どんだけ怖いもの見たさだよ!!
……と友人と笑いながら行ってきた「怖い絵展」。
そして夕方からは、恒例の酉の市へ。今年も見てきたよ、見世物小屋!
先ずは「怖い絵展」なんだが、本当に申し訳ないことに、わたしの中ではいつかお邪魔した「えろ展」と同じ感想しか抱けなかった。
表面的だなぁと強く感じたんだよな。扱う題材に真新しさが無いというか。
歴史を踏まえての絵画に、真新しさもクソもないかもしれんが。
作品から感じる感情や音や気配も特に無かったのは、周りに掻き消されていたからか、それともまだ恐怖が足りなかったからか。
単純に見た目だけで怖い絵ならあったろうけど、本質を突くような怖さは感じられなかった。そこが想像と違ってて残念だったんよなぁ。
一番驚いたのは、この展覧会に人がごった返していたこと。
我らが行った時間は正午過ぎで、そんな遅くないと高を括っていたのに、現地に着いたらもう90分待ちだった。
「まるでアトラクションみたいだね」なんて友人と話していたけど、有名な絵画展って、えてしてこんなものよね。ダリ展の時もすごく待った気がする。
もっと言えば、何故他の人達はそこまでこの絵画展に来たかったんだ。
あなた達にとっての恐怖って何??
寧ろそっちが知りたいよ!
んで夕方から、見世物小屋へ。
今回は新人太夫さんがはいったので、瓶の悪食と口中火炎の使い分けも見せてもらいました。
あれできる人はなかなか居ないみたいだ。
来年も居るといいなぁ。
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2017/11/18
語る
発売から1ヶ月して始めたドラクエ11を3ヶ月近くやっていたのは、わたしです。
まだできることは残っていたんだけど、一旦、幕引きと致します。お疲れさん。
知る人ぞ知るRPGの王道。実はあんまりプレイしたことがなかった。
8と6かな、やったのは。いずれも変なとこで躓いて、それからプレイすることもなく。
今回はドラクエ苦手意識を無くすためにも、久々に始めてみたのであった。
で、どうだったかといえば・・・・・・もう満足。
ちゃんと伏線も回収してくれて、裏ボスまで用意してあって、更に表と裏のボスより強いだろうクエストのボスまで居て、この充実っぷりに感無量ですよ。
ドラクエをシリーズ通してプレイしてきた方々にとっては、とても思い出深い作品になっていたのではなかろうか。
シリーズ通してないわたしですら、思い出深いと感じるからねぇ。
最初はやっぱり3Dって慣れないなぁと思ったし、透過されていない木とか建物にぶつかって画面酔いが酷かった。
これはひょっとしたら途中で諦めるようかなと思ったもんだ。あの辛さは聖剣4以来の辛さだった。
だけど、話に段々入れ込んでいくにつれて画面が気にならなくなり(たまに危なかったけど)、最後までプレイすることができた。良かったー。
何を話してもネタバレになると思うので、以下は隠します。
とにかくプレイしていただきたい。難しい操作や謎解きは無いので、万人が楽しめる筈だ。
わたしは160時間近く、たっぷり遊ばせてもらった。あ、PS4版ですよ。
[続きはこっちで]
2017/11/05
ゲーム
毎度のことながら慣れない。
先日、友人と一緒にペルソナのコンサートへ行ってきた。
ゲーム音楽の生音を聴くのは片手で数える程度だけど、今回もやはり感動してきた。
個人的には、挫折したけど女神異聞録は曲がかっこよくて好きなので、「神話覚醒」が生で聴けただけでも、行って良かったと思えた。
他にも、歌い手の方々が目の前で歌ってくださって、感無量。ゲームで聴いたおしゃれなあの曲この曲、全部とまではいかないけど、いっぱい聴けて満足でした。
技術的なことや難しいことは解らないけど、わたしは少なくとも誰もがペルソナを盛り上げようと頑張ってくれていたのだと思っている。
そういった場面に立ち会えたことも、純粋に誉れであると感じるしね。良かった。
しかし、こういった生の作品に触れて、いつも思うんだ。
わたしはいったい何をしているのだろう、何を残してきただろう、と。
結婚してから精神的には少し落ち着いてきたと思う。
だけど、その分だけ平和ボケしたよなぁと感じる時が増えてきた。
平和ボケっていうのか、なんつーのか、ハングリー精神がいまいち欠けているような。
わたしの人生の正体は欲望に正直であることのみで、そこから生み出されれる言葉と感情の奔流こそがわたし自身であると思うけれど、それが今ではチョロチョロパッパだよ。なんたる様だ。
それが完全に悪いことだと思わない。実家に居た時よりも閉塞感は無いし、旦那には感謝している。
この暮らしやすさは旦那の属する会社の福利厚生のおかげであり、わたしはその恩恵無くしてこんな良い暮らしはさせてもらえないからな。実家に居た時よりも生活水準が落ちてないって、良いことだろう。
なんだけど、その分だけ自分に課せられた役割を全うしようとして、無理をしている――らしい。これはカウンセリングで言われることだった。
良き社会人であろうと、良き妻であろうと、仕事ないし家事を行う。自分を追い込んででも全うしようとするあまり、自分がどんどん辛くなっても止まることができない。
家事はともかく、仕事に関しては「有り得るな」なんて思ってしまった。実際に無理しないと会社行けないし。薬飲んでカウンセリング行って、そこで均衡を保つ努力をしないと会社に行くなんて、到底、無理だ。
それほどまでに誰かと関わるのが面倒になってしまった。それほど以前の場所で、或いはその前で培ってきたものがわたしを蝕んでしまった。これは変質だろうか。そうでないと良いのだが。
そうなるかどうかは自分次第だというのなら、勿論、そんなつまらん変質なんぞ迎えたくないのだが、今の自分の立ち位置が解っていない。
わたしは元来、つまらない存在だ。置いていかれるだけの、選ばれずに忘れ去られるだけの、無力なままの存在だ。
だけど、そんなわたしでも人並み以上にできることが幾つかあり、それを表現、続行することで、わたしの望む世界に行けると信じている。それこそがわたしがこの次元で生きる意味だ、と壮大に、しかし当たり前に考えているのだ。そうでなければ、こんな脳味噌で生きてられっか。
そのつまらない存在は、どうやったら光り、輝く?
或いは広がり、深まりゆく?
万人に受け入れられずとも、誰にも見向きされずとも、たとえ伴侶が認めずとも、わたしがわたしで在ることの証は穢れず損なわれず、確かに存在する筈だ。
それを護り、育み、愛し、強めていくことで、わたしの思う高みへと近づける筈だ。
その過程を、最近自分は疎かにしているのではないか。
安定した生活を続ける為、伴侶を心配させない為、会社で周りにこれ以上の迷惑を掛けない為にと仕事でも家事でもしてきたけど、わたしはもう疲れた。たぶん、それが一番近い心情だ。
良い人間であること、良い役割を演じ続けること、それはわたしと周りを繋ぎとめるが、わたし自身の中に違和感は堆積する。
崩して何を手に入れようというのか?
否、きっと手に入れるのではなく、単純に邪魔なんだ。わたしがわたしで在る為に、日々の生活で無理をしてきた疲れを溜めこんで、その所為で自分がどうしたいのか解っていない。
勿論、そんな状態のままは怖いから、どうにかして自分を解放しようと目論む。ゲームしたり、書いたり、歌ったり。
でも、自分ひとりの時間だけではだめだと思って、旦那と一緒に居たり、友人らと会ったり。
友人らと会うのは問題ないけど、旦那と居る時は結構、我慢をしているのかもしれない。
そして10月最初に大阪に行ったことで旦那とケジメだなんだという話になって、それもあって「もうどうにでもなーれ」と放り出してしまったのかもしれない。
わたしだけが我慢したり、頑張っているわけではない。誰だってそうだろうさ。
なのに、わたしにはわたしばかりが疲弊して、不平不満を抑え込んでいるように見える。もっと上手いやり方をこれまでに学んできた筈なのに、何でこんなにもやり方が不細工なのだろう。
わたしは何をしているのだろう。ゲームしなきゃ、書かなきゃ、読まなきゃ、そんなふうに強制してばかりだ。
前はもっと自由にやっていなかったっけ。いや、強制してでも自分を取り戻そうとしていたけど、ここまで毎日言い聞かせていなかったぞ。
言い聞かせるには退屈だ。強制なんてやめてくれ。もっと自由に、もっといろんなことを望んだっていいじゃないか。
失った時間を取り戻すことは不可能だ。だから、これから訪れる時間を楽しく過ごす。
それはきっと間違っていないのに、強制してでも取り戻さないといけないと思うのは窮屈だろう。
生の作品に遭うと、わたしはいったい何をしてきたんだと思う。妙な焦りが生まれる。
だけど、焦ってどうにかなるものではない。わたしはプロでこそないけど、自分の遺せるだろうものに誇りを持っている筈だ。
だけど、だけど、でも、でも、だって・・・・・・何度言っても自分は恐れている。窮屈で疲れて辛くてつまらなくて、そんな毎日を過ごすことに魅力を感じるのは難しい。
そんな生き方を望んだわけじゃない。どこかでテコ入れしよう。しかし、どこで。わたしはそんな自由が効く身なのか?
足枷を増やしたかったわけじゃないのに、こうしてまたどんどん心にしこりが生まれる。降り積もったらその分だけ固まって、それを溶かす為に無茶をする必要が出てくる。
こんなわたしに残せるもの、生み出せるものはまだあるだろうか。
時間が勿体ないからと自らに強制する全ては、はたしてその後のわたしに何か残せるだろうか。
わたしはまだ何の結果も出せていない。だから焦る。
個展を開いた友人、好きに人生を謳歌する友人、早くに人生設計をして子をもうけた友人、何年も一緒に居た人々が変わりゆく様を、わたしはわたしのままでいられることを、まだよく呑み込めていないのか。
きっと誰かからすれば、これは贅沢な悩みだ。
だけどわたしにとっては死活問題だ。
生み出せ、生み出せ。強いられた場所では足も腐り、心に穴が開く。
会いたい人に会いにいく、それぐらい簡単なことの筈なのに、本当にわたしは何をやっているのだろう。
やっと自分の立ち位置が、本当の位置が見えてきて、絶望をまた覚えたのだろうか。
2017/10/30
語る
今の職場に入ってもうすぐ一年経つのだが、見えてきた人間模様に負けて、適応障害らしき症状がまた出てきた。
他者からすれば、特に原因となった会社の先輩方からすれば「何でそんなに脆いんだ」と思うんだろーなーと、やっぱり気にしてしまう。
わたしは弱いし脆いが、ここで今までのように簡単に辞めることはできないなと思っている。
だけど、身体が動かせなくて辛くなる。本当に動かせないのか、トイレには行けるけど会社には行けない。何でだ?
会社の先輩方は仕事もできて、気が回る。
だけど、人の心に寄り添った解釈というものには疎いのだと感じた。
それが良いか悪いかでいったら、わたしの中では悪い方。
毎日、事務所でその場に居ない人の悪口ばかり言っている二人を、「あぁこの人達も限界なんだな」と思う反面、「そこまで悪し様に言うかね」と呆れもする。
頻度が高いし、二人で畳み掛けるように言うし、わたしも居ない時に言われているのだろうと勝手に予想して嫌になる。
狭い世界での話だよ、他に目を向ければ似たような人はたくさん居る。
つまらんことだ、関心を払うほどのことではない、ましてそこで陰口を怖がって何もできなくなるなど断じて許さん。
自分に対して素直で在ることが向こうの価値観から、こちらもそのようにしたらいい。
仕事はあくまでも仕事だから、きっちりやるべきだ。
それ以外のことには、特に先輩二人には関心を向けない方が、自分の精神衛生上は良いのだ。
そう解っていても身体はおかしくなる。精神が安定を欲して、薬を飲んだりカウンセリングの数を増やしたりする。
行けないなぁと感じる日は、身体が重たい。一日を全うする気力が無いと感じて、その場から離れていたいと思う。
わたしはまたあの環境から逃げたくなっている。
一日だけでも、次の日も、そうして八月は二週間も動けなかった。またそうなるのは避けたい。
わたしがやっている仕事なんて微かな支援でしかない。誰にだってできることだ。
話を聞いてくれた周りの方々に感謝の気持ちはあるからがんばりたい。でも、そうして誰かの為に頑張るのは、自分を追い込むことになる。
適応障害の所為だけじゃない。これは自分の性格の所為だ。
考えることに疲れた。気を遣うのもうんざりだ。わたしが擦り切れるまで頑張ったところで、先輩二人にはそれが当然なのだから、わたしを守れるのはわたししか居ないと思うのだ。
どうせ夕飯を食べる頃には忘れる事象でしょう。
だけど事務所で日がな毎日、誰かの悪口を言わないと彼らももたないのでしょう。
本当にカウンセリングが必要なのは、あなた達も同じなのでしょうね。
支離滅裂な中身をぶちまけたくて書き出すけど、結局は涙にしかならん。
2017/09/25
日常
とうとうこの”奇作”と呼べるゲームをクリアしたぜ。
プレイ時間が表示されていないから、いったいどれほどのもんか解らないけど、50時間くらいはやっていたのか?
攻略サイトにお世話になりました。自力でやろうとしたら、たぶん途中で投げているだろうよ・・・・・・。
PSが出たばかりの90年代は、とにかく試行錯誤の末に様々なゲームが軒を連ねていたと思われる。
今なら作らなさそうなゲームもたくさんあると思うのだ。
その中で、いっとう名前を聞いたのが、このクーロンズ・ゲート。
元々は、好きなゲーム実況者さんがやっていて、そのプレイの様子を見て興味を持った。
と言っても、あの特徴的な移動のムービーは、動画を観ているだけのわたしには結構辛かったが・・・・・・。
それでも、中国の九龍城砦をモデルとした退廃的な雰囲気に惹かれた。
更には、ゲーム大好きなおじーちゃんが好きなゲームにコレの名を挙げていたことから、俄然、やる気を出したのだった。
そして見つけた初回限定版。ぶっくおふで900円くらい。
これはもう運命だねって買ったはいいけど、メモカの容量が足りない。
メモカ買わないとなーとか言っているうちに、友人からアーカイブスが再配信されていることを聞く。
そんなこんなで、コレクションとしてソフト自体は持っていて、プレイはPS3のアーカイブスでやることにした。
前述の通り、これは実際に中国は香港に存在していたという九龍城砦を基にしたおはなし。
主人公は超級風水師として、陽の世界から陰の世界へと派遣される。陰の世界の気の流れを正し、神獣の見立てを行うことが目的だという。
そして降りたつのが、アジアンゴシックを感じさせる作りこまれた九龍城。
とにかくこのゲームは開発に時間が掛かっただけあって、当時ならえらい水準のグラフィックを誇っている。
移動の間にムービーは入るし(厳密に言えば違うらしいが)、九龍城の細部に亘り、街の様子も景色も作りこまれている。
その中で出会う様々なキャラクターも強烈だな。
設定も作りこまれているので、世界観は濃厚。
妄想、双子がキーワードになる辺り、BAROQUEを彷彿とさせる。
どっちも好きになれた人は妄想の権化になれそうよ!
わたしは紅頭たちとダミアヌスが好きで、話よりも彼らの言葉しか追っていなかった気がする。
ただ、グラフィックと雰囲気とBGMとは相まって素敵なのだけど、誰にでも勧められるゲームではないな。万人受けはしない。
ダンジョンと普通の街の差、一風変わった風水による戦闘、解りにくいフラグ立て、アイテムの用途やキャラの台詞が曖昧で煙に巻かれる感覚!!
苦手な人は苦手だろうし、実際にこのゲームをクソゲーだと叩く人も多い。そして、その気持ちはすごくよく解る。
正直、わたしも途中で投げようと思っていたんだよなぁ。
フラグが解りづらくて、仕方なく総当たりで街の人に話を聞いていたから、どんどん面倒になっていくんよな。
風水の戦闘も、邪気が漂う空間だとこっちの体力が削れるのだが、その邪気が壁を貫通してダメージを与えてきたりして、さんざん迷ったり死にかけたりと良い思い出はない。
だけど、またやろうかと思える。またあの薄汚い、狭い、カオスな空間に帰りたくなるのだ。
スルメなゲームだねぇ。
再三言うけど、人にあまり勧められないけどね!
以下、ネタバレあるので伏せます。
というか、これネタバレせずして語れないな。
[続きはこっちで]
2017/08/24
ゲーム