ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
詳しいことは勉強していないから解らないことが多いけど、要は「この世に変わらぬものはなし」と、そういう意味になるらしい。
それは解っているつもりで、実際に目の前にしたとしても多少は受け入れられるつもりでいたけど、今日の友人との会話を振り返るに、まるで解っていなかったように思う。
けど、これを理解することが、僕の良い意味での自立に繋がるんじゃないか、と思えた。
人にはいろんな種類の価値観があるし、思惑がある。それら全てを理解するなんてことは、同じ人間の次元に在っては恐らく不可能だ。
それでも足掛かりとして、想像力や思考、言語能力を駆使して、相手を知ろうとする。人間関係に重きを置くならば、そうする人の方が多いだろう。
僕は勿論、そうする側だ。人と関わるのが楽しいからこそ生きている、そう言える側面も持っている。
だけど、とある友人が変わってしまったのだと認識した時、そこそこの衝撃が僕を貫いた。
それからすぐに「不変なんてことは有り得ないんだ、解っていたじゃないか」と思い直したが、その言葉は浮遊感が凄くて、要するに自分の中に根付いていない言葉だと気付かされた。
変わらない人なんて居ないってのはその通りで、ライフステージなるものを経ると人は変わらざるを得ない。
それは今まで付き合ってきた人間にとって、必ずしも良い変化ではない。昔の方が良い奴だったな~とか、今の方が付き合いやすいかもな~とか、様々な感想が出てくるみたいだ。
僕がその友人に感じたのは前者だった。でも、それも僕の思い込みというか、都合よく考えがちな悪い部分だと自覚している。
友人もいろんなことがあり、変わらざるを得なかった。自分を守るために変化し、切り捨て、他者との境界線をはっきりさせたのだろう。
元は優しかったし、人に気を遣い過ぎてしまうところがあったように思う。それでは友人自身が辛くなるから、それをやめて、自分のために取捨選択をできるようになったのが、今の姿なのだろう。
きっと僕はこの人に切り捨てられる側だ、そんなことを思ったのは、僕がその人と関わるようになった近年、この人は僕が連絡しなかったことを不審に思わなかったんだ、その程度の存在だったんだと落ち込んだことがあったからだ。
僕は結局、人に依存してしまう。それもかなり多くにその根を伸ばして、何とか繋ごうとしている。
それだけ不安で、人に縋りつきたい気持ちが強いのだろう。そこも自覚はあって、それを治すためにも長年のカウンセリングを続け、自己解体を止めない。
十年前と比べても、今の自分はだいぶ生きやすくなって、物事がもう少し正確に見えるようになった筈だ。
そんな目を以てしても、何だか衝撃だった。変わってしまったんだ、そう強く感じた。
それが自分にとって都合の悪いことなんだと思っていそうで、僕はまだ友人のことを、自分を喜ばす道具のように思っているのかもしれない、そう危機感を抱いた。
大体がして、僕がその人に拘るのは何故か?
昔から僕の書いたものを読んでくれて、絵におこしてくれたりしたことが嬉しかったから、それを手放したくないと思ってしまったのだろう。
だけど、それって今の友人には何の足しにもならないんだよな。というか、本来はそういう利己的な部分を除いて付き合いたくなるのが、本当の友人ってやつだよな。
と考えれば、その人は僕が例え書いていなかったとしても話を続けてくれただろうから、友人であると言える。
一方、僕はその人が描いてもくれず、読んでもくれないと解ったら、そこで関係を切ろうとするだろうか?
答えは現状にある。切っていない。
その人にまた読んでほしいとか、描いてほしいって思うことはあるけど、そうできるだけの精神的な余裕や時間はあまり無いと知っている。
創作が魂の往く運命だという部類の人間ならともかく、そうじゃない人は余裕が無ければできない。誰かの何かを受け入れるなんて、できやしないんだ。
家庭や仕事を差し置いてでも時間を費やそうという酔狂な人間は、僕が思っていた以上に少ないのだな。
当たり前だ、皆にそれぞれの人生があり、環境があるのだから。限られた時間で、自分の為になることをするのが、人間の責務の一つなんだ。
そうして理解を示しながら、僕もまた時間を掛けて、人間のことを知っていく。
その人と再び連絡を取った時は「また読んでほしい」という気持ちが強かったが、二年が経った今は「そんな余裕無いもんね」と電話を掛けるだけに留まる。
もっと話したいことがあったように思うけど、その人の置かれた環境を知る度に配慮せねばと気を遣う。ここが自分の長所だと、いつも思うようにしている。
人間の抱えられる荷物の質と量は決まっている。何年も前から、自分に言い聞かせていることだ。
そこからあぶれた自分を嘆くことが多かったけど、今はもう少し違う視点を設けている。
僕が望んだ形や思い込みを一旦置いて、相手なりに示しているであろう親愛を受け取る。それはきつい言い方の中に含まれる親切であったり、言葉にはしないけど態度には出ていることであったり、人間の性質次第だ。
そして、僕はそれを受け取ることができて、理解することができる。それだけの力があると信じる。
だったら、自分の中の合格点ではなくて、相手なりの誠意や親愛の情を知るべきだ。思い込みは一番の敵となる。
そうやって何度も自分に言い聞かせて、漠然とした幻の不安を払って、またその人に声を掛ける。
長い人生の中で全く変化が無いって人は殆ど居なくて、誰もが何かしらの変化に見舞われる。
その過程で保ちたい自己を保てる人はよっぽど少ない。多くの人はきっとその変化に対応するため、自分を作り変えていく。
それが先述の「昔のが良かった」とか「今のがいい」に繋がるんだけど、自分だって変わるんだからそりゃあ齟齬くらい生まれる。
尤も、僕の場合は根っこが全く変わっていなくて、外側に近い部分が崩壊し、再生し、また崩壊し、再生し直したばかりだ。その経験が僕をよりよい方へと導いているという手応えはある。
そうやって成長した今の僕とあまり付き合いたくないって人は、そんな居ないんじゃないかな。こんな大それたことも言えるほど、自分の誠実さと義理固さに自信があった。
大きく出たな~と自嘲したい気持ちもあるけど、これぐらいのことを言わないと、自分に刻めない。弱気なままでは、また三年間の地獄に戻ってしまう。もう戻らない。
僕はきっとこうして生きていくしかない。周りのように変化を許容し、取捨選択を冷酷にできた方が生きやすいだろうけど、恐らくそうなれない。
なれないなりに、何とかやっていける。それだけの自力と根が自分にはある。傷付くことの方が多くて、損しているなって思っちゃうことも多いけど。
或いは、全然気を遣えていなかったりして。
否、気を遣ってはいるけど、遣い過ぎなんだ。自分を追い詰めるほど、誰かに気を遣わなくていい。それは相手をつけあがらせる。誰のためにもならない。
たくさんのことを考えて、目が回る。脳が疲れる。けど、自分をまた知ることができたし、これはきっと創作に活かせる。
つまるところ、自分は”こういう人間”なのだと自覚する度、何とも言えない充足感と安堵感、それから少しの呆れが蘇る。
いいぞ、もっと成長しろ。そうやって魂に、精神に刻まれたものが、僕をもっと豊かな世界へと導く。書けるようになる筈だ。
希望を持てば絶望の影が濃くなるもんだが、今はそれよりも確かな手応えを現実へと写したい。
あれだけの地獄をまた潜り抜けて、情けなくとも生き残ってきたんだから、もう少しだけ天狗になってもいいだろう。
諸行無常は恐ろしいが、根っこが変わらずに成長できた僕なら理解できるようになる。
その友人との良き付き合いが長く続くことを願います。離れることがあってもまた繋がれた、今回のようにね。
まぁ繋いだのは僕だけど、そうできるようになったのも成長したからだ。それは相手には解らないことだけど、魂が知っていることだと思う。人間にはまだ早い、早いよ。
それだけの自負と余裕、どこまで続くかね。続いてほしいね。
さすがに「死ぬまで続けられるさ」とは言えないのが、現状の精一杯だ。
でもまぁ・・・・・・守護者達が笑っているから、これでいいのだろう。
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