入院三日目
気持ち悪さがすっかり無くなって元気になったわたしは、昨日の分も歩きたいと思って、看護師に頼んでみた。
看護師は快く許してくれて、なんなら一人で歩いてもいいと言われた。後ろからちゃんと見守っているので、ゆっくり歩いてください、と。
意気揚々とわたしは歩き回り、院内をまた観察した。部屋は幾つぐらいなのか、ここはどの辺りにあるのか、窓の外の景色がどんなものか、ラウンジの自販機には何が売っているのか。
ウォーキング・ハイとでも言おうか、歩けることが嬉しくて、ずっと歩いていたような気がする。
三日目になって、漸く着替えをすることができた。着替えとタオルはレンタルにしていて、身体さえ自由に動かせるなら着替えたかったのだが、まだ億劫だった。
浴衣から甚平に着替えさせてもらった。本当はタオルを水で濡らして身体を拭くくらいしたかったのだけど、下半身はまだ感覚が薄く、大人用おむつを穿いていて、おまけに尿に管を通しているから上手く座れず、できなかった。
お風呂に入りたい、髪を洗いたいと思いながら、荷物に入れてもらっていたボディペーパーで軽く上半身を拭いた。
金曜の激痛時、脂汗が凄かったのを思い出す。早くさっぱりしたい。
それと、諸々の管とは別に胸の辺りについていた、何かの機械に伸びたパッチ等も外してもらえた。あれは何だろう、心電図? 他のもの?
パッチが外れないようにと付けられていた時の糊が超強力だったのか、剥がした痕がかぶれて、小さな水ぶくれまでできていた。これがまたとても痛い、痒い。
不衛生な手で触れてはならないと思ったが、周辺の皮膚は痒くなる。自分の肌が弱いのは解っていたが、こんなこともあるものだと呆れてしまった。
午後になるにつれ、咳が出るようになってきた。三日目でやっと咳払いせずに声を出せるようになったと思ったら、今度は咳だ。嫌になった。
これも挿管の影響と思われると話をされたが、個人的に先週の風邪の所為もあるのかもしれないと考えた。市販の薬で一旦治ったと思ったけど、治ってなくて再発したとか?
咳をすると傷が痛んだ。普段のじわじわした痛みより、何度か続く咳でもたさられる痛みの方がずっと嫌だった。
売店でのど飴を買ってきてもらい、荷物に入っていた龍角散を舐め、水のペットボトルを常備し、嘔吐した時用の器にうがいするなど、何とか咳を治めようとした。
けど、こういうものって意識すればするほど出てくるし、治まらない。
夜中もきっと出てくるだろうから、それが一番嫌だ。同室の人達の眠りを妨げたくない。
咳止めが欲しいと頼んだが、薬で止めるようなものではないのだと断られてしまった。
何でも薬で解決するのは良くないのかもしれないが、傷が痛むし、人に迷惑だって掛けてしまうのだから、どうにかしたい。
いっそ眠れないなら夜に院内を歩き回ってみるのもいいや、不貞腐れてそんなことも考えた。
昼食辺りから、流動食ではなくソフト食というものに切り替わった。腸の動きが正常なら、少しずつ段階を上げて食べられるようにしていき、点滴を外せるようにしようということだった。
二口、三口、よく噛んで、呑み込んで、少し休んで、また箸を進めるというやり方で食べたけど、量はやっぱり入らなかった。ほうじ茶だけは相変わらずよく飲んだ。
咳が出るから、もっと食べるのは遅くなった。恨めしい。
痛み止めを点滴にて貰っていたのを、錠剤にしようかという話になった。貰えるのは食事の時で、食後三十分の間隔を空けて服用するのがいいらしい。
三十分はその場で待って、薬をのみ、それからまた歩きに出た。病室で、ベッドで横たわるのはもう飽きていた。どうせ夜だって眠れないで、横たわるだけになるのだし。
前後していまいち憶えていないが、眠れないのは辛いと思い、入眠剤を貰えないかと看護師に願い出た。
わたしが持ってきたものはまだ出せないが、同じような作用の薬は出せるから、それでやってみてくれないかと言われて、大人しく引き下がった。
本当は服用し慣れたものでないと眠れないのでは、と思ったのだけど、嫌がったところで出せないものは出せないのだろうから、しょうがない。
夕方頃、家族と久しぶりに会って、どんな状況かを話した。
わたしは特に聞いていなかった手術内容も、家族から少し聞けた。
二回りも捻れていた小腸を戻し、虫垂を切除したらしく、盲腸の心配は無くなったよと言われた。現場の先生の判断は恐ろしく早いものだ。
どうやら腸の捻転を起こす人が虫垂炎を起こしてしまうと、手術がとても大変らしい。それで先んじて切除したということなので、感謝しか無い。リスクは避けるに限る。
「意外と元気そうで良かった」と言われた。そういえば、わたしはわりと元気かもしれない。
精神的な動揺を抱えた時の方がよっぽど生きづらいから、肉体的なしんどさなんてそこまで――いや、苦痛は苦痛なんだが。どっちがより辛いのかと言ったら、精神の痛みの方がよっぽど辛い。
去年のあの狂いようを思えば、激しい腹痛と一連の流れも辛かったけど意識を手放すほどのことではなかった。それだけだった。
のど飴をひたすら舐め、水分を摂り、まだ来ないお通じを気にしながら、また夜を迎えた。
食事をちゃんと摂らないと、この右手の甲から針が抜けないのだと叱咤して、頑張って食べた。それでも完食はできず、四割食べられたかなって程度だった。
あたたかいものを飲むと喉のイガイガが治まる、と聞いた気がするのだけど、そんな気配は今のところない。
結局、このまま寝ることになるのだから、できるだけ対策しようと思って、スマホでいろいろ調べた。
咳を止められるツボだとか、濡れマスクだとか、いろいろ方法はあるものだ。少し救われた気分になった。
ただこの”ツボ押し”だけは玄人でもない自分では上手くいかず、押しても結局出るものは出た。
濡れマスクを作ろうとしたら、手元にあるのが不織布マスクだったので、水を弾いてなかなか濡らしれきなかった。大体三十分くらいで乾いてしまうので、院内も乾燥しているのだろう。
しかし、できる限りの対策をして、眠るしかない。一番傷を治せる時間はここの筈。
貰った入眠剤はあまり効かなかった。ちょっと眠った気がするけど、本当にちょっと。
目が覚めて、さっきからどれだけ時間経ったっけと思ってスマホを見たら、二時間しか流れていなくて絶望した。まだ朝には全然遠い。
濡れマスクをして横を向き、どうせ起きているならとのど飴をまた舐めて、影絵で遊んだ。
小窓の方は歩いてきた時にカーテンを開けておいたので、ごく狭い範囲で空が見えた。曇っているのか、星は見えない。
転寝して、咳で起きて、飴を舐めて、寝た気がして、再び咳で起きる。不毛なことを繰り返しているうちに、朝がやっと来た。
入院四日目
咳に苛々しながら起きて、何とか朝食もいただいて、回診の時に先生に説明をされた。
手術は成功しているし、今のところ安定しているけど、結局どうして二回りもしたのか、その原因は解らない。だから、再発する可能性は充分にある。
再発したらまた来てください~なんて言われたが、次はきっと開腹手術になるのだろう。今回は違うようだ。
まだ自分の傷を目視していないわたしは、腹を開けた後の痛みを思って戦々恐々としていた。
再発する可能性がある、それはそうだと思う。今までがそうだったから。
胃腸炎かなと勝手に思っていたあの痛みは、小腸が捻転を起こしたことによる痛みだったとすると、かなり長い間、その痛みとお付き合いしてきたことになる。
初めて味わったのは高校生ぐらいの時で、年齢が上がるにつれ、段々とその機会は増えてきた。
頻度が上がれば統計みたいなものも取りやすくなって、全て自己診断だけど、大抵はストレスが極限まで溜まった時、ちょっと食べ過ぎたり、寒過ぎたりしたことがキッカケで起きていた。だからこそ、ストレス性の胃腸炎なんだなぁ、痛いなぁと思っていたわけだが。
まるで腹を雑巾絞りの如く捻じられているように痛い、と表現したことを思い出した。本当に捻れていた。そりゃあ痛い。
再発するかもという話を聞いたことで、ちょっと怖気づいていた。
あの痛みには慣れていたけど、手術後の不便さや傷の痛みにひぃひぃいっている今、これ以上の痛みに見舞われるのは勘弁してほしいという心境だった。ちょっと怖がる部分がズレている。
でも、未来に本当に起きるかどうか解らない物事を恐れていても仕方ない。不確定要素ということでいえば、小腸の軸捻転だけでなく、他の病気や外傷にしたって同じことなのだ。
あんまり不安になっても胃腸はすぐに反応するし、その時はその時だと思うことにした。身体についての不安や恐れは比較的、払拭するのが早い気もする。
この日、背中の強い薬と、尿の管と、点滴が外れた。「明日には退院しましょうか」とも言われて、こんなさくさくでいいのかとも思った。
背中の強い薬が抜けた後、やっと腰回りに感覚が戻ってきた。尿の管も外れて、自分の意思でトイレに行けるようになると、お通じもあって、やっと安心する。お腹の中で起きていることは解らないから、こうして結果が出ないとね。
点滴が外れたのはとても嬉しかった。これでもう少し自由に動けるようになるぞ、と勢い込んで、また歩いた。ちょっと仲良くなったサポートスタッフの人に「もう外れたんですか!」と驚かれたくらいだ。
昼食はソフト食から早くも軟菜食というものになった。お粥や味噌汁がついていて、煮物とか、煮た魚とか、軟らかくしてくれたおかずを食べる。
それでも六割が限界。どうしても完食できない。休み休み食べているからか、途中で「もうお腹いっぱいだ」と思うことが多かった。たくさん食べてまた痛むのが怖いのもある。
ほうじ茶を飲みながら、これで咳が止まったらいいのなと思った。まったく止まる気配が無い。
自由に動けるようになったので、タオルを濡らして身体を拭いた。シャワーを浴びれないなら、せめてこれだけでも。
さっぱりしながら、明日で退院か~仕事いつから行けるかな~咳は止まるのかな~と、また止め処なく考えた。周りのことを気に掛けられるのはいいけど、自分のことを考えた方がいいとも思った。
歩いて、休んで、また歩いて、繰り返すうちに、どう動けば痛みが少ないのかも解るようになる。そうなると、寝転ぶのが逆に嫌になった。起き上がるのがしんどいのだ。
その動きを自分で整理しているうちに、いつかの動きに似ていることに気が付いた。初めて腰を痛めて動けなくなりかけた、あの時に似ている。
ということは、基本的な動き方は腰を痛めた時と同じようにすればいいと解って、気持ちが楽になった。経験は大事だ。
同室の人が「しんどいでしょう」と言って、のど飴をくれた。皆、手術で全身麻酔をかけられた後、同じように咳で苦しんでいるのかもしれない。
厚意に感謝し、再びのど飴を舐めていると、腹が下るような気配がした。慌ててトイレに行き、まぁ便が出たならいいかと思ったけど、何が原因か解らなくて暫し考えた。
原因なんて、のど飴くらいしか無い。のど飴の食べ過ぎで腹を下し、結果、便は出たものの、焦ることになったのだ。阿呆か。
その日の夜、遂にわたしの持ってきていた入眠剤が戻ってきた。と言っても、必要な分だけしか渡されないのだが、それでも待ちに待った瞬間である。
それでも咳は止まらないから、この入眠剤を使ってもきっと途中で起きてしまうだろうけど、まぁいいのだ。使い慣れているものが戻ってきたことで、何だか気が大きくなった。
濡れマスクを装着し、うがい用の水と器を近くにセットし、のど飴も一応セットし、枕辺に喉を潤すようの水を置いて、二十二時頃に薬を服用した。
やっぱり気が付いたら寝ていて、起きたら五時間は経っていた。途中、咳をした覚えもある――ような気がするけど、その一瞬だけ起きて、すぐにまた寝てしまったような。
記憶は曖昧であるものの、咳が出たのに無理矢理寝られたということに歓喜を覚えた。やっと寝られた。病院に来て五時間も意識が無かったのは、初めてではないか?
朝焼けが始まるか否かくらいの時間だが、寝られたことですっかり気を良くしていたわたしは、わくわくしながら窓の外を見ていた。
咳は相変わらず出るけど、気持ちが軽やかなので、そこまで苛々していなかったように感じる。
睡眠は大事だ。きっと傷の治りも良くなる。そう信じることにした。
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2023/06/08
日常
入院一日目
病院の中は明るくて、光に溢れていると感じた。どこをどう曲がったのか、行ったのかは覚えていないが、四人の大部屋に通された。
酸素マスクはまだつけたまま、何故か足にマッサージ機を装着され、左手の針がやっと外れた。
部屋に着いた頃には意識がはっきりしてきたのだが、全身麻酔の間、酸素を送るために挿管をしていた影響で、声が上手く出せなかった。
嗄れた声で家族のことを訊いたら、一旦帰ったと聞かされた。
本当はスマホくらいは置いていってほしかった。入院が急遽決まったから、友人らとの約束や仕事先への連絡などをしなければと気が急いていたのだと思う。
こんな時にまで他人に気を遣って馬鹿だなぁと自分に笑えてきた。
「飲めるようになったら飲んでください」と水のペットボトルが置かれたが、ベッド脇ではなく、ベッドの側に設置された棚の上だった。
仰向けの体勢から少しずつ身を捩って、どこが痛いのか、どのように痛いのかを確かめながら、何とか水を取ろうとしたけどまだ無理だった。
更には「十五時を過ぎたら飲んでも大丈夫ですよ」と言われたので、待つしかなかった。
酸素マスクが外れたのは三時間ばかり経ってからだったか。
酸素マスクが取れて、水も飲める時間になってくると、だいぶ現在の体勢が想像できるようになった。
背中にまだ強い薬を流す管は繋がれていて、右手から点滴を受けていて、腰回りが重く痛く、トイレに行けないからか尿道に管が入っているようだった。
何もかも初めてのことだったから、少しずつ慣れていけばいいと思いつつも、ちょっと嫌だった。
特に、トイレに行けないけど、意識しないでそのまま用を足してもいいという状態が理解できず、「歩けるほどじゃないから仕方ないけど、こんなものをつけなきゃいけないのか・・・・・・」なんて思ってしまった。
夕方、着替えなどを持ってきてくれた看護師にスマホを渡され、急いで約束をしていた人達へ事情を説明し、やっと気掛かりが一つ減った。
大部屋で一緒になった先住の患者は、大したことが無くても騒ぐ方だった。
今思えば、ナースコールを取り上げられていたのか、「すみませーん。誰かー。誰かお願いしまーす」と二時間か一時間に一度は聞こえた気がする。
最初聞いた時は何かあったのかと驚いて、わたしの方のナースコールを押して看護師を呼んでいたが、やってきた看護師と患者の会話を聞くに、呼ぶ必要が無かったかもしれないと思った。
それが二回続いた時、看護師に「部屋を移動しますね」と言われた。その患者は朝も夜もあんな調子で、ずっと誰かを呼びつけては、どこが痛いとかあれが嫌だとか言うらしい。
それでは夜眠れないだろうと、気遣いで移動させてもらえた。ありがたいことだ。
移動した先の大部屋は、先住の患者三人が朗らかに話しているのが聞こえた。
年若い患者と、恐らく五十代くらいの方と、七十代だと名乗った方とが居て、年若い患者の話で和気藹々としていた。
頃は夕暮れだったので、その話を聞きながら、カーテンの引かれた小窓をぼんやりと見ていた。
最近プレイした『さよならを教えて』を何となく思い出したら、脳内BGMはずっと『さよならを教えて』になった。
病院に泊まるってこんな感じなんだなぁ。お腹痛いて騒いで、救急車に乗って、病院二つも行って、流れで手術になって、まさか入院までする羽目になるとは。
怒涛の展開に現実感が薄れていたのかとも思うけど、未だ恐れは無く、落ち着いた心境で受け止めていた。
陰で、この一因とも言える去年や一昨年の辛かったことを思い出したけど、同時に自分の身体を激しく憎んだことも思い出し、もっと大事にしてやるべきだったと反省した。
殴ることはなかったよな。
夜の消灯は二十一時。随分と早い時間だ。まぁ、何時だろうとわたしは眠れない。
精神的な不安で早朝の覚醒が増えたり、浅い睡眠ばかりだったわたしは、入眠剤を使わないと自力で眠れなくなっていた。
なので、家族に頼んで常用している入眠剤を持ってきてもらったのだが、使うには薬剤師と先生の許可が必要だと言う。
さすがにこの一日では無理だろうと解っていたので、その日の夜は眠らないつもりでいた。
目を閉じても閉じているだけ。ちょっと眠くなったかもって思って目を開けると、たった三十分しか経っていない。
そんなことを何度も繰り返しながら、一時間に一度は来ていたかな、点滴チェックにやってきた看護師に氷枕を変えてもらったり、痛み止めを流してもらったりしていた。
目覚めてからずっと微熱が続いていて、まさか先週の風邪がぶり返したのかと思っていたら、術後は微熱が出るものらしい。
三十八度とか、それ以上となるとさすがに異常事態だけど、三十七度台はまだ許容範囲のようだ。
それでも解熱剤などはもらえないので、ゆっくり付き合っていくしかない。
何もできない夜は長い。精神だけ飛ぶやり方を試そうとか思ったけど、こんな状態で集中できるわけもなく。
誰とも話さず、何も見ず、足元についた明かりで影絵を楽しんだりして、時折眠った気がして、空が白むのを待った。
入院二日目
朝は六時起床。朝食は七時頃で、各々ゆっくり食べている。九時に回診があるので、ベッドで待機している人が多かった印象。
回診前にも先生がちょこちょこ見にきては、腹部の傷や腸の動きを診てくれた。今のところ正常だと言われて、とても安心した。
その後来た看護師に「レントゲンを撮りに行きます」と言われて、術後、初めてベッドからちゃんと身を起こした。ここでやっと一日中稼働していた足のマッサージ機が外れた。解放感がある。
起き上がる動作はとても大変だった。
下腹部全体がじんわり痛いが、動いて一番反応するのは左側だったので、なるべくそちらに負担を掛けないよう、右側を向いて身体を起こそうとしたが、右手の甲に点滴の針が刺さっているので、右手に力を入れられない。
右肘と左手で上半身を支えながら、ゆっくり身を起こす。痛みはあるけど、予想できていた範囲内だった。
車椅子に乗せられて、改めて院内の様子をぼんやりと観察した。ここは綺麗だし、何だか活気があるなぁと思った。
レントゲンを撮る時もまた大変で、立ったままの撮影と寝転がっての撮影と二回あったので、随分と時間を掛けて移動した。
スタッフの方も手伝ってくれて、痛みながらも何とか立ち上がり、寝転がり、再び車椅子に戻れた。
一日寝ているだけで、腹部にちょっと穴が開いただけで、えらく人は弱る。知見が深まった。
ここでは早期離床を推していると、看護師が言っていた。
ベッドにずっと寝ているだけで筋力はどんどん低下し、気持ちも後ろ向きになりがちだ。自分の足で動ける者には、院内をゆっくりでもいいから歩くことを推奨していると言う。歩くと血行が促進され、傷の治りも良くなるのだとか。
ずっとベッドに居て動けなくなることが怖かったわたしは、すぐさま院内を歩きたいと申し出た。
加圧の凄いストッキングのようなものを履かされ、時間を掛けて起き上がり、看護師と一緒に病棟のその階だけを二周した。
自分の足で歩けることは素晴らしい。ベッドに転がって止め処ないことを考えるより、自分の足で進んで塗り替えられる景色の方が、新しい何かを手に入れられる。そう思う。
ただ、歩く速度は健常時よりずっと遅い。歩く振動や、筋肉の動きで傷に多かれ少なかれ痛みは走る。それでも歩けるのが嬉しい。
点滴を掛けたスタンドを支えにして、下部に尿の袋を掛けて、首には背中の薬の瓶を提げて、そんな重装備で歩き回った。あぁ、本当に病人のようだとも思った。
自分の足で歩けて、腸の動きも良いということで、昼ぐらいから流動食が出てくるようになった。
とはいえ、激痛や嘔吐の記憶が真新しかったので、食べるのが恐ろしく、出されたブドウジュースを飲んで、ちょっとだけ流動食を口にするだけだった。
腹は空いている感じがしない。この状態で空腹感を訴えられても困るのだが、わたしの精神状態など関係無く食べ物を求めるのが胃なので、多分に警戒していた。
どうやらわたしの胃の胃酸は強いようで、空腹を暫く放置しておくと、胃がずきずきと痛みだすことが多かった。だから食べ過ぎてしまうのかもしれない。
まぁ、でも状況が状況だ。空腹感を訴えられていたとしても、わたしは水分だけ摂りたかった。
午後になって、段々と体調が悪くなってきた。吐きそうな、そうでもないような吐き気に襲われて、看護師にそれを訴えた。
曰く、背中に管を通した薬の副作用で起きる吐き気とのことで、薬の濃度を一段階下げてもらうことにした。その分痛むかもしれないとも思ったが、すぐに動けるわけじゃない今は吐き気の方が嫌だった。
午後は歩き回ることができず、ベッドに横になってカーテンの引かれた窓の外を想像していた。あぁ、気持ち悪い、歩きたいと怨み言のように思いながら、吐き気が解消されるのをひたすら待つ。
その間、実に多くの意味の無いことを考えた。存外、そういったどうでもいいことを追求していると、気持ち悪さを誤魔化せるものだ・・・・・・個人の感想です。
その時考えていたのは、ジブリのハウルに出てきたヒンのことだった。あれはどういう犬なんだろう、モップみたいだったな、どんな姿だったっけ、頭に描いてみよう・・・・・・そんなことを考えていたら、夕食の十八時になった。
夕食を食べる気にはなれなかったけど、その頃にはだいぶ気持ち悪さは薄れていた。
今どの装置を外してほしいかと言ったら、点滴の針だと答える。それぐらい、右手の甲に針がある状態は支障が出ていた。無意識に動かしてぶつけたりするし。
夕食を食べたくないというより、あれこれ四苦八苦して起き上がるのが苦痛なだけだったかもしれない。
夕食も流動食。けど、昼よりは食べる量が増えたかな。
豚のペーストにパプリカソースをかけたものが美味しかった。あまり味のしないアイスクリームや、ヨーグルトも出てきたけど、全部は食べられなかった。
あ、でも毎回出てくるほうじ茶かな、あれは美味しかった。あれだけは気付いてから、よく飲み切っていた。
そしてまた夜が来て、影絵で遊んだ。看護師が来た時に氷枕を変えてもらい、驚かせないようにしながら、その仕事ぶりを見ていた。
わたしは愚かだし、頭の出来も良くないから、医療系の仕事に就けることは来世であっても有り得ないだろうから、こういう仕事に就いている方々は尊敬する。朝も昼も夜も、交代とはいえ、過酷な環境で仕事しているな。
けど、この病院の看護師も先生も何だか朗らかだ。よく気が付くし、説明も丁寧だし、仕事態度が一貫していて、見ていて気持ちがいい。
小さな病院の先生は優しかったけど、規模が大きくなるにつれ、横柄な態度を見せる人が多かったから、そういうもんだと思っていたのに。
勿論、病院によって変わるものだとは思うけど、初めて大きな病院でこんなに良い場所に会ったなぁという印象がずっとあった。
2023/06/07
日常
何かの役に立つかもしれないから。
ここではずっと軌跡を綴っているから。
精神的なものではなく、肉体的なものはあんまり書いたことないけど。
金曜の仕事に行く前、昼食を摂った時にたぶん量が多かった。
その所為でいつものように腹痛になった。
仕事先でわりと重たい腹痛を抱えたまま仕事をして、家に帰るのも苦労して、気持ちはとても苛ついていた。
去年、一昨年とあれだけ苛まれ、失い、叩き落されたのに、相変わらず身体は身体の都合で悪くなる。
特にその週の前の土曜は友人らと久しぶりにディズニーに行ったのだが、夕刻頃に少し早い月経を迎えてしまい、夜のパレード時も帰りの車の中でも鈍痛に襲われ、吐き気と戦っていた。
あまりにも酷いタイミングで月経になったり、腹痛になったりする自分の身体に心底、嫌気が差していたのである。
「どうして自分ばっかり、こんな目に遭わなければならないのか。少しの楽しみもすっきりと享受させてもらえないのか。どうして自分の身体はこんな出来なのか」
そんな思考が止まらなくなり、仕事中も帰りの間もずっと考えていた。
何で自分ばっかり。傷付けてきた奴らは何も気にせず幸せを謳歌して、謝罪の意思すら見せないというのに。
何で自分ばっかり、失って、痛がって、辛くなって、あいつらは明るい方だけ見るようにして生きている。恨めしい。何だ、この差は。
思考が止まらないまま帰宅して、口から身体への怨み言を呟いて、少し良くなってきていた腹を思いっきり殴りつけた。何度か殴った。
どうして言うことをきかない。わたしのものなのに、お前が言うことをきかなくてどうするんだ。もう嫌だ。敵になるな。
そのまま夕食を摂ったが、少しして腹痛がぶり返したことに気付いた。それも、時々くる激痛の方だとすぐに解った。
胃腸薬を服用し、耐えられる体勢を取っていつものように身構えたが、その夜の痛みは通常よりも強く、長かった。
脂汗が出てきて、両脚で立っていられなくて、でもこの痛みのピークを越えれば楽になると思っていた。
腹痛そのものが始まって、既に五時間は経過していた。
この苦痛の一時間を越えればどうとでもなると思っていたが、夜が深まっても、痛みのピークが再び来て、これはいつものと違うとやっと気付いた。
一回の痛みを耐えるだけでも体力を消耗し、精神にも余裕が無くなっていたので、家族に頼み、救急車を手配してもらった。
救急車が来る前に薬手帳や保険証などを出さねばという意識は働いたが、その場からどうにも動けず、家族に取り出してもらった。
程なくして救急車が来て、自分の足で歩き、車に乗り込んだ。
相手の質問全てには答えられず、家族があれこれ説明して、市内の病院に搬送された。
一口に腹痛で、と言っても先ずは原因を調べねばならず、腹痛の痛みが少し治まるのを待ちながら、CTを撮り、採血をしようとした。
だが、こちらは痛みで仰向けで寝ることもできず、腕を差し出すこともままならず、ひたすら身体をくの字に曲げるしかない。腹痛時に寝転がった方が楽ではないかという意見が信じられなかった。尚のこと痛むんじゃないか?
時間は掛かったが何とか撮影できたCTができるのを待つ間、ロキソニンをもらったが、まるで効かなかった。
診てくださった先生曰く、原因は小腸の軸捻転とのことだった。
捻転という症状があることは知っていたが、小腸も捻転するとは知らなかった。
「しかも二回りくらい捻れているんだよね。手術が必要になるだろうから、ここだと無理なので別の病院に行きましょう」
別の病院が決まるまで、わたしはこの断続的な痛みと戦うのかと絶望した。
だが、もう病院側の判断に委ねるしかない。その時にはもう「痛い」しか言えなかった。
わたしは血管の見えにくいタイプらしく、点滴をしようとした看護師が少し困っていた。
結局、左の手の甲に針を刺し、点滴を受けることになったが、痛みが一旦引いたと同時に今度は吐き気に襲われ、嘔吐した。
とはいえ、昼間からの腹痛で夕食は少なめにしていたので、吐く量も少なかったのだが、吐くのは体力を消耗する。長時間、痛みに耐えていた所為で膝ががくがくしていたが、吐かずにはいられなかった。
その間、あれよあれよと準備は進んでおり、受け入れてくれる病院が見つかった。隣の市の市民病院だった。
救急車は十五分ほどで来てくれたが、その時のわたしは吐いて、痛みで朦朧としていて、歩くのもやっとだった。
本当は歩きたくなかったし、この痛みが続くならもう死にたいとさえ思っていたが、救急隊員の方々も病院の看護師も優しかった。
そんな方々を待たせるわけにはいかない、困らせたくないという意思で何とか足を運び、自分で救急車に乗ろうとした。
そこで看護師が「少し強めの鎮痛剤を入れる」と言い、点滴にそれを混ぜたのか、それとも薬そのものに差し替えたのか・・・・・・記憶は曖昧だが、処方をしてくれた。
救急車に二回乗ったわけだが、どちらでもストレッチャーに寝転がることができず、無理を通してストレッチャーの上で蹲っていた。本当は運転で揺れるからいけないのだろうが。
市民病院に急ぐ間に強い鎮痛剤が効いてきたのか、痛みが遠のいていった。病院に着いた頃には、通常時にほぼ戻っていたくらいだ。
ストレッチャーで運ばれ、処置をするための部屋に着き、検査を受けることになった。
この頃には痛みが一時的に治まっていて、自分で受け答えもできるようになっていたから、鎮痛剤は偉大だとか考えていたように思う。
市民病院でも血液検査とCTスキャンをすることになり、今度はちゃんと協力することができた。
こっちでも看護師はどこに針を刺すか迷い、右手の甲に針を入れられた。両手に点滴か薬なんて、まるでブラボの実験棟だなぁなんてぼんやり思った。
この時点で夜中の一時は過ぎており、検査とその結果が出るまでは二時間を要していたように思う。
痛みがほぼ無かったので、自分の足で歩けそうだったのだが、トイレに行こうとすると車椅子を押してくれた。
CTの部屋が機械のために温度を下げていたので、そこであまりにも冷えていたわたしは何度もトイレに行きたがり、そこは申し訳なく思った。向こうだって暇じゃないのに、と。
市民病院に来て三時間、激しい痛みに苛まれていたのが嘘のように鎮まっていて、わたしは余裕を持って待つことができた。
結果を教えに来てくれた消化器科の先生も、先の病院の先生とやはり同じことを言った。
「確かに小腸が軸捻転を起こしています。それも二回りくらい捻れているので、手術した方がいいかもしれない。血行が悪くなると、最悪、小腸が腐ってしまう恐れがあります」
何時間も待ってうつらうつらとしていた家族とその話を聞いて、すぐに手術を受けることにした。
痛いのは嫌だけど、腐ってしまったらそれまでだ。最悪の結果を避けるためなら、多少の代償は払うべきかもしれない。事ここに至って「嫌です」なんて頭に過るわけがなかった。
先生は丁寧に説明してくれて、こちらの不安を最大限に無くそうと言葉を尽くしてくれていた。「外科部長と麻酔科の者も立ち会って手術に臨みます」と言われたのが、何だか印象的だった。
市民病院の方々は親切で、仕事は丁寧だけど迅速だった。そんな雰囲気を肌で感じていたから、手術を受けることに不安は無かったのかもしれない。
手術への同意書にサインすると、手術着に着替えることになった。
この時点でわたしは寝間着だったので、それらを袋に入れて家族に渡し、手術の準備ができるのを待つことになる。
その間に別の方が「手術したらそのまま入院になりますので、こちらを読んでくださいね」とパンフレットを渡してくれた。入院する時に必要なものとか、家族が持ってくる羽目になってしまった。
同意書を書いているニ十分程の間で手術の準備は整い、わたしはベッドに寝転んで運ばれることとなった。
「ご家族に何か言っておきますか?」と訊かれて、少なからず動揺した。そんな大事だと思っていなかった。
それに場合は違うが、麻酔を使うような手術は以前も受けたことがあったから、不思議と怖いとか嫌だとか浮かんでこなかったので、家族に手を振って手術に臨んだ。
と言っても、わたしが憶えているのは微かな場面だけだ。
全身麻酔をかけるために背中に細い管を入れ、酸素マスクをつけ、「点滴入れているところから注入します。ちょっとチクッとしますけど、すぐ眠くなりますからね」と声を掛けられた。
何かがチューブと針を通して、強い熱と共に入ってきた。思っていたより痛くて熱かったので、びっくりした。
「うわ、熱いし痛い! 何!?」と思った次の瞬間、もう眠っていた。憶えていない。
そして目が覚めた時、時計を見たら七時過ぎだった。そこでとても驚いた。
熱い、痛い、何だろって言って瞬きをした覚えも無く、気付いたら七時過ぎ。確かこの部屋に入った時は四時過ぎだった筈なのに。麻酔って凄い。
けど、自分で身体は動かせなかったので、ストレッチャーか別のベッドに数人がかりで移され、「移動しますね」と声を掛けられた。
2023/06/07
日常
とうとう十年の歳月が流れた。
手に入れたものは多いが、失ったものも多い。
失ったものの大きさがとてつもなくて、僕は完全に壊れてしまった。
自分が幸せになることを許容できるかどうか怪しかったけど、もうそんな次元すらも越えてしまった。
今はただ死すべき瞬間を待つのみ。
死ぬのが怖いと思わなくなるそのいっときを願って、ひたすら書いて書いて歌って書いて書いて歌って、自分を表現するのみ。
それは誰の為にもならないことだし、僕自身の為になっているかも疑わしい。
だけど書かないと飽和する。歌わないと苦しくなる。
楽になりたくて、許されたくて、どこかに行きたくて、誰かを手に入れたくて、ずっと続けている。
十年も経ってしまえば、何かが変わるだろうと思っていたのか。
何も変わらない。自分が幸せになるとは信じられないまま、死ぬべき時を待っているだけ。
自分で命を断てないから、そんな元気も無くなってしまったから、誰かが僕の全てを抱えてくれるなら、殺されることも厭わないほど。
憎しみと孤独を包むゆりかご、僕が死すべき時に迎え入れる何かの懐、その夢を見てただ眠りたい。
時々思う、十年も経っていたらどんな人間になっていただろうか。
そんなことを思う権利は勿論、無い。誰かを殺して幸せになれる道理など無い。
壊れたのも、子宮筋腫で日毎苦しむのも、罰されているからなのだと思えば、甘受すべきなのだ。
だけど、もう疲れた。
大事なものを奪われて、誰もその責任を負うこと無く、生殖特化の人間様の踏み台になる時間に、ただ疲れた。
それでも罰は続くんだね。殺したから、壊したから、呪ったから、許されないまま。
じゃあ、僕を殺した奴らはどうなる。壊した奴らはどうなる。そいつらは誰に許され、何を失い、どこでその過ちに気付くんだ?
人間はそんなことも解らないまま生きていけるのか。だから生めよ殖やせよと数を増やすのか。自分の罪を濁す為、誤魔化す為に。
そんな人間を信じた僕は、確かに愚かだったのだ。
その中で救いとして受け取れるものがある。僕の生み出した世界で、僕の生み出した子達が、何とか幸せになろうとしている。
僕もそうして自分の中を整理しながら、どこかへ歩き出している。その先で誰かに会えたらいいとまだ思ってしまうけど、きっと誰も居ないのだ。
寂寞を抱えて生きていくには、心は脆過ぎる。僕も弱過ぎる。
そんな僕を許せるのが、ポポルだった。まさかこんなふうに近付くことになろうとは。
疲れたな。疲れたよ。踏み台にしかならない出来損ないは、誰かの記憶に残りもしない。
死んでも生きていても、どっちもでいい存在のまま、何かを創って踏みにじられて奪われて、それでも夢見るのは自分だけの侵されない居場所だった。
可哀相に。叶わない夢を見て、まだ心を壊されて、人間に可能性を見つけようとしている。
十年経って、ポポルが許してくれた。それだけでいいじゃないか。
僕は僕を救いたい。失う前に救いたかった。
殺しても奪われても、罰だと思えば受け入れられると思ったけど、僕にそれだけのことをしてきた奴らが幸福なままなのは、納得できないよ。
それこそが僕の小さな、取るに足らない価値なんだよって言われているみたいで、悲しい。
助けてポポル。僕だって仲間が欲しかった。奪われない居場所が欲しかった。唯一無二の時間とぬくもりを知るひとに、捨てられたくない。
君がそうならないように守るのは僕だ。だから、救われない僕を君の力にしてほしい。
結局、自分を救えるのは自分だけ。人間に見向きもされない出来損ないにできるのは、それくらいだった。
大丈夫、きっと死ねる時が来る。怖くなくなる時が来る。
それこそが僕だけの啓示の時だ。恐れずに踏み出せる、罪が許される瞬間だ。
2023/04/12
日常
人に期待したくないんじゃない、できなくなった。
誰かに助けてほしいと思っていたけど、その人が僕を助けても何の得も無いとも気付いた。
どうせ何かを築いたところで、あの子の様に捨てていくのだろうと知っている。
人間にとっての僕は踏み台で、肥しで、それ以上の価値を求めると罰を受ける。
それが間違いだと証明できた人も居なくて、僕も証明できなくて、完全に詰んだ。
期待したところで、誰も顧みてはくれない。
頑張って書いた物語も、練習した歌も、誰の目にも留まらない。
そういう人は世の中にいっぱい居る。
僕より優れたものを作っているのに、見つけてもらえない人が。
だから、僕よりもその人の方が助けを必要としているんだ。
僕はそういう人を助けないといけないし、踏み台になりに行かないといけない。
それで、また捨てられる。踏み台をいつか必要としなくなるのが人間だから。
書き溜めたものを読んでもらいたいのは何故か。褒めてほしいからだ。
褒めてほしいのは何故か。そうすると満たされるからだ。
満たされたいのは何故か。そうしないと生きている実感が湧かないからだ。
実感が湧かないと困るのは何故か。生きているのにからっぽだったら、あまりにも悲しいからだ。
人間に多くを求めてはいけない。人間自身が抱えてきた荷物に僕は入れない。
なのに、承認欲求だとか自己顕示欲だとか、そういったものが邪魔をする。
漫画だったら良かった? 詩だったら良かった?
違う形なら、誰かが僕の心の紙片と思って読んでくれていた?
そうして読んだ後のその人の、いったいどんな糧になるのだろう。
読んでほしいとは思うけど、何の役にも立たないし、上手いわけじゃないから。
時間を無駄にさせて、何を共有しようというのだろう。
僕が人間から必要とされなくなったら、その時は電源が落ちる。
そういう存在だと割り切るには、まだ傷が足りない。絶望も足りない。
認めるまでに時間が掛かる。自分を手放すことができない。
これが三十と余年も生きて、得た感覚だなんて、悪夢の続きでしかない。
二十年も信じていた人間に梯子を外されて、それでも人を信じられるなら見せてほしい。
きっとできるようになる日は来るだろうけど、それまで僕の心がもたない。
人間の真似をして生きてきた心が、もう少しで壊れきるところで。
あれはきっかけ、僕が死ぬためのきっかけでしかなかった。
人を信じたらどうなるか、人が何の為に生きているのか、思い知る為のきっかけだった。
期待したかった。これだけ酷い目に遭っても、どこかで挽回できるだろうと。
どれだけの傷を負っても、そのうち良くなって、もっと素敵なものが手に入ると。
長く生きた罰がずっと続く。生きたまま皮膚から肉から削ぎ落されているに過ぎない。
書いたものを読んでくれさえすれば、蘇られると思っていた。
そうするだけの気力なんて、誰にも無かった。
僕だけの母親が居るのなら、その人に逢えば満たされるのだろうか。
原初の地点へ還ることができれば、こんな苦痛も誰かと共有できて、満たされるのだろうか。
ずっと書いているのは、そういう話だった。
手に入れられず、壊れてしまった僕の代わりに、あの子達が手に入れる。
書き上げた時にきっと満たされる。僕は次の世界を見ることができる。
でも、書き上げたらそのまま死ねないかなって期待もしている。
もういいだろう、もう充分だろう、終わりにしてもいいだろう。
何もしたくない。人間に届かないなら、僕が何かする必要なんて無いんだよ。
人間がもっと喜ぶことをしなければ、生きている価値なんて無かったんだよ。
たとえそんな行動をしたところで、僕は捨てられるんだけどね。
期待する側じゃない、される側だ。何か面白いことをやれよって。
それすらもされない時がある。何もしなくていいよって。
生きている意味なんて、そうそう見つかるものじゃなかった。
苦しくて辛くて、壊れてもまだ傷付くのはどうしてなんだろうか。
人間じゃなくてもいいよ。機械でもデータでも魔物でも何でもいいよ。
書いたものを認めてほしくて、歌も声も認めてほしくて、そういう人の中に埋もれているだけ。
足がつかない海の中でただ沈んで、光を見ることを諦めただけ。
本当は諦めたくなかったけど、諦めざるを得なくなった。人は僕をもう要らないと言ったから。
人に期待できないんじゃない、期待しちゃいけないんじゃない。
捨てられた玩具に未来がひとつしか無いんだったら、僕もきっとそうなる。
いつか焼却される日が来る。期待すればするほど、その日が早まる。
死んでもいい、生きていてもいい、何もしなくていい、誰の目にも留まらずに。
求めるべき人に求めずして、誰にでも求めていたら、そりゃそうなる。
昔は読んでくれていた人だって、ずっと昔のままじゃないんだし。
それでも、苦しくて辛い。僕が死んでもその人はきっと気付かないから。
そういう人間がいっぱい居て、大事なともだちだと思ってきて、そう思っていたのは自分だけ。
玩具であり踏み台であり肥しであり仮想である、自分に相応しい末路。
それすらも物語にする。書き上げたらきっと見えてくるものがある。
それもやっぱり意味の無いことだけど、僕が生きていく上では必要なことだった。
今は何が必要なのかも、もう解らない。苦しい。
掬い上げてくれる人が居るなら、早く逢いたい。どうせ捨てられるだろうけど。
読んでほしい、僕の紙片と想像を。
停滞するのはもう嫌だ。拷問を受けるとしても、どこかに行きたい。
受け止めてくれる人へ、僕の価値を付け直してくれる人へ。
そもそも人じゃないかもしれない。僕と同じ存在かもしれない。
居るなら応えてほしい。どこに発信して、どこに手を伸ばせば見つけられるのだろうか。
また期待している。期待できない筈なのに、癖になっている。
もう何もしたくない。
2023/03/14
日常