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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

日付けをまたぐ頃、入院して3日目だろうか。
痛い痛いと頻繁に言った所為か、あまり薬を使いまくるわけにはいかないと渋っていた助産師が、痛みの様子を見ては薬を追加してくれる。
「流していいなら私だって流したいよ〜。でも使える量は決まっているんだ、ごめんね」とまで言われて、まだ本陣痛でもないのに痛がる自分の虚弱さに恥ずかしくなった。でも痛いものは痛い。

2時半頃、子宮口が全開になっていると聞く。
それから少しして「破水したみたい」と言われて、いよいよだなと身構える。
その頃には薬を流す→痛み緩和→また痛くなる→少し薬を流す という感じで、前駆陣痛の痛みに少しずつ慣れてきていた。
この頃から、重めの生理痛+便秘の重めな出てこないやつとしか表現しようがない、何とも強い痛みに定期的に襲われるようになる。
でもこれもきっと前駆陣痛だ、本番はこんなもんじゃないぞと自分に言い聞かせ、腹の中の胎児の無事を願った。
胎児の心拍は安定していて、動いているような感じがした。

この時点で朝のゼリー以降、何も食べていないことに気付く。
痛みにあまりに弱いのは体力が無いからか?
そういえば水分もあまり摂れていない。
これでは痛みに耐えるのは難しかろう。朝からぶっとおしだ。
そして夜になってから上がり続けていた熱。
38℃と表示されて、インフルかコロナかと検査してもらったが、どちらでもなし。
氷枕で少し楽になったが、熱があると解ると途端に具合が悪くなるのは何なんだろうな。
38℃も出たのが久々だったので、踏んだり蹴ったりだと笑いたかった。
実際には痛みで話す余裕も無くなってきていた。

時計もモニターも見る余裕が無くて体感だが、空が白み始める頃、出産準備が周りで始まった。
主人の寝ていたソファーベッドは畳まれ、助産師が二人、ビニールのエプロンを着用し、あれこれ道具を持ってくる。
その間、いきみの練習をするよう言われた。押し出す力を加えて、胎児を下ろしてあげなきゃならないとか。
陣痛の一番痛い時にいきめって言われて、仰向けにさせられたけど、体勢的にめちゃくちゃ苦しい。仰向けもうつ伏せも耐えられない人間だからか。
座ってやってもいいかと訊いたが、座ると今度は胎児が動いてモニターの数字が消失する。大人しく寝転がって、休む時に少し横を向くことにした。

準備が進む中、ひたすらいきんで、深呼吸して休んで、次のいきみに備える。
そのうち酸素マスクをつけられ、内診で「上手くできてるよ、その調子」と元気づけられ、再びいきみの練習。というかもう本番。

いきんでいる間は余計なことを考えず、ただ胎児ネームを呼び続けた。
白む空を何となく見て、ここまで僕は自分のことばっかりだったと情けなく思った。
どれだけ本番のために準備したって、実際の痛みには勝てそうにもないのが現状の自分だった。
「痛い」は声に出したけど、本当はもっと挫けていたから、「もうやめたい」とか「帝王切開にして」とか、あの窓を突き破って飛び立ちたいとか、小腸が捻れている時と思考が同じだった。
この苦しみから逃げたい、辛さから遠ざかりたい、何でこんな痛い思いをしているんだと気持ちが負けていき、その時に「やっぱり自分のことばかり考えているな」と気付いた。
この痛みは赤ちゃんも感じていること、ママと一緒に頑張っているよってソフロロジーを調べた時に書いてあって、その考え方を持とうとした筈だ。
なのに、痛みに負けて、もうやめたいと思ってしまった。やめてどうするかなんて解らない。ただやめたかった。それくらい、終わりが見えなくて、痛かった。

けど、周りの準備が進み、助産師が「吸引か切開が必要かもしれない、先生呼ぼう」と言った時に、終わりが見え始めた。
それまで情けなく自分のことしか考えられなかった点を深く恥じて、いきむ最中は胎児ネームを頭の中で呼び続けることに集中した。苦しくないか、もう出ておいでと身勝手ながら思い、その時を待った。

先生が来て、会陰切開が素早く行われた。
やはり初産だから通り道が狭く、胎児が出てこられないということだった。
麻酔が効いているからか、切られたことにも気付かなかった。かろうじてパチンて音が聴こえたくらい。

最後のいきみと共に、助産師が手を添えるのが見えた。
そのままするっと小さな頭、全身が見えて、詰まりが取れたかのような甲高い泣き声がした。
この瞬間は言葉にならない。とにかく劇的で、全ての感情が動かされた一瞬だった。
それまで辛かったこと、苦しかったこと、痛みが全て無かったことにはならないが、報われたとは確かに感じた。
そも十月十日を過ごしたのは、この時のためだ。この一瞬を知りたくてやってきたことでもあったんだ。
という感情が爆発し、嗚咽になってアウトプットされた。
時間は5時を過ぎていた。

泣きながら、胎児の動きを目で追った。綺麗にしてもらっている間も、甲高い声で断続的に泣いている。元気そうだ。
胎児の出てきた2分後に胎盤が排出されたらしい。排出というか、助産師が押したり何だりで取り出してくれたようだった。
僕の位置からは見えなかったが、縫合のために外に出された主人の話曰く、かなり大きくてレバーみたいな色合いをしており、グロテスクに耐性のない人だと見るとショックかもしれない、とのこと。
てっきり拳一つ分程度の大きさに考えていたが、3kg近い胎児に栄養を送るためなんだから、そりゃ大きくもなっているか、と納得。

切開の縫合をしてもらい、つけていた器具を外してもらった。
病院の患者服から持参した寝間着に着替えさせてもらい、特大パットを尻に敷いてもらって、また導尿。何もかもやってもらっていて悪いなぁと思いつつ、しかし感情が飽和して上手く物が言えない。

ぼーっとしながら、朝日に眩しく輝く空が見えた。夜中でもカーテンを閉めていなかったから、夜明けも朝日も磨りガラスの向こうに何となく確認できる。
もう一人の助産師が「今日はとても良い朝日だよ。こんな日に産まれたんだから、きっと良いことがたくさんあるよ」と言ってくれた。
「これから先、楽しいことも大変なこともいっぱいあるだろうけど、この瞬間を憶えていたらきっと乗り越えられるからね」とも言われて、また泣けてきて、ただ頷いた。僕もそう思う。

全て済んだものの、安静にしていないといけないようで、まだ分娩室に居た。
うとうとしながら、戻ってきた主人と話をした。
主人も一日付き添い、夜に仮眠を取ったものの、明け方はずっと起きていたので、疲れていたようだった。よくここまでついてきてくれた、と思う。

二人で寝こけながら助産師を待ち、傷の具合などを診てもらった後、主人は一旦帰宅。
僕は自分の部屋に帰され、達成感と多幸感のなかで既に配膳の済んでいた朝食をつまみ、ベッドに転がった。

胎児は小児科に入院していた。前日に入眠剤を服用したので、その影響を見るためだ。
これ幸いとばかりに休ませてもらう。ちゃんとミルクも飲んでいると聞いたので、あまり心配はしていなかった。
一度は高くなった熱も下がっていたが、まだ37℃ほどはあった。
子宮収縮の痛み、切開後の痛みで眠り続けられそうになく、痛み止めをもらって、やっと寝ることができた。
今日一日は安静にして、次の日からは母子同室の始まりだという。さて、どうなるか。


覚えている点の箇条書きとメモだが、記録とする。
自分の弱さ、脆さを再確認して落ち込む過程の方が長かった出産だが、産まれた時の感慨はひとしおというものだ。
人との出会いはどれも劇的なものを自分に呼び起こすが、一から腹で育て、外に出すという出会い方はなかなかできるものではない。
病院のベッドに転がりながら、これでまた書く幅が増えるなぁと嬉しくなった。
経験は糧になり、僕の書きだすものを彩り良くしてくれるだろう。

産まれてきた子にも、同様に彩りあるものを渡したい。
こんなご時世に一人ででも生きていけるように。
やはり勝手ながら、願う。

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