ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
大学時代の友人らの活躍、
ついったで知り合った方の活躍、
それらを見ていると、自分が何の成果も残していないことに気付かされて、生きる意味のようなものを見失う。
これは昔から傾向があったけれど、最近は特に酷くなった。
他者を妬んでいるわけではない。友人の成功は素直に喜ばしく、凄いことだと思えた。
だが、自分はどうだ。心の状態に振り回され、仕事を辞め、教習も上手くいかず、毎日何も生み出せずに終えている。
そういう時があってもいい。それがずっと続くと辛くなるし、苦しくなる。
ならば、何か残せばいい。動けばいい。
何度もそう思ったが、わたしが動いて何を残せるのだ? と思ってしまうのだ。
これは逃避で、悪夢で、甘えなのだと自分に気付かせても、途方もない無力感が襲ってくる。
所詮は生まれてくる必要の無かった者が、どう足掻いたところで何を残せる筈もないと。
いずれは忘れ去られるのだから、固執する方が愚かなのだと。
わたしはこれまで自分にしか書けない物語を書いてきたり、歌ってきたりしたつもりだ。
けど、それは誰かに認められる手段でしかなかった。
じゃあ、書籍化されれば、音源が配信されれば、承認欲求は満たされるのか?
その為に捧げる時間を、本当に誇れるのか?
最近思い出すのは、小学生の時のことだ。
誰に読ませる予定が無くても、机に向かって書いていた。
自分より上手い人間はたくさん居る。絵も描いてみたけど、酷いものだ。
それでもわたしは楽しかった。時間も忘れて、ひたすら描き、表し、できたものを自分で読み直して満足したものだ。
その時のようになれないのは、繋がりが増えたからか?
誰に認めてもらいたいと思って、こんな悩みを繰り返しているのか、わたしにも解らない。
誰も彼もを知れる機会は嬉しいが、インターネットに囚われてわたしは随分と周りに依存し、固執してきた。
それは報いとなり、呪いとなり、わたしに結果をもたらすのだ。心が死ぬのか、器が崩れるのか、どちらが先かは解らないけど。
わたしは居なくても良かった。
生きていれば失うばかりだ。
友人たちにはどうか幸せになってほしい。
わたしが辛いのは、わたしを認められないからだ。
自分が居なくなると困るのは、わたし自身だというのに。
死ぬのは怖いが、生きることの方が怖い。
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