ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
幸い、僕はまだ周りの友人や近しい人の死をあまり経験していない。
親戚だったら、年齢もあってそういう別れを経験したことはあるけど、所謂、自殺という形で別れたことは無いのだ。
それはきっと幸運なことだし、できれば味わいたくない悲しみだと理解はしている。
テレビでちょっとだけ見たような芸能人が亡くなって、大騒ぎになって、それはいつも遠い世界の出来事と感じていた。
けど、今日、待合室で見たテレビに映った方は、ちょっと前に話題になった方だったので、何だか純粋に驚いてしまった。
と、同時に、思うことがある。死を選べたのは、何故なのか。
本人の苦痛は本人にしか解らないけど、死を選ぶほどの苦しみだったなら、それは誰かに預けられるものではなかったのだろうか。
誰かに預けて更に絶望したから、もう死ぬしかなって思ったのだろうか。
僕も何度も味わった辛苦だ。もう死にたい、もう死ぬしかない、もう消えたい、もう停止したいと何度も願った。
それでも生きているのは何故か。
自分の好きな人達から離れてしまうことが怖かったからだ。忘れられてしまうことも怖かった。
全て手放してしまいたいと思っているのに、今まで手に入れた喜びも悲しみも忘れてしまうのかって思ったら、とてつもなく怖くなった。
それに、死の間際に「あぁやっぱり生きていたかった」と知ってしまう瞬間が、堪らなく怖かった。
生きるのも怖いけど、死ぬのも怖いのだ。
だからどうすればいいのか解らなくて、やっぱり誰かに助けてほしいと思ってしまって、手を伸ばしたのが友人達だった。
その手を伸ばす先、一番頼り甲斐のある子に梯子を外されたから、僕は壊れてしまったわけだが。
よっぽど死んでしまいたいと思ったけど、今でもこうして生きている僕に感謝してほしい!
君を言い訳に自殺だってできたのに、祟ることだってできたのに、その道を選ばずに君を許すことにした、そんな僕を誰か褒めてほしい。
それはともかく、僕はそういうビビリなので、「死にたい」の一歩先を行った方々が不思議でならない。
怖くなかったのか、辛くなかったのか、生きることはそれより辛く怖いから、死ぬしかないと思い切ったのか、それはどんな衝動なのか。
興味本位で訊きたいだけと言われれば、そうかもしれない。だって僕には越えられない崖の向こう側だもの。
僕のように「死にたくないのに」と思ったりしたのか、教えてほしい。
テレビに映ったあの方は、自分にとても素直な方だったのかもしれない。
もう鬼籍に入った方のことだから、あれこれ言っても答えなんて解らないけど。
LGBT云々のくだりもあって、少しだけ気になっていた。
確かに自分勝手だったけど、その行動を完全に責める気にはなれなかったのだ。
していいってわけじゃない。ただ、責める気は起きなかった。
僕は身体の性の認識は変わっていないし、心の性とやらも変わってはいない。ただ、「こういう側面があるから、一概に決め付けられるものではない」という見方は強い。
それに、性別より何より僕は僕だという意識がとても強いから、他者も自分も抱えている性別なんて、さしたる問題ではないとも思う。
性別が問題になるのは、人間が「産めよ殖やせよ」という義務を持っているからじゃないか。そこには確かに男と女が必要になるから。
そうじゃない場面で、性別の括りが必要になることってあるのかな。あるかもしれない。
でも、僕が誰かを見る時、性別なんてあんまり問題ではない。そういうものの見方もあるんだってことが解って、ちょっとだけ救われた。
僕は恐らく全性愛者の傾向が強く、自分を愛してくれさえするなら、性別も種族もあまり関係ない。
肉体での関わりもやぶさかではないが、精神的な繋がりが薄いのなら、そもそんなことに意味は無い。
人間の本質から随分と逸れていることは自覚している。でも、もう無理をして自分に合わないことを続ける必要は無い。
僕も大抵、自分勝手だ。それを周りに話して、理解してもらえないとしても、知っておいてほしかった。
生きることは我儘ばかりで、その我儘で誰かを悲しませることもある。その時はとてつもなく腹立たしいが、僕は時間を掛けて許すことにする。
呪い、憎み、何もかも無くなった後の虚無で、我ながら馬鹿だとは思うけど。
この方は自分で自分のことを許していたのだろうか。それとも、罰したい気持ちが強かったのだろうか。
衝動的なものが多分にありそうだから、どの原因が理由でって断定は難しそう。
いきなり死にたくなって、目の前に道具があったら、魔が差す人だって居るだろう。そういう状況だったかもしれない。
なんにせよ、静かに眠ってほしい。でも、自分が遺したものを見守ることだけはやめないでほしい。
最低限の責任も負えなければ、自分らしさなんてただの絵空事になってしまうもの。
どうやって向こう側へ渡るのだろう。僕もいつか渡れる時が来るのだろうか。
それまでに幾つのものを許して、幾つのものを憎むのだろうか。
もうすぐ誰かに会える、或いは再会できるという予感を抱いて、ただ静かに時を待つ。
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たぶんそう。どうしてこんなに辛い苦しい嫌だと感じる瞬間が多いのか、ずっと考えていた。
一つは記憶に強烈に刻まれた出来事の数々が蘇ってくるからなんだろうけど、自分でそれを巻き戻して再生して、また巻き戻して、その意味も解らなくなるほど繰り返してしまっているってのもあると思った。
自分を苦しめるのはいつだって自分だ。
もう飽きた。誰かの接待をするのも、話を合わせるのも、自分の話ができないのも、気を遣うのも、選ばれないことも、忘れられていくことも、気にしてもらえないことも、一人で悲しみ続けることも、たくさんの言葉と思考を当てにすることも、飽きた。
でもまだ続く。続けてしまう。こんなもん続けて何になる。
今年の始めは自分の内側を見つめ直して、あんなにもたくさん書きまくったというのにな。あの時みたいに夢中になりたい。
苦しいのも辛いのも、原因は別個にあるけど、ずっと続いているのは自分の所為だ。
切り離せない、忘れられない、忘れたら僕も忘れられてしまう、無かったことにされてしまう、どうにもそれが辛いからまだ抱えている。相手はとっくに下ろして楽になった荷物を、いつまでも。
それが自分の幸福なのかと言ったらそうではない。
なれば幸福の為に捨てよと言われても、どうしてもそれが正しいことに思えない。そうやって自分に都合の悪いものを捨ててばかりいるから、あの子みたいに大事な時に誰かを切り捨てるしかなくなる。傷付けるしかなくなる。
僕はそっち側になんてなりたくない。捨てられたくないし、忘れられたくない。さんざん偉そうな物言いで矯正してきた相手を、自分の幸せの為に切り離すことは、誰もが称賛する正道なのか?
僕にはずっと解らない。だから抱えたまま、苦しいまま。それで辛くなるのは当たり前なんだ。
じゃあ解放されればいいのかって言うと、解放されたらもっと苦しくなる。忘れられる。あの子と同じことをして、自分が楽になる為に大事にしたかったものを切り捨てて、そうまでして生きる先に何があるんだ。
それとも、生きる為には、人間の本分を全うする為には、必要な作業なのか?
僕はそも人間として生きる気が無いから、できない? やらない? 出来損ないのままで、やっぱりこいつを捨てたのは正解だと言われ続けるのか?
苦しみも辛さもいつかは終わると思っていた。その為にいろんなことしてきたつもりだ。
自ら切った縁を繋ぎに行ったり、新しい縁を繋いでみたり、普段していなかったことをするようになったり、起きたことを見つめて文字におこしてみたり。
変わってきたって思える部分はあるけど、根本の辛さがまだ癒えない。こんな短時間じゃ癒えないもんかな。
何をしても無意味とは思わないけど、気が付けば魂が悲しい方へ引っ張られる。もうやめてほしい。僕だって苦しんでいるのに、誰がこんなにも引っ張るんだ。自分自身か。
それもこれも習慣だと、どこぞで話を聞いた。最初に正社員で入った会社だったか。
部長職を引退して嘱託となっていた方が、「人間は習慣の生き物だから、辛いと思う癖があれば辛いままだし、楽しいと思う癖をつければ楽しくなる」ということを言っていた。
原因があるから辛いし苦しいんじゃないかって思っていたけど、現状の自分を見たら認めざるを得ない。
思い出して辛くなるのも、一つの事実に対して抱いた感情が鮮烈で、結びついてしまったからだ。だから思い出すと自動的に悲しくなったり、辛くなったりする。
それを終わりにしたい。死にたいのか。息の根を止めれば終わるか。終わらないような。
こういう時ほど誰かと話したい。でも、聞いてもらえない。みんながみんな、自分の辛苦を抱えて生きているし、話を聞いてほしいと思っているから。
たかだかゲーム一つと言われようとも、僕にとっては辛かった。そこから引き摺られて、自分が壊れる原因となった出来事も思い出した。
きっと今日もみんな、何も気にせず人生を謳歌していることだろう。僕だけが日陰で苦しみながら一人で泣いて、どうにもできない自分を生かすか殺すか考え続けている。
そういう状態からもう脱したと思っていた。解放されるのはもうすぐだと思っていた。
なのに滑り落ちた先がこんなにも深い。苦しくて、息ができない。書いても、描いても、ゲームをしても、自分の不出来さが見えてきて嫌になる。
その不出来さを嘆いているうちに、壊れた自分の傷痕や血の生温かさが見えてくる。そういえば僕は欠陥品だったなって思い出して、それをどうにか否定したくて、誰かと話したくなる。
でも、それは甘えなんだ。もう一人で立てるようにならないといけない。それができないまま、この先を生きていくなんて難しいんじゃないのか。
この歳になってもまだ感じる。何をしてきたんだろう。
息ができない。唯一無二にこのままいけば逢えると思っていたけど、このままじゃ無理だ。
もっと成長しないといけない。けど、どうやって?
というか、まだ苦しむのか。まだ辛いままなのか。いつになったら終わるんだ。
先月は身体が辛くなり、去年は心が壊れた。次に何が壊れるの、失うの。
もうやめてほしいって何度言えば解る。僕が幸せを幸せと感じることはもうできない。
先週はまだ気分を保てていた筈なんだ。なのに、またこんな所に堕ちている。
繰り返して、繰り返して、溜まったものが爆発して、少ししたらまた溜め始めて・・・・・・進歩が無い。
誰か導いてほしい。一人で歩くのは疲れた。何もできない自分に疲れた。
許したい。何もできない自分を、あの子を、許したい。楽になりたい。許さなきゃ始まらないんだってことも解っている。
無駄なこと言うけど、一緒に水族館に行けて、遊べて、何でも話ができて、静かな時間を生み出せて、言わずとも理解し合えるような、そんな唯一無二の関係が欲しい。
あの子と話ができるその時は、僕はもっと落ち着いた人格になっていたい。あの子と以前のままじゃなく、もっと進んだ関係へと成長したいのだ。
それらを可能にできるか否かは、僕の今の忍耐力次第。でも、もう心身の感覚が吹っ飛んでいきそうだよ。頑張るのはもう嫌だ。
そうやって卑屈になって、いじけて、子どもみたいに泣きたい自分を、僕は許す。
また頑張りたくなったらやればいいさ。僕は僕の為に生きているんだから。
また交わる道の先を描く為に、どんな気持ちも無駄にしなきゃいいさ。
とりあえず周りの友人に感謝して、自分にも感謝したい。生きてて良かった、それだけ。
入院五日目
晴れて退院となった日、天気まで晴天となった。ちょっと嬉しい気もする。
回診の時にまた傷を診てもらい、再発のリスクなどを考慮して栄養相談を受けることにしていた。
お昼を食べてから退院することにしていたので、それまでは通常通りの過ごし方をするしかない。
通常の入院の場合、たぶん皆、あれこれ準備して、退院の日のための服も用意しているのだろう。
わたしは緊急手術で、そのまま入院という流れだったから、寝間着ひとつでやってきた。その寝間着も家族に返していたので、着られる服が何も手元に無い。
なので、まだレンタルの甚平を着ていて、家族が迎えに来るのを待っていた。
朝食も昼食も食べたけど、結局、一度も完食できなかった。量が多過ぎるのではなく、きっと自分が警戒して食べきれなかっただけだと思うが。
その間もほうじ茶だけは飲み続け、ペットボトルでも買ってきて、咳対策として置いておいた。
あたたかいものを飲もうが、のど飴を舐めようが、もう容赦なく咳は出てきていた。うんざりだ。
昼過ぎ、栄養相談開始ギリギリの時間に家族が来て、指導を受けた。
食べるならこれがオススメ、この辺は量を調節しましょうなど、プリントを貰ってきた。
意外だったのが、こんにゃくとかしらたき、わかめなど、一般的にお腹に良いとされているものが、量を考えて食べる枠に入っていたところ。
特に何の問題も抱えていない方が食べる分には食物繊維たっぷりなものが良いとされるが、わたしのようにちょっと癖のある人間には逆に負担になるので、ちょっとずつが良いのだという。
わたしはこんにゃくも、しらたきも、わかめも好きだった。なので、制限されるとなると悲しかったが、けして「食べてはいけない」というわけではなかった。
それは今まで食べていた料理も同様。カレーとかラーメンとかチョコとか。
三食きちんと、同じくらいの時間に食べること。よく噛んで時間を掛けて食べること。この辺を念押しされたので、肝に銘じた。
栄養相談が終わってから着替えを受け取り、ささっと着替えて、病院を後にした。
今は患者の照合と管理をリストバンドにつけたQRコードでやっているらしく、それを切らないと病院から出られないらしい。
お世話になった看護師に切っていただいて、外に出て、初めて自分が世話になった病院の全景を見た。大きな病院だ。
のそのそ歩いて、車に乗って、家まで帰ってきた。
自分の知っている場所まで来ると安心してきて、傷のことが頭から半分抜けていくようだった。
確かに退院はできるものなら早くした方がいい。多少痛くても、辛くても、日常に戻ればどうにかしようと人の意識は動く。自分の回復力を信じて然るべき場所に居た方が、よっぽど健康的なのだろう。
すぐにでも風呂に入りたかったが、先に荷物を整理して、家族が畳んでいなかった洗濯物を畳んだ。
買い物にもまだ行っていないと言うので、買い物リストを掲げて行ってもらうことにした。
その間、風呂に入って、傷口も汗も綺麗に流した。五日ぶりの風呂はとても気持ちがいい。
傷口を覆っていたテープのようなものは大方、病院に居た時に剥がしてもらったが、見た目は心許なさそうなテープだけは剥がさずにおいた。
曰く、人工のかさぶたのようなもので、シャワーを浴びていて取れかけてきたら取っていいもの、らしい。自分で剥がすな、ということである。
そのテープがあるので、三十八度の湯をしょろしょろ出して、なるべく綺麗になるように流すだけ。清潔なタオルでぽんぽんと軽く拭いて、剥がれそうになったものだけ剥がした。
いろんな管を留めていたテープ跡もなるべく洗って流したけど、この糊もなかなか強い。
別箇所にも水ぶくれができているのを見つけて、以前、皮膚科で貰った軟膏を塗った。
血管が見えにくい所為でぷすぷす刺された注射痕も、やっと気にならなくなってきた。ただ、中で血が出てしまったものは未だ皮膚を青くしているので、そこだけ見た目が悪い。
風呂から上がって、いつもの過ごし方だとどう傷が痛むのか、どう動けば負担が少ないかをいろいろ試した。
わたしは座って作業をすることが多いし、つい夢中になって一時間以上その体勢でいることも珍しくないので、適度に気にして立ち上がったりしなければならない。
でもまぁ、そこはこうなる前も意識して気を付けていたところだから、継続していった方がいいっていうだけか。
今回、基礎体力を落としたくないと思って歩き続けていたのが功を奏したという実感が強く、自分のやってきたことは間違っていなかったと誇らしく思えた。
昔から考えを整理するのによく歩いていて、その癖は今も続いている。何も無くてもとりあえず外に出て、好きな音楽を聴きながら三十分ないし一時間歩く。目的地から家に帰るまでの距離が解っていれば、二時間歩くのだって苦ではない。
そのお蔭で「体力を落としたくない」と思えて、すぐベッドから出たし、多少痛くてもリハビリを続けられた。
身体の一部に問題があって動きづらい時、他の部位で支えながら立ち上がる、歩く、何かするという動作も、難なくできたのは、このお蔭ではないだろうか。
と言って、わたしは運動がとくべつ好きというわけではない。
身体を健康的に保つなら他のスポーツをやった方がいいだろうし、もっと強靭な肉体を持っている人はごまんと居る。
ただ自分のレベルでいったら、ただの肥満体ではなかったということが嬉しかった。
歩くのが好きで良かったし、歳を取ってからの重要性も理解できるだけの頭があって良かったと心底思った。
次の通院日まではとりあえず、仕事は休んでいる。
友人らとゲームもしたいが、姿勢が固定されるので、ちょっと考えなければならない。
傷が癒えるのにどれほどの時間が掛かるのか解らないけど、一ヶ月経つだけでも、全然違ってくるのだろうか。
たくさん食べて寝ていたら、こんな身体でも傷を早く治すことができるのだろうか。
家に帰ってからも、粥、味噌汁か春雨スープ、湯豆腐という組み合わせで三食を食べている。
その時はお腹が満たされたと思って切り上げるのだが、家に居る所為か、病院の時よりも腹が減るのが早くなってきた。それでも量を増やすのは少し怖い。
行きつけの病院で、胃酸を抑える薬を貰えば楽になるだろうか。空腹感よりも、空腹時に胃を傷付ける胃酸の、あのしくしくした痛みが辛いのだ。
わたしはまだそんなに食べたくないのに、胃は食べ物を欲している。やっぱり手術した後でも、わたしの身体はわたしの精神の思い通りにはならない。
これからどんどんそうなっていくのだろう。特に、わたしのように精神に負担を抱き易い者は、その負担が肉体にまで及んで、嫌な結果をもたらす筈だ。
なれば、食生活だけでなく、自分の在り方そのものを見直す必要がありそうだが、わたしはどうにもそれが苦手だった。
支えがあれば、自分の存在に自信を見出すことができれば、許すことができれば、違ったのだろうか。
何でもあの一件に結び付けるのは違う、解っている。だが、きっかけはあそこからだ。
精神的に崩壊して、それでもなけなしの感情で生きて、時々どうにも抑えられなくて、自分の肉体を痛めつけた結果がこれだもの。
二年近く続く喪失の痛みに、身体が追い付いたようだ。
これでも、今年に入ってからは書き続けて、幸せで、何某かの答えを得たと思ったのに。
そういえば、今年が本厄だった。前厄で精神を抉り、本厄で身体を苛み、後厄で何をするつもりだろう。それは誰の意思だろう。
偶然を当て嵌めて、詮無いことを思う。ただの自業自得、それも解っている。
できればもう再発してほしくない。先生は「長年かけて少しずつ捻れたのかねぇ」なんて言っていたけど、結構、瞬間的に捻れたんじゃないかって思っている。
ただ、今まで何度もあの激痛はあったけど、五、六時間を耐えれば治まることが殆どだった。
曰く、「腸は動き続けているので、耐えているうちに捻れが解消されたという可能性もある」らしいので、今後も自力で捻れが治ることもあるかもしれない。今回のように二回りもしていたら無理だろうけど。
怯えていても仕方ない。耐用年数を過ぎたであろうこの肉体で生きるしかない。もし、生きる気があるなら。
余談だが、家族が会社でこの話をしたところ、どなたかが「二回り捻れていたって、なんかダブルアクセルをキメましたって感じですね」と言ったのだとか。
うーん、うまい。
晴れて退院となった日、天気まで晴天となった。ちょっと嬉しい気もする。
回診の時にまた傷を診てもらい、再発のリスクなどを考慮して栄養相談を受けることにしていた。
お昼を食べてから退院することにしていたので、それまでは通常通りの過ごし方をするしかない。
通常の入院の場合、たぶん皆、あれこれ準備して、退院の日のための服も用意しているのだろう。
わたしは緊急手術で、そのまま入院という流れだったから、寝間着ひとつでやってきた。その寝間着も家族に返していたので、着られる服が何も手元に無い。
なので、まだレンタルの甚平を着ていて、家族が迎えに来るのを待っていた。
朝食も昼食も食べたけど、結局、一度も完食できなかった。量が多過ぎるのではなく、きっと自分が警戒して食べきれなかっただけだと思うが。
その間もほうじ茶だけは飲み続け、ペットボトルでも買ってきて、咳対策として置いておいた。
あたたかいものを飲もうが、のど飴を舐めようが、もう容赦なく咳は出てきていた。うんざりだ。
昼過ぎ、栄養相談開始ギリギリの時間に家族が来て、指導を受けた。
食べるならこれがオススメ、この辺は量を調節しましょうなど、プリントを貰ってきた。
意外だったのが、こんにゃくとかしらたき、わかめなど、一般的にお腹に良いとされているものが、量を考えて食べる枠に入っていたところ。
特に何の問題も抱えていない方が食べる分には食物繊維たっぷりなものが良いとされるが、わたしのようにちょっと癖のある人間には逆に負担になるので、ちょっとずつが良いのだという。
わたしはこんにゃくも、しらたきも、わかめも好きだった。なので、制限されるとなると悲しかったが、けして「食べてはいけない」というわけではなかった。
それは今まで食べていた料理も同様。カレーとかラーメンとかチョコとか。
三食きちんと、同じくらいの時間に食べること。よく噛んで時間を掛けて食べること。この辺を念押しされたので、肝に銘じた。
栄養相談が終わってから着替えを受け取り、ささっと着替えて、病院を後にした。
今は患者の照合と管理をリストバンドにつけたQRコードでやっているらしく、それを切らないと病院から出られないらしい。
お世話になった看護師に切っていただいて、外に出て、初めて自分が世話になった病院の全景を見た。大きな病院だ。
のそのそ歩いて、車に乗って、家まで帰ってきた。
自分の知っている場所まで来ると安心してきて、傷のことが頭から半分抜けていくようだった。
確かに退院はできるものなら早くした方がいい。多少痛くても、辛くても、日常に戻ればどうにかしようと人の意識は動く。自分の回復力を信じて然るべき場所に居た方が、よっぽど健康的なのだろう。
すぐにでも風呂に入りたかったが、先に荷物を整理して、家族が畳んでいなかった洗濯物を畳んだ。
買い物にもまだ行っていないと言うので、買い物リストを掲げて行ってもらうことにした。
その間、風呂に入って、傷口も汗も綺麗に流した。五日ぶりの風呂はとても気持ちがいい。
傷口を覆っていたテープのようなものは大方、病院に居た時に剥がしてもらったが、見た目は心許なさそうなテープだけは剥がさずにおいた。
曰く、人工のかさぶたのようなもので、シャワーを浴びていて取れかけてきたら取っていいもの、らしい。自分で剥がすな、ということである。
そのテープがあるので、三十八度の湯をしょろしょろ出して、なるべく綺麗になるように流すだけ。清潔なタオルでぽんぽんと軽く拭いて、剥がれそうになったものだけ剥がした。
いろんな管を留めていたテープ跡もなるべく洗って流したけど、この糊もなかなか強い。
別箇所にも水ぶくれができているのを見つけて、以前、皮膚科で貰った軟膏を塗った。
血管が見えにくい所為でぷすぷす刺された注射痕も、やっと気にならなくなってきた。ただ、中で血が出てしまったものは未だ皮膚を青くしているので、そこだけ見た目が悪い。
風呂から上がって、いつもの過ごし方だとどう傷が痛むのか、どう動けば負担が少ないかをいろいろ試した。
わたしは座って作業をすることが多いし、つい夢中になって一時間以上その体勢でいることも珍しくないので、適度に気にして立ち上がったりしなければならない。
でもまぁ、そこはこうなる前も意識して気を付けていたところだから、継続していった方がいいっていうだけか。
今回、基礎体力を落としたくないと思って歩き続けていたのが功を奏したという実感が強く、自分のやってきたことは間違っていなかったと誇らしく思えた。
昔から考えを整理するのによく歩いていて、その癖は今も続いている。何も無くてもとりあえず外に出て、好きな音楽を聴きながら三十分ないし一時間歩く。目的地から家に帰るまでの距離が解っていれば、二時間歩くのだって苦ではない。
そのお蔭で「体力を落としたくない」と思えて、すぐベッドから出たし、多少痛くてもリハビリを続けられた。
身体の一部に問題があって動きづらい時、他の部位で支えながら立ち上がる、歩く、何かするという動作も、難なくできたのは、このお蔭ではないだろうか。
と言って、わたしは運動がとくべつ好きというわけではない。
身体を健康的に保つなら他のスポーツをやった方がいいだろうし、もっと強靭な肉体を持っている人はごまんと居る。
ただ自分のレベルでいったら、ただの肥満体ではなかったということが嬉しかった。
歩くのが好きで良かったし、歳を取ってからの重要性も理解できるだけの頭があって良かったと心底思った。
次の通院日まではとりあえず、仕事は休んでいる。
友人らとゲームもしたいが、姿勢が固定されるので、ちょっと考えなければならない。
傷が癒えるのにどれほどの時間が掛かるのか解らないけど、一ヶ月経つだけでも、全然違ってくるのだろうか。
たくさん食べて寝ていたら、こんな身体でも傷を早く治すことができるのだろうか。
家に帰ってからも、粥、味噌汁か春雨スープ、湯豆腐という組み合わせで三食を食べている。
その時はお腹が満たされたと思って切り上げるのだが、家に居る所為か、病院の時よりも腹が減るのが早くなってきた。それでも量を増やすのは少し怖い。
行きつけの病院で、胃酸を抑える薬を貰えば楽になるだろうか。空腹感よりも、空腹時に胃を傷付ける胃酸の、あのしくしくした痛みが辛いのだ。
わたしはまだそんなに食べたくないのに、胃は食べ物を欲している。やっぱり手術した後でも、わたしの身体はわたしの精神の思い通りにはならない。
これからどんどんそうなっていくのだろう。特に、わたしのように精神に負担を抱き易い者は、その負担が肉体にまで及んで、嫌な結果をもたらす筈だ。
なれば、食生活だけでなく、自分の在り方そのものを見直す必要がありそうだが、わたしはどうにもそれが苦手だった。
支えがあれば、自分の存在に自信を見出すことができれば、許すことができれば、違ったのだろうか。
何でもあの一件に結び付けるのは違う、解っている。だが、きっかけはあそこからだ。
精神的に崩壊して、それでもなけなしの感情で生きて、時々どうにも抑えられなくて、自分の肉体を痛めつけた結果がこれだもの。
二年近く続く喪失の痛みに、身体が追い付いたようだ。
これでも、今年に入ってからは書き続けて、幸せで、何某かの答えを得たと思ったのに。
そういえば、今年が本厄だった。前厄で精神を抉り、本厄で身体を苛み、後厄で何をするつもりだろう。それは誰の意思だろう。
偶然を当て嵌めて、詮無いことを思う。ただの自業自得、それも解っている。
できればもう再発してほしくない。先生は「長年かけて少しずつ捻れたのかねぇ」なんて言っていたけど、結構、瞬間的に捻れたんじゃないかって思っている。
ただ、今まで何度もあの激痛はあったけど、五、六時間を耐えれば治まることが殆どだった。
曰く、「腸は動き続けているので、耐えているうちに捻れが解消されたという可能性もある」らしいので、今後も自力で捻れが治ることもあるかもしれない。今回のように二回りもしていたら無理だろうけど。
怯えていても仕方ない。耐用年数を過ぎたであろうこの肉体で生きるしかない。もし、生きる気があるなら。
余談だが、家族が会社でこの話をしたところ、どなたかが「二回り捻れていたって、なんかダブルアクセルをキメましたって感じですね」と言ったのだとか。
うーん、うまい。
入院三日目
気持ち悪さがすっかり無くなって元気になったわたしは、昨日の分も歩きたいと思って、看護師に頼んでみた。
看護師は快く許してくれて、なんなら一人で歩いてもいいと言われた。後ろからちゃんと見守っているので、ゆっくり歩いてください、と。
意気揚々とわたしは歩き回り、院内をまた観察した。部屋は幾つぐらいなのか、ここはどの辺りにあるのか、窓の外の景色がどんなものか、ラウンジの自販機には何が売っているのか。
ウォーキング・ハイとでも言おうか、歩けることが嬉しくて、ずっと歩いていたような気がする。
三日目になって、漸く着替えをすることができた。着替えとタオルはレンタルにしていて、身体さえ自由に動かせるなら着替えたかったのだが、まだ億劫だった。
浴衣から甚平に着替えさせてもらった。本当はタオルを水で濡らして身体を拭くくらいしたかったのだけど、下半身はまだ感覚が薄く、大人用おむつを穿いていて、おまけに尿に管を通しているから上手く座れず、できなかった。
お風呂に入りたい、髪を洗いたいと思いながら、荷物に入れてもらっていたボディペーパーで軽く上半身を拭いた。
金曜の激痛時、脂汗が凄かったのを思い出す。早くさっぱりしたい。
それと、諸々の管とは別に胸の辺りについていた、何かの機械に伸びたパッチ等も外してもらえた。あれは何だろう、心電図? 他のもの?
パッチが外れないようにと付けられていた時の糊が超強力だったのか、剥がした痕がかぶれて、小さな水ぶくれまでできていた。これがまたとても痛い、痒い。
不衛生な手で触れてはならないと思ったが、周辺の皮膚は痒くなる。自分の肌が弱いのは解っていたが、こんなこともあるものだと呆れてしまった。
午後になるにつれ、咳が出るようになってきた。三日目でやっと咳払いせずに声を出せるようになったと思ったら、今度は咳だ。嫌になった。
これも挿管の影響と思われると話をされたが、個人的に先週の風邪の所為もあるのかもしれないと考えた。市販の薬で一旦治ったと思ったけど、治ってなくて再発したとか?
咳をすると傷が痛んだ。普段のじわじわした痛みより、何度か続く咳でもたさられる痛みの方がずっと嫌だった。
売店でのど飴を買ってきてもらい、荷物に入っていた龍角散を舐め、水のペットボトルを常備し、嘔吐した時用の器にうがいするなど、何とか咳を治めようとした。
けど、こういうものって意識すればするほど出てくるし、治まらない。
夜中もきっと出てくるだろうから、それが一番嫌だ。同室の人達の眠りを妨げたくない。
咳止めが欲しいと頼んだが、薬で止めるようなものではないのだと断られてしまった。
何でも薬で解決するのは良くないのかもしれないが、傷が痛むし、人に迷惑だって掛けてしまうのだから、どうにかしたい。
いっそ眠れないなら夜に院内を歩き回ってみるのもいいや、不貞腐れてそんなことも考えた。
昼食辺りから、流動食ではなくソフト食というものに切り替わった。腸の動きが正常なら、少しずつ段階を上げて食べられるようにしていき、点滴を外せるようにしようということだった。
二口、三口、よく噛んで、呑み込んで、少し休んで、また箸を進めるというやり方で食べたけど、量はやっぱり入らなかった。ほうじ茶だけは相変わらずよく飲んだ。
咳が出るから、もっと食べるのは遅くなった。恨めしい。
痛み止めを点滴にて貰っていたのを、錠剤にしようかという話になった。貰えるのは食事の時で、食後三十分の間隔を空けて服用するのがいいらしい。
三十分はその場で待って、薬をのみ、それからまた歩きに出た。病室で、ベッドで横たわるのはもう飽きていた。どうせ夜だって眠れないで、横たわるだけになるのだし。
前後していまいち憶えていないが、眠れないのは辛いと思い、入眠剤を貰えないかと看護師に願い出た。
わたしが持ってきたものはまだ出せないが、同じような作用の薬は出せるから、それでやってみてくれないかと言われて、大人しく引き下がった。
本当は服用し慣れたものでないと眠れないのでは、と思ったのだけど、嫌がったところで出せないものは出せないのだろうから、しょうがない。
夕方頃、家族と久しぶりに会って、どんな状況かを話した。
わたしは特に聞いていなかった手術内容も、家族から少し聞けた。
二回りも捻れていた小腸を戻し、虫垂を切除したらしく、盲腸の心配は無くなったよと言われた。現場の先生の判断は恐ろしく早いものだ。
どうやら腸の捻転を起こす人が虫垂炎を起こしてしまうと、手術がとても大変らしい。それで先んじて切除したということなので、感謝しか無い。リスクは避けるに限る。
「意外と元気そうで良かった」と言われた。そういえば、わたしはわりと元気かもしれない。
精神的な動揺を抱えた時の方がよっぽど生きづらいから、肉体的なしんどさなんてそこまで――いや、苦痛は苦痛なんだが。どっちがより辛いのかと言ったら、精神の痛みの方がよっぽど辛い。
去年のあの狂いようを思えば、激しい腹痛と一連の流れも辛かったけど意識を手放すほどのことではなかった。それだけだった。
のど飴をひたすら舐め、水分を摂り、まだ来ないお通じを気にしながら、また夜を迎えた。
食事をちゃんと摂らないと、この右手の甲から針が抜けないのだと叱咤して、頑張って食べた。それでも完食はできず、四割食べられたかなって程度だった。
あたたかいものを飲むと喉のイガイガが治まる、と聞いた気がするのだけど、そんな気配は今のところない。
結局、このまま寝ることになるのだから、できるだけ対策しようと思って、スマホでいろいろ調べた。
咳を止められるツボだとか、濡れマスクだとか、いろいろ方法はあるものだ。少し救われた気分になった。
ただこの”ツボ押し”だけは玄人でもない自分では上手くいかず、押しても結局出るものは出た。
濡れマスクを作ろうとしたら、手元にあるのが不織布マスクだったので、水を弾いてなかなか濡らしれきなかった。大体三十分くらいで乾いてしまうので、院内も乾燥しているのだろう。
しかし、できる限りの対策をして、眠るしかない。一番傷を治せる時間はここの筈。
貰った入眠剤はあまり効かなかった。ちょっと眠った気がするけど、本当にちょっと。
目が覚めて、さっきからどれだけ時間経ったっけと思ってスマホを見たら、二時間しか流れていなくて絶望した。まだ朝には全然遠い。
濡れマスクをして横を向き、どうせ起きているならとのど飴をまた舐めて、影絵で遊んだ。
小窓の方は歩いてきた時にカーテンを開けておいたので、ごく狭い範囲で空が見えた。曇っているのか、星は見えない。
転寝して、咳で起きて、飴を舐めて、寝た気がして、再び咳で起きる。不毛なことを繰り返しているうちに、朝がやっと来た。
入院四日目
咳に苛々しながら起きて、何とか朝食もいただいて、回診の時に先生に説明をされた。
手術は成功しているし、今のところ安定しているけど、結局どうして二回りもしたのか、その原因は解らない。だから、再発する可能性は充分にある。
再発したらまた来てください~なんて言われたが、次はきっと開腹手術になるのだろう。今回は違うようだ。
まだ自分の傷を目視していないわたしは、腹を開けた後の痛みを思って戦々恐々としていた。
再発する可能性がある、それはそうだと思う。今までがそうだったから。
胃腸炎かなと勝手に思っていたあの痛みは、小腸が捻転を起こしたことによる痛みだったとすると、かなり長い間、その痛みとお付き合いしてきたことになる。
初めて味わったのは高校生ぐらいの時で、年齢が上がるにつれ、段々とその機会は増えてきた。
頻度が上がれば統計みたいなものも取りやすくなって、全て自己診断だけど、大抵はストレスが極限まで溜まった時、ちょっと食べ過ぎたり、寒過ぎたりしたことがキッカケで起きていた。だからこそ、ストレス性の胃腸炎なんだなぁ、痛いなぁと思っていたわけだが。
まるで腹を雑巾絞りの如く捻じられているように痛い、と表現したことを思い出した。本当に捻れていた。そりゃあ痛い。
再発するかもという話を聞いたことで、ちょっと怖気づいていた。
あの痛みには慣れていたけど、手術後の不便さや傷の痛みにひぃひぃいっている今、これ以上の痛みに見舞われるのは勘弁してほしいという心境だった。ちょっと怖がる部分がズレている。
でも、未来に本当に起きるかどうか解らない物事を恐れていても仕方ない。不確定要素ということでいえば、小腸の軸捻転だけでなく、他の病気や外傷にしたって同じことなのだ。
あんまり不安になっても胃腸はすぐに反応するし、その時はその時だと思うことにした。身体についての不安や恐れは比較的、払拭するのが早い気もする。
この日、背中の強い薬と、尿の管と、点滴が外れた。「明日には退院しましょうか」とも言われて、こんなさくさくでいいのかとも思った。
背中の強い薬が抜けた後、やっと腰回りに感覚が戻ってきた。尿の管も外れて、自分の意思でトイレに行けるようになると、お通じもあって、やっと安心する。お腹の中で起きていることは解らないから、こうして結果が出ないとね。
点滴が外れたのはとても嬉しかった。これでもう少し自由に動けるようになるぞ、と勢い込んで、また歩いた。ちょっと仲良くなったサポートスタッフの人に「もう外れたんですか!」と驚かれたくらいだ。
昼食はソフト食から早くも軟菜食というものになった。お粥や味噌汁がついていて、煮物とか、煮た魚とか、軟らかくしてくれたおかずを食べる。
それでも六割が限界。どうしても完食できない。休み休み食べているからか、途中で「もうお腹いっぱいだ」と思うことが多かった。たくさん食べてまた痛むのが怖いのもある。
ほうじ茶を飲みながら、これで咳が止まったらいいのなと思った。まったく止まる気配が無い。
自由に動けるようになったので、タオルを濡らして身体を拭いた。シャワーを浴びれないなら、せめてこれだけでも。
さっぱりしながら、明日で退院か~仕事いつから行けるかな~咳は止まるのかな~と、また止め処なく考えた。周りのことを気に掛けられるのはいいけど、自分のことを考えた方がいいとも思った。
歩いて、休んで、また歩いて、繰り返すうちに、どう動けば痛みが少ないのかも解るようになる。そうなると、寝転ぶのが逆に嫌になった。起き上がるのがしんどいのだ。
その動きを自分で整理しているうちに、いつかの動きに似ていることに気が付いた。初めて腰を痛めて動けなくなりかけた、あの時に似ている。
ということは、基本的な動き方は腰を痛めた時と同じようにすればいいと解って、気持ちが楽になった。経験は大事だ。
同室の人が「しんどいでしょう」と言って、のど飴をくれた。皆、手術で全身麻酔をかけられた後、同じように咳で苦しんでいるのかもしれない。
厚意に感謝し、再びのど飴を舐めていると、腹が下るような気配がした。慌ててトイレに行き、まぁ便が出たならいいかと思ったけど、何が原因か解らなくて暫し考えた。
原因なんて、のど飴くらいしか無い。のど飴の食べ過ぎで腹を下し、結果、便は出たものの、焦ることになったのだ。阿呆か。
その日の夜、遂にわたしの持ってきていた入眠剤が戻ってきた。と言っても、必要な分だけしか渡されないのだが、それでも待ちに待った瞬間である。
それでも咳は止まらないから、この入眠剤を使ってもきっと途中で起きてしまうだろうけど、まぁいいのだ。使い慣れているものが戻ってきたことで、何だか気が大きくなった。
濡れマスクを装着し、うがい用の水と器を近くにセットし、のど飴も一応セットし、枕辺に喉を潤すようの水を置いて、二十二時頃に薬を服用した。
やっぱり気が付いたら寝ていて、起きたら五時間は経っていた。途中、咳をした覚えもある――ような気がするけど、その一瞬だけ起きて、すぐにまた寝てしまったような。
記憶は曖昧であるものの、咳が出たのに無理矢理寝られたということに歓喜を覚えた。やっと寝られた。病院に来て五時間も意識が無かったのは、初めてではないか?
朝焼けが始まるか否かくらいの時間だが、寝られたことですっかり気を良くしていたわたしは、わくわくしながら窓の外を見ていた。
咳は相変わらず出るけど、気持ちが軽やかなので、そこまで苛々していなかったように感じる。
睡眠は大事だ。きっと傷の治りも良くなる。そう信じることにした。
気持ち悪さがすっかり無くなって元気になったわたしは、昨日の分も歩きたいと思って、看護師に頼んでみた。
看護師は快く許してくれて、なんなら一人で歩いてもいいと言われた。後ろからちゃんと見守っているので、ゆっくり歩いてください、と。
意気揚々とわたしは歩き回り、院内をまた観察した。部屋は幾つぐらいなのか、ここはどの辺りにあるのか、窓の外の景色がどんなものか、ラウンジの自販機には何が売っているのか。
ウォーキング・ハイとでも言おうか、歩けることが嬉しくて、ずっと歩いていたような気がする。
三日目になって、漸く着替えをすることができた。着替えとタオルはレンタルにしていて、身体さえ自由に動かせるなら着替えたかったのだが、まだ億劫だった。
浴衣から甚平に着替えさせてもらった。本当はタオルを水で濡らして身体を拭くくらいしたかったのだけど、下半身はまだ感覚が薄く、大人用おむつを穿いていて、おまけに尿に管を通しているから上手く座れず、できなかった。
お風呂に入りたい、髪を洗いたいと思いながら、荷物に入れてもらっていたボディペーパーで軽く上半身を拭いた。
金曜の激痛時、脂汗が凄かったのを思い出す。早くさっぱりしたい。
それと、諸々の管とは別に胸の辺りについていた、何かの機械に伸びたパッチ等も外してもらえた。あれは何だろう、心電図? 他のもの?
パッチが外れないようにと付けられていた時の糊が超強力だったのか、剥がした痕がかぶれて、小さな水ぶくれまでできていた。これがまたとても痛い、痒い。
不衛生な手で触れてはならないと思ったが、周辺の皮膚は痒くなる。自分の肌が弱いのは解っていたが、こんなこともあるものだと呆れてしまった。
午後になるにつれ、咳が出るようになってきた。三日目でやっと咳払いせずに声を出せるようになったと思ったら、今度は咳だ。嫌になった。
これも挿管の影響と思われると話をされたが、個人的に先週の風邪の所為もあるのかもしれないと考えた。市販の薬で一旦治ったと思ったけど、治ってなくて再発したとか?
咳をすると傷が痛んだ。普段のじわじわした痛みより、何度か続く咳でもたさられる痛みの方がずっと嫌だった。
売店でのど飴を買ってきてもらい、荷物に入っていた龍角散を舐め、水のペットボトルを常備し、嘔吐した時用の器にうがいするなど、何とか咳を治めようとした。
けど、こういうものって意識すればするほど出てくるし、治まらない。
夜中もきっと出てくるだろうから、それが一番嫌だ。同室の人達の眠りを妨げたくない。
咳止めが欲しいと頼んだが、薬で止めるようなものではないのだと断られてしまった。
何でも薬で解決するのは良くないのかもしれないが、傷が痛むし、人に迷惑だって掛けてしまうのだから、どうにかしたい。
いっそ眠れないなら夜に院内を歩き回ってみるのもいいや、不貞腐れてそんなことも考えた。
昼食辺りから、流動食ではなくソフト食というものに切り替わった。腸の動きが正常なら、少しずつ段階を上げて食べられるようにしていき、点滴を外せるようにしようということだった。
二口、三口、よく噛んで、呑み込んで、少し休んで、また箸を進めるというやり方で食べたけど、量はやっぱり入らなかった。ほうじ茶だけは相変わらずよく飲んだ。
咳が出るから、もっと食べるのは遅くなった。恨めしい。
痛み止めを点滴にて貰っていたのを、錠剤にしようかという話になった。貰えるのは食事の時で、食後三十分の間隔を空けて服用するのがいいらしい。
三十分はその場で待って、薬をのみ、それからまた歩きに出た。病室で、ベッドで横たわるのはもう飽きていた。どうせ夜だって眠れないで、横たわるだけになるのだし。
前後していまいち憶えていないが、眠れないのは辛いと思い、入眠剤を貰えないかと看護師に願い出た。
わたしが持ってきたものはまだ出せないが、同じような作用の薬は出せるから、それでやってみてくれないかと言われて、大人しく引き下がった。
本当は服用し慣れたものでないと眠れないのでは、と思ったのだけど、嫌がったところで出せないものは出せないのだろうから、しょうがない。
夕方頃、家族と久しぶりに会って、どんな状況かを話した。
わたしは特に聞いていなかった手術内容も、家族から少し聞けた。
二回りも捻れていた小腸を戻し、虫垂を切除したらしく、盲腸の心配は無くなったよと言われた。現場の先生の判断は恐ろしく早いものだ。
どうやら腸の捻転を起こす人が虫垂炎を起こしてしまうと、手術がとても大変らしい。それで先んじて切除したということなので、感謝しか無い。リスクは避けるに限る。
「意外と元気そうで良かった」と言われた。そういえば、わたしはわりと元気かもしれない。
精神的な動揺を抱えた時の方がよっぽど生きづらいから、肉体的なしんどさなんてそこまで――いや、苦痛は苦痛なんだが。どっちがより辛いのかと言ったら、精神の痛みの方がよっぽど辛い。
去年のあの狂いようを思えば、激しい腹痛と一連の流れも辛かったけど意識を手放すほどのことではなかった。それだけだった。
のど飴をひたすら舐め、水分を摂り、まだ来ないお通じを気にしながら、また夜を迎えた。
食事をちゃんと摂らないと、この右手の甲から針が抜けないのだと叱咤して、頑張って食べた。それでも完食はできず、四割食べられたかなって程度だった。
あたたかいものを飲むと喉のイガイガが治まる、と聞いた気がするのだけど、そんな気配は今のところない。
結局、このまま寝ることになるのだから、できるだけ対策しようと思って、スマホでいろいろ調べた。
咳を止められるツボだとか、濡れマスクだとか、いろいろ方法はあるものだ。少し救われた気分になった。
ただこの”ツボ押し”だけは玄人でもない自分では上手くいかず、押しても結局出るものは出た。
濡れマスクを作ろうとしたら、手元にあるのが不織布マスクだったので、水を弾いてなかなか濡らしれきなかった。大体三十分くらいで乾いてしまうので、院内も乾燥しているのだろう。
しかし、できる限りの対策をして、眠るしかない。一番傷を治せる時間はここの筈。
貰った入眠剤はあまり効かなかった。ちょっと眠った気がするけど、本当にちょっと。
目が覚めて、さっきからどれだけ時間経ったっけと思ってスマホを見たら、二時間しか流れていなくて絶望した。まだ朝には全然遠い。
濡れマスクをして横を向き、どうせ起きているならとのど飴をまた舐めて、影絵で遊んだ。
小窓の方は歩いてきた時にカーテンを開けておいたので、ごく狭い範囲で空が見えた。曇っているのか、星は見えない。
転寝して、咳で起きて、飴を舐めて、寝た気がして、再び咳で起きる。不毛なことを繰り返しているうちに、朝がやっと来た。
入院四日目
咳に苛々しながら起きて、何とか朝食もいただいて、回診の時に先生に説明をされた。
手術は成功しているし、今のところ安定しているけど、結局どうして二回りもしたのか、その原因は解らない。だから、再発する可能性は充分にある。
再発したらまた来てください~なんて言われたが、次はきっと開腹手術になるのだろう。今回は違うようだ。
まだ自分の傷を目視していないわたしは、腹を開けた後の痛みを思って戦々恐々としていた。
再発する可能性がある、それはそうだと思う。今までがそうだったから。
胃腸炎かなと勝手に思っていたあの痛みは、小腸が捻転を起こしたことによる痛みだったとすると、かなり長い間、その痛みとお付き合いしてきたことになる。
初めて味わったのは高校生ぐらいの時で、年齢が上がるにつれ、段々とその機会は増えてきた。
頻度が上がれば統計みたいなものも取りやすくなって、全て自己診断だけど、大抵はストレスが極限まで溜まった時、ちょっと食べ過ぎたり、寒過ぎたりしたことがキッカケで起きていた。だからこそ、ストレス性の胃腸炎なんだなぁ、痛いなぁと思っていたわけだが。
まるで腹を雑巾絞りの如く捻じられているように痛い、と表現したことを思い出した。本当に捻れていた。そりゃあ痛い。
再発するかもという話を聞いたことで、ちょっと怖気づいていた。
あの痛みには慣れていたけど、手術後の不便さや傷の痛みにひぃひぃいっている今、これ以上の痛みに見舞われるのは勘弁してほしいという心境だった。ちょっと怖がる部分がズレている。
でも、未来に本当に起きるかどうか解らない物事を恐れていても仕方ない。不確定要素ということでいえば、小腸の軸捻転だけでなく、他の病気や外傷にしたって同じことなのだ。
あんまり不安になっても胃腸はすぐに反応するし、その時はその時だと思うことにした。身体についての不安や恐れは比較的、払拭するのが早い気もする。
この日、背中の強い薬と、尿の管と、点滴が外れた。「明日には退院しましょうか」とも言われて、こんなさくさくでいいのかとも思った。
背中の強い薬が抜けた後、やっと腰回りに感覚が戻ってきた。尿の管も外れて、自分の意思でトイレに行けるようになると、お通じもあって、やっと安心する。お腹の中で起きていることは解らないから、こうして結果が出ないとね。
点滴が外れたのはとても嬉しかった。これでもう少し自由に動けるようになるぞ、と勢い込んで、また歩いた。ちょっと仲良くなったサポートスタッフの人に「もう外れたんですか!」と驚かれたくらいだ。
昼食はソフト食から早くも軟菜食というものになった。お粥や味噌汁がついていて、煮物とか、煮た魚とか、軟らかくしてくれたおかずを食べる。
それでも六割が限界。どうしても完食できない。休み休み食べているからか、途中で「もうお腹いっぱいだ」と思うことが多かった。たくさん食べてまた痛むのが怖いのもある。
ほうじ茶を飲みながら、これで咳が止まったらいいのなと思った。まったく止まる気配が無い。
自由に動けるようになったので、タオルを濡らして身体を拭いた。シャワーを浴びれないなら、せめてこれだけでも。
さっぱりしながら、明日で退院か~仕事いつから行けるかな~咳は止まるのかな~と、また止め処なく考えた。周りのことを気に掛けられるのはいいけど、自分のことを考えた方がいいとも思った。
歩いて、休んで、また歩いて、繰り返すうちに、どう動けば痛みが少ないのかも解るようになる。そうなると、寝転ぶのが逆に嫌になった。起き上がるのがしんどいのだ。
その動きを自分で整理しているうちに、いつかの動きに似ていることに気が付いた。初めて腰を痛めて動けなくなりかけた、あの時に似ている。
ということは、基本的な動き方は腰を痛めた時と同じようにすればいいと解って、気持ちが楽になった。経験は大事だ。
同室の人が「しんどいでしょう」と言って、のど飴をくれた。皆、手術で全身麻酔をかけられた後、同じように咳で苦しんでいるのかもしれない。
厚意に感謝し、再びのど飴を舐めていると、腹が下るような気配がした。慌ててトイレに行き、まぁ便が出たならいいかと思ったけど、何が原因か解らなくて暫し考えた。
原因なんて、のど飴くらいしか無い。のど飴の食べ過ぎで腹を下し、結果、便は出たものの、焦ることになったのだ。阿呆か。
その日の夜、遂にわたしの持ってきていた入眠剤が戻ってきた。と言っても、必要な分だけしか渡されないのだが、それでも待ちに待った瞬間である。
それでも咳は止まらないから、この入眠剤を使ってもきっと途中で起きてしまうだろうけど、まぁいいのだ。使い慣れているものが戻ってきたことで、何だか気が大きくなった。
濡れマスクを装着し、うがい用の水と器を近くにセットし、のど飴も一応セットし、枕辺に喉を潤すようの水を置いて、二十二時頃に薬を服用した。
やっぱり気が付いたら寝ていて、起きたら五時間は経っていた。途中、咳をした覚えもある――ような気がするけど、その一瞬だけ起きて、すぐにまた寝てしまったような。
記憶は曖昧であるものの、咳が出たのに無理矢理寝られたということに歓喜を覚えた。やっと寝られた。病院に来て五時間も意識が無かったのは、初めてではないか?
朝焼けが始まるか否かくらいの時間だが、寝られたことですっかり気を良くしていたわたしは、わくわくしながら窓の外を見ていた。
咳は相変わらず出るけど、気持ちが軽やかなので、そこまで苛々していなかったように感じる。
睡眠は大事だ。きっと傷の治りも良くなる。そう信じることにした。
入院一日目
病院の中は明るくて、光に溢れていると感じた。どこをどう曲がったのか、行ったのかは覚えていないが、四人の大部屋に通された。
酸素マスクはまだつけたまま、何故か足にマッサージ機を装着され、左手の針がやっと外れた。
部屋に着いた頃には意識がはっきりしてきたのだが、全身麻酔の間、酸素を送るために挿管をしていた影響で、声が上手く出せなかった。
嗄れた声で家族のことを訊いたら、一旦帰ったと聞かされた。
本当はスマホくらいは置いていってほしかった。入院が急遽決まったから、友人らとの約束や仕事先への連絡などをしなければと気が急いていたのだと思う。
こんな時にまで他人に気を遣って馬鹿だなぁと自分に笑えてきた。
「飲めるようになったら飲んでください」と水のペットボトルが置かれたが、ベッド脇ではなく、ベッドの側に設置された棚の上だった。
仰向けの体勢から少しずつ身を捩って、どこが痛いのか、どのように痛いのかを確かめながら、何とか水を取ろうとしたけどまだ無理だった。
更には「十五時を過ぎたら飲んでも大丈夫ですよ」と言われたので、待つしかなかった。
酸素マスクが外れたのは三時間ばかり経ってからだったか。
酸素マスクが取れて、水も飲める時間になってくると、だいぶ現在の体勢が想像できるようになった。
背中にまだ強い薬を流す管は繋がれていて、右手から点滴を受けていて、腰回りが重く痛く、トイレに行けないからか尿道に管が入っているようだった。
何もかも初めてのことだったから、少しずつ慣れていけばいいと思いつつも、ちょっと嫌だった。
特に、トイレに行けないけど、意識しないでそのまま用を足してもいいという状態が理解できず、「歩けるほどじゃないから仕方ないけど、こんなものをつけなきゃいけないのか・・・・・・」なんて思ってしまった。
夕方、着替えなどを持ってきてくれた看護師にスマホを渡され、急いで約束をしていた人達へ事情を説明し、やっと気掛かりが一つ減った。
大部屋で一緒になった先住の患者は、大したことが無くても騒ぐ方だった。
今思えば、ナースコールを取り上げられていたのか、「すみませーん。誰かー。誰かお願いしまーす」と二時間か一時間に一度は聞こえた気がする。
最初聞いた時は何かあったのかと驚いて、わたしの方のナースコールを押して看護師を呼んでいたが、やってきた看護師と患者の会話を聞くに、呼ぶ必要が無かったかもしれないと思った。
それが二回続いた時、看護師に「部屋を移動しますね」と言われた。その患者は朝も夜もあんな調子で、ずっと誰かを呼びつけては、どこが痛いとかあれが嫌だとか言うらしい。
それでは夜眠れないだろうと、気遣いで移動させてもらえた。ありがたいことだ。
移動した先の大部屋は、先住の患者三人が朗らかに話しているのが聞こえた。
年若い患者と、恐らく五十代くらいの方と、七十代だと名乗った方とが居て、年若い患者の話で和気藹々としていた。
頃は夕暮れだったので、その話を聞きながら、カーテンの引かれた小窓をぼんやりと見ていた。
最近プレイした『さよならを教えて』を何となく思い出したら、脳内BGMはずっと『さよならを教えて』になった。
病院に泊まるってこんな感じなんだなぁ。お腹痛いて騒いで、救急車に乗って、病院二つも行って、流れで手術になって、まさか入院までする羽目になるとは。
怒涛の展開に現実感が薄れていたのかとも思うけど、未だ恐れは無く、落ち着いた心境で受け止めていた。
陰で、この一因とも言える去年や一昨年の辛かったことを思い出したけど、同時に自分の身体を激しく憎んだことも思い出し、もっと大事にしてやるべきだったと反省した。
殴ることはなかったよな。
夜の消灯は二十一時。随分と早い時間だ。まぁ、何時だろうとわたしは眠れない。
精神的な不安で早朝の覚醒が増えたり、浅い睡眠ばかりだったわたしは、入眠剤を使わないと自力で眠れなくなっていた。
なので、家族に頼んで常用している入眠剤を持ってきてもらったのだが、使うには薬剤師と先生の許可が必要だと言う。
さすがにこの一日では無理だろうと解っていたので、その日の夜は眠らないつもりでいた。
目を閉じても閉じているだけ。ちょっと眠くなったかもって思って目を開けると、たった三十分しか経っていない。
そんなことを何度も繰り返しながら、一時間に一度は来ていたかな、点滴チェックにやってきた看護師に氷枕を変えてもらったり、痛み止めを流してもらったりしていた。
目覚めてからずっと微熱が続いていて、まさか先週の風邪がぶり返したのかと思っていたら、術後は微熱が出るものらしい。
三十八度とか、それ以上となるとさすがに異常事態だけど、三十七度台はまだ許容範囲のようだ。
それでも解熱剤などはもらえないので、ゆっくり付き合っていくしかない。
何もできない夜は長い。精神だけ飛ぶやり方を試そうとか思ったけど、こんな状態で集中できるわけもなく。
誰とも話さず、何も見ず、足元についた明かりで影絵を楽しんだりして、時折眠った気がして、空が白むのを待った。
入院二日目
朝は六時起床。朝食は七時頃で、各々ゆっくり食べている。九時に回診があるので、ベッドで待機している人が多かった印象。
回診前にも先生がちょこちょこ見にきては、腹部の傷や腸の動きを診てくれた。今のところ正常だと言われて、とても安心した。
その後来た看護師に「レントゲンを撮りに行きます」と言われて、術後、初めてベッドからちゃんと身を起こした。ここでやっと一日中稼働していた足のマッサージ機が外れた。解放感がある。
起き上がる動作はとても大変だった。
下腹部全体がじんわり痛いが、動いて一番反応するのは左側だったので、なるべくそちらに負担を掛けないよう、右側を向いて身体を起こそうとしたが、右手の甲に点滴の針が刺さっているので、右手に力を入れられない。
右肘と左手で上半身を支えながら、ゆっくり身を起こす。痛みはあるけど、予想できていた範囲内だった。
車椅子に乗せられて、改めて院内の様子をぼんやりと観察した。ここは綺麗だし、何だか活気があるなぁと思った。
レントゲンを撮る時もまた大変で、立ったままの撮影と寝転がっての撮影と二回あったので、随分と時間を掛けて移動した。
スタッフの方も手伝ってくれて、痛みながらも何とか立ち上がり、寝転がり、再び車椅子に戻れた。
一日寝ているだけで、腹部にちょっと穴が開いただけで、えらく人は弱る。知見が深まった。
ここでは早期離床を推していると、看護師が言っていた。
ベッドにずっと寝ているだけで筋力はどんどん低下し、気持ちも後ろ向きになりがちだ。自分の足で動ける者には、院内をゆっくりでもいいから歩くことを推奨していると言う。歩くと血行が促進され、傷の治りも良くなるのだとか。
ずっとベッドに居て動けなくなることが怖かったわたしは、すぐさま院内を歩きたいと申し出た。
加圧の凄いストッキングのようなものを履かされ、時間を掛けて起き上がり、看護師と一緒に病棟のその階だけを二周した。
自分の足で歩けることは素晴らしい。ベッドに転がって止め処ないことを考えるより、自分の足で進んで塗り替えられる景色の方が、新しい何かを手に入れられる。そう思う。
ただ、歩く速度は健常時よりずっと遅い。歩く振動や、筋肉の動きで傷に多かれ少なかれ痛みは走る。それでも歩けるのが嬉しい。
点滴を掛けたスタンドを支えにして、下部に尿の袋を掛けて、首には背中の薬の瓶を提げて、そんな重装備で歩き回った。あぁ、本当に病人のようだとも思った。
自分の足で歩けて、腸の動きも良いということで、昼ぐらいから流動食が出てくるようになった。
とはいえ、激痛や嘔吐の記憶が真新しかったので、食べるのが恐ろしく、出されたブドウジュースを飲んで、ちょっとだけ流動食を口にするだけだった。
腹は空いている感じがしない。この状態で空腹感を訴えられても困るのだが、わたしの精神状態など関係無く食べ物を求めるのが胃なので、多分に警戒していた。
どうやらわたしの胃の胃酸は強いようで、空腹を暫く放置しておくと、胃がずきずきと痛みだすことが多かった。だから食べ過ぎてしまうのかもしれない。
まぁ、でも状況が状況だ。空腹感を訴えられていたとしても、わたしは水分だけ摂りたかった。
午後になって、段々と体調が悪くなってきた。吐きそうな、そうでもないような吐き気に襲われて、看護師にそれを訴えた。
曰く、背中に管を通した薬の副作用で起きる吐き気とのことで、薬の濃度を一段階下げてもらうことにした。その分痛むかもしれないとも思ったが、すぐに動けるわけじゃない今は吐き気の方が嫌だった。
午後は歩き回ることができず、ベッドに横になってカーテンの引かれた窓の外を想像していた。あぁ、気持ち悪い、歩きたいと怨み言のように思いながら、吐き気が解消されるのをひたすら待つ。
その間、実に多くの意味の無いことを考えた。存外、そういったどうでもいいことを追求していると、気持ち悪さを誤魔化せるものだ・・・・・・個人の感想です。
その時考えていたのは、ジブリのハウルに出てきたヒンのことだった。あれはどういう犬なんだろう、モップみたいだったな、どんな姿だったっけ、頭に描いてみよう・・・・・・そんなことを考えていたら、夕食の十八時になった。
夕食を食べる気にはなれなかったけど、その頃にはだいぶ気持ち悪さは薄れていた。
今どの装置を外してほしいかと言ったら、点滴の針だと答える。それぐらい、右手の甲に針がある状態は支障が出ていた。無意識に動かしてぶつけたりするし。
夕食を食べたくないというより、あれこれ四苦八苦して起き上がるのが苦痛なだけだったかもしれない。
夕食も流動食。けど、昼よりは食べる量が増えたかな。
豚のペーストにパプリカソースをかけたものが美味しかった。あまり味のしないアイスクリームや、ヨーグルトも出てきたけど、全部は食べられなかった。
あ、でも毎回出てくるほうじ茶かな、あれは美味しかった。あれだけは気付いてから、よく飲み切っていた。
そしてまた夜が来て、影絵で遊んだ。看護師が来た時に氷枕を変えてもらい、驚かせないようにしながら、その仕事ぶりを見ていた。
わたしは愚かだし、頭の出来も良くないから、医療系の仕事に就けることは来世であっても有り得ないだろうから、こういう仕事に就いている方々は尊敬する。朝も昼も夜も、交代とはいえ、過酷な環境で仕事しているな。
けど、この病院の看護師も先生も何だか朗らかだ。よく気が付くし、説明も丁寧だし、仕事態度が一貫していて、見ていて気持ちがいい。
小さな病院の先生は優しかったけど、規模が大きくなるにつれ、横柄な態度を見せる人が多かったから、そういうもんだと思っていたのに。
勿論、病院によって変わるものだとは思うけど、初めて大きな病院でこんなに良い場所に会ったなぁという印象がずっとあった。
病院の中は明るくて、光に溢れていると感じた。どこをどう曲がったのか、行ったのかは覚えていないが、四人の大部屋に通された。
酸素マスクはまだつけたまま、何故か足にマッサージ機を装着され、左手の針がやっと外れた。
部屋に着いた頃には意識がはっきりしてきたのだが、全身麻酔の間、酸素を送るために挿管をしていた影響で、声が上手く出せなかった。
嗄れた声で家族のことを訊いたら、一旦帰ったと聞かされた。
本当はスマホくらいは置いていってほしかった。入院が急遽決まったから、友人らとの約束や仕事先への連絡などをしなければと気が急いていたのだと思う。
こんな時にまで他人に気を遣って馬鹿だなぁと自分に笑えてきた。
「飲めるようになったら飲んでください」と水のペットボトルが置かれたが、ベッド脇ではなく、ベッドの側に設置された棚の上だった。
仰向けの体勢から少しずつ身を捩って、どこが痛いのか、どのように痛いのかを確かめながら、何とか水を取ろうとしたけどまだ無理だった。
更には「十五時を過ぎたら飲んでも大丈夫ですよ」と言われたので、待つしかなかった。
酸素マスクが外れたのは三時間ばかり経ってからだったか。
酸素マスクが取れて、水も飲める時間になってくると、だいぶ現在の体勢が想像できるようになった。
背中にまだ強い薬を流す管は繋がれていて、右手から点滴を受けていて、腰回りが重く痛く、トイレに行けないからか尿道に管が入っているようだった。
何もかも初めてのことだったから、少しずつ慣れていけばいいと思いつつも、ちょっと嫌だった。
特に、トイレに行けないけど、意識しないでそのまま用を足してもいいという状態が理解できず、「歩けるほどじゃないから仕方ないけど、こんなものをつけなきゃいけないのか・・・・・・」なんて思ってしまった。
夕方、着替えなどを持ってきてくれた看護師にスマホを渡され、急いで約束をしていた人達へ事情を説明し、やっと気掛かりが一つ減った。
大部屋で一緒になった先住の患者は、大したことが無くても騒ぐ方だった。
今思えば、ナースコールを取り上げられていたのか、「すみませーん。誰かー。誰かお願いしまーす」と二時間か一時間に一度は聞こえた気がする。
最初聞いた時は何かあったのかと驚いて、わたしの方のナースコールを押して看護師を呼んでいたが、やってきた看護師と患者の会話を聞くに、呼ぶ必要が無かったかもしれないと思った。
それが二回続いた時、看護師に「部屋を移動しますね」と言われた。その患者は朝も夜もあんな調子で、ずっと誰かを呼びつけては、どこが痛いとかあれが嫌だとか言うらしい。
それでは夜眠れないだろうと、気遣いで移動させてもらえた。ありがたいことだ。
移動した先の大部屋は、先住の患者三人が朗らかに話しているのが聞こえた。
年若い患者と、恐らく五十代くらいの方と、七十代だと名乗った方とが居て、年若い患者の話で和気藹々としていた。
頃は夕暮れだったので、その話を聞きながら、カーテンの引かれた小窓をぼんやりと見ていた。
最近プレイした『さよならを教えて』を何となく思い出したら、脳内BGMはずっと『さよならを教えて』になった。
病院に泊まるってこんな感じなんだなぁ。お腹痛いて騒いで、救急車に乗って、病院二つも行って、流れで手術になって、まさか入院までする羽目になるとは。
怒涛の展開に現実感が薄れていたのかとも思うけど、未だ恐れは無く、落ち着いた心境で受け止めていた。
陰で、この一因とも言える去年や一昨年の辛かったことを思い出したけど、同時に自分の身体を激しく憎んだことも思い出し、もっと大事にしてやるべきだったと反省した。
殴ることはなかったよな。
夜の消灯は二十一時。随分と早い時間だ。まぁ、何時だろうとわたしは眠れない。
精神的な不安で早朝の覚醒が増えたり、浅い睡眠ばかりだったわたしは、入眠剤を使わないと自力で眠れなくなっていた。
なので、家族に頼んで常用している入眠剤を持ってきてもらったのだが、使うには薬剤師と先生の許可が必要だと言う。
さすがにこの一日では無理だろうと解っていたので、その日の夜は眠らないつもりでいた。
目を閉じても閉じているだけ。ちょっと眠くなったかもって思って目を開けると、たった三十分しか経っていない。
そんなことを何度も繰り返しながら、一時間に一度は来ていたかな、点滴チェックにやってきた看護師に氷枕を変えてもらったり、痛み止めを流してもらったりしていた。
目覚めてからずっと微熱が続いていて、まさか先週の風邪がぶり返したのかと思っていたら、術後は微熱が出るものらしい。
三十八度とか、それ以上となるとさすがに異常事態だけど、三十七度台はまだ許容範囲のようだ。
それでも解熱剤などはもらえないので、ゆっくり付き合っていくしかない。
何もできない夜は長い。精神だけ飛ぶやり方を試そうとか思ったけど、こんな状態で集中できるわけもなく。
誰とも話さず、何も見ず、足元についた明かりで影絵を楽しんだりして、時折眠った気がして、空が白むのを待った。
入院二日目
朝は六時起床。朝食は七時頃で、各々ゆっくり食べている。九時に回診があるので、ベッドで待機している人が多かった印象。
回診前にも先生がちょこちょこ見にきては、腹部の傷や腸の動きを診てくれた。今のところ正常だと言われて、とても安心した。
その後来た看護師に「レントゲンを撮りに行きます」と言われて、術後、初めてベッドからちゃんと身を起こした。ここでやっと一日中稼働していた足のマッサージ機が外れた。解放感がある。
起き上がる動作はとても大変だった。
下腹部全体がじんわり痛いが、動いて一番反応するのは左側だったので、なるべくそちらに負担を掛けないよう、右側を向いて身体を起こそうとしたが、右手の甲に点滴の針が刺さっているので、右手に力を入れられない。
右肘と左手で上半身を支えながら、ゆっくり身を起こす。痛みはあるけど、予想できていた範囲内だった。
車椅子に乗せられて、改めて院内の様子をぼんやりと観察した。ここは綺麗だし、何だか活気があるなぁと思った。
レントゲンを撮る時もまた大変で、立ったままの撮影と寝転がっての撮影と二回あったので、随分と時間を掛けて移動した。
スタッフの方も手伝ってくれて、痛みながらも何とか立ち上がり、寝転がり、再び車椅子に戻れた。
一日寝ているだけで、腹部にちょっと穴が開いただけで、えらく人は弱る。知見が深まった。
ここでは早期離床を推していると、看護師が言っていた。
ベッドにずっと寝ているだけで筋力はどんどん低下し、気持ちも後ろ向きになりがちだ。自分の足で動ける者には、院内をゆっくりでもいいから歩くことを推奨していると言う。歩くと血行が促進され、傷の治りも良くなるのだとか。
ずっとベッドに居て動けなくなることが怖かったわたしは、すぐさま院内を歩きたいと申し出た。
加圧の凄いストッキングのようなものを履かされ、時間を掛けて起き上がり、看護師と一緒に病棟のその階だけを二周した。
自分の足で歩けることは素晴らしい。ベッドに転がって止め処ないことを考えるより、自分の足で進んで塗り替えられる景色の方が、新しい何かを手に入れられる。そう思う。
ただ、歩く速度は健常時よりずっと遅い。歩く振動や、筋肉の動きで傷に多かれ少なかれ痛みは走る。それでも歩けるのが嬉しい。
点滴を掛けたスタンドを支えにして、下部に尿の袋を掛けて、首には背中の薬の瓶を提げて、そんな重装備で歩き回った。あぁ、本当に病人のようだとも思った。
自分の足で歩けて、腸の動きも良いということで、昼ぐらいから流動食が出てくるようになった。
とはいえ、激痛や嘔吐の記憶が真新しかったので、食べるのが恐ろしく、出されたブドウジュースを飲んで、ちょっとだけ流動食を口にするだけだった。
腹は空いている感じがしない。この状態で空腹感を訴えられても困るのだが、わたしの精神状態など関係無く食べ物を求めるのが胃なので、多分に警戒していた。
どうやらわたしの胃の胃酸は強いようで、空腹を暫く放置しておくと、胃がずきずきと痛みだすことが多かった。だから食べ過ぎてしまうのかもしれない。
まぁ、でも状況が状況だ。空腹感を訴えられていたとしても、わたしは水分だけ摂りたかった。
午後になって、段々と体調が悪くなってきた。吐きそうな、そうでもないような吐き気に襲われて、看護師にそれを訴えた。
曰く、背中に管を通した薬の副作用で起きる吐き気とのことで、薬の濃度を一段階下げてもらうことにした。その分痛むかもしれないとも思ったが、すぐに動けるわけじゃない今は吐き気の方が嫌だった。
午後は歩き回ることができず、ベッドに横になってカーテンの引かれた窓の外を想像していた。あぁ、気持ち悪い、歩きたいと怨み言のように思いながら、吐き気が解消されるのをひたすら待つ。
その間、実に多くの意味の無いことを考えた。存外、そういったどうでもいいことを追求していると、気持ち悪さを誤魔化せるものだ・・・・・・個人の感想です。
その時考えていたのは、ジブリのハウルに出てきたヒンのことだった。あれはどういう犬なんだろう、モップみたいだったな、どんな姿だったっけ、頭に描いてみよう・・・・・・そんなことを考えていたら、夕食の十八時になった。
夕食を食べる気にはなれなかったけど、その頃にはだいぶ気持ち悪さは薄れていた。
今どの装置を外してほしいかと言ったら、点滴の針だと答える。それぐらい、右手の甲に針がある状態は支障が出ていた。無意識に動かしてぶつけたりするし。
夕食を食べたくないというより、あれこれ四苦八苦して起き上がるのが苦痛なだけだったかもしれない。
夕食も流動食。けど、昼よりは食べる量が増えたかな。
豚のペーストにパプリカソースをかけたものが美味しかった。あまり味のしないアイスクリームや、ヨーグルトも出てきたけど、全部は食べられなかった。
あ、でも毎回出てくるほうじ茶かな、あれは美味しかった。あれだけは気付いてから、よく飲み切っていた。
そしてまた夜が来て、影絵で遊んだ。看護師が来た時に氷枕を変えてもらい、驚かせないようにしながら、その仕事ぶりを見ていた。
わたしは愚かだし、頭の出来も良くないから、医療系の仕事に就けることは来世であっても有り得ないだろうから、こういう仕事に就いている方々は尊敬する。朝も昼も夜も、交代とはいえ、過酷な環境で仕事しているな。
けど、この病院の看護師も先生も何だか朗らかだ。よく気が付くし、説明も丁寧だし、仕事態度が一貫していて、見ていて気持ちがいい。
小さな病院の先生は優しかったけど、規模が大きくなるにつれ、横柄な態度を見せる人が多かったから、そういうもんだと思っていたのに。
勿論、病院によって変わるものだとは思うけど、初めて大きな病院でこんなに良い場所に会ったなぁという印象がずっとあった。