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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 妊娠中は兎角、何をやるにしても集中力や体力が長続きせず、なかなかに歯痒い思いをする。
 「その間、やることないならコレやってみ」と勧められたのが、ポイントを貯める活動だった。これを略してポイ活と皆が言っているのだろうか。
 そのポイ活でぼんやりと動画を流し見していたところ、見つけたのが『狂つた一頁』なる映画だった。

 彼の有名な川端康成氏が脚本を書いていたり、撮影の助手に円谷英二氏が居たりと、何やら豪勢そうなスタッフだなぁと制作された年を見てみたら、1926年とあった。魂消た。大正時代の貴重なフィルムとは。
 しかも脚本があると言っても、川端氏の脚本を基に作られたわけではなく、映画そのものを作った後に川端氏があれこれ書き加えた物が存在している、という体なのだとか。どういうことだ。
 あらすじを知った上で視聴を開始すると、その理由も何となく解ってきた。

 この映画は日本で初めての前衛的な映画という位置づけで、物語云々よりもその撮影技法だとか、表現しようとした内容について高い評価を得ているらしい。
 撮影技法については素人同然なので、この撮影はこういうやり方だという認識がほぼ無いまま観ることになったが、意欲的な作品なのだということは理解できる。それだけの熱意を感じられるのが、素人の救い。
 妄想と現実を描き出すというテーマは興味深い。この頭の中を他の人の視界に投影した時、どんなふうに見えるだろうか。支離滅裂で、暗くて、怖くて、救いの無いものに見えるのだろうか。

 観たのはアマプラにあった、尺の短い、BGM付きの方だった。
 オリジナルは70分超えでBGMも無いらしいのだが、そちらを衣笠監督が自ら編集したとかで、音楽がある分、多少は見やすくなっているのではないだろうか。
 とはいえ、その音楽も物々しいというか、おどろおどろしい雰囲気を伴って鳴っているので、これはホラー映画だと言われてもしょうがないかもしれない。個人的にはホラーではなかったんだが。

 「難解な話」と聞いていたので、そんなにやべー話なのかなぁと思っていたら、字幕が無いことに端を発するものだったらしい。
 モノクロ、無声映画だろうとは思っていたが、字幕まで無いとは。そうきたか。そりゃ話を理解するのに骨が折れるわ。
 登場人物があれこれ何やら喋っていることは解るけど、何を言っているのかは解らない。読唇術でもできれば、少しは助けになったろうか。いや、無いものをねだっても仕方ない。とにかく雰囲気から何が起きているかを知っていかねば。
 そんな努力をしながら50分余りにまとめられた本編を見たが、結局、登場人物のおおまかなところしか解らず、ウィキや考察サイトなどを見ることになった。夫と妻しか解らんかったぞ。

 昔の言い方で言うと、精神病院に入院している妻。その妻を見守るために病院付きの小使いになった夫。母が入院しているために婚約が破談になりそうな娘。独房にしか見えない病室で踊り狂う女。大勢の患者が不可解な動きを見せ、それを胡散臭い笑顔で見る医者と看護婦達。
 先ず内容が内容なだけにフィルム化が難しいと聞いたが、これは確かに難しい・・・・・・いや、そうなのか? かなり貴重なフィルムなんだし、DVDで欲しいって人もたくさん居るのでは?
 精神病院云々というと、思い出すのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』。こちらも難解故に途中で挫折したのだが、これを読んでいた時に感じた鬱屈としたものをこの映画からも感じた。

 妻が入院する羽目になったのは、そもそも夫が水夫で家をあけがちだったこと、暴力を振るってくることが原因。それを苦にして我が子と心中しようとしたけど、我が子だけ死んで自分は生き残ってしまったから、それで気がふれてしまったという。
 ということは、子どもは二人は居たって設定なのね。上の娘は立派に育って婚礼の話も出ていたけど、母が入院していることが問題で破談になりかかっていると。
 それを知った夫は妻を病院から連れ出そうとするが、妻は嫌がり、自分から病室に戻る素振りまで見せた。夫の方こそ気が昂って、夢とも現実ともつかぬ世界で妻をまた殴りつけたり、娘が無事に結婚していく様を見たりと、逆に堕ちていく様が見て取れる。

 夫は妻に対して暴力を振るっていたっていうけど、妻を心配して病院で働くなんて反省しているじゃないか~と思わせておいて、妄想の中では妻をしっかり殴っていたね。これがこの人の本性なんだね。
 娘の婚礼が上手くいくためにと妻を病院から連れ出すつもりだったみたいだけど、それができそうにない時点で妻のことを疎んじていたのかもしれない。精神を病んだら、別人にしか見えないだろうしね。愛情だけで持ち堪えられるもんでもないだろう。
 その結果、夫が今度は病んでいったように見えて、この映画は終わっている。当然の帰結というか、そうなるよなと納得の終わり方だった。病んだ人間を相手にすると自分も病むものだ。まぁその原因はそも誰にあったのかっていうと、自業自得な気がするね。

 精神世界を描いたもの、その上辺だけじゃなく奥にあるものを映像化しようとしたり、または言語化しようとしたりっていう試みは、いつの時代もされているんだと思う。
 それでも表面化できるのは、ごく一部。誰かが知ることができるのも、ごく一部だ。それだけ人の心は迷宮であって、複雑で、崩れやすいんだろう。
 狂つた一頁なんて題名が付くくらいだもの、こんなの一幕の間のことで、どこでも起こり得る事象だ。一頁だけじゃない、次の頁でもきっと妄想は続いている。

 妄想に堕ちている間は楽になれることもある。救われたような気がすることさえ、ある。
 だけど、どこかでそんな都合のいい自分を罰する自分が現れる。「こんな夢を見ているなんて、どうしようもない奴だ。お前を断罪する」と言って、脳内会議が行われる。その間、妄想は止め処なく続いているけど、もう浸ることができない。罪だと解ったら、その妄想はもう使えない。
 次の妄想へと渡り歩いているうちに、現実を生きる力が失われる。肉体が必要なくなる。いろんなしがらみから解放されて、何だか楽しくなる。でも、自分がそういう状態に陥っていることにも気付かない。完成される。そんな感じだ。

 『ドグラ・マグラ』を思い出したって言ったけど、感想を書いているうちに『さよならを教えて』も思い出した。正に主人公の気持ち。
 僕には難しいことは解らない。言語化するにあたって、壊れた精神からいろいろ引っ張り出しているから、文章もまだ整理できない。
 だけど、何となく解る気がする。解る気がするだけでいい。解ってしまうと、僕の中にも流れてくるから。妄想とは、病とは、そういうものじゃなかろうか。


 と、感応を起こせばしんどいことになるが、映像としてはとても貴重なものなので、その価値を感じるためにも視聴をお勧めしたい。
 しれっと載せているアマプラに感謝だ。まだ暫く月額は払うことにしよう。

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