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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 時折見に行っていた友人の個人サイトが見つからなくなった。
 検索しても一向にそれらしいものが出てこないし、リンク集を辿ろうとしても、そこも閉鎖してしまっていて、足跡が追えなくなっている。
 その事実が、少しの虚無感を与えた。

 中学生の時に、二次創作のサイトがこんなにもたくさんあるのだと胸を躍らせた。そのことを今でもはっきりと覚えている。
 いろんな人が自分の表現で、そのゲームやキャラへの愛を語っていた。
 それはたった一人でずっと書き続けていた僕にとって、衝撃と同時に歓びを抱かせるものだった。
 片っ端からサイトを覗いて、リレー小説に参加して、気に入ったサイトの管理人に「友達になってください」と馬鹿正直にメールを送り、その付き合いが今も続いている娘が居る。いや、一度こっちから途切れさせたけども。
 件の子もこの界隈で知り合った子であり、この三人でもまぁいろいろ起きていて、でも僕は知らなかったっていう笑い話が幾つかあるんだけど、それはまたの機会に。

 そんな思い出たくさん、魅力たくさんのサイトはどんどん消えていった。或いは、更新が停滞したり、閉鎖されてしまったり。
 多くの管理人は当時、学生だったので時間に余裕があっただろう。けど、今は社会人になって二十年は経過しているだろうから、その時のような活動ができないのは当たり前なのだ。
 そんなことは解っている。だけど、無性に寂しい。
 好きだったものが、居場所だと思っていたものが、段々と消えていく。これはどうしようもない時間の流れを感じさせる。やがては自分もこうして消えていくんだな、という寂寞を呼び起こす。

 友人のサイトが見えなくなっていることに、少なからず動揺した。
 自分で消したのか、それとも提供先が消えたのかは解らないが、これでその子の作品は読めなくなった。
 どうにかして残しておけなかったものかと、今更ながら悔やむ。僕は愚かだ。

 その時はまだ、あの子にとって僕は珍しい存在だったから、詩に起こされたこともあった。
 「大人になる」のではなく「成長する」と宣っていた僕の言葉に、あの子が耳を傾けてくれた瞬間があった。
 そこからあれよあれよと付き合いを始め、いろんなことがあり、最終的にはめちゃくちゃ悔しい形で別離を経験することになって、僕の心は二度と戻らなくなった。
 今は子育てや友人らのお蔭でだいぶ楽になったけど、ふとした時に思い出して、悲しい気持ちになる。

 あの瞬間が、言葉が、ちゃんと存在していたのだという証が消えていく。
 楽しく過ごした場所から誰もが去って、遂には跡形もなく消えてしまう。
 それがこの世の摂理だと理解していても、納得ができていない僕は未熟なのだろう。

 だから忘れたくなかった。どこでどんな思いをしたか、どんな人間と出会ったか。
 僕もいずれ何も残さずに消えていくだろうが、その日までできることは続けていく。即ち、書くこと、歌うこと、会うこと、話すこと。
 思い出は生きる糧にするには甘過ぎる。たまに思い出してしょんぼりしても、その先の展開なんて今から解るわけないのだ。

 僕はそうやって生きることにした。また会えたらいいなも言わないことにした。
 いつか必要があれば訪れる邂逅も、別離も、怯えずに受け入れることができるならいいのだけど。

 にしても、勿体ないなー。僕にとっては宝の山だったのになー。

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何となく思い出してほしい。
また笑って話せるほど、綺麗な分かたれ方ではなかったから、そこが残念。
他者の関係性や思惑に流されず、意思を貫ける人間であってほしかった。
そんな人間でないというなら、今後そうなるように努力してほしかった。
僕は変わり続けている。
でも、変わらないところもある。
書きたいし、歌いたいし、遊びたい。
そのなかに、情けないかな、まだあの子の影を見る。
だって、出会いの兆しはいつも突然なんだもの。

少し会わない間に環境が変わったよ。
いろんな人と知り合って、話して、勇気を持って始めてみたこともあるよ。
子どもだって、あんなに渋って恐れていたのに、前に進もうって決めたよ。
僕の人生だから、決めるのは僕自身。
あの子との再会を決めるのも、こっち側?

約束はしていない。できなかった。
だけど、ポポルは笑っていた。「だいじょーぶ、会えるようになるからね」と元気づけてくれた。

今年は書けなかっけど、次こそは。
生きている間は何だってできるさ。


 そう感じるくらい、孤独感や焦燥感、不安、憂いが溢れて止まらない。
 これが産後のホルモンバランスの崩れから来るものだとしたら、なんと過酷で厳しい状況だろうか。
 毎日が乱高下、気分はジェットコースター、そんな精神状態で我が子の世話をしろなどと、人間とはつくづく侭ならない生き物だと感じた。
 そんな他人事みたいな顔をしているけど、その苦渋によってどうしようもなく追い詰められたのは自分だ。

 もう少しだけやれると思っていた。あれだけの苦難を乗り越えてきたのだから、もう少し強くなっているだろう、と。
 実際には、立ちはだかる壁に遮られて落ち込む日々。怒涛の如き変化に追いつけず、昔を懐かしむような感覚に苦しみ喘ぐこと多数。
 戻らないものを欲したところで、どうにもならない。だって、もうそこには無いんだから。
 何度もそれを痛感し、乗り越えたんじゃないのか。どうしてこんなに追い詰められるんだ。

 しかし、幸いにして周りからの助力が手厚い今、何とか耐えることができている。
 否、耐えるというよりも、逃げ出さずに済んでいるだけか。逃げずにその場に留まって、時間が過ぎるのを待っている。

 経験者は口を揃えて言う、「あっという間に大きくなるよ」と。その”あっという間”が全く来ない。
 そりゃそうだな、だって正に渦中にあるんだもの。子と過ごす一日は何故かとてつもなく長く感じる。
 最近やっと短く感じる瞬間が増え、もうこんな時間か~と思うことが多い。

 不満も不安も体調不良も爆発して、実家に子を預けてから三日は経った。
 様子を見に行きはするものの、連れて帰ろうという気になれない。世話ができるか不安だったし、精神状態も定まらなくて「養子に出すしかないのでは」と極端な考えを起こしていた。
 それでも子に会えば、その世話は染み込んできた習性で難なくこなせる。周りはそれを見て「できてるじゃん」と僕の不安を不思議そうに捉える。

 僕にも解らない、何がそんなに不安で、怖いのか。
 自分の時間が取れなくなることは、或る程度は覚悟していた。そこは家族の協力もあって、少しは確保できる時もあるし、実家が預かってくれれば羽を伸ばせる。
 でも、そうじゃなくて、恒久的なあの平和が好きだったんだなと、改めて思った。
 特に何を生み出すことがなくても、あののびのびとした時間を僕は確かに欲していたし、安定の素として愛していたんだ。

 とはいえ、そういう過ごし方ができるようになったのは、去年から。
 その前はあわや人間不信になりかけた人のことで傷付き、悩みまくっていたし、その子と疎遠になるまでも、なんだかんだ悩んでいた。すっきりと晴れた気持ちでいたことの方が少ない。
 去年はどこか吹っ切れた。久しぶりに書く熱量が増して、毎日が楽しかった。いくらでも書けるし、何でも思いつくっていう万能感が強かった。
 ・・・・・・その不摂生が祟って、小腸の軸捻転を引き起こしたわけだが。

 精神的にも肉体的にも耐え忍ぶ修行のようなものを経て、出産から子育てに至るこの過程は、僕の人生らしからぬ出来事の連続だった。
 これで閉ざされるようなものは何も無く、時間が取れようが取れなかろうが、書きたいものは書けるのだと理解した。
 だから恐れることなく出産に踏み切ったのだ。既に息づいていた子どもに会ってみたいと思った。

 そんな経験と心持ちで臨んだのに、ホルモンバランスの崩れ、気温差などで心身は不調をきたした。寄る年波には勝てない、それもあると思う。
 子どもと過ごすことを考えるだけで吐き気がして、頭痛がして、心が焦った。どうにもならない焦燥感で嘔吐く。
 どうしてこんな気持ちになるのか、まるで解らなかった。納得済みでやってきたことを、いきなり自分が覆そうとしている。
 結局、自分は我慢もできない駄目な奴なのかと、心底から落ち込んだ。できるようになったから産んだのに、産んでから「やっぱ駄目かもしれない」なんて、それはないでしょう、と。

 でも、それが自分の本心ではなく、ホルモンバランスの所為だとしたら、まだ望みはある。
 このホルモンバランスというのが厄介で、自分の気合い一つではどうにもできない。整え方はあるようだけど、効果抜群というものには未だ出会えず。
 精神が肉体を凌駕できるほどであれば、こんな思いはしなかったろう。まぁ、無いものねだりをしても仕方ない。

 今はただ周りへの大きな感謝を持ち、少しでも体調を良くするため、子どもから離れて生活している。
 これもあんまり続くと、自分の生活から子どもを追い出しかねないので程々に。
 子どもがこちらを認識して、呼びかけに応えるようになると、また変わってくるんじゃないだろうか。
 休むことも離れることも自分に許せなかったが、いろんな人と話してちょっとずつ自分を認めて許せるようになった。
 完璧にできなきゃ、なんて思ってはいなかったが、どうもそうだったらしい。こうあるべきだ、という捉え方に縛られていた。

 友人も、家族も、わだかまりを感じていた母でさえも、子育てに挑む僕に協力的だった。
 それがありがたくて、申し訳なくて、でも心強かった。
 それだけのものを受け取れる、与えてもらえる、そういう関係を自分は作ってこれたんだな、と誇らしくなった。
 誇れる自分というものに去年からずっと会い続けている。良い傾向だ。

 ルーンの言うところでは、ハガル、イング、エオロー、マンナズと今回の状況を予見するようなカードが出ていた。
 相変わらず、あの子に関してはウィルドを中心に、会えるような会えないような示唆。今はそうかもしれない。
 劇的な何かが訪れる、そんな気がする。誰かに会えるような。

 子どもと過ごしたい、その成長を見守りたい。
 だけど、今はまだ吐き気がする。自信が無く、そわそわして落ち着かない。
 薬が効くのが先か、僕が思考の潮目を見つけるのが先か、どっちでもいいけど楽にはなりたい。

 本当は恐れるものなんて何も無いし、子どもはすくすく育っている。
 以前と同じ過ごし方だって、しようと思えばできる。周りが協力してくれるからこそ。
 そうこうしている間に子どもは勝手に大きくなり、自分で考えて動くようにもなる。
 僕に足りないのは尚、忍耐と見守る心じゃなかろうか。いつもそうだ。

 最果てに居るような気がするのは、孤独感があるから。
 その孤独感は何の役にも立たないが、確かに僕の中に存在するものだった。

 あの日々に戻りたいなんて、毎日何かを生み出していたわけではないのに。
 でも、余裕のある時間ばかりだった。何でも思い通りにできた。
 それが抑制されたくらいで何だ、またそういう日々は巡ってくる。必ず。
 今は書ける幅を広げるためにも、経験を積む時だ。腐らずに何とかやってみてくれ。
 新しい人間関係が増えたとて、僕の根幹はずっと変わらない。


身の程知らずだとは思う。
分不相応なことを望んだと思う。
後戻りなんてする気は無かったけど、考えたことは何度もある。
だからこそ、自分は向いてないと解る。誰に言われずとも解る。
そうやって自分を追い込んで、傷付いて、どうにもならなくなった。
これが産後うつなのかな、と弱気になって、気付いた。

元より鬱の傾向は強かった。
信じていた人間に梯子を外されてぶっ壊れた後、3年掛けて何となく持ち直したと思っていた。
特に、去年のイベント出演で大きな自信を得た。その筈だった。
失っていた自尊心や自分自身を取り戻せた気がして、だから環境が変わっても上手くやっていけるんじゃないかと錯覚した。

錯覚だったのか?
そうなりたい、なれるかもしれないって願ったんじゃないのか?
やってみないと解らない、でも今の自分ならできるって思って、思い込んで、もう殺したくないから次こそはって踏み出した。そうだった。

けど、現状を見たら、自分の為に選択した時と何も変わっていなかった。
僕は僕の為にしか生きられないし、誰かの為に犠牲になるのはもう嫌だった。
誰かの自尊心を保つ為に犠牲になりたくない。謝罪も感謝もされないような塵のままで、忘れられるだけだから。

そのなけなしの矜恃は今も健在だった。
それを通して今の自分の情けなさを知った。
何か対抗策は無いかって調べてみたけど、みんな精神論ばかりだ。
そのうち良くなる、関わることで関係が深まる、そんなふわふわした言葉で今の辛苦がどうなるっていうんだ。
精神論で家族を作っていくなんて、人間てのはなんて物好きなんだろう。

そんな時に限って、僕を貶めた者達を思い出す。
彼らはちゃんとした人間だから、家族も作れるし、誰かを傷付けても自分が幸せになれると信じ切ることができる。
僕にはできない。新しい家族を迎え入れる強さも、幸せを信じ切ることもできそうにない。

というか、できないって解っていた。
幸せを幸せと感じられる時間は、とっくの昔に終わっていた。
それもこれも信頼が崩れた時からで、その体験を超えたら変われるって幻を信じた。
幻を現実に変えるだけの力はまだ無かったみたいだ。

何もかも解っていて、逃げ場が無いのも解っていて、現状に至る道を選んだ。
そこに後悔は無いし、心の命じるままにやってやったぜってまだ言える。
でも、その先に行くまでの距離を、今は耐えられそうにない。歩いていられん。

人間には勝てない。彼らにとって僕は失敗作だ。
僕はそれでも新しいものを作り出した。
被造物は造物主を愛するように、勝手にインプットされている。
その事実が、子どもを見る度に頭をもたげる。
僕みたいな壊れ物より、ちゃんとした人間の親の方がこの子には良いんじゃないか?

でも、この子の親は僕しか居ない。
僕なんかが選択したばっかりに。
なのにいま、僕は追い詰められている。自分に追い詰められた。
やはり親に向いてない、殺した時と何も変わっていない、周りに甘えて尚何もできてないって、責める声が聞こえる。
 
何もかも背負って何とかやっていこって決めたのに、すぐ挫けた。
産後うつの重みが日毎に強くなって、自分が端から崩れていくのが解る。
昔のことを思い出す。僕を壊した人間にすら、会えないかなと思ってしまった。君の方がきっと人間らしく生きている。

ともだちに逢ったら、助かるのか?
自分のことをどうやって立て直せばいいか、忘れてしまったのか?
時間も余裕も無い。なのに、何でだか歩みは遅い。

混乱した精神はどこかで巻き戻るかもしれない。
その前に何かが駄目になるかもしれない。
一緒にいたい。みんなと一緒が良かった。
旅に出たかった。あの子のように自由に。

失ったものを数えても、何にもならない。
新しく手に入ったものは、育つまで時間が掛かる。
それまで僕は壊れきらずに生きられる?
自信が無い。何かしでかしそうで怖い。

望んだこと自体が間違っていた?


日付けをまたぐ頃、入院して3日目だろうか。
痛い痛いと頻繁に言った所為か、あまり薬を使いまくるわけにはいかないと渋っていた助産師が、痛みの様子を見ては薬を追加してくれる。
「流していいなら私だって流したいよ〜。でも使える量は決まっているんだ、ごめんね」とまで言われて、まだ本陣痛でもないのに痛がる自分の虚弱さに恥ずかしくなった。でも痛いものは痛い。

2時半頃、子宮口が全開になっていると聞く。
それから少しして「破水したみたい」と言われて、いよいよだなと身構える。
その頃には薬を流す→痛み緩和→また痛くなる→少し薬を流す という感じで、前駆陣痛の痛みに少しずつ慣れてきていた。
この頃から、重めの生理痛+便秘の重めな出てこないやつとしか表現しようがない、何とも強い痛みに定期的に襲われるようになる。
でもこれもきっと前駆陣痛だ、本番はこんなもんじゃないぞと自分に言い聞かせ、腹の中の胎児の無事を願った。
胎児の心拍は安定していて、動いているような感じがした。

この時点で朝のゼリー以降、何も食べていないことに気付く。
痛みにあまりに弱いのは体力が無いからか?
そういえば水分もあまり摂れていない。
これでは痛みに耐えるのは難しかろう。朝からぶっとおしだ。
そして夜になってから上がり続けていた熱。
38℃と表示されて、インフルかコロナかと検査してもらったが、どちらでもなし。
氷枕で少し楽になったが、熱があると解ると途端に具合が悪くなるのは何なんだろうな。
38℃も出たのが久々だったので、踏んだり蹴ったりだと笑いたかった。
実際には痛みで話す余裕も無くなってきていた。

時計もモニターも見る余裕が無くて体感だが、空が白み始める頃、出産準備が周りで始まった。
主人の寝ていたソファーベッドは畳まれ、助産師が二人、ビニールのエプロンを着用し、あれこれ道具を持ってくる。
その間、いきみの練習をするよう言われた。押し出す力を加えて、胎児を下ろしてあげなきゃならないとか。
陣痛の一番痛い時にいきめって言われて、仰向けにさせられたけど、体勢的にめちゃくちゃ苦しい。仰向けもうつ伏せも耐えられない人間だからか。
座ってやってもいいかと訊いたが、座ると今度は胎児が動いてモニターの数字が消失する。大人しく寝転がって、休む時に少し横を向くことにした。

準備が進む中、ひたすらいきんで、深呼吸して休んで、次のいきみに備える。
そのうち酸素マスクをつけられ、内診で「上手くできてるよ、その調子」と元気づけられ、再びいきみの練習。というかもう本番。

いきんでいる間は余計なことを考えず、ただ胎児ネームを呼び続けた。
白む空を何となく見て、ここまで僕は自分のことばっかりだったと情けなく思った。
どれだけ本番のために準備したって、実際の痛みには勝てそうにもないのが現状の自分だった。
「痛い」は声に出したけど、本当はもっと挫けていたから、「もうやめたい」とか「帝王切開にして」とか、あの窓を突き破って飛び立ちたいとか、小腸が捻れている時と思考が同じだった。
この苦しみから逃げたい、辛さから遠ざかりたい、何でこんな痛い思いをしているんだと気持ちが負けていき、その時に「やっぱり自分のことばかり考えているな」と気付いた。
この痛みは赤ちゃんも感じていること、ママと一緒に頑張っているよってソフロロジーを調べた時に書いてあって、その考え方を持とうとした筈だ。
なのに、痛みに負けて、もうやめたいと思ってしまった。やめてどうするかなんて解らない。ただやめたかった。それくらい、終わりが見えなくて、痛かった。

けど、周りの準備が進み、助産師が「吸引か切開が必要かもしれない、先生呼ぼう」と言った時に、終わりが見え始めた。
それまで情けなく自分のことしか考えられなかった点を深く恥じて、いきむ最中は胎児ネームを頭の中で呼び続けることに集中した。苦しくないか、もう出ておいでと身勝手ながら思い、その時を待った。

先生が来て、会陰切開が素早く行われた。
やはり初産だから通り道が狭く、胎児が出てこられないということだった。
麻酔が効いているからか、切られたことにも気付かなかった。かろうじてパチンて音が聴こえたくらい。

最後のいきみと共に、助産師が手を添えるのが見えた。
そのままするっと小さな頭、全身が見えて、詰まりが取れたかのような甲高い泣き声がした。
この瞬間は言葉にならない。とにかく劇的で、全ての感情が動かされた一瞬だった。
それまで辛かったこと、苦しかったこと、痛みが全て無かったことにはならないが、報われたとは確かに感じた。
そも十月十日を過ごしたのは、この時のためだ。この一瞬を知りたくてやってきたことでもあったんだ。
という感情が爆発し、嗚咽になってアウトプットされた。
時間は5時を過ぎていた。

泣きながら、胎児の動きを目で追った。綺麗にしてもらっている間も、甲高い声で断続的に泣いている。元気そうだ。
胎児の出てきた2分後に胎盤が排出されたらしい。排出というか、助産師が押したり何だりで取り出してくれたようだった。
僕の位置からは見えなかったが、縫合のために外に出された主人の話曰く、かなり大きくてレバーみたいな色合いをしており、グロテスクに耐性のない人だと見るとショックかもしれない、とのこと。
てっきり拳一つ分程度の大きさに考えていたが、3kg近い胎児に栄養を送るためなんだから、そりゃ大きくもなっているか、と納得。

切開の縫合をしてもらい、つけていた器具を外してもらった。
病院の患者服から持参した寝間着に着替えさせてもらい、特大パットを尻に敷いてもらって、また導尿。何もかもやってもらっていて悪いなぁと思いつつ、しかし感情が飽和して上手く物が言えない。

ぼーっとしながら、朝日に眩しく輝く空が見えた。夜中でもカーテンを閉めていなかったから、夜明けも朝日も磨りガラスの向こうに何となく確認できる。
もう一人の助産師が「今日はとても良い朝日だよ。こんな日に産まれたんだから、きっと良いことがたくさんあるよ」と言ってくれた。
「これから先、楽しいことも大変なこともいっぱいあるだろうけど、この瞬間を憶えていたらきっと乗り越えられるからね」とも言われて、また泣けてきて、ただ頷いた。僕もそう思う。

全て済んだものの、安静にしていないといけないようで、まだ分娩室に居た。
うとうとしながら、戻ってきた主人と話をした。
主人も一日付き添い、夜に仮眠を取ったものの、明け方はずっと起きていたので、疲れていたようだった。よくここまでついてきてくれた、と思う。

二人で寝こけながら助産師を待ち、傷の具合などを診てもらった後、主人は一旦帰宅。
僕は自分の部屋に帰され、達成感と多幸感のなかで既に配膳の済んでいた朝食をつまみ、ベッドに転がった。

胎児は小児科に入院していた。前日に入眠剤を服用したので、その影響を見るためだ。
これ幸いとばかりに休ませてもらう。ちゃんとミルクも飲んでいると聞いたので、あまり心配はしていなかった。
一度は高くなった熱も下がっていたが、まだ37℃ほどはあった。
子宮収縮の痛み、切開後の痛みで眠り続けられそうになく、痛み止めをもらって、やっと寝ることができた。
今日一日は安静にして、次の日からは母子同室の始まりだという。さて、どうなるか。


覚えている点の箇条書きとメモだが、記録とする。
自分の弱さ、脆さを再確認して落ち込む過程の方が長かった出産だが、産まれた時の感慨はひとしおというものだ。
人との出会いはどれも劇的なものを自分に呼び起こすが、一から腹で育て、外に出すという出会い方はなかなかできるものではない。
病院のベッドに転がりながら、これでまた書く幅が増えるなぁと嬉しくなった。
経験は糧になり、僕の書きだすものを彩り良くしてくれるだろう。

産まれてきた子にも、同様に彩りあるものを渡したい。
こんなご時世に一人ででも生きていけるように。
やはり勝手ながら、願う。

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