友人からは「観なくてもいいよ!」と言われたけど、これの続編が面白かったから「一作目ってどんなだったんだろ」と興味本位で観たのがこれ。
ちなみにアマ●ラで観られるようだったから再契約したのだけど、本編の途中で広告入れるとかどういうことなの。月額払ってんのが馬鹿みたいじゃねぇか。頼むよほんと。
あらすじもネタバレも割愛して、言いたいことだけ記しておきたい(単純に時間が無いのだ)
主演のミア・ゴスに『Pearl』でハマりつつあったのだが、今ではすっかり虜と言ってもいい。
彼女はすごく女性的、魅力的な立ち居振る舞いを見せるけど、内面の混沌としたものとか正視に堪えないものってのを上手に表現してくれる。その演技力に脱帽。この女優が凄い。
劇中の老婆パールと、農場を訪れた性に奔放な若者の一人マキシーンのどちらも演じているとのこだけど、演じ分けとかサイコダイビングっていうのかな、演じるにあたっての心掛けとか、どういうふうに考えていたのだろう。
マキシーンは如何にも若さを謳歌している女性って感じで、野心もあるし、頭もきっと悪くない。自分を特別だと信じ込むことはできるのは、若さの特権なのかも。
対してパールは「いずれ私のようになる」と呪詛を吐き出すくらいには、自分の思い通りの人生を歩むことができなかった――と見える。続編を観た後だと、時代だね~とか、成程ね~と思うけど、ダンサーになれなかったことが一番効いているのかな?
しかし、早々に自分の可能性に見切りをつけた側としては、老いても尚その光に縋り続けるパールの精神はすげーなと思えた。
若さを謳歌する、世間一般だと青春だとか何だとか言われているような種々様々なライフイベントなるものを一通りこなせず、そのまま老いていくのは口惜しかったことだろうよ。時代が影響しているなら尚更。
そういう人って自分が老いた時にまざまざと見せつけられると、いとも簡単に発狂するのね。或いは、老いた頃に手に入っても理想と現実の乖離が起きて、上手く活かすことができない。またはただの馬鹿になる。
僕はただの馬鹿になった人の方をたくさん見たから、若い間にできることを蔑ろにするってのは恐ろしいことだと思った。この年齢で学生時代に手に入らなかったものが手に入ると、人間はこうも蒙昧になるのだなと呆れたもんだった。
ただ老いるっても、何十年も経たねばそうならないわけで、その間に一切の変化が無かったとすれば、そりゃ殺人犯せるほどになるでしょうね。これも続編を観た後だから言えることだけど。
ただ、僕はパールが殺人鬼になったとは続編を観た時に思わなかった。『X』の方では明確な羨望を持って、手慣れた感じで次々に殺していったけど、若い時のアレコレは殺人鬼への過程だと思えなかったんだよな。その辺は感情移入の差かな。
やってきた若者達に特に何を思うってことはなかったけど、映画監督の青年が自分のカノジョがあぁなった後、シャワーを浴びながら泣いているのは少し不思議だった。
何もかもを犠牲にして自分の思う傑作を作りたい人なんだと思っていたから、「あ、そこで傷付くし、自分のカノジョはそういう娘じゃないって思っていたんだ」と驚いた。
何と言うか、この程度のことで傷付いて泣いちゃうほどの人なら、野心溢れる映画なんて作れないんじゃないかなぁ、なんて・・・・・・偉そうに言ってしまった。
血眼になって何かを作りたいって人はどっかしらのネジが外れていることが多いから、そこは普通の感覚なのかよ! と肩透かしを食らった気分だった。
愛とセックスは別物とマキシーンが言っていたけど、それはそうだと思う。お前も混ざれば良かったろ、と見当違いなフォローをしたくなったシーンだった。
で、幾つかの感想を見てまわったけど、やはり皆様が一番のグロテスクさを感じたのが例のシーンだったみたい。
僕は「あぁこれも愛の形か」と思ったね。執着が愛と換言できるなら、ハワードとパールの間に起こったことも、パールからマキシーンにちょっかい出したことも、愛の形の一つと形容してもいいんじゃなかろうか。無理かな。
若い人しかそういうことしちゃいけないってわけじゃないって言われれば、それはそう。いくつになっても性に溺れたい人はそうなんでしょうよ。
でも、これが原因で後にハワードがあんなことになるとは・・・・・・あまりにも・・・・・・コメディホラーみたいな現象だったな。
僕は女性嫌悪が酷い時もある人間だけど、女性の悦びとか哀しみを綴った作品は好きだ。リアルに存在する人から向けられる、そういった感情は迷惑だ。
どうしようもない渇望だとか羨望だとか、それが憎悪や怨嗟に転化する瞬間の生々しさと勢いにいつも圧倒される。どうしてこうなったのだろう、あぁそういうことだったのね、そしてぶちかます一撃は最高に輝いて見える。
女ってのは業が深い生き物なんだろうか。
それとも、男が関わるからそう見えるだけだろうか。非常に面白く、厄介だ。
でも、僕はパールの考え方も、行動も気に入っているよ。
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2025/10/31
(主に)映画感想文
所詮、素人がネットで調べて「こういう事例に当て嵌まるかも」と思っているだけだが。
鬱、不安障害、愛着障害、アダルトチルドレン等、自分に該当しそうなものはたくさんある。
それらが環境による原因で育った根源的なもので、成長していく自分がどうにも消化できなかった成れの果てということも。
原因は家庭にあっただろうけど、こうなった責任は自分にある。この世の不条理は全て当人の力量不足によるものだ。
そう考えろと、遠回しに教わったのだから。
だから、時々、他責思考なるものに依存している友人らを見て、羨ましいと思う時がある。
人の所為にできれば、それを他者に伝えられれば、「私にも悪いところはあった」と言わずに済んだら、どれほどの救いが待っているのだろうか。
自分の所為ではない、誰かのこういうところが悪かった、毎度その理屈で片付けることができたら、見たくないものを遠ざけて自分を休めることができたら、後の人生で笑うことができるのだろうか。罪の意識に苛まれずにいられるだろうか。
でも、そういう友人らも陰では納得していない。だから他者を攻撃する。自分の所為だなんて思ったら、自分が壊れるし、全てから遠ざかってしまう。
それを僕は見てきたし、実際に攻撃対象になって悲しい気持ちになったこともあるから、良くないよなぁと余計に自戒の念を強くした。
だけど、もう自分の所為にするのにも疲れた。僕も誰かの所為にして、誰かに「もういいよ、頑張ったよ。逃げてきな」と言われたい。
でも、人間はそう言って裏切るから、他者に甘えるよりも自分の命を終わらせた方がいいのかもしれないと、その可能性も捨てきれない。
先日の親との口論以来、子どもが可愛いと思えなくなった。薬を増やすべきかもしれない。
皆が皆、敵だった。あの場に居て、何も言わなかった母親も、解らないという顔をしている子どもも、普段から戸惑ってばかりの旦那も、皆が敵だった。勿論、父親も。
冷静に見れば、父親の言うことは合っているけど、今の自分にとっては難しいことだ。そんなこと言われて支配されるのは御免だよ、と、これくらいのことが咄嗟に思えたら良かったのだが。
真正面から受け止めて、深く傷付いたのだと知った。被害者が子どもなのだと言われた時、じゃあ僕の周りは敵ばかりだから、やっぱり僕のことは僕が救わなきゃ! と声がした。
それから、現実の自分と内側の自分と、明らかに年齢の乖離がある。否、本当は内側の自分は成長していなかったのかもしれない。
敵だ、敵だ、敵ばかりだ。だから、頑張った末にどうしようもなくなったら、逃げてもいい。全て捨てて逃げていい。死ぬくらいなら、そうしよう。だって、僕を大事にできるのは僕だけなんだから。子どもは僕が居なくても育つ。旦那も僕が居なくても生きていける。
そう声がする。僕が言っている。そう理解した。
ただ、友人らと離れるのは度し難い。彼、彼女らのお蔭で今の僕はまだ生きている。生きていけているのに、それらも捨てるのは今までの人生を捨てるに等しい。
やはり家族とは救いにならず、僕の人生を縛り上げ、押し込め、圧壊させるものなのだ。
だったら、責任に報いようと頑張って、頑張って、でも壊れそうだと自分で判断したなら、捨てよう。逃げよう。どこに逃げればいいのか解らないけど、死なずに済むのならそれでもいいじゃないか。
だって、ちゃんと死ねるかどうか解らない。もうこれで終わりだと思った時に「本当は生きていたかった」と気付くのが、とても恐ろしい。だから一歩を踏み出せない。
それに、僕はまだ書き上げていない。何も終わっていない。物語を続けたいと願って、迷いながらも書いてきたのに、それをこんな形で途切れるなど許してよいものか。
解らない。疲れたから休もうと言っても、休んだところで治るかも解らない。
それはたぶん、今後も頑張れる糧のある人が取るべき手段であって、僕のものじゃないな。そうだろう。
休んだって、結局これだ。最初から分不相応なことに手を出していた。
それでも手を出したのだから、最後まで何とかやりたいと思っていた。できるようにならなければと思っていた。
できなかったら?
実家と縁を切り、離婚し、子どもは養育施設に預けることになるのか?
それで、自分の行く末は? あるだけの金を持ち出し、最低限の大事なものを持って、勇気を出して死ぬのか?
死ぬくらいなら捨てて、どっかに行こう。それならできるよね? と、自分の声がまた聞こえる。
ポポルじゃなくて、もっと小さい頃の自分を装った声。この胡乱な精神状態は、信じていた人間に絶縁された時のものに似ている。それだけ傷付いて、行き場が無い。
その場凌ぎの関係を持つだけでは、もう誤魔化しようがない。そんなものはまた面倒なことになるに決まっている。
あ、でも、こんな状態じゃあ唯一無二のものも、きっと近付いてきてくれない。どちらにしろ、僕には救いなど無いんだ。
救われないのか。じゃあ、諦めてここに居るしかないか。
それとも、物語を書くことに集中して、仮初の救済を試みるか。
真の救済を何だと思っているのだ、肉体から後悔なく離れることか。
その後は・・・・・・帰るんだ、世界に。居るべき場所に。ポポルの中に。
そういう蒙昧なものを信じて生きるのも、人間を信じて生きるより、よほど良いのだろう。
相変わらず紅弥達が話し掛けてくれるけど、それに応えることも今は難しい。
内側の声が大きい。被害者ぶっている所為か、どんどん大きくなる。
自分の状態を理解しているつもりだった。発狂もできない、中途半端で哀れな存在だなと。
子どもが可愛くない、皆が敵に思える、僕のことはどうでもいいのか、そうやって庇われる歳でもないが、それはお前らが言っていい言葉ではない。
とにかく憎悪した。妊娠、出産を経た自分を呪うしかない。馬鹿なことをしたものだ。
子どもも、旦那も、実家の人間も悪くない。全ては自分が悪かった。
じゃあどうする? 死ぬしかないんじゃないか。知らねーよ。
2025/10/24
日常
数々の名作を勧めてきた友人が「こんな映画を観たんだけど、是非観てほしい!」と勧めてきたのがこれ。
どうやらシリーズ物らしいのだが、初回の作は観なくても話が解る(というか、別物として観られる可能性)というので、前作に当たる『X』は観ていない。
たぶん疲れる映画なんだろうなと思っていたので、観られる精神状態になれる時を待っていたのだが、雨降りの本日、そういう心境になれた。やはり観たくなった時に観るに限る。
『X』で出てきた殺人鬼のおばあちゃん、パールの若かりし頃を描いた作品なんですって。
殺人鬼に至るきっかけ、過程を表した作品なのだということは聞いていたから、こんな理由なのかなぁと想像しながら観ていたわけだが、その辺はまぁ想像通りではあった。
想像通りっていうか、自分に重なる部分は幾つもあったので(法に抵触するようなことはしていない、念のため)、パールの環境や心境にえらく感情移入したものだ。
1918年のアメリカが舞台。パールは銀幕のスターを夢見る女性で、旦那のハワードは出兵中。実家である農場で、厳格な母親と、病気で身動きの取れない父と暮らしている。ハワードはどうやらこの農場に婿入りしているらしい。
母親は「最善を考えている」らしくて、とにかく厳しい。あれこれ指示してきて、娘の行動もすぐに見抜く。
父親はそんな母娘の間で口も利けず、身体の自由もきかないまま、母親に叱りつけられる娘を見ている。その世話になって、息も絶え絶えにモルヒネを飲まされていた。これは病状の緩和のために飲んでいるのかな?
パールは映画の中の踊り子に憧れていて、自分には才能がある、絶対にスターになれると信じて、牛舎で動物達に踊りを披露しながら、その時を待ちわびているようだ。
動物相手に踊っているだけなら、まだ可愛げもあるんだけど、ぽやぽや歩いてきたアヒルをでかいフォーク状の農具で殺し、池に住むワニに餌付けしている辺りから「あれ、なんかこの娘・・・・・・?」と気付かされる。
もう既に片鱗が見えている、見えているよ、パールちゃん!
ネタバレ無しで感想を書くと、あぁ~そうなのよ、解る、解るよぉ~という、ねっとりとした納得を抱いた。
パールほど酷くはないが、自分の実家も皆が抑圧され、歪み、社会生活を普通に送っているけども病んでいた。そういう環境に居たら、子どもはどのようになるか? 歪むに決まっとる。
パールの年齢がちょっと解らなかったけど、たぶん20代半ばとかなのかな。ハワードも出兵したってことは若いんだろうし。今の価値観からすれば、結婚する年齢は早い方よね。
故に、若さと衝動を持て余しているようにも見えた。ただ毎日、農場の手伝い、幼子のように母親に小言を言われる、動けない父の介護って、若い人が背負うには苦しいと思う。まだいろんなことしたいだろうし、縛られたくないよね。それはいつの時代も感じるものなんじゃなかろうか。
で、またそれを町の映画館で遭った映写技師に言われて、客観視ができちゃったところが、ターニングポイントになっちゃうのよね。一時的にでも、ここでパールは認められたんだから。
それが自信に繋がって、やる気に繋がって、この勢いを失いたくないって思うのも当然よ。
その勢いを殺ぐ実家と母親に嫌気が差すのも、仕方ない。正しく「私は誰にも止められない」の状態だった。
パールの体験した環境は厳しいもんだったね。
親からの抑圧、貧しい生活、ぶつけどころの無い欲求・・・・・・でも、根源的なパール自身の欲求は誰にでもあるもので、しかしそれを与えるには周りにも余裕が無かったってのが、こうなった原因なのかなーなんて思った。
この歯車がどこか一つでも違っていれば、パールが堕ちるところまでいくのを止めることができたかも?
彼女も反省しているような素振りはあったからね。もう止まれなくなっちゃったけど。
あと、やっぱり主演女優の演技力に度肝を抜かれる。古いアメリカ映画っぽい表現も相まって、ものすっごく雰囲気があるんだよね。映画が彼女についてきている、みたいな。
この方は『X』でも特殊メイクをしてパールを演じているらしいので、この役にうってつけなのでしょう。そうでしょうよ、ラストとか凄かったもん。
夢見る田舎町の娘、重圧に喘ぐ娘、性欲を発散しきれない娘、とにかく若さとか愚かさ、過ちを詰め込んで、たっぷり演じきっているのよ。見応えがめちゃくちゃあるのよ。どうやってキャラ作りしたんんだろう。
叫ぶ演技も、泣く演技も、身体張ってバシッと決めている。とある場面で泣く演技とか、うわーーめっちゃ悔しいんだろうなってのが伝わってくる。圧巻でした。
こんなに演技で圧倒されたの、『VVitch』の弟くん以来だな。あれはもう一度観たい。
個人的には非常に楽しませてもらったけど、人に勧められるかというと難しい。
軽い気持ちで観るにはグロステクな心情や描写、ちょっと性的な表現もあるので、その辺に興味や理解を示せる人が観たら面白いかも。
若かりし頃がこんなんで、老婆になった時にどういう行動に出ているのか、とっても気になりました。
近いうちに『X』も観てみようと思います。友人からは酷評だったけど。
[続きはこっちで]
2025/10/22
(主に)映画感想文
出産を経て、産後うつを経て、元の病状が悪化しつつも、何とか周りの助力を得ながら子育てに従事してきた。そのつもりだ。
自分が死ぬか、子どもを養子に出すかで悩んだ末に、実家に子どもを預け、毎日会いにいくという生活を選んだ。
頭が混沌としていた自分は、その時に何かを決めるのが非常に億劫だった。選べたのはそれくらい。
世間と比べれば、随分と楽な子育て環境にあったと思う。
それでも、時に病状に悩まされ、動けなくなることもあった。
友人と会ったり、睡眠時間を削ってでも自分に戻る時間を確保したり、日々を全うするのに精一杯だ。
周りから見れば、遊ぶ気力があるねって呆れるだろうが。
それらの苦痛や苦悩は誰とも共有できない。自分にしか解らない。
だから孤独なのだ。子どもですら、自分の敵に回るものなのだ。
そんなことを強く思った、父親との口論があった。
もっと強くなれとか、ずっとこのままじゃいけないとか、駄目でも先ずはやってみろとか、被害者はお前じゃなく子どもだとか、腐るなとか、それはもう好き勝手言われてしまった。
いや、相手からすれば、自分が健常者側だと思っている人からすれば、そう言いたくなるだろうよ。
人間は自分に起きたことしか理解できない。相手の立場に立って、寄り添ってってのは、一部の人にしかできない固有スキルみたいなものだ。
誰しもできるものではないと、自分も解っている。
だから望まないようにしてきた、特に両親に対しての諦めは早くにつけたいと、中学生頃から言い聞かせてきた。
その分の希求を友人に向けたがために、何年も経ってからしっぺ返しのよーなものを喰らったわけだが……
友人に対しても、親に対しても、望めることなど僕には無い。というか、許されていない。
父親と話していて、「そういえば、こういう人だったから、自責思考が強くなったし、卑屈になったんだっけな」と、ぼんやり抱懐した。
言っても解ってもらえない、否定ばかりされる、どうせどうせって、頭は飽和した。
悔しいのか悲しいのか、涙だけは出て、言葉少なに言い返しはしたが、聞いてもらえた感じがしない。
親と過ごす時間が少ないのは、子どもが可哀相だ。
そう何回か言われたが、正直、僕のよーな病んだ母親とぴったり一緒に居る方が、悪影響を及ぼす気がする。
それが怖くて、鬱が極まった時に「もっと健康的な親のところへ、そうだ、養子しかない」と思い込んでいたわけだし。
その間、まったく踏ん切りはつかなかった。
養子に出すのも、自分が死ぬのも、恐らく失敗すると解っていた。
何もできなくて、薬を増やすことで日々を全うすることに注力した。
ポケモンのアルセウスをやっていた時、シマボシさんの言葉に奮い立った。
他人の称賛も批判も所詮は他人の感情でしかなく、大事なのは己がどうしたいか。そんな内容だった。
後者はよくよく身に染みていることだが、前者は目からうろこだった。
自分にとって良いものも悪いものも、他人が他人の眼鏡を通して見たものを口にしているだけ。
言葉にした時点で、それはもう別物になっているのだろう。
そんな胡乱なものに振り回されて、自分のやりたいことや気持ちが押し殺されるなんて、随分と退屈な話だ。
だから、父親から言われたことも、父親から見た側面というだけで、僕を破壊するまでのものではない。
というか、もう破壊されきってて何も残っていなかった。
この人は知らない。子どもを産む前の僕の悩みも、地獄の期間も、そこに附随する精神がどれだけ捻れつつ日々を凌いでいるかを。
本当は子どもを持つに値しない存在なのに、分不相応なことをしてしまった。責任は取らなくてはと思っても、病状によっては投げ出したくもなる。
言い訳? そりゃたくさんある。出来損ないの自分に子育てなんて、不可能なのだ。
でも、そうも言ってられないから、薬をのんで、自分に戻る時間を少しでも確保して、どうにかやってきている。
自分のタイミングで決めたかったが、相手からすればちんたら遅いのだろう。
子どもが可哀相ってのも、どうかな。病んだ親の元に居た方が可哀相ってやつなんじゃないの。
話をしている間、自分には味方なんて居ない。誰しもが敵になる。自分を労わってあげられるのは自分だけ、と強く感じた。
子ども優先でやってきたつもりだが、自分の世界の中心は自分だ。
被害者は子ども? 確かにそうだ。僕も被害者なんだ、あなた方の。
だから尚更感じる。歪んだ親元から、一定の距離を保った方がいいと。
本当に、親は僕を追い詰めることにだけは余念がないと嗤いたくなった。
この歳で「親の所為で!」なんて言うつもりはなかったし、子どもを救ってもらえただけで積年の怨恨を帳消しにできる。そう思った。
しかし、所詮は他人。家族で過ごすことが最良だなんて、偶像崇拝みたいなもんだ。
僕にそれを教えられなかった者の敗北で、家族で過ごすことの安心感を理解できない僕が、子どもと四六時中関わるのを是とできないのは当たり前なのだ。
そこまでは頭が回らないらしい。
そりゃそうだ、自分が病の原因のひとつなんて思わないだろう。
ちらっとでも内省したことあんのかい? 無いんだろうね。
いつでも自分が正しいと盲信できる。それも才能だ。
あの子みたいで、腹立たしい。
死にたい気持ちは強く、子どもも大事にしてあげたいが自信は無い。
親は孫のことは大事にするが、手元を離れた子どもは攻撃対象でしかないらしい。
そうやってまだ親に期待する自分に泣ける。目を醒ませ、アホなのか、期待するんじゃないよ。
子どもはいざとなれば、親が面倒をみるのだろ。
あとは僕が如何にして死への恐怖を克服できるか。
死にたいのか、逃げたいのか、そこも判然としない。
薬を増やして挑むべきかもしれない。
何も意味なんて無い。
ただ、やはり出産などするべきではなかった。
僕のような存在がやっていいことではなかった。
2025/10/19
日常
これがそうだとしたら、愚か極まりない。
月の満ち欠け、毎月の体内での現象、いろんな理由を付けてみるけど、結局は精神がまたしても囚われているだけ。
のめりこんでいられるものが無ければ、こんなにも簡単に過去に舞い戻って、ぶすぶすと燻った怒りを持て余す。なんという時間の無駄。
それが解っていても、自分ではどうすることもできない。本当にそこで諦めていいのだろうか。
出産を経て、子育ての間中、いろんなところに対して牙を剥いている気はする。
余裕など無いし、ふとした時に考えは飽和するし、自分を保つので精一杯だ。産んだことに後悔は無いが、相手を見る度に「お前がこうなると解っていれば産まなかった、だから子を持つことを躊躇ったというのに、阿呆め!!!」と侮辱したくなる。
信頼など、とうに失せている。好きにやればいい。家族として生きていくには申し分ないどころか、自分のスペックでは付き合えない部類の人間だということは重々承知しているが、それでも僕が信頼を置けるような人間ではなかった。やっぱりそうだった。
心の拠り所に人間を据えるのは、さすがにもうやめたい。
そう思って、ゲームに没頭していった。隙間時間さえあればゲーム、書くことの内容を考える、それで自分を保っている。
前に自分が書きなぐった小話なども、非常に役立っている。この時のためにも書き残したのだと思えるくらい。体調を崩したこともあるけど、書きたいものをどんどん書いて良かったと思える瞬間。
そうなのだ、やっぱり自分を救えるのは自分だけ。依存したところで、執着したところで、人間には重すぎる。僕のことを受け止めきる人間を捜していたけど、そんなもん存在せんわと諦めがつく。
だけど、友人からは「君はまだ人間に期待しているんだろう」と言われた。それもそう。
昔よりだいーーーーぶ、いや、かなりその頻度や度合は減った筈だが。
それでも、過去を思い出せば、こんなことを言われて傷付いた悲しかった悔しかったということを思い出してしまえば、それをぶつけて受け止めてくれるものを探したくなる。
人じゃないとすれば、不可視の存在か。最近は忙しくて、たまにしか会話をしていない。
一人の時はよく声が聞こえるが、誰かと居るとそっちに集中するから、まぁ聞こえない。
それもいつまで聞こえるんだろう。僕はいつまでその世界の住人でいられるだろう。漠然とした不安をいつも抱えている。
長年、信頼していた人間に梯子を外された。こいつは一生許さないが、どこかで会って冷静に話をしたいとも思う。今際の際で果たされるか。
長く付き合ってきた友人の中の自分の優先順位は下だったと解り、あれだけ話を聞いてきたのになぁと恨めしくなってしまう相手が居る。結局、自分が尽くした分だけのものが返ってこないから怒っているのだ、僕は。
この二人と関わった時間は長いように感じているが、この二人にとってはそうでもないのだろう。僕以外にいろんな出会いがあって、そっちの方が奇跡に近く、楽しいものだったから。
二人に費やした思考の時間も真心も、二人の中の僕の順位が低ければ屑にしかならない。僕はそれが受け入れられない。
諦めがつかず、二人に認められるか、謝ってもらえるまで、一生こうしてモヤモヤしたしょーもないもんを抱えるつもりなのか。不毛な。
これこそが、依存の後の執着だ。僕は執着している、まだ燻っている。
だから思い出して辛くなる。何であんなに僕のことを傷付けて平気なの、他の人と話しているのって落ち込んでいく。
SNSで空リプのよーなことをして試している時だってある、未だに。呆れたね。
そんな愚かな自分に転機は訪れるのか? 僕はちゃんと成長しているのか?
ハマれるものが少しでもあれば、気にせずにいられた。相手に良い感情を向けることができていた。
だけど、余裕が無くなってくると妬ましさや恨みが蘇ってくる。ってことは、その前にあった”良い感情”は嘘なんじゃないか。どんな時にも発揮されなければ、それは仮初なんじゃないか。
こんな相手を選んだ、こんな相手に期待した、自分が馬鹿だった。愚かだった。見る目が無かった。
そんなふうに自分を責めないと、次に進めない。他人を責めても謝ってくれない、認めてくれない。開き直って、逆に傷付けにくる。
だったら、そんな奴らより上にいく。お前達は持たざる者だから仕方ないな、と上から物を言ってやる。
馬鹿にすることでしか、自分を違う存在なのだと思えない。この方法はきっと間違っている。
かといって、世界平和を願えるほどの高尚な精神が今から持てるわけもない。
同じく余裕があれば、相手の幸せを願うことも可能だろう。今はそんなふうにはなれない。願えない。本当は願えない。
じゃあ不幸を願うのかと言うと、それも違う。何も願わない。ただ、また会って話したいとか、遊びたいとか、自分主体で考えているだけ。
僕にとって他者は何なんだろうか。自分が死ぬまで付き合ってくれる玩具か何かだと思っているのだろうか。
以前、診断メーカーをやった時に「他人は自分の玩具みたいなもんだと思っている」と出て、驚いたことがある。そんな指摘を受けたことはないが、妙にしっくりきた。じゃあ、そうなんじゃないか。とんでもないな。
そんな人間に好かれても、そりゃ誰だって逃げるよ。
それに、僕が正義感を翳して物を言ったことで、この二人も少なからず傷付いているし、どこかで嫌になったりもしただろう。
また仲良くなりたいってのも不毛かね。二人とも、自分の選択が正しいと信じている。本当は選んだんじゃなくて、時間切れでそれしかもう行く道がなかっただけなんだけど・・・・・・まぁ、それはこっちの視点からの話だ。
僕にとって、この二人は間違いなく友人だった。二人にとってもそうだったらいいけど、今となっては解らない。
でも、僕はこの二人を大事にしていたのだろうか。この二人の間でも何かあったりしたからな、ここは所謂、カルマメイトってやつかもしれない。魂のレベルで何かあったとしか思えない。
それを視るだけの力は僕には無いから、誰にも話せない憶測だ。いつまでも気になるのは、僕がこの二人を繋げるからだろう。たぶん。
それにしても、しんどい。もう思い出したくないし、嫌な感情を抱えたまま過ごしたくない。
子どもの相手でいっぱいいっぱいなのに、終わっただろう自分の傷痕に苛まれるのはどういうことか。自分の所為だとしたら、やはり最大の敵は自分なのだ。
仲良くできれば良かったけど、もっと僕が言い方を考えられたら良かったけど、今言っても詮無いこと。
これから先、どんなふうに関わっていけばいいのかを考える。
僕が関わらない方が幸せなのかもしれないけど、それは僕が決めることじゃない。僕が関わりたいと思っているなら、考えていかなくちゃ。
執着から手放す方向へ、まだその先は見えない。どうしたらいいか解らない。
感性が似ている友人に相談してみようか。彼ならどんなふうに考えていくだろう。
2025/09/27
日常