのが遅くて、一番行ける時間を失ったのは痛手だけど、まだ参加できる余地はあるんだぞ?

 自分に問いかけるけど、「うーん、まぁいいんじゃないかな。気付くの遅かった時点で、今回は縁が無かったんだよ。今回のを聴けなかったとしても、大した損失じゃないよ」と返ってくる。
 それより子に会う時間を持ちたいのか? と問うけど、「それもちょっとしんどいなぁ。でも、最近は遊び過ぎたよねぇ」とヘラヘラ笑っている自分に、尚のこと寒気がした。

 大丈夫か、自分。ちゃんと生きているのか、自分。
 自宅にて家族で過ごすのがあまりに苦痛で、投げ込まれるものを処理するのに精一杯で、ある日の朝に起き上がるのが辛かった。腹は空いていたが、食べる気にもあまりなれなかった。
 それでも子どもは可愛いし、ゲームだけはしなければと思った。FF14も気の合う友人とならできた。だから自分は大丈夫だと思っていた。

 でも、それも頑張っていた結果だとしたら、どこかでしっぺ返しが来るんじゃないか?
 無理のしすぎ、どこにでもいい顔しすぎで、潰れる日が来るんじゃないか?
 その始まりが、聖剣コンサートに興味を示さないことなんじゃないのか?
 ゲームはまだできているけど、それだってただルーティンになっているだけで、楽しめていないんじゃないか?

 産後うつは良くなったと思っていたが、元から鬱を抱えているのだから、その境界線は曖昧で、本当に良くなったかどうかは解らない。
 薬を何とか減らしていきたいと相談して、減薬したばかりだ。その影響も少なからずあるのだろうか。
 こんな話をしたら、やっぱり量を戻されてしまう。或いは別の薬を処方されるかもしれない。

 聖剣だよ、お前の好きな、お前の糧である聖剣だよ?
 それだけじゃない、つい三日前まで楽しんでいたものが、今は頭に靄がかかったように見えない。
 友人と会うことだけはできるよな? いきなり約束を反故にするようなことないよな?
 だけど、詳細を決める気になれない。どうして。待ちに待った日じゃないのか。聖剣に行かないなら、せめて天地は行きたいよ。でも頭痛が治まらない。

 自分は恵まれた環境で子育てをしていて、そのことを誰かに咎められるのをいつも恐れていた。
 周りはワンオペ育児するしかなかったって友人が多く、そういう娘は例外なく病んでいる。どこかが壊れたままで生きている。
 あんなふうになって子どもの面倒を見られる自信が無いから、僕は使えるものは何でも使わねばと思った。母もそう言った。
 だけど、旦那が時々、敵になる。父の小言に対して感情を抑えるのに苦労する。
 そうこうしているうちに子どもは大きくなり、僕も内面の成長を促され、だが今は興味の向く矛先が微かも無い。

 歌いに行ってストレス発散だ、先週はそう思っていた。今はただ怠い。
 ゲームしなくちゃと起動するけど、何がしたいか解らない。
 鬱が一歩進んだ感じが否めない。聖剣に反応しない自分が怖い。

 これが一時的なものであればいいんだけど、どうなんだろ。
 夜公演に一応募集してみようかなって考えているんだけど、本当に指が動かない。食指、とかではなく、リアルに。
 どうなってしまうんだ。それすらも受け入れねばならないのか。抗うだけの力が残っていないのか。

 聖剣は僕の礎だ。何は無くなってもこれさえあれば。
 たかだかコンサートひとつ行けなかったくらいで、そう思う人も居るだろう。
 そうじゃない。もっと根本の危機感を抱いて、僕は言葉を綴っている。
 鬱になんて負けたくない。脳の構造が可笑しいとしても、僕は僕の好きなものを好きであり続けたい。
 邪魔しないでほしい。


 時折見に行っていた友人の個人サイトが見つからなくなった。
 検索しても一向にそれらしいものが出てこないし、リンク集を辿ろうとしても、そこも閉鎖してしまっていて、足跡が追えなくなっている。
 その事実が、少しの虚無感を与えた。

 中学生の時に、二次創作のサイトがこんなにもたくさんあるのだと胸を躍らせた。そのことを今でもはっきりと覚えている。
 いろんな人が自分の表現で、そのゲームやキャラへの愛を語っていた。
 それはたった一人でずっと書き続けていた僕にとって、衝撃と同時に歓びを抱かせるものだった。
 片っ端からサイトを覗いて、リレー小説に参加して、気に入ったサイトの管理人に「友達になってください」と馬鹿正直にメールを送り、その付き合いが今も続いている娘が居る。いや、一度こっちから途切れさせたけども。
 件の子もこの界隈で知り合った子であり、この三人でもまぁいろいろ起きていて、でも僕は知らなかったっていう笑い話が幾つかあるんだけど、それはまたの機会に。

 そんな思い出たくさん、魅力たくさんのサイトはどんどん消えていった。或いは、更新が停滞したり、閉鎖されてしまったり。
 多くの管理人は当時、学生だったので時間に余裕があっただろう。けど、今は社会人になって二十年は経過しているだろうから、その時のような活動ができないのは当たり前なのだ。
 そんなことは解っている。だけど、無性に寂しい。
 好きだったものが、居場所だと思っていたものが、段々と消えていく。これはどうしようもない時間の流れを感じさせる。やがては自分もこうして消えていくんだな、という寂寞を呼び起こす。

 友人のサイトが見えなくなっていることに、少なからず動揺した。
 自分で消したのか、それとも提供先が消えたのかは解らないが、これでその子の作品は読めなくなった。
 どうにかして残しておけなかったものかと、今更ながら悔やむ。僕は愚かだ。

 その時はまだ、あの子にとって僕は珍しい存在だったから、詩に起こされたこともあった。
 「大人になる」のではなく「成長する」と宣っていた僕の言葉に、あの子が耳を傾けてくれた瞬間があった。
 そこからあれよあれよと付き合いを始め、いろんなことがあり、最終的にはめちゃくちゃ悔しい形で別離を経験することになって、僕の心は二度と戻らなくなった。
 今は子育てや友人らのお蔭でだいぶ楽になったけど、ふとした時に思い出して、悲しい気持ちになる。

 あの瞬間が、言葉が、ちゃんと存在していたのだという証が消えていく。
 楽しく過ごした場所から誰もが去って、遂には跡形もなく消えてしまう。
 それがこの世の摂理だと理解していても、納得ができていない僕は未熟なのだろう。

 だから忘れたくなかった。どこでどんな思いをしたか、どんな人間と出会ったか。
 僕もいずれ何も残さずに消えていくだろうが、その日までできることは続けていく。即ち、書くこと、歌うこと、会うこと、話すこと。
 思い出は生きる糧にするには甘過ぎる。たまに思い出してしょんぼりしても、その先の展開なんて今から解るわけないのだ。

 僕はそうやって生きることにした。また会えたらいいなも言わないことにした。
 いつか必要があれば訪れる邂逅も、別離も、怯えずに受け入れることができるならいいのだけど。

 にしても、勿体ないなー。僕にとっては宝の山だったのになー。

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