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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 勿論、それもあるけど、見ようと思って考え続けるから見えるんだってことに気付く。
 それができるだけの力は昔からあって、ちょっとくらい軌道を間違えても、周りの人間関係によって救われて戻ってくることができる。
 僕はなんて運がいいのだろう。つくづく周りに恵まれた人生なのだと痛感することが増えてきた。

 一ヶ月以上も傷付いて考えていたのは、相手との関係性の変化だった。
 相手の環境が変わり、それに伴い考え方や振る舞い方すらも変わり、その変化に戸惑っていたけれど、少しずつ「そうだよね、そうやって変わっていかなきゃ生きていけなかったんだよね」と理解を示すことができるようになった。
 無論、相手にとってはそんな理解なんて何の役にも立たなくて、寧ろ余計なお世話だと言われそうだけど。

 相手は今後、どう変わっていくのだろうか。脆弱な自分に気付いて、過去の過ちを悔いて、そこから成長は始まると思うけれど、別に人間的な成長なんてしなくたって生きていくことは可能だから、それで満足するのかもしれない。
 人生なんて、結局は当人がどう満足できるかに懸かっている。他者を蹴落としても、慮ることができなくても、当人が「この人生は上々だ」と信じればそのように映るのだろう。当人にだけは。
 周りの人間関係は破綻するかもしれないが、昨今では友人など居なくても大丈夫だという風潮も生まれつつあるらしい。どんな言い方にせよ、自分を正当化できる術は必要だ。
 だもんで、相手もきっとそのように自分を奮い立たせながら、或いはどこかで後ろめたさを感じながら生きていくに違いない。
 それは僕が許す許さないといった範疇に無いことで、そこから弾かれるのは悲しいけど、彼女の抱えられる荷物の質と量もまた決まっているのだと、違う場所から理解を示している。
 えぇ、これもやっぱり彼女が知ったら、自分を馬鹿にされているんじゃないかって怒りそうだね。

 そんなに違う人間だとは思わない。寧ろ似通った部分が多いから、反発する時は思いっきりするのだと思う。
 その刺激が時々きつくて僕は参ってしまうけど、時間が経てばその傷を見つめられるようになり、悲しみを受け止められるようになり、どうすべきかを自分で決めることができる。
 相手がそこまでできるかは解らない。向き合う気が無いのなら、きっといつまでもそこに停滞することになるけど、それでもいいのではないか。先述の通り、人間的な成長などしなくても生きていけるから。
 というより、そういった魂を懸けて何かを為そうとする行いは、ともすれば日常を生きる力に影響することがあるから、普通は避けるのかもしれない。病んだりしたら生きていくのがしんどくてしょうがないもんね。
 成長できるようなきっかけに遭って、悩んで傷付くことに時間を割いたとしても、それが今後の人生をより充実させるなら、その方がいい。そういった損得勘定を行うことができるようになるのも、やはり経験から来るのだろうか。
 兎にも角にも僕と相手は似通った部分が多いけど、そこだけ決定的に違う。その違いを話し合うこともできないまま、十二年が流れた。もう彼女に僕の言葉は届かないだろう。

 カウンセリングで話をした時、先生からもその指摘を受けた気がする。
 相手に言われたことで僕は深く傷付き、その傷は永劫癒えることがないのだが、そこについても言及された。
 曰く、「彼女とあなたでは状況が違う。彼女はあなたを通して自分に言い聞かせている。自分で選択したかのように言っているけれど、どうしようと迷っている間に時間が過ぎて、そうせざるを得なくなっただけ。あなたは自分で選び、今もまだ苦しんでいる。彼女が言うように、けっして甘えからその選択に至ったわけではない」
 そうだったらいいけど、相手はそうは考えないだろう。そう考えることは今までの自分の行いを否定し、いろんなことを無に帰すから。その重みに耐えるような余裕は、もう彼女に生まれない。

 そうやって向き合わなかった分の歪みを僕が知って、抱えてあげる必要は無いという。
 それらは身近な人間が肩代わりする羽目になる。家族が居れば配偶者とか子どもとか。
 あぁ、そういうことかと納得がいった。僕は肩代わりする羽目になった側だから、得心がいくことばかりだ。
 僕みたいな思いを、或いはそれよりもっと酷いものを、彼女の近親者は背負うことになるのかもしれない。

 だけど、そこについて僕が心を痛める必要は無いらしい。
 思うところはいろいろあっても、やっぱり友達だから僕は相手に何かしてあげたいし、話も聞いて助言でも何でもって気があるんだが、それはきっと相手からすれば癇に障る行為に値するだろう。僕が関わるべき領域ではなかった。
 相手と話す度に僕を通して相手は自己肯定感を高めていると錯覚するほど、いろんなことをあけすけに言われてきたけど、その分の歪みを抱えるのは僕ではないのだ。
 話している相手は僕でも、僕を通して相手は自分に言い続けている。これでいいんだ、こうするしかなかったんだと。

 そんな相手を務める必要無いよねって話だと解釈しているが、それも役目ならば少しはいいかな、なんて。
 そういうところが、僕の人間に対する甘さだ。人間嫌いと称されるけど、僕は一度でも仲良くなった人間に対しては、かなり甘やかしてしまう性分らしい。
 何でそうするのかって、勿体ないからだろう。伸びしろがあるのにどうしてそのままにするのって、お節介なんだ。人間はそういうものを嫌がる。

 まるで自分が別の次元から相手を見下ろしているかのように語ってしまうが、実際そうなんじゃないかって気もしている。
 僕はもう抜けてきたところで、相手と同じ土俵に立つこともない。そこはもう通過して、そういった伸びしろのある人間が悩む様を見守る位置に就いている。
 本当にそうかどうかは解らない。やっぱ同じ穴の貉だよなって感じる時もあるし。
 相手も同じような見解を僕に抱いているとしたら、僕らは対等な友達になるところからやり直しだ。
 その重要性も解らないようなら・・・・・・うーん、現世では無理なのかもな。来世で魂を磨いてから、また会いましょう。

 自然とそう思えるようになったのは、余裕からだろうか。相手にも、いつか苦しめられた子に対しても、何の抵抗も無くそう考えられる。
 だって違うもの。僕は君らと違う。選択してきた、向き合ってきた、成長してきた。それだけの自負と矜持を以てしても、未だに君らの行いに傷付き、悲しむことがある。それは弱さかもしれない。
 さんざん感情を発散して、呪えるだけ呪った後、残ったのはこんなものばかりだ。僕は人間に甘くて、可能性をいつまでも信じている。奇跡のような面をしているが、人間にとっては重荷となるようなことを言いまくっているな。

 これが時間を掛けて見えるようになった物事だった。僕にはそれだけの目と思考能力があるんだと思うようになった。昔からそうじゃなかったっけ。
 輪廻があるなら、その先で成長した君らと会いたい。今は僕も勉強中だけど、もう少しだけ先に居る。きっと何を言っているのか解らないと思う。
 現世に居る間は仲良くしたいし、また好きなもので話せたらいいな。それができなかったとしても、もう怒ったり呆れたりしたくない。それは僕の我儘というものだ。
 人間にはそれぞれ役割があって、果たすべきことのために成長しなきゃならない。僕はそれを見守る側なんだ。僕にも役割はあるし、果たすべきことはあるんだけどね。

 変わっていくものを恐れない勇気が欲しい。
 いつもどこかで怯えている。全てをあるがまま受け止めて、流せる境地にはまだ至れない。
 けど、今はこれでいいや。やっと少しだけ楽になれた。

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