ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
毎度のことながら慣れない。
先日、友人と一緒にペルソナのコンサートへ行ってきた。
ゲーム音楽の生音を聴くのは片手で数える程度だけど、今回もやはり感動してきた。
個人的には、挫折したけど女神異聞録は曲がかっこよくて好きなので、「神話覚醒」が生で聴けただけでも、行って良かったと思えた。
他にも、歌い手の方々が目の前で歌ってくださって、感無量。ゲームで聴いたおしゃれなあの曲この曲、全部とまではいかないけど、いっぱい聴けて満足でした。
技術的なことや難しいことは解らないけど、わたしは少なくとも誰もがペルソナを盛り上げようと頑張ってくれていたのだと思っている。
そういった場面に立ち会えたことも、純粋に誉れであると感じるしね。良かった。
しかし、こういった生の作品に触れて、いつも思うんだ。
わたしはいったい何をしているのだろう、何を残してきただろう、と。
結婚してから精神的には少し落ち着いてきたと思う。
だけど、その分だけ平和ボケしたよなぁと感じる時が増えてきた。
平和ボケっていうのか、なんつーのか、ハングリー精神がいまいち欠けているような。
わたしの人生の正体は欲望に正直であることのみで、そこから生み出されれる言葉と感情の奔流こそがわたし自身であると思うけれど、それが今ではチョロチョロパッパだよ。なんたる様だ。
それが完全に悪いことだと思わない。実家に居た時よりも閉塞感は無いし、旦那には感謝している。
この暮らしやすさは旦那の属する会社の福利厚生のおかげであり、わたしはその恩恵無くしてこんな良い暮らしはさせてもらえないからな。実家に居た時よりも生活水準が落ちてないって、良いことだろう。
なんだけど、その分だけ自分に課せられた役割を全うしようとして、無理をしている――らしい。これはカウンセリングで言われることだった。
良き社会人であろうと、良き妻であろうと、仕事ないし家事を行う。自分を追い込んででも全うしようとするあまり、自分がどんどん辛くなっても止まることができない。
家事はともかく、仕事に関しては「有り得るな」なんて思ってしまった。実際に無理しないと会社行けないし。薬飲んでカウンセリング行って、そこで均衡を保つ努力をしないと会社に行くなんて、到底、無理だ。
それほどまでに誰かと関わるのが面倒になってしまった。それほど以前の場所で、或いはその前で培ってきたものがわたしを蝕んでしまった。これは変質だろうか。そうでないと良いのだが。
そうなるかどうかは自分次第だというのなら、勿論、そんなつまらん変質なんぞ迎えたくないのだが、今の自分の立ち位置が解っていない。
わたしは元来、つまらない存在だ。置いていかれるだけの、選ばれずに忘れ去られるだけの、無力なままの存在だ。
だけど、そんなわたしでも人並み以上にできることが幾つかあり、それを表現、続行することで、わたしの望む世界に行けると信じている。それこそがわたしがこの次元で生きる意味だ、と壮大に、しかし当たり前に考えているのだ。そうでなければ、こんな脳味噌で生きてられっか。
そのつまらない存在は、どうやったら光り、輝く?
或いは広がり、深まりゆく?
万人に受け入れられずとも、誰にも見向きされずとも、たとえ伴侶が認めずとも、わたしがわたしで在ることの証は穢れず損なわれず、確かに存在する筈だ。
それを護り、育み、愛し、強めていくことで、わたしの思う高みへと近づける筈だ。
その過程を、最近自分は疎かにしているのではないか。
安定した生活を続ける為、伴侶を心配させない為、会社で周りにこれ以上の迷惑を掛けない為にと仕事でも家事でもしてきたけど、わたしはもう疲れた。たぶん、それが一番近い心情だ。
良い人間であること、良い役割を演じ続けること、それはわたしと周りを繋ぎとめるが、わたし自身の中に違和感は堆積する。
崩して何を手に入れようというのか?
否、きっと手に入れるのではなく、単純に邪魔なんだ。わたしがわたしで在る為に、日々の生活で無理をしてきた疲れを溜めこんで、その所為で自分がどうしたいのか解っていない。
勿論、そんな状態のままは怖いから、どうにかして自分を解放しようと目論む。ゲームしたり、書いたり、歌ったり。
でも、自分ひとりの時間だけではだめだと思って、旦那と一緒に居たり、友人らと会ったり。
友人らと会うのは問題ないけど、旦那と居る時は結構、我慢をしているのかもしれない。
そして10月最初に大阪に行ったことで旦那とケジメだなんだという話になって、それもあって「もうどうにでもなーれ」と放り出してしまったのかもしれない。
わたしだけが我慢したり、頑張っているわけではない。誰だってそうだろうさ。
なのに、わたしにはわたしばかりが疲弊して、不平不満を抑え込んでいるように見える。もっと上手いやり方をこれまでに学んできた筈なのに、何でこんなにもやり方が不細工なのだろう。
わたしは何をしているのだろう。ゲームしなきゃ、書かなきゃ、読まなきゃ、そんなふうに強制してばかりだ。
前はもっと自由にやっていなかったっけ。いや、強制してでも自分を取り戻そうとしていたけど、ここまで毎日言い聞かせていなかったぞ。
言い聞かせるには退屈だ。強制なんてやめてくれ。もっと自由に、もっといろんなことを望んだっていいじゃないか。
失った時間を取り戻すことは不可能だ。だから、これから訪れる時間を楽しく過ごす。
それはきっと間違っていないのに、強制してでも取り戻さないといけないと思うのは窮屈だろう。
生の作品に遭うと、わたしはいったい何をしてきたんだと思う。妙な焦りが生まれる。
だけど、焦ってどうにかなるものではない。わたしはプロでこそないけど、自分の遺せるだろうものに誇りを持っている筈だ。
だけど、だけど、でも、でも、だって・・・・・・何度言っても自分は恐れている。窮屈で疲れて辛くてつまらなくて、そんな毎日を過ごすことに魅力を感じるのは難しい。
そんな生き方を望んだわけじゃない。どこかでテコ入れしよう。しかし、どこで。わたしはそんな自由が効く身なのか?
足枷を増やしたかったわけじゃないのに、こうしてまたどんどん心にしこりが生まれる。降り積もったらその分だけ固まって、それを溶かす為に無茶をする必要が出てくる。
こんなわたしに残せるもの、生み出せるものはまだあるだろうか。
時間が勿体ないからと自らに強制する全ては、はたしてその後のわたしに何か残せるだろうか。
わたしはまだ何の結果も出せていない。だから焦る。
個展を開いた友人、好きに人生を謳歌する友人、早くに人生設計をして子をもうけた友人、何年も一緒に居た人々が変わりゆく様を、わたしはわたしのままでいられることを、まだよく呑み込めていないのか。
きっと誰かからすれば、これは贅沢な悩みだ。
だけどわたしにとっては死活問題だ。
生み出せ、生み出せ。強いられた場所では足も腐り、心に穴が開く。
会いたい人に会いにいく、それぐらい簡単なことの筈なのに、本当にわたしは何をやっているのだろう。
やっと自分の立ち位置が、本当の位置が見えてきて、絶望をまた覚えたのだろうか。
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