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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 いつもドンピシャなゲームを勧めてくる友人が「また君に勧めたいゲームを見つけてしまったんだ」と意気揚々と紹介してくれたのが、このフリーのノベルゲームだった。
 彼女はインディーズのゲームにずっと嵌まっていて、コンシューマよりもPC、というかSteamでゲームをする機会が増えていた。こっちの方が熱意ある、尖ったゲームが多くて刺さる頻度が高いみたい。
 今回勧められたものは別サイトにあったノベルゲームだったが、その内容が刺さるかもしれないと思って勧めてくれたようだ。

 余談だが、彼女近年のイチ押しは『OMORI』である。
 これもやってみたいのだが、彼女から真面目な顔で「何か悪い化学反応が起きるんじゃないかと心配ではある」と言われたのが引っ掛かる。
 でも、自分でもパッケージや内容をちょろっとだけ見て、やべー堕ち方しそうだな~とは直感で気付いた。だから未だにやれずにいる。
 こういうゲームは感性の様々な部分を刺激してくる。それが楽しくてやってはいるけど、引き摺ってしまうと自分の中のトラウマやら陰の部分やらも一緒に活性化するので、その処理が大変だ。
 いつになったらできるのか解らないが、今はその時ではないと思っている。そう思っているだけで何年も経ってしまいそうだ。


 で、今回のゲームは『断罪室』。加害者と被害者、二人の話を聞いて、被害者が加害者に復讐することをプレイヤーが許可するか否か、という単純なお話になっている。
 復讐を許可するか、それとも復讐するほどのことではないのか、或いは二人のことを見なかったことにして責任を負わないという選択もできる。
 という、ここだけで考察やら終わりのない思考に身を投じるのが好きな人間には堪らない作りとなっている、気がする。

 プレイヤーは紹介される人々と全く関わりが無く、正直、裁判の民間人の陪審制度に近いものがあるんじゃないかって。
 でも、どっちかに加担した時点で責任は発生するし、その結果を受け止めなくちゃいけない。そういった重みに耐えられない人のため、どちらも選ばないという選択肢があるけど、生真面目な僕は全てに関わっていくことを選択した。

 その結果、得たのは何とも言えないじわっとしたモヤモヤだった。
 復讐を許可した後の結末はあっさりとしていて、まぁそうだよね~殺したかったもんね~と頷いていられるが、許可しなかった場合の結末がだいぶモヤる。
 許可しなかったのに、たぶん我慢できずに殺してしまった者――これは理解できる。他人が許可しようがしなかろうが、自分の思いの丈を成就させたいとして刃を握り締める心境は、僕にも覚えがある。いや、僕は完遂していないけど。

 一番モヤモヤしたのは、いじめ問題の二人だった。最初に聞いた陽キャっぽい加害者の話で、被害者の方が少し被害意識が強いのではないか、と感じて、復讐を許可しなかった。
 その結末を知った時、僕は上辺だけしか知らずに余計なことを選んでしまったのだ、と罪悪感を呼び起こされた。
 断罪室の管理人が「人の全てを知ることはできない」っと言っていたのは正しくこのことで、僕は全てを知ったわけではないのに、断片から得た情報だけで「被害者君の受け取り方にも問題があるんじゃないかなぁ」なんて言ってしまったのである。
 これが現実であったなら、被害者はさぞや絶望と失望の入り混じった視線を僕に投げかけていたことだろう。こいつも当てにできない、なんて毒づかれそうだ。

 これはなんと罪深いゲームだろうと感じた。たかがゲームって言えばそうだし、人によっては「なんだ、こんなもんか」と記憶にすら残らないかもしれない。
 僕は自分が選択したことによる結果を見て、自分の行ったことの罪深さを感じた。成程、確かに刺さるゲームではある。責任感の強い、真面目な人間ほど、このゲームに罪悪感やモヤモヤを感じずにはいられないだろう。
 よくできていると感心する傍ら、こんなゲームを作った作者は普段から何を考えて生きているのだろう、と興味も湧いた。普通の精神状態じゃないかもしれない、そんな失礼なことも考えた。

 昨今、SNSでも断罪する様をよく見かける。そっちの断罪には加担しない。見守るだけに留まっている、責任が取れないから。
 一方の言い分を聞いて、その通りだと思うこともある。しかし、後になって真相を知ったら、叩いていた方の理屈が間違っていたこともある。
 人が人を裁くのは、斯くも難しい所業か。そりゃそうだ、全てを知ることができるわけじゃないし、全てを知った上で公正な判断をしてねって言われても、そこに責任が生じたら誰だって責任を軽くするための内容を考えるだろう。それぐらい重くて、軽々しく判断できないことなのだ。

 とはいえ、リアルの方の現代司法は「それでいいの?」という判決やら何やら出ていると感じるのも否めない。
 あの席に座っているのは、ちゃんと勉強した偉い方々ではないのか。どうして加害者の方が助かっている場合があるのだ、解らない。僕が感情に押し流され過ぎているだけだろうか。
 感情的な人間に断罪などさせるべきではない。じゃあ、どんな人間だったら向いているというんだ。解らない。

 自分の愚かさも見えてきたが、そんなこんなで『断罪室』は考えさせられるゲームである。是非プレイを。





 ところで、この作者のゲームは他のも良かったぞって話を聞いて、『THE LOVE HOTEL』と『サンタクロース』もやってみた。

 前者は部屋の調べ方が雑だったもんで、フラグ立てに苦労した。先生はどこに居るんだ。
 僕は新聞に書いてあった通り、8人全員を殺した。最初のうちは黙って部屋を去っていたんだけど、登場人物が出きった頃に堪忍袋の緒が切れたという体で、父親から撃った。
 その瞬間流れ始めた『天国と地獄』で、何だか急に楽しいことをしているような気がしてくる。一人も二人も同じだなって気持ちになって、もはや名前すら出てこなくなった登場人物を次々に撃った。
 この時点で、主人公の中では他のどの人間も肉塊だったのだろう。名前とか、自分とどんな関係だったとか、もう何の意味も無さそうだった。

 しかし、こうやって正気を失って、或いは正気が違う方向へぶっ飛んだ時、人を殺す時、クラシック曲が流れるという演出が、僕は心底から好きだと思った。
 咎められて然るべき内容のことを遂行中、頭の中では楽し気な音楽が鳴り続ける。人の悲鳴とか苦痛そうな顔とか、そういったものが例えば車窓の向こうにある景色と同じになって、ただ流れていくだけのものとなる。自分の頭を占めるのはクラシックの優美さだけで、それが何とも言えない快感を放出する。
 そんな体験を呼び覚ましてくれた、そんなゲームとなった。

 ただ納得できないのは、自分の行ったことに対して償いをしろ、という最後。
 確かに償いは大事だが、ならば主人公をさんざん傷付けたあいつらは償いをしたのか? 或いは誰かから償いを強制させられる場面があったのか?
 これはゲームで、プレイヤーの観点からしか進められないから、殺した彼らに内省する機会があったのか、それとも永久に奪ってしまったのか解らない。
 そんななか、こちらの非だけ責められて償いを要求されるなんて理不尽だと感じた。あいつらが償ったらこっちも償ってやるよ、そんな心境だ。
 誰かを責めるのは簡単だ。責めている側が無責任であればあるほど。



 もうひとつのサンタクロースからプレゼントをもらうゲームには、多くを語らない。5分くらいで終わるゲームなので、聞くよりやる方が早い。
 僕はとても嫌な気持ちで終わった。なんだ、あいつ。
 大体、こっちが起きるまで真横に立って待ちぼうけしている時点で可笑しい。プレゼントを置いて早く帰ってくれ。

 友人は僕のプレイの様子を見ながら大変に満足し、プレイに対する感謝を述べ、爆笑して帰っていった。良かった。

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