ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
何とか時間を作ることができたので、無料期間が終了する前に映画を観ておくことにした。
積んでいたのは『アンドリューNDR114』、それから『悪魔のいけにえ』の二本。
前者は友人から、映画そのものというより小説の話を聞いていて、映画があるらしいけど有料なんだね~って話をした。「どんな内容かも解らないのに支払わせるわけにもいかないし」と友人が渋っていたのも思い出した。
そんな映画が狙ったように無料で公開されていたので、感謝しつつ観ることにした。
ちなみに友人にもこの情報は伝えて、彼女は先に観ていた。曰く、恋愛描写が強めとのことだったので、原作を読んだらまた印象が変わるのかもしれない。
原作は読んだことがないので、まるっきり映画から入ったクチ。
それでもアイザック・アシモフの名前は聞いたことがあったし、サムネの画を観たらどういう話なのかは予想がつくようになっていた。機械が心を持って云々ってことかなぁ、と。
今でこそ機械にまつわる創作はたくさんあるけど、その原点となるのがこの原作と言っても過言ではないらしいので、それを映像化した作品ならきっと良い気付きを得られるだろう、とわくわくしながら観ていた。
今更どうこうあらすじを書き連ねるものでなし、ネタバレという程のこともなし、昔の名作に野暮なことは言わないのが吉だ。
人でないものが人のような感情や心を持った作品っていうと、僕が思いつくのは『ブレード・ランナー』だろうか。あとキツくて最後まで観られなかった『A.I.』とか??
この映画の主人公であるアンドリューは最初から感情があったわけじゃなく、長女の命令がきっかけで感情を会得したのね。業者から見れば確かに故障とか、不良品、欠陥品になるわね。
でも、このアンドリューが実に面白く、愛されるようなキャラクター性を持っている。見事な体現をしてくれたロビン・ウィリアムズに脱帽よ。この方、『ジュマンジ』でも凄く良い演技をなさっていたな。
とにかく感情が芽生えてからのアンドリューはコミカルで、愛嬌があって、見ていて気分の良いキャラだった。
そんな彼を友人とするサー、どちらかと言えば父親寄りの感性を持つリトル・ミスが良い味出しているのよね。立ち回りや、アンドリューへの影響等々。
母親とグレちゃった長女は「あくまでも機械」というスタンスだったけど、そういう視点もあった方がリアルだ。誰も彼もがアンドリューを”人間”のようには扱えないね。
アンドリューの外観が二足歩行だったからなのか、それとも演じた方のグッジョブなのか、不気味の谷現象はあまり発生しなかった。
そんなつもりないって自分で否定していたけど、僕はどうやら人でないものが人の真似をすることに嫌悪感を抱き易いらしい。そうなのかなって思ったのは初音ミクの台頭の時で、確信を持ったのはニーア オートマタの機械生命体の諸々を見た時だ。
これもまた自然な感情なんだと思うけど、相手からすればあまり気持ちのいいものではないよね。って、こうやって人間扱いしようとするのに、彼らが人間に限りなく近い振る舞いをしていると、理屈ではない部分で「うーん」て思ってしまう。
そも人間とは何かって定義をしないことには・・・・・・難しいなぁ。
劇中でも、一部に人工的な臓器を使っているなら、完全な人間なのか、それでも人間なのかって思わせるような問答があったけど、そうだよね、生身が人間なのか、機械でも心があれば人間と呼べるのかって、かなり複雑な内容だわ。
機械と人が愛し合うってのも、心があってこそだね。だって、人間を愛するメリットなんて機械には無いからね。
アンドリューは最後に人間らしい終わり方を選択し、好きな人の隣で目を閉じたけど、これって幸福な方法なのかね。そうかもしれないね。
ポーシャもまた生命を維持することをやめて、アンドリューと再会するべく静かに永眠したね。あの終わり方、とても綺麗だとは思った。
それを看取ったのがガラテアってのがね・・・・・・ガラテアは何を思うんだろう、彼女も感情を獲得しているんだよね?
主人が居なくなって、アンドリューも居なくなって、そうやって知っている人が減っていくことに対し、寂しいって思ったりするのかな。
寂しいといえば、アンドリューは自分が関わってきた人達を見送ってきたんだもんね。
歳を取ったからだと思うけど、最近こういう「皆を看取り、自分も息を引き取る」という展開にとても弱い。自分も最後はこうやって、関わった人達を見送ってから静かに去りたいなって思う。
幸い、僕は次世代を残すことに恵まれたけど、それが死ぬ時の満足感にどう繋がっていくのか、今からは何も解らない。自分の世界が存続できればいいって考え方も、勿論捨てていないけど。
人間が心を失うことだってあるわ、それって人間っていうより化け物って言われることの方が多い気がする。
心があるか無いかが人間の分かれ目なら、どういう分け方ができるのでしょう。感情じゃないよ、心だよ。じゃあ、感情と心ってどういうふうに違うんだろう。
あと素晴らしいのは音楽。大袈裟じゃなくて、素朴で、でも耳に残る良い音だった。
OPも良かったね。ものつくりの工程を見ていたら、『イノセンス』を思い出した。SF作品を作る人なら、アシモフは読んでいて当たり前だったりするのかね。
時間が無くてとっちらかった感想になったけど、観て良かった。
晩年にまた観たくなる気がする。それがいつのことになるのか、僕にも解らない。
いつその時が来るのか解らない、それが人間の寿命なんだって。怖いね。怖いけど、自然なことだ。
自然であること、あるがままを受け入れること、難しいけど人間だからこそやっていきたいね。
積んでいたのは『アンドリューNDR114』、それから『悪魔のいけにえ』の二本。
前者は友人から、映画そのものというより小説の話を聞いていて、映画があるらしいけど有料なんだね~って話をした。「どんな内容かも解らないのに支払わせるわけにもいかないし」と友人が渋っていたのも思い出した。
そんな映画が狙ったように無料で公開されていたので、感謝しつつ観ることにした。
ちなみに友人にもこの情報は伝えて、彼女は先に観ていた。曰く、恋愛描写が強めとのことだったので、原作を読んだらまた印象が変わるのかもしれない。
原作は読んだことがないので、まるっきり映画から入ったクチ。
それでもアイザック・アシモフの名前は聞いたことがあったし、サムネの画を観たらどういう話なのかは予想がつくようになっていた。機械が心を持って云々ってことかなぁ、と。
今でこそ機械にまつわる創作はたくさんあるけど、その原点となるのがこの原作と言っても過言ではないらしいので、それを映像化した作品ならきっと良い気付きを得られるだろう、とわくわくしながら観ていた。
今更どうこうあらすじを書き連ねるものでなし、ネタバレという程のこともなし、昔の名作に野暮なことは言わないのが吉だ。
人でないものが人のような感情や心を持った作品っていうと、僕が思いつくのは『ブレード・ランナー』だろうか。あとキツくて最後まで観られなかった『A.I.』とか??
この映画の主人公であるアンドリューは最初から感情があったわけじゃなく、長女の命令がきっかけで感情を会得したのね。業者から見れば確かに故障とか、不良品、欠陥品になるわね。
でも、このアンドリューが実に面白く、愛されるようなキャラクター性を持っている。見事な体現をしてくれたロビン・ウィリアムズに脱帽よ。この方、『ジュマンジ』でも凄く良い演技をなさっていたな。
とにかく感情が芽生えてからのアンドリューはコミカルで、愛嬌があって、見ていて気分の良いキャラだった。
そんな彼を友人とするサー、どちらかと言えば父親寄りの感性を持つリトル・ミスが良い味出しているのよね。立ち回りや、アンドリューへの影響等々。
母親とグレちゃった長女は「あくまでも機械」というスタンスだったけど、そういう視点もあった方がリアルだ。誰も彼もがアンドリューを”人間”のようには扱えないね。
アンドリューの外観が二足歩行だったからなのか、それとも演じた方のグッジョブなのか、不気味の谷現象はあまり発生しなかった。
そんなつもりないって自分で否定していたけど、僕はどうやら人でないものが人の真似をすることに嫌悪感を抱き易いらしい。そうなのかなって思ったのは初音ミクの台頭の時で、確信を持ったのはニーア オートマタの機械生命体の諸々を見た時だ。
これもまた自然な感情なんだと思うけど、相手からすればあまり気持ちのいいものではないよね。って、こうやって人間扱いしようとするのに、彼らが人間に限りなく近い振る舞いをしていると、理屈ではない部分で「うーん」て思ってしまう。
そも人間とは何かって定義をしないことには・・・・・・難しいなぁ。
劇中でも、一部に人工的な臓器を使っているなら、完全な人間なのか、それでも人間なのかって思わせるような問答があったけど、そうだよね、生身が人間なのか、機械でも心があれば人間と呼べるのかって、かなり複雑な内容だわ。
機械と人が愛し合うってのも、心があってこそだね。だって、人間を愛するメリットなんて機械には無いからね。
アンドリューは最後に人間らしい終わり方を選択し、好きな人の隣で目を閉じたけど、これって幸福な方法なのかね。そうかもしれないね。
ポーシャもまた生命を維持することをやめて、アンドリューと再会するべく静かに永眠したね。あの終わり方、とても綺麗だとは思った。
それを看取ったのがガラテアってのがね・・・・・・ガラテアは何を思うんだろう、彼女も感情を獲得しているんだよね?
主人が居なくなって、アンドリューも居なくなって、そうやって知っている人が減っていくことに対し、寂しいって思ったりするのかな。
寂しいといえば、アンドリューは自分が関わってきた人達を見送ってきたんだもんね。
歳を取ったからだと思うけど、最近こういう「皆を看取り、自分も息を引き取る」という展開にとても弱い。自分も最後はこうやって、関わった人達を見送ってから静かに去りたいなって思う。
幸い、僕は次世代を残すことに恵まれたけど、それが死ぬ時の満足感にどう繋がっていくのか、今からは何も解らない。自分の世界が存続できればいいって考え方も、勿論捨てていないけど。
人間が心を失うことだってあるわ、それって人間っていうより化け物って言われることの方が多い気がする。
心があるか無いかが人間の分かれ目なら、どういう分け方ができるのでしょう。感情じゃないよ、心だよ。じゃあ、感情と心ってどういうふうに違うんだろう。
あと素晴らしいのは音楽。大袈裟じゃなくて、素朴で、でも耳に残る良い音だった。
OPも良かったね。ものつくりの工程を見ていたら、『イノセンス』を思い出した。SF作品を作る人なら、アシモフは読んでいて当たり前だったりするのかね。
時間が無くてとっちらかった感想になったけど、観て良かった。
晩年にまた観たくなる気がする。それがいつのことになるのか、僕にも解らない。
いつその時が来るのか解らない、それが人間の寿命なんだって。怖いね。怖いけど、自然なことだ。
自然であること、あるがままを受け入れること、難しいけど人間だからこそやっていきたいね。
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勢い込んで感想を書いていたのに、それが全部さっぱり消えてしまって何を言いたかったのか忘れてしまった。まぁいいか。
異種間恋愛ものだってことが早々に解っていて、でもギレルモ・デル・トロだしなぁと敬遠していた映画だったけど、やっと観た。
すっきりと描かれたロマンスだったので、後腐れなく観れた感じ。寧ろ、同種間の恋愛すら書けずにどうしたもんかと思っていた自分にとっては、この映画のすっきり具合は見習いたいところ。
人によっては半魚人の設定は何なんだとか、あれは結局どういう存在だったんだとか、そういう部分が気になると思うけど、この映画の肝は恐らく異種間恋愛ってところだけなので、考えずに感じた方が楽しめると思います。
小説も出ているようだ。そっちを読んだ方が設定とかは解るかもしれない。
主人公のイライザの地味な色が段々と派手な暖色系へ移り変わっていく、彼女の心境の変化。毎日が楽しくなり、気持ちが弾んで笑顔を見せるようになり、周りが見えなくなっていく様は正しく恋愛真っ只中の女性。
彼女を取り巻く10年来の友人(黒人)、隣人の絵描き(ゲイ)、彼女自身(聾唖者)という、1960年代のアメリカではちょっとだけ受け入れにくい存在。彼ら自身はとても良い人柄を持っている。なんだかんだ、マイノリティ同士だからこそ協力し合うって印象を与える。
イライザ自身が海の世界から来たんじゃないかと思わせる言動の数々、雨が降ることを解っていたり、窓の外の水滴を少しだけ操るような描写が目を引いた。彼女が唐突に歌って踊り出すミュージカルシーンも、彼女が人魚姫のような存在だったなら納得かなって。脚を手に入れる代わりに失った声で、聴こえないけど彼への愛を歌う。
人間側の悪役として描かれたストリックランドの苦労人っぷり。家庭も仕事も円満に見えて、その実、この人が満たされることってあんまり無かったんだろうな。好きでもない色の高い新車を買って、早速ぶつけられたところとか、同情せずにはいられなかった。
と言ったところで、ストリックランドの環境は彼自身にもちょっと非があるんじゃないかって感じるけど。家庭にしろ仕事にしろ、選び続けているのは彼だろうしね。そういうことを認められるほど、強い人間でもなさそうだったね。
ソ連のスパイだったディミトリは半魚人に興味を持ったばっかりに、仲間から異動命令を食らい、ストリックランドとも対立することに。この人の最期は報われそうになかったな。途中まで何だか良い人に見えていたから、少しは救いがあっても良かったな、なんて。
様々な要素を絡めながら、恋愛模様を描いた正しくロマンス映画。恋愛映画とか普段全く観る気にならないけど、異種間恋愛となると話は別。
とはいえ、先述の「イライザは海の世界から来たのでは」説を僕は推しているので、異種間というか、最後は同種間というか・・・・・・まぁ姿は二足歩行以外、そんなに似てないけどね。
イライザは水中が好きなのかと思ったんだよ、自慰行為も必ず風呂場だったし・・・・・・とか言って、風呂場なら汚しても洗い流せるからここでやるのかなって思っていました。ちょっと違ったみたいです。
巷の考察や感想を読んでみたら、結構居たんだ、イライザは人魚姫なんじゃないかって方が。あの首の傷を見たら誰だってそう思うよね。僕はあの傷を見て映画のダゴンを思い出したから、だからイライザを人間とは思わなかっただけかもしれない。
半魚人も、小説版だと神として描かれているみたい。クトゥルー的存在かと思った。
感情表現がちゃんとあって、イライザのこともちゃんと好きだったようだ。どこか可愛げのある仕種がいいなーと思わせるが、隣人の猫を食った時はヒェッてなったぞ。それを「彼の本能によるものだから」と理解を示した隣人も凄いが。
ってな感想をもっとつらつら書いていたのに、一瞬でパァだ。30分がパァだ。
とにかくあまり気負わずに観られる恋愛映画です。グロテスクな場面とか、性描写もがっつり映ることがあるから、一人で観るのをお勧めします。
例の怪獣映画を勧めてくれたフレが満を持して勧めてきた、気になっていたタイトル。
振り返れば『バトル・シップ』を観た頃くらいに名前を見かけていて、同じような感じかな~気になるな~なんて思いながら、結局観る機会が無いまま、ここまで来てしまった。気が付いたら十年。
勧めてきたフレの感性と度々重なることが多く、怪獣映画を嗜むようになった今なら観られるんじゃないかと思い、視聴を開始。
ギレルモ・デル・トロ監督の作品は幾つか観ていたので、映像もきっと綺麗なんだろうなぁと期待しながらのことだった。
結論から言えば満足。映像美、機体のかっこよさ、怪獣の容赦の無さなど、あらゆる点で楽しませてもらったと思う。
人間ドラマと見せたいバトルとの比率が、デルトロさんだったらこうなるだろうって予想の範囲内だったので、熱くなり過ぎることもなく、かといって冷めることもなく。良い塩梅で楽しめたんじゃないだろうか。
デルトロさんの映画を観ていて常々感じてしまうのは、映像は綺麗なんだけどあともうちょっとだけ何か欲しいなっていう、何某かの欲。
観たのがホラー作品ばっかりだからそう思うのかもしれないが、あともうちょい、もう少し、これだけでいいから一つまみの何かをくれって、いっつも感じてしまう。それだけデルトロさんの作品に感応して期待しているんだろうけど。
『パンズ・ラビリンス』、『クリムゾン・ピーク』、『MAMA』と観てきて、「もう少し何かあるんじゃないか!?」と思って待っているけど、起きずに終わるということが多い。
じゃあ何を求めているんだって言われると、何だろうな。何かが足りない、もっと欲しい、いろいろ当て嵌まるけど、そう感じているということだけは確か。
ただ、映像は本当に綺麗だよね。小道具ひとつ取っても凝っているから、画面の隅々まで観察しようという気になる。
特にそう感じたのはパンズ~とクリムゾンかな。クリムゾンは時代も相まって、女性の着るドレスが豪奢で、見ていて楽しかった。
今回はホラーではなく、怪獣映画に分類される・・・・・・んだろうか?
ホラー以外のデルトロさんってどんなんかしらって、先入観を捨てて観ていたつもりなので、だから満足したのかもしれない。
吹替版の声優陣が豪華と聞いたので、吹替版で観たけど、本当に大御所ばっかりだったな。
玄田さんはシュワちゃんの吹替とかやっていたから違和感無いのは解っていたけど、杉田さん、めぐさん、浪川さん、古谷さん、池田さん、千葉さん、三ツ矢さんって面子がすっごい。
そして吹替版らしい自然な演技で、アニメ色をあまり感じなかった。めぐさんと古谷さんとか、声がそれっぽいけど違う方か? って、最初は気付けなかったくらいだ。
ここでやっとアニメの声優と、洋画の吹替声優の演技ってこんなにも違うのかと認識させられる。でも、どっちの声優もどっちの現場に行ったって完璧な演技をするんだから、プロって凄い。なんて薄っぺらい感想だ!
あとはネタバレ必須の感想。
この後にまた『バトル・シップ』観ようと思っていたけど、満足していたから観ませんでした。
あんまりたくさん観たらアドレナリン出過ぎて、誰かに語らないと済まなくなってしまう!
妊娠中は兎角、何をやるにしても集中力や体力が長続きせず、なかなかに歯痒い思いをする。
「その間、やることないならコレやってみ」と勧められたのが、ポイントを貯める活動だった。これを略してポイ活と皆が言っているのだろうか。
そのポイ活でぼんやりと動画を流し見していたところ、見つけたのが『狂つた一頁』なる映画だった。
彼の有名な川端康成氏が脚本を書いていたり、撮影の助手に円谷英二氏が居たりと、何やら豪勢そうなスタッフだなぁと制作された年を見てみたら、1926年とあった。魂消た。大正時代の貴重なフィルムとは。
しかも脚本があると言っても、川端氏の脚本を基に作られたわけではなく、映画そのものを作った後に川端氏があれこれ書き加えた物が存在している、という体なのだとか。どういうことだ。
あらすじを知った上で視聴を開始すると、その理由も何となく解ってきた。
この映画は日本で初めての前衛的な映画という位置づけで、物語云々よりもその撮影技法だとか、表現しようとした内容について高い評価を得ているらしい。
撮影技法については素人同然なので、この撮影はこういうやり方だという認識がほぼ無いまま観ることになったが、意欲的な作品なのだということは理解できる。それだけの熱意を感じられるのが、素人の救い。
妄想と現実を描き出すというテーマは興味深い。この頭の中を他の人の視界に投影した時、どんなふうに見えるだろうか。支離滅裂で、暗くて、怖くて、救いの無いものに見えるのだろうか。
観たのはアマプラにあった、尺の短い、BGM付きの方だった。
オリジナルは70分超えでBGMも無いらしいのだが、そちらを衣笠監督が自ら編集したとかで、音楽がある分、多少は見やすくなっているのではないだろうか。
とはいえ、その音楽も物々しいというか、おどろおどろしい雰囲気を伴って鳴っているので、これはホラー映画だと言われてもしょうがないかもしれない。個人的にはホラーではなかったんだが。
「難解な話」と聞いていたので、そんなにやべー話なのかなぁと思っていたら、字幕が無いことに端を発するものだったらしい。
モノクロ、無声映画だろうとは思っていたが、字幕まで無いとは。そうきたか。そりゃ話を理解するのに骨が折れるわ。
登場人物があれこれ何やら喋っていることは解るけど、何を言っているのかは解らない。読唇術でもできれば、少しは助けになったろうか。いや、無いものをねだっても仕方ない。とにかく雰囲気から何が起きているかを知っていかねば。
そんな努力をしながら50分余りにまとめられた本編を見たが、結局、登場人物のおおまかなところしか解らず、ウィキや考察サイトなどを見ることになった。夫と妻しか解らんかったぞ。
昔の言い方で言うと、精神病院に入院している妻。その妻を見守るために病院付きの小使いになった夫。母が入院しているために婚約が破談になりそうな娘。独房にしか見えない病室で踊り狂う女。大勢の患者が不可解な動きを見せ、それを胡散臭い笑顔で見る医者と看護婦達。
先ず内容が内容なだけにフィルム化が難しいと聞いたが、これは確かに難しい・・・・・・いや、そうなのか? かなり貴重なフィルムなんだし、DVDで欲しいって人もたくさん居るのでは?
精神病院云々というと、思い出すのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』。こちらも難解故に途中で挫折したのだが、これを読んでいた時に感じた鬱屈としたものをこの映画からも感じた。
妻が入院する羽目になったのは、そもそも夫が水夫で家をあけがちだったこと、暴力を振るってくることが原因。それを苦にして我が子と心中しようとしたけど、我が子だけ死んで自分は生き残ってしまったから、それで気がふれてしまったという。
ということは、子どもは二人は居たって設定なのね。上の娘は立派に育って婚礼の話も出ていたけど、母が入院していることが問題で破談になりかかっていると。
それを知った夫は妻を病院から連れ出そうとするが、妻は嫌がり、自分から病室に戻る素振りまで見せた。夫の方こそ気が昂って、夢とも現実ともつかぬ世界で妻をまた殴りつけたり、娘が無事に結婚していく様を見たりと、逆に堕ちていく様が見て取れる。
夫は妻に対して暴力を振るっていたっていうけど、妻を心配して病院で働くなんて反省しているじゃないか~と思わせておいて、妄想の中では妻をしっかり殴っていたね。これがこの人の本性なんだね。
娘の婚礼が上手くいくためにと妻を病院から連れ出すつもりだったみたいだけど、それができそうにない時点で妻のことを疎んじていたのかもしれない。精神を病んだら、別人にしか見えないだろうしね。愛情だけで持ち堪えられるもんでもないだろう。
その結果、夫が今度は病んでいったように見えて、この映画は終わっている。当然の帰結というか、そうなるよなと納得の終わり方だった。病んだ人間を相手にすると自分も病むものだ。まぁその原因はそも誰にあったのかっていうと、自業自得な気がするね。
精神世界を描いたもの、その上辺だけじゃなく奥にあるものを映像化しようとしたり、または言語化しようとしたりっていう試みは、いつの時代もされているんだと思う。
それでも表面化できるのは、ごく一部。誰かが知ることができるのも、ごく一部だ。それだけ人の心は迷宮であって、複雑で、崩れやすいんだろう。
狂つた一頁なんて題名が付くくらいだもの、こんなの一幕の間のことで、どこでも起こり得る事象だ。一頁だけじゃない、次の頁でもきっと妄想は続いている。
妄想に堕ちている間は楽になれることもある。救われたような気がすることさえ、ある。
だけど、どこかでそんな都合のいい自分を罰する自分が現れる。「こんな夢を見ているなんて、どうしようもない奴だ。お前を断罪する」と言って、脳内会議が行われる。その間、妄想は止め処なく続いているけど、もう浸ることができない。罪だと解ったら、その妄想はもう使えない。
次の妄想へと渡り歩いているうちに、現実を生きる力が失われる。肉体が必要なくなる。いろんなしがらみから解放されて、何だか楽しくなる。でも、自分がそういう状態に陥っていることにも気付かない。完成される。そんな感じだ。
『ドグラ・マグラ』を思い出したって言ったけど、感想を書いているうちに『さよならを教えて』も思い出した。正に主人公の気持ち。
僕には難しいことは解らない。言語化するにあたって、壊れた精神からいろいろ引っ張り出しているから、文章もまだ整理できない。
だけど、何となく解る気がする。解る気がするだけでいい。解ってしまうと、僕の中にも流れてくるから。妄想とは、病とは、そういうものじゃなかろうか。
と、感応を起こせばしんどいことになるが、映像としてはとても貴重なものなので、その価値を感じるためにも視聴をお勧めしたい。
しれっと載せているアマプラに感謝だ。まだ暫く月額は払うことにしよう。
これもオンラインのフレンドに勧められて観るようになったシリーズ。
それまで怪獣映画というものに触れてこなかったのだが(特に偏見などは無く、単純に手を出す機会が無かった)、ゴジラについて熱く語っていたフレンドの熱意に感化されて、たまには観たことのないジャンルを観てみるのもいいかと思い、視聴に至る。
そして初めて観たのが『シン・ゴジラ』。あの庵野監督の作品だということで、あまり色眼鏡を持たずに観ようと構えていたら、面白くて面白くて、ノンストップで観ていられた。
圧縮された言語で難しいことを話すから気が抜けない、テンポの良い展開がずっと続く、映像がとても綺麗、音楽はやっぱり鷺巣さんと好きな要素だらけで、一瞬たりとてダレることなく最後まで興奮しっぱなしで観ていられた。
ここからゴジラというものに対しての興味が始まったと言っても過言ではない。良きことだ。
余談だが、庵野監督が他に公開している『シン・ウルトラマン』、『シン・仮面ライダー』も観て、ダイコンフィルム版の『帰ってきたウルトラマン』も観た。
最後に挙げた一作品については、あまりにも衝撃的な絵面だったため(個人的に)、その後、どんなウルトラマンを見ても、ジーパンとスニーカーとウルトラマンぽいジャージを着た人物の幻覚が見えるようになった。
好きなキャラを演じられるって光栄だよね、それはそう。でも、もう少し似せても良かったんじゃないかって、げらげら笑いながら思ったのも、そう。
まぁ・・・・・・その他の点がとても大学生の自主制作と思えん出来だったから、総じて均衡の取れた作りになっていたのかもしれない。
で、話を戻すと、『シン・ゴジラ』をいたく気に入り、三回は観てしまったものだから、他のゴジラも観てみるべく、先ずは初代ゴジラを観た。1954年の最初の作品だ。
試行錯誤して作られたことは後に数多の感想やら、ウィキやらで知ったことだが、ゴジラが怖いものとして描かれていて、且つメッセージ性も感じられる出来だったので、こりゃー連日多くの人が映画館に向かうわけだわ~と納得。
オリジンってどれだけのパロディが出てこようとも、オリジンたる輝きを持っているもんなんだな。偉大だ。
そして次に観たのが、ハリウッド版のゴジラ。
アマプラのお勧めで表示されたので、まぁ観てみようかっていう軽い気持ちで再生したものの、そのあまりの画面の暗さ、ゴジラの映らないシーンの多さ、人間模様のとっちらかった様に憤慨して、また『シン・ゴジラ』を観た。
人間模様を全く要らんとは言わないけど、ゴジラの出番を削ってまで入れる必要あったのかと言いたい。すげぇマッシブな身体になっていたな、ゴジラ。
でも何よりも不満だったのは、やっぱり画面の暗さだった。何やっているのか解らないってのは、映画を観ていて一番ストレスの溜まる要素ではなかろうか。
B級ホラーとか、誤魔化しのために画面を暗くしているのはまぁ解らんでもないけど、ハリウッド版で、しかも怪獣との戦闘が見せ場となる内容で、これはいただけない。
なもんで、これは観たの失敗だったなと素直に落ち込んだ。
しかし、フレンドにそれを言ったら、「ハリウッド版を観ておいた方が、その後のキングオブモンスターズと話が繋がるよ」と言われたので、観たことを無駄にしないためにも、次は『キングオブモンスターズ』を視聴。
こちらは大いに満足できる内容だった。名前だけは知っている数々の怪獣のド迫力な映像、明るい昼間に繰り広げられる戦闘シーン、頭のイカれた登場人物(一部)――と、作り手側の「こういうのが作りたかった」が詰まりに詰まっていて、多少は「ん?」と思っても最後まで勢いで観ることができた。
戦闘ありきの映画は、勢いとテンポが死んでいたら妙に冷静になってしまって楽しめない。多少の無理とか違和感があっても、「こういうのでいいんだよ!」と言えるだけの熱量があったら、結果的には楽しい映画の時間だったと言えるのだ。
これはもう一度観てもいいなって。モスラ可愛かったし。
その続きとなりそうなラストからの、『ゴジラVSコング』を観る。コングに関して一切の予習をせずに観てみたけど、それでも充分に楽しめた。
コングの仕種がやけに人間らしいのは、コングがそういう生き物だからなのか、それともモーションキャプチャーでそうなっただけなのか。冒頭の目覚めとか、大激戦が終わった後の疲れっぷりとか、そこそこおっさん要素があって愛嬌を感じた。
映像も相変わらず綺麗だったが、今回は展開も相まって非常にファンタジー要素を感じた。それが嫌だったとかではなく、「地球すげぇ!」て言いたくなるようなファンタジーだった。
人によっては「ここが可笑しい」と指摘したくなるところばかりだったかもしれないが、勢いとテンポが依然として活きていたので、満足しながら観ることができた。夜の場面があっても、なんやかんや明るくて、ちゃんと何しているかが解ったしね。
登場人物もそれなりにゴジラとコングを取り巻いているだけで、あんまりでしゃばることがなかったのも好印象。
特に好きだったのは、ジアという少女。コングと心を通わせる、手話で話す女の子なんだけど、こういう異種間友情ものっぽさが窺える設定が大好きなものだから、ジアが酷い目に遭わないかがずっと心配だった。コングがちゃんと守っているようで良かったよ。
人物の中で謎があるとすれば、芹沢の名を持つ小栗旬が出てきたことくらいだろうか。彼はいったい何のために出てきたのだろう。
この扱いがハリウッド版ゴジラの時の芹沢博士を彷彿とさせて、あんまり意味の無いキャラと思ってしまった。特筆すべき何かを為してはおらず、口数も少なかったし。
芹沢の名を出しておけばとりあえずいいだろう感が否めない。上手く使えないキャラなら、日本人を出すことに拘らなくてもいいと思うけどな。せっかくの小栗旬を勿体ない使い方するのぅ。
あとはネタバレになるので、切り離し。
おやつ食べながら「うおおおお」と盛り上がる映画です。片肘張らずに観られるっていいね。
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