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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 十三年ぶりに友人と会った。懐かしい場所へ行った。
 当時のいろんなことを思い出して、また懐かしい気持ちになったけど、寂しくはなかった。
 またこの面子で集まる機会を作れるだろうなって、そんな予感があった。

 ここ数日の記憶といえば、寂しいとか苦しいってそんなことばかりだ。
 思い返せば苦しくなり、未来を見れば辛くなり、寂しさの中で以前と変わらず誰かを欲していて、進歩が無いなと自分で呆れていたところでもある。
 そんな中での、とても久しぶりの再会。当時を思い出しても嫌な感じなど全く無く、寧ろこんなところまでやってきたのだって感慨深くなる。

 再会といえば、去年もそうだった。ちょうどこの時期に六年か七年ぶりに、小学校以来の友人に連絡を取り、会ったのだった。
 向こうは「君との友情はてっきり終わってしまったものだと思っていた」と言っていたけど、こうやってまた会うことができたのだから、完全に終わっていたわけじゃないと思う。
 その子に対して、当時の僕はわりと怒っていたのだけど、時間が経った今は「もっと寛大に話し合えれば良かったな」と反省して、また友達としてやっていきたくて連絡したのだった。

 そしてもう一人、三年か四年ばかり連絡を断っていた子にも連絡を入れて、オンライン上で繋がるようになった。
 相手はたぶん僕が連絡しなくなったことに気付いてすらいなかったと思うけど、以前と同じ態度で、なんなら僕が怒った当時よりも余裕のありそうな態度で接してくれている。
 当時の話を聞いて、僕が独善的だったことも解った。まぁ、話している最中に言ってくれればよかったのに、とも思ったが。
 今はちゃんと御礼も言い合える仲。彼女とと面と向かって話せるようになった時、僕が彼女について怒って愚痴り回っていたことを謝ろうと思った。

 こんな感じで、一度繋がった縁をなかなか手放せない。今また繋がってもいいと思ったものを、自分で繋ぎに行く。
 新しい縁も大事だけど、古くから存在するものだって大事にしたいのが自分なのだから、これでいいのだと思う。

 勿論、誰とでも繋がれるわけじゃない。
 恐らくもう話もしてくれないだろうなって人も居て、人伝に聞くに留まっている。たぶん、その人の人生にもう僕は関われない。
 自分から関わりに行けば違う関係を持てるかもしれないけど、相手が僕を怖がっていると思う。だから近付かない。

 それも踏まえて、まだあの子に拘っている自分を客観視してみるけど、再会を願っても、或いは諦めても、どっちでもいいんじゃないか。
 許せた時点で何かが変わり始め、昔を懐かしんで前向きなままだったことで何かが転がり始めた。
 でも、新しい絆はまだ持てそうにない。そういう予感だけは当たるのが悔しい。
 再会を願うのは未練か挑戦か。後者の気持ちが強くなった時、僕の願いはもう一度、姿を変えるのだと確信を持ちたい。

 自分に期待できないし、他人にも期待できない心境から、どうやって動こうか。
 否、もう動き始めているような気がする。毎日の生活は特に激変していないが、その心理だけはめまぐるしい変化を伴う。
 何年も何年も同じことを考えているけど、それが少しずつ変化しているのは解っている。唐突な、大きな変化を望むから、じりじり変わるのが嫌なのだろう。

 変わりたい。まだ手に入れたい。逢いたいんだけど、まだその片鱗も見えない。
 もうすぐだ、もうすぐだって予感はあるのに、時間が掛かる。セレナ達の感覚に近いから、人間の時間の流れについていけてないだけかな。
 願うだけでは手に入らないからと動くけど、動かずにじっと待てといつも注意されるので、今回は自分からは動かない。それが怖いこともある。何か見逃していそうで、いいのかなって。

 懐かしい気持ちは大事なものだ。当時と今と浮彫になって、あぁ楽しかったな、こうだったな、また楽しくなるために頑張ろうって思えた。
 僕にもまだそういう感覚ってあったんだ。頑張りたいとか、楽しみたいとか。
 こうやって楽しみを享受すると、その倍は嫌なことが起こるから、それなら楽しくなくてもいいよって思うくらいだったのに。
 好転しだしたと油断していいのか? まだ慎重であるべきか? 解らない。

 再会を望む人に絶対に会えるわけじゃない。でも、僕はまだ望む。
 こんな程度で終わるような関係じゃないって思えるから、新しいものを作れるってそれだけは確信があるから、願ってしまう。
 それも依存と執着だよねって言われればそうだけど、そこから守れるものを作ることはできるって、この半年で教わったから。まぁそれには当事者二人の協力が必要不可欠だけど。

 死にたい気持ちの先に、楽しみを素直に受け取るものがあって、また進めばきっと絶望するんだろうけど、最後にもう手放したくなった時に、何かが手に入れられる。
 いつも死の間際じゃないと、大事なものが手に入らない。それだけ真剣になっても、いつかは失ってしまう、奪われてしまう。
 同居している希望と絶望で心はかなり疲弊しているが、その繰り返しで魂だって摩耗しているが、願ってもいいだろうか。踏み出すべきだろうか。

 でも、今は懐かしいなぁという気持ちで満たされる。楽しかったことを思い出す。いや、楽しいことばかりじゃなかったな。だけど、楽しかったんだ。
 今だって楽しいよ。好きなことやりながら、制約を受けずに日々をこなしている。それが誰のお蔭か解っているから、無性に苦しくなることがある。一人で生きていけないくせになって。
 来世ではポポルのように生きるだろうから、それまでにたくさん修行しておかなきゃならない。そう信じるのみ。いつも試練に挑まなければ、成長できない。

 許してほしい。
 僕は許す。あの子も、分不相応なことを願う自分も。
 救いを求めれば叩き落されるが世の常だが、経験上、苦しい時にいつも誰かが助けてくれていたのだと思い出した。
 繋がっていると信じる。また会えると信じる。今の自分にならできると信じる。希望を持てばまた失うのだが、それだけではないと信じる。
 途方もない愚か者かもしれない。それも解っていたことだ。

 夕暮れに懐かしい景色を見て、いろんなことを思い出して、それが案外、心地よかった。
 またここに来よう、次はいつ来るのかなって、眩しい気持ちが新鮮だった。
 忘れていたことも思い出して、久しぶりにたくさん笑った。
 「変わってないな」て言われて、内面ぐちゃぐちゃでも根元はそのままなんだと解って嬉しくなった。

 楽しかった、満足だって思いを持って、次の楽しいところへ行く。
 その狭間に不幸や絶望があって、いちいち足を取られるだろうけど、また会いたい。
 死ぬ前にもう一度見られた景色で、僕の中の何かが動いていく。

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 ルーンの練習がてら、ずっと似たような質問を繰り返す。
 結果は大体同じカード。ケン、ダエグ、ウィルド、エオロー、あとは何だろう、イスやニイド。
 凡その似た結果ということは、現状を維持できれば未来はそこまで激変しないのかもしれない。

 タロットよりも解釈が直球で、言いたいことをはっきり言ってくるのがルーンなのだと思う。
 それが今の曖昧模糊な自分には非常に助かる。タロットもそりゃはっきり言ってくれるけど。

 誰かに出会えること、あの子と再会できること、これからの自分、落ち込んでいる時に訊かずにはいられない諸々に、ルーンは真摯に答えてくれる。
 自分の実力として、あまり上手く読み解けてないよなって思う結果もあるけど、同じカードが出るなら解釈の拡大は必要無いのかもと考え直す。
 タロットでも同じカードが出ることはあったから、即ちそれが鍵となる事象を表しているのだと考える。きっと。

 気持ちとしてはすごく落ち込んでいるし、思い返せばやっぱり悲しくて傷付くけど、去年よりは落ち着いている。
 だからか解らないけど、結果を表すルーンが固定されているのではって思うくらい、同じものをよく見る。
 ケンは特によく見る。占いを始めたての頃から、尋ねればずっと出てくる。
 これはマイルーンでもあるので、何か意味があるんじゃないかと深読みしてしまう。

 信じるしかない。結果を、占った自分を、ルーンを信じるしかない。
 だって他に縋れるものが無い。友人らをカウンセラー代わりにしてはいけないし、言葉はすぐにうつろいを見せる。
 自分の心とて例外ではないんだけど、信じるしかないじゃないか。それ以外に今の自分にできることなんて、微かも無いんだ。

 信じたら物事は近付いてくるのか? 来ると思う。そういう世界だ、ここは。
 じゃあ全て叶うのか? 否、本当に望んでいるものだけを、強く望む者が引き寄せる。

 僕はまた創りたいだけ。新しい関係を、失われないものを、大事なものとして創りたいだけ。
 自分のしたことは忘れない。罪滅ぼしになるとか、そんな都合のいいことは思わない。
 ただ、諦めるよりも次に進みたかった。今度こそ、今度こそと愚かにも願った。
 それが自分なんだものって、強情なことを思う。生きている限り、繰り返してしまうのだろう。

 新しい関係を、取り戻し新しく育む関係を、どうにか守れる自分でありたい。
 信じるしかない。それが上手くいくことを、手に入ることを、守れるような存在となれることを。

 とはいえ、自分に対する諦めの境地は果てしなく、毎日落ち込んだり立ち上がったりと忙しないのだが。
 その気分に左右される希望と絶望の間で、自分の精神が育まれて何かを生み出せることを切に願う。
 書いて見えたものを今度は実践する。今の自分ならできると、やっぱり信じるしかない。

 ルーンをそんなに信じられるのか? 信じるしかないんだってば。
 無意識下から引っ張ってきた願いと現実への足掛かりとなる希望、逃しはしない。
 待つのはなかなか心を削られるが、待った分だけの見返りがあるなら、もう少しは。
 死にたいと思うけど、それよりも多く「会って話したい」とか「また仲良くなりたい」と思うことの方が多いんだよ。

 馬鹿だと思うよ。甘いと言われても否定できない。それでも、大事だったからね。まだ大事だからね。
 その分、呪ったし、怒ったし、傷付けられたけど、それすらも乗り越えたら何ができるようになるんだろう。
 僕に会いたくないかもしれない。それでもいいや。

 まだ見ぬ人が僕との出会いを望んでくれるなら、僕は精々それに見合った自分へと成長するさ。
 これが僕の「信じるしかない」精神の支えになる。どこまで行っても人のことばかり。そういう生き物だ。

 信じるしかないなんて、べつに悲劇でも何でもない。
 早く話したい。次は何が見えるんだろう。


 としか言えない、不思議な感覚だった。
 身内の不幸を聞き、長きに亘った家族の呪縛は一つ減ったことが関係しているのか。
 その人間が死にゆく際に何を思ったのか、それに意味はあるのかと考えたら、何かが変わって、終わって、始まった。
 それが自分の覚醒となるかどうかは解らない。ただ、何かが変わったのだと、それだけを強く意識している。

 一つの呪縛が終わったなら、過去から解放されるのか?
 それはたぶんもう終わっていることなのだけど、自分の中で何度も繰り返されているから、監獄になってしまった記憶だった。
 何度も繰り返して、現在の自分がどうしてこうなったのかという経緯を知り、また呪われて、どこかに流れ着く。
 不毛だけど、幼少期から刷り込まれた小さな社会での出来事だから、今の自分を縛り付けるには充分な脅威だ。それはやっぱり経験したことのある人でなければ、解らないと思う。

 その傍ら、思い出に囚われて寂しくなった時にどうするのかという話を、今年に入ってから書き連ねている我が子達で描ききった。
 書いている本人も驚くほどの精神力で、昔馴染みの”彼女”はどうすべきかを答えてみせた。
 これには相手の男の子も驚いていたが、僕も驚かされたものだ。君は本当に強くなったんだな。

 僕は何度も彼女と対話しながら、一本の作品を書き続けた。
 しかし、それは現実に振り返った時に執筆が止まってしまい、再開した時は全く違う設定で話を書くことになった。
 それは今も続いていて、生涯を懸けて書いていこうと思っている。
 止まっている方の話も書きたいのだが、これは続きを書くというより、続きを体験したかった。多元の宇宙の向こうに、僕の帰る場所があると、馬鹿正直に信じているのだ。
 今書いている話も、僕の想像が生み出したものなら、どこかに必ず存在する。僕に知覚できずとも、妄想の産物と言われようとも、この世は信じるが勝ちだ。
 人が想像しうる世界は全て現実に起こり得ること。僕はそれをずっと昔から知っていた。信じ続けてきた。

 そんな強くなった彼女を見て、微笑ましくなっていたところで、この二年で僕の心破壊するに充分だった元凶のことを思い出した。
 今も思い出せば辛くなるし、悲しくなる。どうしてこうならなきゃいけなかったんだ、と何度も考え直して、あれこれ試してみては、上手く繋がらない。
 そりゃそうだ、僕一人で繋げようとしたって上手くいかない。相手も手を伸ばしてくれないと、上手く繋げられないんだよ。
 そんな辛い出来事から、もう一歩遠ざかることができた気がした。

 許せば楽になると解っていても、どう許せばいいのか解らずにいた。
 それでも僕を助けてくれた子だ、一緒に居てくれた子なんだと、自分に言い聞かせていた。
 その言い聞かせていた部分を切り離していく。

 それはそれとして、君のことが許せない。僕の居場所を奪った君を許さない。
 だからこそ、僕は君を許す。次の場所へ行くため、君とまた再会できた時に力になるため。
 確かに救われた。たくさんの時間と経験を共有できた。でも、離れてしまった。誰の所為?
 僕の心が壊れても、見たいものしか見なくなっても、現実は無常に流れていくだけだ。
 君と一緒に居た時間を大事に持っていく。僕だけの宝物として、君にはあげない。
 もう寂しくない。僕はきっと出逢える。それが予感だった。目覚めだった。

 何度も考えて、何度も試して、何度も躓いて、何度も呪って、何度も書いたんだ。
 そのためにポポルとアシアには随分と協力してもらった。
 守護者達には少し距離を空けてもらって、ずっと見守ってもらっていた。
 この十年余りで、僕にできることは本当に少なくなったのに、僕はまだ巫子として扱ってもらえるんだ。
 まだ痛む、寂しい、苦しい、辛いって思う傍らで、許したい、また話したい、どこかで会えたらよろしくねって気持ちも生まれつつある。
 そうなるまで、何回の脱皮を繰り返したことか。何を生み出して、殺してきたか。
 それはきっと君にはできないことだ。僕だからできたことだ。そんなふうに考えないと、押し潰されそうになるんだよ。

 思い出に痛む心に、ポポルが光を教えてくれた。
 過去も現在も全て持っていけと教えてくれたから、僕は切り捨てなくていいんだと思えた。
 過去にばかり幸せを求める人だと称されて落ち込んだりもしたけど、捨てなくていいんだよって言ってもらえたのが嬉しかった。
 その時、光明を得た思考の中で何かが目覚めた。また予感がした。気配が近付いてくる。

 それが気の所為でも何でもいい。きっかけにさえなればいい。
 僕が進むのはどこだろう。いつか死んで全て手放す時、惜しくならないように、全力を出せるのかな。
 僕は死ぬことばかり考えてしまうけど、後悔するんだろうなっていつも怖がっているから、その恐怖を緩和できるだけのものを手に入れておきたい。
 だってまだ死ねないんだもの。死にたくないとどこかで思っている。死の間際に思い出すのが怖くて、死ねないの。

 妄言でも吐けば楽になる。言葉を吐し続けると、喉が焼ける。書いてばかりいると、いろんなことが見えてくる。
 信じたいものを信じるのは僕も同じ。ただ、目を逸らしたいものも、時間が経てば僕は見られるようになる。そう信じるのは、自分を過大評価しすぎだろうか。

 人の死に直面して、自分の人生を見つめ直した時、本当に大事にしたいものが解るのかもしれない。
 その時まで解らないなんて、馬鹿な話だけどさ。実感するのは自分の死の予感だ。いつかここから居なくなる時、それまで僕はどう生きているのだろうとか。
 生きたくなければ勝手に死ねばいいけど、友人は皆見送りたい。それが関わった僕の責任だと思うから。

 思い出しても、何だか寂しくない。どうすればいいのかが解ったから?
 ポポルが笑って頷いている。僕とは違うやり方で、君はとても強くなった。
 『光の聖剣』では僕の写しである面が強かったけど、『精霊の歌』ではこんなにも強くなっていたんだな。本編にもそれが活かされるように、僕が頑張って書かないと。
 あの時間に戻りたいとか、たまに思うことはある。もっと大事にしたかったと思うこともある。
 それも全て先へ続く物語のようなもので、過去には戻らず、先へ続いている。
 過去にばかり幸せを求めるって評されたのが、だいぶ効いているらしい。そんなこと言ったってしょうがないじゃん。未来に生きたいなんて思ったことが無い。
 だから、現実で明日を考えて生きてみるだけでいい。明日は何を書こうか、何をしようかって、それだけで精一杯。
 そんな非現実的な生き方しかできない僕を、僕は許す。

 ところで、最近書いたものの日付けを見ていたら、先月と同じ日に仕上げていたとか、去年の同じ日に仕上げていたのを見つけて、自分で驚いた。
 書きたい時期とか、何かが降りてくる瞬間が決まっているのかしら?
 偶然の一致も何かの思し召しと思えば、後に迫り来る危機も寂寞も耐えうるかもしれない。
 或いは、ポポルが教えてくれるかもしれない。次の孤独を乗り越える、その言葉を。

 まさか二十五年越しに自分の生み出したものに導かれるとは。
 それだけのものを書けたんだということで、自分を褒めてあげようではないか。
 この符号に意味があると信じられるなら、僕の精神はまだ元気な部分を残しているのだろうな。

 ルーンで示されたものに近いから、どうしても期待しちゃう。いいじゃない、それでも。
 でも、どこかにまだ憂いが残る。僕はこれでいいんだけど、合っているのかな?
 どうでもよくなったわけじゃない、ただ乗り越えただけだと思いたい。
 また会える時を願っているから、僕は先に行ける。だといいよね。
 この目覚めにも意味を齎して。僕も大事なものは抱えていきたい。


 許したら楽になれる? 楽になるために許す?
 誰かがしてきた所業を許して、ひとつ上の次元の人間に自分がなれたとして、それってどういう意味があるの?
 そんなことも解らないから、誰かを許せないままなのかしら。そうかもしれない。

 近頃、ふと考えついて居座ってしまうものの中に、あの子を許すという選択肢がある。
 さんざん悲しみ、苦しみ、呪い、殺そうとまでしていただろうものを許す。この二年でそこまで至るには、どれほどの葛藤と思考の積み重ねがあったか。
 相手が許しを得るならまだしも、僕から先んじて許そうとは、どういう心境の変化だろう。

 無論、僕自身がどれだけ相手を憎み、呪ったかを忘れたわけではない。あの半年余りで心身はかなり削れたし、新しいモノを生み出しもしたのだから。
 だけど、その新しいモノが絶えず相手を呪い、蝕む姿を見ても、僕の心が晴れることはない。
 というか、そんなことで晴れるわけがないと知っていた。知っていたけど、他に苦痛や悲哀を誤魔化す手段が無かった。誰に責められたとして、誰も他に提案など持たなかっただろう。

 生きている間にどんな時間の遣い方をするのかなんて、個人の自由だ。
 僕はそれをまた相手のために遣った。呪い、蝕み、蔑み、嬲り、その行く末を何代にまで亘っても穢してやろうと躍起になった。
 結果は知る由もないが、やっぱり僕にはそっち方面の才能が無いので、大したことは起きていない。姉さんみたいにはなれない。
 そんなところでも自分の才能の無さを痛感して、また嫌になった。僕は僕の仇を取ることも、まともにできない。

 それから歌の師匠に逢い、特別な処置を施してもらい、お祓いを受けに行ったり、周りの友人に全て話したりして、だいぶ荷物を軽くした。
 みんな言ってくれたし、教えてくれた。
 捨てられたわけではない、と。
 ただ、とても難しい話だから、相手がもっと慎重にやる必要があったんだ。
 そのことで君がもう苦しむ必要は無い、と。

 僕は僕が苦しむのを終わりにしたかった。でも、実際にもう終わりだよって言われると、本当にそれでいいのか解らない。
 相手を呪った手前、まだ苦しむのも道理とどこかで思っていた。成功しようが失敗しようが、僕が相手に攻撃的なものを剥けたのは事実だったから。
 と、同時に相手がそれで自分のしたことを思い知ればいいと思った。

 誰かに誠実であるために、他の誰かを不誠実に切ること。それが人間の言う誠実なんだね。
 人間は生めよ殖やせよが何よりも大事な目的だから、その番を守るためにしたことを絶賛する傾向にある。
 この場合で言えば、僕を捨てた方が世間はあの子を称えるということだ。
 その前段階であの子が何をしたとしても、僕がどれだけ傷付いていたとしても、明るみに出なければ無かったも同然だ。
 人間で良かったじゃないか。君がどれだけ醜いことを行おうとも、誰もそれを知らなければ、君を清く正しいと相変わらず称えてくれる。そうして君の自尊心は守られる。
 その犠牲になったものを顧みることのない人間が産みだす次の人間を、僕はごみか何かのように感じる。

 でも、それも許せる? 許せるようになる?
 相手の良いとこをばかりを見てはいけないと、タロットから教わった。下手に相手を美化して自分を卑下しなくていい、と。
 真実を知る者は皆知っている、あの子が醜いことを、僕もまた醜いことを。
 人間は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じないから、真実なんて無くても平気な存在だ。
 その外側を知る人達だけが、真実だの真理だのに拘る。正しく在ろうとする。僕はどっちだろう。

 正しく在りたいんじゃない、ただ悲しくて悔しくて、誰かにそれを知ってほしかった。本人に一番知ってほしかった。
 お前の所為でこうなったんだぞ、と、今までそんな責め方をしたことないけど、初めてそういう責め方をしたくなった。いや、もうしている。
 自覚しろ、自分の愚かさと醜さを。そんなことをしたら心が壊れる?
 そんな心、壊してしまえよ。生まれ変われ。自分がどの程度のものか自覚して、そこから強くなれ。

 目の眩んだ人には解らない。物事をただ客観的に見る人だけが知っている。総体の中の個体であることより、ただの個体として生きたい者が知っている。
 僕はあの子に救われた。ずっと信じ切っていた。依存していた。執着していた。大好きだった。
 こんなことになって、自分はやっぱり選ばれない、捨てられる存在なんだと思い知った。母に感じた絶望と同じものを感じた。二度も捨てられた。姉さんのことも合わせたら、これで三度目。壊れるには充分だ。
 だけど、許そうとしている。言いたいことも、感じたことも山ほどあるけど、またあの子と話したいと思っている。

 新しいことを始めようとした中に、この一ヶ月くらいだけど、ルーン占いがある。
 ルーンは実直に教えてくれる。その結果が興味深くて、心に波紋を起こした。
 あの子を支えたいということに関しては、まだ待てという。僕には足りないものがあるらしい。
 また会えないかと訊くと、誰かの助けで成せるかもしれないと示す。ギューフ、ケン、ラド、それからウィルド。
 特にウィルドは何度か出てきた。この結末がどうなるかは僕らの与り知らぬところの話で、その流れに身を任せよと言っているのだ。
 そういえば、他の結果でも「流れに身を任せろ」とか「耐え忍べば良い未来を手繰り寄せる」といったことを言われた。
 他の占いをやってもそうだったけど、耐えるっていつまでなんだ。一生耐えろということか。

 この人生が終わったら、次は何を味わうことになる?
 今は人間であることの難しさと楽しさを知る段階だ。次は別の存在となって何かを学ぶことになるだろう。
 そうやって学びを重ねた後、僕は帰るべきところへ帰る。それは疑っていない。
 でも、ポポルとアシアのことをふと思い出す。彼らの住む次元に行きたいと思った、ちょっと会ってみたくなったのだ。
 それにはだいぶ無理をしないといけない。僕にはまだそれだけの力が無い。
 想像の翼は小さく、次元を越えるだけの体力が無い。けど、僕にできないことではない。
 それもまた学びとなって、僕を大いに成長させるだろう。
 狂人の他愛ない戯言と受け取ってもらって構わない。僕は夢を見るために生きていて、その夢が果てしないほど燃える。

 その傍らで、人間として生きていくなかで、ただ許すことができれば楽になれるかなって。
 あの子といがみあっているわけではないが、何かあったら話して解決できる仲ではあったと思う。
 お互いのこと、もう少し大事にできれば、こんな結末を防げたろうに。
 けど、それにばかり囚われても、僕は悲しいままだし、どこにも行けない。あの子だけが大事なわけではない。
 あの子が居てくれて良かった。でも、今回のことはさすがに傷付いた。あの子が認めないだけで、あの子は僕に酷いことをしてきているけど、その中でもダントツに酷いんだよ。知っておいてほしい。
 だけど、僕はそれを許そうとしている。それも愛情かもしれない。呪っても、蔑んでも、最後には話したい。それだけのものを僕は誰かに向けることができるんだ。

 人間的な成長を重ねたら、僕は僕の唯一無二と出逢えると期待している。
 今度こそ力ある相方となって。一緒に苦難を乗り越えようとして。僕との関係を守ろうと、真剣になって。
 それは契約を結んだポポルとアシアが如く。約束も誓いも鎖と重しになって、それでも二人だけの関係を何とか昇華させようとした、それが奇跡だった。
 僕の世界に馴染むものを、きっと見つける。大事にさせて。
 罪を犯した僕でもまだ、誰かを許して力になれると証明したい。

 それでも、今はまだひとりぼっち。何かが起きる気配をずっと感じている。
 ゆっくり許す。何があったかを忘れるわけじゃないけど、それだけじゃなかったことを僕はずっと憶えている。
 だから許せない。それから許す。そんなややこしいことができるのは、僕が僕のままでいたいからだと思う。あの子が好きだからだと思う。愚かだとも。

 また会えるのを楽しみにしている。現世でも、来世でもいいけどさ。
 今度は逃げないでくれ。最後まで信じたい。


 幸い、僕はまだ周りの友人や近しい人の死をあまり経験していない。
 親戚だったら、年齢もあってそういう別れを経験したことはあるけど、所謂、自殺という形で別れたことは無いのだ。
 それはきっと幸運なことだし、できれば味わいたくない悲しみだと理解はしている。

 テレビでちょっとだけ見たような芸能人が亡くなって、大騒ぎになって、それはいつも遠い世界の出来事と感じていた。
 けど、今日、待合室で見たテレビに映った方は、ちょっと前に話題になった方だったので、何だか純粋に驚いてしまった。
 と、同時に、思うことがある。死を選べたのは、何故なのか。

 本人の苦痛は本人にしか解らないけど、死を選ぶほどの苦しみだったなら、それは誰かに預けられるものではなかったのだろうか。
 誰かに預けて更に絶望したから、もう死ぬしかなって思ったのだろうか。
 僕も何度も味わった辛苦だ。もう死にたい、もう死ぬしかない、もう消えたい、もう停止したいと何度も願った。

 それでも生きているのは何故か。
 自分の好きな人達から離れてしまうことが怖かったからだ。忘れられてしまうことも怖かった。
 全て手放してしまいたいと思っているのに、今まで手に入れた喜びも悲しみも忘れてしまうのかって思ったら、とてつもなく怖くなった。
 それに、死の間際に「あぁやっぱり生きていたかった」と知ってしまう瞬間が、堪らなく怖かった。
 生きるのも怖いけど、死ぬのも怖いのだ。

 だからどうすればいいのか解らなくて、やっぱり誰かに助けてほしいと思ってしまって、手を伸ばしたのが友人達だった。
 その手を伸ばす先、一番頼り甲斐のある子に梯子を外されたから、僕は壊れてしまったわけだが。
 よっぽど死んでしまいたいと思ったけど、今でもこうして生きている僕に感謝してほしい!
 君を言い訳に自殺だってできたのに、祟ることだってできたのに、その道を選ばずに君を許すことにした、そんな僕を誰か褒めてほしい。

 それはともかく、僕はそういうビビリなので、「死にたい」の一歩先を行った方々が不思議でならない。
 怖くなかったのか、辛くなかったのか、生きることはそれより辛く怖いから、死ぬしかないと思い切ったのか、それはどんな衝動なのか。
 興味本位で訊きたいだけと言われれば、そうかもしれない。だって僕には越えられない崖の向こう側だもの。
 僕のように「死にたくないのに」と思ったりしたのか、教えてほしい。

 テレビに映ったあの方は、自分にとても素直な方だったのかもしれない。
 もう鬼籍に入った方のことだから、あれこれ言っても答えなんて解らないけど。
 LGBT云々のくだりもあって、少しだけ気になっていた。
 確かに自分勝手だったけど、その行動を完全に責める気にはなれなかったのだ。
 していいってわけじゃない。ただ、責める気は起きなかった。

 僕は身体の性の認識は変わっていないし、心の性とやらも変わってはいない。ただ、「こういう側面があるから、一概に決め付けられるものではない」という見方は強い。
 それに、性別より何より僕は僕だという意識がとても強いから、他者も自分も抱えている性別なんて、さしたる問題ではないとも思う。
 性別が問題になるのは、人間が「産めよ殖やせよ」という義務を持っているからじゃないか。そこには確かに男と女が必要になるから。
 そうじゃない場面で、性別の括りが必要になることってあるのかな。あるかもしれない。
 でも、僕が誰かを見る時、性別なんてあんまり問題ではない。そういうものの見方もあるんだってことが解って、ちょっとだけ救われた。

 僕は恐らく全性愛者の傾向が強く、自分を愛してくれさえするなら、性別も種族もあまり関係ない。
 肉体での関わりもやぶさかではないが、精神的な繋がりが薄いのなら、そもそんなことに意味は無い。
 人間の本質から随分と逸れていることは自覚している。でも、もう無理をして自分に合わないことを続ける必要は無い。
 僕も大抵、自分勝手だ。それを周りに話して、理解してもらえないとしても、知っておいてほしかった。
 生きることは我儘ばかりで、その我儘で誰かを悲しませることもある。その時はとてつもなく腹立たしいが、僕は時間を掛けて許すことにする。
 呪い、憎み、何もかも無くなった後の虚無で、我ながら馬鹿だとは思うけど。

 この方は自分で自分のことを許していたのだろうか。それとも、罰したい気持ちが強かったのだろうか。
 衝動的なものが多分にありそうだから、どの原因が理由でって断定は難しそう。
 いきなり死にたくなって、目の前に道具があったら、魔が差す人だって居るだろう。そういう状況だったかもしれない。
 なんにせよ、静かに眠ってほしい。でも、自分が遺したものを見守ることだけはやめないでほしい。
 最低限の責任も負えなければ、自分らしさなんてただの絵空事になってしまうもの。

 どうやって向こう側へ渡るのだろう。僕もいつか渡れる時が来るのだろうか。
 それまでに幾つのものを許して、幾つのものを憎むのだろうか。
 もうすぐ誰かに会える、或いは再会できるという予感を抱いて、ただ静かに時を待つ。


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