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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

20日 05:19 無事に産むことができた。
が、それまでの過程が辛過ぎて、痛くて、自分の心がまだまだ弱いことを思い知らされた。
去年の小腸軸捻転の時と同様、ここに記しておくことにする。


1日目(というか前哨戦)
18日の15時から入院。
分娩室に持ち込むもの、お泊まりセット、貴重品、飲料などたくさん持ち込む。
通されたのは完全個室。楽に過ごせると解って安心する。
子宮口が拡がっているかを確認するため、外来の方へ。
37週の時点で1cm、次の週に1.5cm、今日は2cmと少しずつ進んでいた。
そうして進みがあったこと、胎児の頭がちゃんと下に来ていることから、子宮口を拡げる処置ではなく、子宮口を柔かくする薬をのむことに。

部屋に戻って夕食。
病院食は計算されたカロリー且つ美味しいので好き。量を食べきれないのが申し訳ない。

夕食後に薬をのむ。一時間に一度、合計三回。
その間NSTのモニターつけっぱなしと言われ、暫く眠れないことを悟る。
枕回りにスマホやSwitchを置いて、一回目。
モニター中、何故か胎児は動き回ることが多く、よく見失うため、助産師が「こんなに動くことないはずなんだけどなぁ」と興味津々で言っていたのが、逆にこっちの興味を誘う。
私的に座っていた方が楽だったのだが、座るとどこかに行ってしまうため、一回目、二回目は寝転がってみる。
重たいお腹と右股関節の痛みで眠れるわけもなく、やっぱり座る。
モニター中に消えても、胎児ネームで呼びかけると戻ってくる。
三回目の薬で何となくずきずきしてくる。
前駆陣痛かと思って深呼吸で耐える。腹の一部が膨れて、重めの生理痛のような疼きが度々くる。

薬をのまなくなって、モニターを外しても、その夜は疼きがあった。
眠れないと困ると思い、いつも使っている入眠剤を使っていいか尋ねる。
直前の薬の服用は、産まれた後の赤ちゃんに影響が無いかチェックする必要が出てくるから、小児科に入院になるけど、と言われて迷うも、眠れないようならのんでねって言われて、体力温存のためにのむ。
しかし、前駆陣痛の痛みで度々起きる。今までも似たような痛みはあったが、こんなに起きたろうか?
気が昂っているからだと思い、何とか寝る。
小刻みな睡眠だったが、明け方には二時間は寝ていた。

19日の朝に促進剤を使うと聞いていたから、いよいよだーとウイダーinゼリーを飲んで、少し腹を下す。締まらない。

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 勿論、それもあるけど、見ようと思って考え続けるから見えるんだってことに気付く。
 それができるだけの力は昔からあって、ちょっとくらい軌道を間違えても、周りの人間関係によって救われて戻ってくることができる。
 僕はなんて運がいいのだろう。つくづく周りに恵まれた人生なのだと痛感することが増えてきた。

 一ヶ月以上も傷付いて考えていたのは、相手との関係性の変化だった。
 相手の環境が変わり、それに伴い考え方や振る舞い方すらも変わり、その変化に戸惑っていたけれど、少しずつ「そうだよね、そうやって変わっていかなきゃ生きていけなかったんだよね」と理解を示すことができるようになった。
 無論、相手にとってはそんな理解なんて何の役にも立たなくて、寧ろ余計なお世話だと言われそうだけど。

 相手は今後、どう変わっていくのだろうか。脆弱な自分に気付いて、過去の過ちを悔いて、そこから成長は始まると思うけれど、別に人間的な成長なんてしなくたって生きていくことは可能だから、それで満足するのかもしれない。
 人生なんて、結局は当人がどう満足できるかに懸かっている。他者を蹴落としても、慮ることができなくても、当人が「この人生は上々だ」と信じればそのように映るのだろう。当人にだけは。
 周りの人間関係は破綻するかもしれないが、昨今では友人など居なくても大丈夫だという風潮も生まれつつあるらしい。どんな言い方にせよ、自分を正当化できる術は必要だ。
 だもんで、相手もきっとそのように自分を奮い立たせながら、或いはどこかで後ろめたさを感じながら生きていくに違いない。
 それは僕が許す許さないといった範疇に無いことで、そこから弾かれるのは悲しいけど、彼女の抱えられる荷物の質と量もまた決まっているのだと、違う場所から理解を示している。
 えぇ、これもやっぱり彼女が知ったら、自分を馬鹿にされているんじゃないかって怒りそうだね。

 そんなに違う人間だとは思わない。寧ろ似通った部分が多いから、反発する時は思いっきりするのだと思う。
 その刺激が時々きつくて僕は参ってしまうけど、時間が経てばその傷を見つめられるようになり、悲しみを受け止められるようになり、どうすべきかを自分で決めることができる。
 相手がそこまでできるかは解らない。向き合う気が無いのなら、きっといつまでもそこに停滞することになるけど、それでもいいのではないか。先述の通り、人間的な成長などしなくても生きていけるから。
 というより、そういった魂を懸けて何かを為そうとする行いは、ともすれば日常を生きる力に影響することがあるから、普通は避けるのかもしれない。病んだりしたら生きていくのがしんどくてしょうがないもんね。
 成長できるようなきっかけに遭って、悩んで傷付くことに時間を割いたとしても、それが今後の人生をより充実させるなら、その方がいい。そういった損得勘定を行うことができるようになるのも、やはり経験から来るのだろうか。
 兎にも角にも僕と相手は似通った部分が多いけど、そこだけ決定的に違う。その違いを話し合うこともできないまま、十二年が流れた。もう彼女に僕の言葉は届かないだろう。

 カウンセリングで話をした時、先生からもその指摘を受けた気がする。
 相手に言われたことで僕は深く傷付き、その傷は永劫癒えることがないのだが、そこについても言及された。
 曰く、「彼女とあなたでは状況が違う。彼女はあなたを通して自分に言い聞かせている。自分で選択したかのように言っているけれど、どうしようと迷っている間に時間が過ぎて、そうせざるを得なくなっただけ。あなたは自分で選び、今もまだ苦しんでいる。彼女が言うように、けっして甘えからその選択に至ったわけではない」
 そうだったらいいけど、相手はそうは考えないだろう。そう考えることは今までの自分の行いを否定し、いろんなことを無に帰すから。その重みに耐えるような余裕は、もう彼女に生まれない。

 そうやって向き合わなかった分の歪みを僕が知って、抱えてあげる必要は無いという。
 それらは身近な人間が肩代わりする羽目になる。家族が居れば配偶者とか子どもとか。
 あぁ、そういうことかと納得がいった。僕は肩代わりする羽目になった側だから、得心がいくことばかりだ。
 僕みたいな思いを、或いはそれよりもっと酷いものを、彼女の近親者は背負うことになるのかもしれない。

 だけど、そこについて僕が心を痛める必要は無いらしい。
 思うところはいろいろあっても、やっぱり友達だから僕は相手に何かしてあげたいし、話も聞いて助言でも何でもって気があるんだが、それはきっと相手からすれば癇に障る行為に値するだろう。僕が関わるべき領域ではなかった。
 相手と話す度に僕を通して相手は自己肯定感を高めていると錯覚するほど、いろんなことをあけすけに言われてきたけど、その分の歪みを抱えるのは僕ではないのだ。
 話している相手は僕でも、僕を通して相手は自分に言い続けている。これでいいんだ、こうするしかなかったんだと。

 そんな相手を務める必要無いよねって話だと解釈しているが、それも役目ならば少しはいいかな、なんて。
 そういうところが、僕の人間に対する甘さだ。人間嫌いと称されるけど、僕は一度でも仲良くなった人間に対しては、かなり甘やかしてしまう性分らしい。
 何でそうするのかって、勿体ないからだろう。伸びしろがあるのにどうしてそのままにするのって、お節介なんだ。人間はそういうものを嫌がる。

 まるで自分が別の次元から相手を見下ろしているかのように語ってしまうが、実際そうなんじゃないかって気もしている。
 僕はもう抜けてきたところで、相手と同じ土俵に立つこともない。そこはもう通過して、そういった伸びしろのある人間が悩む様を見守る位置に就いている。
 本当にそうかどうかは解らない。やっぱ同じ穴の貉だよなって感じる時もあるし。
 相手も同じような見解を僕に抱いているとしたら、僕らは対等な友達になるところからやり直しだ。
 その重要性も解らないようなら・・・・・・うーん、現世では無理なのかもな。来世で魂を磨いてから、また会いましょう。

 自然とそう思えるようになったのは、余裕からだろうか。相手にも、いつか苦しめられた子に対しても、何の抵抗も無くそう考えられる。
 だって違うもの。僕は君らと違う。選択してきた、向き合ってきた、成長してきた。それだけの自負と矜持を以てしても、未だに君らの行いに傷付き、悲しむことがある。それは弱さかもしれない。
 さんざん感情を発散して、呪えるだけ呪った後、残ったのはこんなものばかりだ。僕は人間に甘くて、可能性をいつまでも信じている。奇跡のような面をしているが、人間にとっては重荷となるようなことを言いまくっているな。

 これが時間を掛けて見えるようになった物事だった。僕にはそれだけの目と思考能力があるんだと思うようになった。昔からそうじゃなかったっけ。
 輪廻があるなら、その先で成長した君らと会いたい。今は僕も勉強中だけど、もう少しだけ先に居る。きっと何を言っているのか解らないと思う。
 現世に居る間は仲良くしたいし、また好きなもので話せたらいいな。それができなかったとしても、もう怒ったり呆れたりしたくない。それは僕の我儘というものだ。
 人間にはそれぞれ役割があって、果たすべきことのために成長しなきゃならない。僕はそれを見守る側なんだ。僕にも役割はあるし、果たすべきことはあるんだけどね。

 変わっていくものを恐れない勇気が欲しい。
 いつもどこかで怯えている。全てをあるがまま受け止めて、流せる境地にはまだ至れない。
 けど、今はこれでいいや。やっと少しだけ楽になれた。


 こんなことが嫌だった、こんなことを言われて傷付いた、こんな目に遭って悲しかった、という諸々のことを思い出し、勝手に反芻し、傷付き直すこと幾星霜。
 それが自分の悪癖であると理解できていても、なかなか治すには至らなかった。そも自力で何とかできるなら、カウンセリングなど不要だったのだ。それはカウンセラーにも言われたことである。

 僕が相手のことを侮っていて、その相手から言われたことに納得がいっていないから、今回の歪みが引き起こされた。
 そりゃあ君からすれば大した話ではないだろうが、僕からすれば生涯を通した悩みなのだと。そこに寄り添えない時点で、彼女に話を聞く態度というものは備わっていない。昔はできていたように思うけど、もうそういう姿勢をやめたのだろう。
 僕はその人に何も期待せずに話している筈だった。なのに、これだけ傷付いたということは、どこかしらで何かを期待してしまったのだろう。
 僕の意思とは反対に、何かがまた勝手に動いている。蘇ったこの感覚にうんざりした。

 その人はそういう生き方を選んでいる。結婚して、子どもができて、出産して、離婚して、再婚して、余裕ができたように見えていたけど、根本では変わっていないのだ。歪んだ時のまま。
 僕にはそう見えたし、それでいいのかって思うこともあるけど、本人が今の方が生きやすいというなら、この状態でいいのだろう。
 いくら諭したところで、それを聞ける人間は少ない。誰かに言われて自分を変えるのが大嫌いなのが人間だと、どこかで見かけた。
 成程、人に物を言いたがりの人間ほど、誰かに自分のことを指摘されると聞き入れないし、反発してくる。つまらない。

 あの子も、彼女も、その類だった。解ってしまえばなんてことのない、つまらない人間だった。
 それが解った時、まだ自分が過去の彼らを思い出していることを知った。
 とはいえ、過去は過去。あの時から随分と時が流れた。僕の芯はあの頃から変わらず、何とか人の忠告を受けて自分を変化させながら生きてこられたけど、あの子もその人もそれが無理だったのだ。変わりたくなかった。言われたくなかった。
 その結果、僕と二人の間には違う境界ができたように思う。もうあの頃のように共有することは叶わないし、僕の言うことや書くことを彼らが理解できることは無いだろう。
 或いは、この先の人生で再び交わった時、彼らに自省の心が芽生えていれば、話も同じ次元でできるかもしれないが。

 現世が魂の修練場というのは、よく聞く話だ。
 その過程で、成長途中だからこそ現段階では物事を理解できない魂も多いのだと聞く。
 僕は一歩先を行ったような感覚に囚われているけど、あの子達はどうかな。そんなことも考えないまま、一生懸命に今を生きているのかな。
 僕とは生きていく視点が違う。でも、僕はこの視点で生きていくために今の生活を続けているから。流されて、気が付いたらその生活に収まっていた人に、とやかく言われる筋合いは無い。

 その一方で、彼らの人間らしい姿は素直に称賛すべきだとも考えている。僕にはできないことだしね。ただ生きていくのも、ただ生殖に及ぶのも。
 生命の本懐を果たすその様は正しく人間だし、人間としては彼らの方が遥かに優秀だってことは、何年も前から結論が出ている。
 そんな彼らに目をかけて、まだ仲良くしたいと思っている自分が少し変わっているのだ。人間らしくない。

 まぁ、それでいいじゃないか。僕はまだ何か学べることが、教えてもらえることがあると思って、その人に近付いた。
 今回は言い返せなくて落ち込んだだけだと思う。そこに嫌なことが続いて、風邪を引いた。こんな時に風邪だなんてツイていない。
 一旦止まった足の先で、今までのことを考える。
 大事なのは僕がこれからどうしたいかだ。どういう存在として誰と関わりたいかだ。
 けど、今はそれを考えるための大事な思考部位が熱やら倦怠感やらで、疲弊してしまっている。どうしようもない苛々だけを抱えて二日過ごすのは身体に悪い。

 だから許そう。僕は上から見ているに過ぎないけど、見下してはいけない。現状を解っているなら、解っていない者の分も考えられるのは当然だ。それは理不尽などではない。
 少しだけ先に居るからといって、その距離は覆せないものではない。僕にできないことをできる者達に尊敬の念を忘れてはならない。
 ただ、ちょっとだけ、愚かだなって思うことがあっても許してよ。もう飽きたんだ、悲しむのも傷付くのも。
 自分の捉え方次第だよってどこもかしこも言っているけど、それが上手くできなかった時にどうすればいいかは誰も教えてくれない。

 大事なことを学んでこられなかった哀れな魂にも、輝ける瞬間はきっとくる。
 僕はそれを見てみたい。考えるのを一旦やめたい。巫としてか、人としてかは解らないけど、見守っていようと思った。
 許してあげることさ。僕にはそれができる。そういう次元にもう居るんだから。

 そうやって自分を持ち上げていく度に、何か取りこぼしている気がする。
 これで合っているのかどうか、教えてほしい。忖度なしで。
 もし間違っていたとしても、僕は人の指摘を受け入れられるから、間違いっぱなしではないか。
 それが救いにして強みだ。


 詳しいことは勉強していないから解らないことが多いけど、要は「この世に変わらぬものはなし」と、そういう意味になるらしい。
 それは解っているつもりで、実際に目の前にしたとしても多少は受け入れられるつもりでいたけど、今日の友人との会話を振り返るに、まるで解っていなかったように思う。
 けど、これを理解することが、僕の良い意味での自立に繋がるんじゃないか、と思えた。

 人にはいろんな種類の価値観があるし、思惑がある。それら全てを理解するなんてことは、同じ人間の次元に在っては恐らく不可能だ。
 それでも足掛かりとして、想像力や思考、言語能力を駆使して、相手を知ろうとする。人間関係に重きを置くならば、そうする人の方が多いだろう。
 僕は勿論、そうする側だ。人と関わるのが楽しいからこそ生きている、そう言える側面も持っている。
 だけど、とある友人が変わってしまったのだと認識した時、そこそこの衝撃が僕を貫いた。
 それからすぐに「不変なんてことは有り得ないんだ、解っていたじゃないか」と思い直したが、その言葉は浮遊感が凄くて、要するに自分の中に根付いていない言葉だと気付かされた。

 変わらない人なんて居ないってのはその通りで、ライフステージなるものを経ると人は変わらざるを得ない。
 それは今まで付き合ってきた人間にとって、必ずしも良い変化ではない。昔の方が良い奴だったな~とか、今の方が付き合いやすいかもな~とか、様々な感想が出てくるみたいだ。
 僕がその友人に感じたのは前者だった。でも、それも僕の思い込みというか、都合よく考えがちな悪い部分だと自覚している。

 友人もいろんなことがあり、変わらざるを得なかった。自分を守るために変化し、切り捨て、他者との境界線をはっきりさせたのだろう。
 元は優しかったし、人に気を遣い過ぎてしまうところがあったように思う。それでは友人自身が辛くなるから、それをやめて、自分のために取捨選択をできるようになったのが、今の姿なのだろう。
 きっと僕はこの人に切り捨てられる側だ、そんなことを思ったのは、僕がその人と関わるようになった近年、この人は僕が連絡しなかったことを不審に思わなかったんだ、その程度の存在だったんだと落ち込んだことがあったからだ。

 僕は結局、人に依存してしまう。それもかなり多くにその根を伸ばして、何とか繋ごうとしている。
 それだけ不安で、人に縋りつきたい気持ちが強いのだろう。そこも自覚はあって、それを治すためにも長年のカウンセリングを続け、自己解体を止めない。
 十年前と比べても、今の自分はだいぶ生きやすくなって、物事がもう少し正確に見えるようになった筈だ。
 そんな目を以てしても、何だか衝撃だった。変わってしまったんだ、そう強く感じた。
 それが自分にとって都合の悪いことなんだと思っていそうで、僕はまだ友人のことを、自分を喜ばす道具のように思っているのかもしれない、そう危機感を抱いた。

 大体がして、僕がその人に拘るのは何故か?
 昔から僕の書いたものを読んでくれて、絵におこしてくれたりしたことが嬉しかったから、それを手放したくないと思ってしまったのだろう。
 だけど、それって今の友人には何の足しにもならないんだよな。というか、本来はそういう利己的な部分を除いて付き合いたくなるのが、本当の友人ってやつだよな。
 と考えれば、その人は僕が例え書いていなかったとしても話を続けてくれただろうから、友人であると言える。
 一方、僕はその人が描いてもくれず、読んでもくれないと解ったら、そこで関係を切ろうとするだろうか?

 答えは現状にある。切っていない。
 その人にまた読んでほしいとか、描いてほしいって思うことはあるけど、そうできるだけの精神的な余裕や時間はあまり無いと知っている。
 創作が魂の往く運命だという部類の人間ならともかく、そうじゃない人は余裕が無ければできない。誰かの何かを受け入れるなんて、できやしないんだ。
 家庭や仕事を差し置いてでも時間を費やそうという酔狂な人間は、僕が思っていた以上に少ないのだな。
 当たり前だ、皆にそれぞれの人生があり、環境があるのだから。限られた時間で、自分の為になることをするのが、人間の責務の一つなんだ。

 そうして理解を示しながら、僕もまた時間を掛けて、人間のことを知っていく。
 その人と再び連絡を取った時は「また読んでほしい」という気持ちが強かったが、二年が経った今は「そんな余裕無いもんね」と電話を掛けるだけに留まる。
 もっと話したいことがあったように思うけど、その人の置かれた環境を知る度に配慮せねばと気を遣う。ここが自分の長所だと、いつも思うようにしている。

 人間の抱えられる荷物の質と量は決まっている。何年も前から、自分に言い聞かせていることだ。
 そこからあぶれた自分を嘆くことが多かったけど、今はもう少し違う視点を設けている。
 僕が望んだ形や思い込みを一旦置いて、相手なりに示しているであろう親愛を受け取る。それはきつい言い方の中に含まれる親切であったり、言葉にはしないけど態度には出ていることであったり、人間の性質次第だ。
 そして、僕はそれを受け取ることができて、理解することができる。それだけの力があると信じる。
 だったら、自分の中の合格点ではなくて、相手なりの誠意や親愛の情を知るべきだ。思い込みは一番の敵となる。
 そうやって何度も自分に言い聞かせて、漠然とした幻の不安を払って、またその人に声を掛ける。

 長い人生の中で全く変化が無いって人は殆ど居なくて、誰もが何かしらの変化に見舞われる。
 その過程で保ちたい自己を保てる人はよっぽど少ない。多くの人はきっとその変化に対応するため、自分を作り変えていく。
 それが先述の「昔のが良かった」とか「今のがいい」に繋がるんだけど、自分だって変わるんだからそりゃあ齟齬くらい生まれる。
 尤も、僕の場合は根っこが全く変わっていなくて、外側に近い部分が崩壊し、再生し、また崩壊し、再生し直したばかりだ。その経験が僕をよりよい方へと導いているという手応えはある。
 そうやって成長した今の僕とあまり付き合いたくないって人は、そんな居ないんじゃないかな。こんな大それたことも言えるほど、自分の誠実さと義理固さに自信があった。
 大きく出たな~と自嘲したい気持ちもあるけど、これぐらいのことを言わないと、自分に刻めない。弱気なままでは、また三年間の地獄に戻ってしまう。もう戻らない。

 僕はきっとこうして生きていくしかない。周りのように変化を許容し、取捨選択を冷酷にできた方が生きやすいだろうけど、恐らくそうなれない。
 なれないなりに、何とかやっていける。それだけの自力と根が自分にはある。傷付くことの方が多くて、損しているなって思っちゃうことも多いけど。
 或いは、全然気を遣えていなかったりして。
 否、気を遣ってはいるけど、遣い過ぎなんだ。自分を追い詰めるほど、誰かに気を遣わなくていい。それは相手をつけあがらせる。誰のためにもならない。

 たくさんのことを考えて、目が回る。脳が疲れる。けど、自分をまた知ることができたし、これはきっと創作に活かせる。
 つまるところ、自分は”こういう人間”なのだと自覚する度、何とも言えない充足感と安堵感、それから少しの呆れが蘇る。
 いいぞ、もっと成長しろ。そうやって魂に、精神に刻まれたものが、僕をもっと豊かな世界へと導く。書けるようになる筈だ。

 希望を持てば絶望の影が濃くなるもんだが、今はそれよりも確かな手応えを現実へと写したい。
 あれだけの地獄をまた潜り抜けて、情けなくとも生き残ってきたんだから、もう少しだけ天狗になってもいいだろう。
 諸行無常は恐ろしいが、根っこが変わらずに成長できた僕なら理解できるようになる。
 その友人との良き付き合いが長く続くことを願います。離れることがあってもまた繋がれた、今回のようにね。
 まぁ繋いだのは僕だけど、そうできるようになったのも成長したからだ。それは相手には解らないことだけど、魂が知っていることだと思う。人間にはまだ早い、早いよ。

 それだけの自負と余裕、どこまで続くかね。続いてほしいね。
 さすがに「死ぬまで続けられるさ」とは言えないのが、現状の精一杯だ。
 でもまぁ・・・・・・守護者達が笑っているから、これでいいのだろう。


 そんな者に終ぞなれる気はせんが、目指すことで救われる心もある。
 今はそんなふうに自分を慰めて、来るべき時に備えるしかなかった。

 自己肯定感というものが俄かに騒がれるようになり、僕に欠如しているものはそれなのだと解り、辛いことや苦しいことを経て、ようやっと形を摑めてきた昨今。
 信頼していた友人に二十年越しに梯子を外され、そんな人間に依存して生きてきた自分を恨み、呪いながらも、それでも生きてきたのは何のためか。
 勿論、書くためである。この身に起きたことを余すことなく形にし、別の物語にし、いつか自分が辿る軌跡として残していかんがため。
 そう言うと崇高な目的になるけど、要はそんなことで命を手放す価値がその人間相手に無かっただけのことである。

 こうして言えるようになっただけでも、生殺し状態にあった二年前の自分には僥倖であろう。
 人間に縛られることなく、或いは自分を卑下し過ぎることもなく、山を下りて谷を抜けて、望んだ景色に戻ってくることができたのだから。
 それだけの力がずっとあったのに、人間に遠慮して、拠り所にして、育んでいたものを大事にしまって、しまい過ぎたのではないだろうか。
 それぐらい、思い出した。僕はあんな人間に頼らなくても歩けるし、よっぽど修羅場を潜って、責任を背負って、自分で決めて生きてきた。その価値も軌跡も汚されることは無く、あの子に汚すことはできない。
 その矜持こそが生きていく上での重要な柱となって、いつかまた会えた時に僕があの子を支えることのできる力へと変わる。そう信じる。
 あの子は最低な人間かもしれないが、そんな人間すらも許し、愛することができる偉大さに触れるといい。そんな尊大な態度だって、きっと冗談でも笑い事でもない。
 だって、僕にはできる。君にはできないことをずっと続けてきた、やってきた。そんな僕が、常に一歩先を行く僕が、それくらいできないわけないだろう。

 確かに、確かにこんな奴だった、僕は。尊大で、我儘で、何とか強くなろうとして、いつもあちこち見ていた気がする。
 いつの間にか人間の間で小さくなって、許されなくなって、萎んでしまっていたんだ。そうなるように仕向けられた、と言ってもいい。受け入れたのは僕だが。
 その洗脳状態にも近かった場所から、三年目の脱出劇だ。いいじゃないか、それで。
 僕が特別なのだから、君ができないのはしょうがない。目の前でそう言ったら怒るだろう。だから追いつけないんだよ。

 まぁ、そんなことよりも目下のところ気にしているのは、身重の今がどう転がっていくかだ。
 重要な検査をいつできるか解らず、初動が遅れたのは手痛い。
 遅れた分を取り戻すことは難しいので、今からでも調べてみて、その結果によってどうするかを決める強い心が必要だ。
 何も無ければ今まで通り。何かあれば選別の対象とする。
 一度は決めたことで、それ故に人の親となることなど無いだろうと決めた筈だが、今こうして目の前にもう一度その選択が浮上してくると、思うところは尽きない。
 でも、それもこれも命を連れていこうとした自分の責任だ。だから考えて、決定して、その結果を受け入れねばならない。
 物言わぬ人間の言葉を聞いて、自分が何をしたかを刻んで、それがやっぱり十字架のように思えても生きるしかないのだろう。

 何も無かったとして、この先に起きることなんて誰も予想できない。
 もしかしたら違う形で病気が見つかるかもしれないし、後天的な要素なんて幾らでもついてまわる。
 自分が病気になるかもしれないし、その所為で悪影響が降りかからんとも限らない。
 考えれば考えるほど暗澹たる気持ちになるし、何かをどうにかしなければと謎の焦燥感に襲われる。全く意味の無いことだが。

 心配したところで、なるようにしかならない。僕の力が及ばない場所での話だ。
 僕にできることと言えば、できる限りのストレスを減らして、健康と思われる生き方をするだけ。それによって保たれる命があるのだから、責任持ってその役目を果たすべきなんだろう。

 当てつけのよーに責任が責任がって言っているけど、それが僕の今の矜持を支えている。
 他の人間には解らない。この悲哀も孤独も伝わらない。
 だから強がってみて、その強がりを本物へと変えてみせる。あんな弱虫のままでいられるか。

 とはいえ、実際に命の選別をまたせねばならないとなった時、僕はどんなにか衝撃を受けるだろう。
 宿っただろう魂からは同じ文言しか聞かれない。生きたいとか、外に出たいとか、そんなくらい。
 僕はこの人間に遭ってみたい。ただそれだけの願いで、責任を果たそうとしている。
 他の人間よりも軽い動機ではあるが、それで表面的にも社会的にも何かを果たせるなら、まぁよいではないか。

 先のことは解らない。解っていることだけを意識して、乗り越えていくしかない。
 次に死にたくなった時は、誰が迎えに来てくれるだろう。

 燥良は笑って言っていた。拍子抜けするぐらい健康的な子が産まれてくれるよ、と。
 そうなれるようにしたいけど、本当にそこは僕の力が及ばないんだ。
 少しだけ歯痒い。もっと人間から乖離した存在だったなら良かった。

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