死のうとすると、景色は輝きだすし、郷愁のようなものが湧いてくる。
何故、今になってそんな感情が湧いてくるのやら。身体が防衛反応として見せているのか。
死ぬことは怖いが、生きていくことはもっと怖い。
何もかも奪われて、失って、自分が忘れられていくことの苦痛は、耐え難い。
圧倒的な存在感、生身の感情の表現、全ての言葉が尻尾を巻いて逃げ出すのだ。
それは人でも例外なく。誰も居なくなった心の場所を眺めて、後悔したり、憎悪したりする日々だ。
病んでいるから駄目になった?
これは性格だから、生来の気質だから仕方ないとでも?
依存した先の崩壊は、不可視の友人らも畏怖するものだった。
これから自分がどうなるのか、解らない。
完全に壊れてはいない。けど、限りなく潰れた。
それは環境の変化に適応できなかった自分の責任だ。
弱いものは淘汰されて当たり前だ。心理的な要因とて、淘汰の対象になるだろう。
こんなことで悲しんで、悔しくなって、何も信じられないなど、哀しい生き物だ。
そうして自分を憐れんでも、苦痛は和らぐことなんて無い。
自分の人間関係の作り方が可笑しかったのだと、解った。
依存して、頼って、相手が自分を受け入れてくれるように動かしているかのような。
勿論、耐えられない人間とは離れていった。残った人間は皆、優しい。
誰かの役に立てないのなら死ぬしかない、なんて言って、死ななかった。
何度も死ぬことを考えて、何度も景色が輝くのを目の当りにして、言葉が出てこなかった。
誰も皆、最初は「話を聞くよ」と言ってくれる。それは長続きしない。
露悪的な言葉は、空気は、人間の心を蝕む。
鬱の人間の近くに居ると鬱が伝染する、という現象に似ている。
僕から渡されるそれらの感情は、著しく人間を蝕んでしまうのだという。
その所為で話を拒否されたことも、ある。相手を傷付けてしまうしね。
それでも聞いてくれた人が、僕の中で大事にされる理由なんて、挙げるだけでもばかばかしい。
受け入れてもらえることのありがたみを、嬉しさを、誰もが知っていると思っていた。
だけど、それは依存していいということではない。
甘えと絆を勘違いしてはいけない、と教わった。
愛してもらえなくても愛することはできる、と教わった。
僕は何も実践していない。できることを放棄してきた。
辛くて苦しくて、自分のことばかりだ。
こんな自分にも友人が居たというのに。
仲良くしてくれた人を、遠く遠くに感じる。
皆は陽だまりの住人なのだと、何度感じたことか。
僕はまだ、階段の暗がりに居て、皆の後ろ姿を眺めている。
すべてのものは美しく、腐って、また甦って、素晴らしい。
なんてくだらない世界だ、素晴らしい。そんな気分だ。
没入した世界でも、ひとりだ。
それは嘆くほどのことだろうか。どこに行っても自由じゃないか。
未熟な絶望、気分だけの絶望、それでも死にたくなるほどの辛苦がある。
素晴らしいものの中で、自分だけが不細工だ。
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2019/03/01
日常
ちょうど以前の満月の時か、こんな時間に外に出て、ゆっくりと小さな丘を目指した。
驚くべきことに、こんな時間の、こんな時期でも人は歩いているものだ。殆どがじいさまだったけど。
自分一人しか歩いてないと思っていたから、道行く先に人影を見つけては、構えた。向こうもかなり驚いたとは思うがね。
以前の日記より三ヶ月しか経っていなかった。
それでも状況は激変したと自ら捉える。
僕は均衡を保てなくなった。もとより危険であったが、それはより顕著になり、言葉の半分以上が虚ろなものだ。
心の問題について、人に話せなくなった。どうせこの人も離れていく、理解しようとしてくれないと思うと、口から次いで出ていくのは上滑りというか、意味のない単語ばかりになった。
僕の状態が悪化しようとも、その心根に何が潜み腐っていこうとも、周りの関心を引くことはない。
それが正しい反応だ。人間が生きていく為に必要なものなんだ。抱えられる荷物の質と量は決まっている。
だけど、それでは僕が納得しなかった。わたしは諦めるしかなかった。
不安定になり、言葉と思考は尖り、孤独感は増し、己の不甲斐なさに呆れ、奥底にあった独占欲の復活に頭痛がする。
僕もまた、いつかの姉さんのように諦めるのか。その方が楽だし、生きていけるから。
どうやって生きていたいのか、今となっては夢にすら出てこない。
友人のネット付き合いに伴い、稀薄になった現実の関係を嘆いて、傷付いて、とうとう自分から話しかけるのをやめてしまった。
元からあまり人の話を聞かないひとだったけど、それにしたって対応が酷い。
そのくせ、ネット先での関係には注意して、楽しげにしている。
今まで辛かったのだから、好きなことを優先したらいい。
だけど、現実に友人を支えてきたものを、彼女は忘れていったのだろうか。
そのなかに僕が居ないことは明白だ。やりきれないな。
大事なひとに大事なものができて、それを喜ぶ反面、昔から気にしていたこと、許せなかったことが溢れてしまった。
もうその大事なひとに近付くことすら、痛く、怖いのだ。これまで幾度となく話を聞いてもらい、助けてもらって、今度は此方の番だと思っていたというのに。
昔から、恋とやら、僕から大事なものを奪っていくんだ。だから嫌い、虫唾が走る。
優先されるべきは恋人という風潮で、それまであった友愛や親愛の情は恋慕以下と捉えられるが、世の習いだ。
では、今までの経験は全て、恋人とやらができるまでの予行演習だったとでも?
そんな人間関係の踏み台になる価値があったとは、自分に驚きだ!
怒りが治まらず、かといって誰かに話すこともできない。
伴侶からは「もっと強くなってほしい」と言われてしまった。そういう問題に捉えているのか。
強くなるとはどういうことだ、物事に鈍感になればいいのか?
僕は自分のことを理解してほしくて、言葉を尽くして語っていた。
聞いてくれる人は居たし、そのお蔭で築けた関係も少なからずあったろう。
だけど、満たされない。満たされずに来た。
生死を懸けて冒険すれば、本当の仲間はつくれると思っていた。
平穏の上の友情は瓦解しやすく、ともすれば虚構になるのだから、お互いの心理を追い詰め、本音を出さなければ信用できないと思っていた。
十年前と比べて、僕のチカラは弱くなったと感じている。
姉さんが居ない影響か、薬の影響か、守護者たちは相変わらず居てくれるけど、自分が解らなくなる時がある。
人間とも繋がれず、守護者とも離れてしまったら、僕は何処に行くべきなのだ。
帰りたいと思う。
自分の帰るべき場所は、ずっと前から解っている。
皆、裏切る。捨てゆく。忘れて、去った。
恋人とやら、僕を殺しにくればいい。割礼でも施せば、少しは気も紛れるだろう。
ネットで繋がるのは、手軽で安心か。かつて、僕らもそうだった。ネットから繋がったものだが、正面からぶつかれないのなら、姿の見えない隣人に過ぎないな。
愚かなのは僕だ。けど、そうさせたのはおまえ達だと、責めたい。
こんなにも壊れたのは僕の責任だが、キッカケはおまえ達なのだと、責めたい。
いつでも向き合うつもりでいたけれど、僕の言葉は強すぎた。いつも相手が居なくなる。
そも向き合うことを必要とされていない。付かず離れずの曖昧な関係を、皆は好むようだった。
たかが恋人、家族に心の居場所まで取られた気がした。その重要性が解らないのは、僕がイカれているから。
ひとが幸福になることに邪魔になるのなら、殺されて然るべきだ。
それすら、ひとは与えてくれない。自分達の手は汚したくないのだ。
なにひとつ、以前のままではいられない。そんなことは解っていた筈だ。
離れゆくものを思うと、自分を破壊しなければ気が済まない。
もう行き場のない気持ちは、ひとや自らを呪う以外に消しようがなくなってきた。
耐えてきた。今まで同じようなことがあっても、耐えてきたんだ。
だが、今回は違う。支えが無いんだ。少なくても存在していた支えがひとつひとつ離れて、最後の支えすらも失ったような、そんな寂しさなんだ。
人間は忘れてしまう。忘れるから生きていけるらしい。
僕は忘れられてしまう。忘れるから会えるのかもしれない。
すごく怒っている。同時に傷付いて、悲しくなった。
自分がどれだけ周りに依存していたか。
その周りの為に何かしたくても、気持ちが邪魔をする。自分の感情を優先してしまう。
友だち甲斐が無いよなぁ。こんなことでは、失うばかりだ。
しかし、自分を矯正するのも疲れた。
踏みにじられたものを元に戻すのは、気力が要る。たとえ、自分の仕業であっても。
もう消えたいのだ。
或いは、この器さえ動いていればいいというのなら、僕自身はもう眠らせておくれ。
姉さんみたいに、違う人格を宿せたらいいのにな。皆と距離を取り、不必要な接触はしない、伴侶を支えるだけの肉塊だ。
僕の物語が終わる時は、まだか。
自分で終わらせるのなら、その一時が重要になってくるぞ。
疲れたな。疲れたよ。何でこんなに苦しんでいるのだろう。
ひとの中の順位、気持ちの範囲、そんなものを常に占有したいだなんて、馬鹿だなぁ。最も忌み嫌われる。これが誰の中にある欲求だとしても、向き合うことは稀だ。
自由にはなれそうにない。
誰もが忘れてしまっただろう景色を、僕ひとりが憶えている。
夜に歩いたことも、夕焼けに家路を目指したことも、みんなは忘れているだろう。
その景色を上書きできる程の存在に逢っただろう。
人間の営みの中に紛れこめなかった自分が悪いのだ。
認めるしかあるまい。ここでさよならだということ。
書き終わるまでは。自分が保てるうちは。
苦しいので、誰かに話したい。上手く話せない。
もう聞けるひとなど居ないんだ。
幼馴染みメンバーの一人から、「愛されずとも、誰かを愛することはできるだろう」と言われた。
僕にはそんな高尚なこと、できそうにないよ。
みんな居なくなる。居なくなった。他の人間が、感情が奪っていった。違う、幸せになりに行ったのだ。
僕の幸せは、帰ること。
みんなが憶えていてくれること。
必要として、忘れずにいてくれることだ。
2019/02/20
語る
大学時代の友人らの活躍、
ついったで知り合った方の活躍、
それらを見ていると、自分が何の成果も残していないことに気付かされて、生きる意味のようなものを見失う。
これは昔から傾向があったけれど、最近は特に酷くなった。
他者を妬んでいるわけではない。友人の成功は素直に喜ばしく、凄いことだと思えた。
だが、自分はどうだ。心の状態に振り回され、仕事を辞め、教習も上手くいかず、毎日何も生み出せずに終えている。
そういう時があってもいい。それがずっと続くと辛くなるし、苦しくなる。
ならば、何か残せばいい。動けばいい。
何度もそう思ったが、わたしが動いて何を残せるのだ? と思ってしまうのだ。
これは逃避で、悪夢で、甘えなのだと自分に気付かせても、途方もない無力感が襲ってくる。
所詮は生まれてくる必要の無かった者が、どう足掻いたところで何を残せる筈もないと。
いずれは忘れ去られるのだから、固執する方が愚かなのだと。
わたしはこれまで自分にしか書けない物語を書いてきたり、歌ってきたりしたつもりだ。
けど、それは誰かに認められる手段でしかなかった。
じゃあ、書籍化されれば、音源が配信されれば、承認欲求は満たされるのか?
その為に捧げる時間を、本当に誇れるのか?
最近思い出すのは、小学生の時のことだ。
誰に読ませる予定が無くても、机に向かって書いていた。
自分より上手い人間はたくさん居る。絵も描いてみたけど、酷いものだ。
それでもわたしは楽しかった。時間も忘れて、ひたすら描き、表し、できたものを自分で読み直して満足したものだ。
その時のようになれないのは、繋がりが増えたからか?
誰に認めてもらいたいと思って、こんな悩みを繰り返しているのか、わたしにも解らない。
誰も彼もを知れる機会は嬉しいが、インターネットに囚われてわたしは随分と周りに依存し、固執してきた。
それは報いとなり、呪いとなり、わたしに結果をもたらすのだ。心が死ぬのか、器が崩れるのか、どちらが先かは解らないけど。
わたしは居なくても良かった。
生きていれば失うばかりだ。
友人たちにはどうか幸せになってほしい。
わたしが辛いのは、わたしを認められないからだ。
自分が居なくなると困るのは、わたし自身だというのに。
死ぬのは怖いが、生きることの方が怖い。
2018/10/14
日常
この時期はニコニコの生放送で毎日ホラーを流してくれるので、怖いもの見たさで観る分にはいいのだ。
コメントも多く、気の抜ける会話もあって、ちょっとほっこりしたりする。
一人でホラーを観るのだったら、洋画がいい。邦画は無理。
というヘタレ精神で、『メキシコ・オブ・デス』を観た。
オムニバス形式で、一話は十分くらい。
台詞は少なめ、演出はグロが強め、R18入るぐらいにはエロス、だけどグロめ。
食事の前後では観ない方がいい。気持ち悪くなると思われ。グロ耐性あっても。
ホラーというよりも、実話とか逸話を基にした話がごろごろしているという感じ。
内容は以下に。サイト参照致しました。
「いけにえの祭壇」若者の失踪事件を追う記者が見た衝撃のメキシコの実態
「ハラル・デ・ベリオ」傷付いた犯罪者二人が迷い込んだのは淫乱な魔女の棲む館だった
「排出」姉の膣から経血を取ってこいと悪魔に囁かれた少女の運命
「ささいなもの」キャンプ場で処女を襲う好色トロールの衝撃
「重要なのは中身」幼女が恐れる浮浪者の正体とは
「人形」謎の人形島のとある秘密とは
「7回の7倍までも」インディオの儀式により、死人を蘇らせる男。その目的は?
「死者の日」蘇る美女たちの地獄のショータイム
と、こんな感じです。
印象が強かったのは「ささいなもの」と「7回の7倍までも」かな。
というか、「ささいなもの」は女の子のヒス加減も相まって、結構観ているのがキツかった。
「精霊は”ささいなもの”を奪っていく」と言っていたけど、トロールは精霊なのか・・・・・・。
まぁ、綺麗なものだけが精霊ではないもんな、うん・・・・・・。
個人的に好きなのは「7回の7倍までも」と「死者の日」ですね。復讐劇が好き。
あとビジュアル的に死者の日のメイクが好きなんです。カラフルな骸骨ってなんかセクシー。
ベリオも結構好きです。あの魔女が好きなのかな。
ハニートラップにかかった男性を嘲笑うことなかれ。あんなん誰だって引っかかるわ。たぶん。
見応えはあるけど、グロいんですよね。
グロテスクというか、エロもあるけど吐瀉物とかね・・・・・・別方面でグロですね。
人に勧め難い映画であることは確か。
2018/08/10
(主に)映画感想文
と、思うことにした。
会社を辞めることになり、先週遂にその時を迎えた。
まだできることはあったんじゃないか、
そもそも自分はまだ甘えているんじゃないか、
これ以上の迷惑を掛け続けるつもりか、
結果を出せなかったのなら引き際は間違えるな、
などなど、自問自答を繰り返した一ヶ月が過ぎて無事に終了。
制服を返したり、失業保険のこと調べたり、主人の扶養に入る準備をするものの、調子の良い時と悪い時がハッキリ分かれる。
恐らく次のストレスは教習なのである。
わたしはこっちでまだ結果を出せていない。
それどころか、友人の方が良い成績で先に卒業していったこともあって、余計にできなくなってきている。
わたしなんぞが免許を取れるわけないだろーにと、何度思ったことか。
それでも始めたのなら、期限ギリギリまでやってみようとしたのに、刹那の人間関係に挫折して、自分の価値を見失って、空白の期間が空いた。
周りからすれば、くだらないこと。
しかしわたしからすれば、大事なこと。
教習に行っても結果が出ない。何度も同じことの繰り返しだ。
終いには、効果測定ですら8回は落ちている。勉強すれど、内容が頭に入らない。そのうち文章の意味が解らなくなる。
会社というストレス源から離れて、自分を休ませる期間だ。
その間にできることはやっておきたくて、免許を習得しようと考えていた。
だのに、実際にやったらコレだ。ちっとも内容が頭に入らず、技能も同じことの繰り返しでもう空き時間が無い。
今は実家に居た時より、ずっと気楽だ。
主人とも話し合って、方向性を決めた。
免許も、取れなければ仕方ないと言ってくれたが、そこで失望はさせたくなかった。
だけど、受からない。覚えられない。技能もできない。
焦り、逸る気持ちが邪魔をしているのは解っている。
カウンセリングでも、今は集中力が落ちて人並みのことがやりにくいだけだと言われた。
どうしてわたしはそうなのだろう。
ゲームしたり、家事したり、教習行ったりして備えるんじゃ駄目なのか。
せめて結果が欲しい。ぼろぼろになったけど、会社も辞めざるを得なくなったけど、これだけはできたよって証にしたい。
けど、教習に行こうと思うと嫌になるのは、教官の態度の所為か?
ほんのちょっとしか会わないのに。
こんなに神経質では、生きていけないぞ。
何故今まで生きてこられたんだ。
ゲーム感覚で始めてみたらいいよ。
受かるまでやるんだ、当たって砕けて。
2018/07/10
日常