ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
20日 05:19 無事に産むことができた。
が、それまでの過程が辛過ぎて、痛くて、自分の心がまだまだ弱いことを思い知らされた。
去年の小腸軸捻転の時と同様、ここに記しておくことにする。
1日目(というか前哨戦)
18日の15時から入院。
分娩室に持ち込むもの、お泊まりセット、貴重品、飲料などたくさん持ち込む。
通されたのは完全個室。楽に過ごせると解って安心する。
子宮口が拡がっているかを確認するため、外来の方へ。
37週の時点で1cm、次の週に1.5cm、今日は2cmと少しずつ進んでいた。
そうして進みがあったこと、胎児の頭がちゃんと下に来ていることから、子宮口を拡げる処置ではなく、子宮口を柔かくする薬をのむことに。
部屋に戻って夕食。
病院食は計算されたカロリー且つ美味しいので好き。量を食べきれないのが申し訳ない。
夕食後に薬をのむ。一時間に一度、合計三回。
その間NSTのモニターつけっぱなしと言われ、暫く眠れないことを悟る。
枕回りにスマホやSwitchを置いて、一回目。
モニター中、何故か胎児は動き回ることが多く、よく見失うため、助産師が「こんなに動くことないはずなんだけどなぁ」と興味津々で言っていたのが、逆にこっちの興味を誘う。
私的に座っていた方が楽だったのだが、座るとどこかに行ってしまうため、一回目、二回目は寝転がってみる。
重たいお腹と右股関節の痛みで眠れるわけもなく、やっぱり座る。
モニター中に消えても、胎児ネームで呼びかけると戻ってくる。
三回目の薬で何となくずきずきしてくる。
前駆陣痛かと思って深呼吸で耐える。腹の一部が膨れて、重めの生理痛のような疼きが度々くる。
薬をのまなくなって、モニターを外しても、その夜は疼きがあった。
眠れないと困ると思い、いつも使っている入眠剤を使っていいか尋ねる。
直前の薬の服用は、産まれた後の赤ちゃんに影響が無いかチェックする必要が出てくるから、小児科に入院になるけど、と言われて迷うも、眠れないようならのんでねって言われて、体力温存のためにのむ。
しかし、前駆陣痛の痛みで度々起きる。今までも似たような痛みはあったが、こんなに起きたろうか?
気が昂っているからだと思い、何とか寝る。
小刻みな睡眠だったが、明け方には二時間は寝ていた。
19日の朝に促進剤を使うと聞いていたから、いよいよだーとウイダーinゼリーを飲んで、少し腹を下す。締まらない。
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勢い込んで感想を書いていたのに、それが全部さっぱり消えてしまって何を言いたかったのか忘れてしまった。まぁいいか。
異種間恋愛ものだってことが早々に解っていて、でもギレルモ・デル・トロだしなぁと敬遠していた映画だったけど、やっと観た。
すっきりと描かれたロマンスだったので、後腐れなく観れた感じ。寧ろ、同種間の恋愛すら書けずにどうしたもんかと思っていた自分にとっては、この映画のすっきり具合は見習いたいところ。
人によっては半魚人の設定は何なんだとか、あれは結局どういう存在だったんだとか、そういう部分が気になると思うけど、この映画の肝は恐らく異種間恋愛ってところだけなので、考えずに感じた方が楽しめると思います。
小説も出ているようだ。そっちを読んだ方が設定とかは解るかもしれない。
主人公のイライザの地味な色が段々と派手な暖色系へ移り変わっていく、彼女の心境の変化。毎日が楽しくなり、気持ちが弾んで笑顔を見せるようになり、周りが見えなくなっていく様は正しく恋愛真っ只中の女性。
彼女を取り巻く10年来の友人(黒人)、隣人の絵描き(ゲイ)、彼女自身(聾唖者)という、1960年代のアメリカではちょっとだけ受け入れにくい存在。彼ら自身はとても良い人柄を持っている。なんだかんだ、マイノリティ同士だからこそ協力し合うって印象を与える。
イライザ自身が海の世界から来たんじゃないかと思わせる言動の数々、雨が降ることを解っていたり、窓の外の水滴を少しだけ操るような描写が目を引いた。彼女が唐突に歌って踊り出すミュージカルシーンも、彼女が人魚姫のような存在だったなら納得かなって。脚を手に入れる代わりに失った声で、聴こえないけど彼への愛を歌う。
人間側の悪役として描かれたストリックランドの苦労人っぷり。家庭も仕事も円満に見えて、その実、この人が満たされることってあんまり無かったんだろうな。好きでもない色の高い新車を買って、早速ぶつけられたところとか、同情せずにはいられなかった。
と言ったところで、ストリックランドの環境は彼自身にもちょっと非があるんじゃないかって感じるけど。家庭にしろ仕事にしろ、選び続けているのは彼だろうしね。そういうことを認められるほど、強い人間でもなさそうだったね。
ソ連のスパイだったディミトリは半魚人に興味を持ったばっかりに、仲間から異動命令を食らい、ストリックランドとも対立することに。この人の最期は報われそうになかったな。途中まで何だか良い人に見えていたから、少しは救いがあっても良かったな、なんて。
様々な要素を絡めながら、恋愛模様を描いた正しくロマンス映画。恋愛映画とか普段全く観る気にならないけど、異種間恋愛となると話は別。
とはいえ、先述の「イライザは海の世界から来たのでは」説を僕は推しているので、異種間というか、最後は同種間というか・・・・・・まぁ姿は二足歩行以外、そんなに似てないけどね。
イライザは水中が好きなのかと思ったんだよ、自慰行為も必ず風呂場だったし・・・・・・とか言って、風呂場なら汚しても洗い流せるからここでやるのかなって思っていました。ちょっと違ったみたいです。
巷の考察や感想を読んでみたら、結構居たんだ、イライザは人魚姫なんじゃないかって方が。あの首の傷を見たら誰だってそう思うよね。僕はあの傷を見て映画のダゴンを思い出したから、だからイライザを人間とは思わなかっただけかもしれない。
半魚人も、小説版だと神として描かれているみたい。クトゥルー的存在かと思った。
感情表現がちゃんとあって、イライザのこともちゃんと好きだったようだ。どこか可愛げのある仕種がいいなーと思わせるが、隣人の猫を食った時はヒェッてなったぞ。それを「彼の本能によるものだから」と理解を示した隣人も凄いが。
ってな感想をもっとつらつら書いていたのに、一瞬でパァだ。30分がパァだ。
とにかくあまり気負わずに観られる恋愛映画です。グロテスクな場面とか、性描写もがっつり映ることがあるから、一人で観るのをお勧めします。
いつもドンピシャなゲームを勧めてくる友人が「また君に勧めたいゲームを見つけてしまったんだ」と意気揚々と紹介してくれたのが、このフリーのノベルゲームだった。
彼女はインディーズのゲームにずっと嵌まっていて、コンシューマよりもPC、というかSteamでゲームをする機会が増えていた。こっちの方が熱意ある、尖ったゲームが多くて刺さる頻度が高いみたい。
今回勧められたものは別サイトにあったノベルゲームだったが、その内容が刺さるかもしれないと思って勧めてくれたようだ。
余談だが、彼女近年のイチ押しは『OMORI』である。
これもやってみたいのだが、彼女から真面目な顔で「何か悪い化学反応が起きるんじゃないかと心配ではある」と言われたのが引っ掛かる。
でも、自分でもパッケージや内容をちょろっとだけ見て、やべー堕ち方しそうだな~とは直感で気付いた。だから未だにやれずにいる。
こういうゲームは感性の様々な部分を刺激してくる。それが楽しくてやってはいるけど、引き摺ってしまうと自分の中のトラウマやら陰の部分やらも一緒に活性化するので、その処理が大変だ。
いつになったらできるのか解らないが、今はその時ではないと思っている。そう思っているだけで何年も経ってしまいそうだ。
で、今回のゲームは『断罪室』。加害者と被害者、二人の話を聞いて、被害者が加害者に復讐することをプレイヤーが許可するか否か、という単純なお話になっている。
復讐を許可するか、それとも復讐するほどのことではないのか、或いは二人のことを見なかったことにして責任を負わないという選択もできる。
という、ここだけで考察やら終わりのない思考に身を投じるのが好きな人間には堪らない作りとなっている、気がする。
プレイヤーは紹介される人々と全く関わりが無く、正直、裁判の民間人の陪審制度に近いものがあるんじゃないかって。
でも、どっちかに加担した時点で責任は発生するし、その結果を受け止めなくちゃいけない。そういった重みに耐えられない人のため、どちらも選ばないという選択肢があるけど、生真面目な僕は全てに関わっていくことを選択した。
その結果、得たのは何とも言えないじわっとしたモヤモヤだった。
復讐を許可した後の結末はあっさりとしていて、まぁそうだよね~殺したかったもんね~と頷いていられるが、許可しなかった場合の結末がだいぶモヤる。
許可しなかったのに、たぶん我慢できずに殺してしまった者――これは理解できる。他人が許可しようがしなかろうが、自分の思いの丈を成就させたいとして刃を握り締める心境は、僕にも覚えがある。いや、僕は完遂していないけど。
一番モヤモヤしたのは、いじめ問題の二人だった。最初に聞いた陽キャっぽい加害者の話で、被害者の方が少し被害意識が強いのではないか、と感じて、復讐を許可しなかった。
その結末を知った時、僕は上辺だけしか知らずに余計なことを選んでしまったのだ、と罪悪感を呼び起こされた。
断罪室の管理人が「人の全てを知ることはできない」っと言っていたのは正しくこのことで、僕は全てを知ったわけではないのに、断片から得た情報だけで「被害者君の受け取り方にも問題があるんじゃないかなぁ」なんて言ってしまったのである。
これが現実であったなら、被害者はさぞや絶望と失望の入り混じった視線を僕に投げかけていたことだろう。こいつも当てにできない、なんて毒づかれそうだ。
これはなんと罪深いゲームだろうと感じた。たかがゲームって言えばそうだし、人によっては「なんだ、こんなもんか」と記憶にすら残らないかもしれない。
僕は自分が選択したことによる結果を見て、自分の行ったことの罪深さを感じた。成程、確かに刺さるゲームではある。責任感の強い、真面目な人間ほど、このゲームに罪悪感やモヤモヤを感じずにはいられないだろう。
よくできていると感心する傍ら、こんなゲームを作った作者は普段から何を考えて生きているのだろう、と興味も湧いた。普通の精神状態じゃないかもしれない、そんな失礼なことも考えた。
昨今、SNSでも断罪する様をよく見かける。そっちの断罪には加担しない。見守るだけに留まっている、責任が取れないから。
一方の言い分を聞いて、その通りだと思うこともある。しかし、後になって真相を知ったら、叩いていた方の理屈が間違っていたこともある。
人が人を裁くのは、斯くも難しい所業か。そりゃそうだ、全てを知ることができるわけじゃないし、全てを知った上で公正な判断をしてねって言われても、そこに責任が生じたら誰だって責任を軽くするための内容を考えるだろう。それぐらい重くて、軽々しく判断できないことなのだ。
とはいえ、リアルの方の現代司法は「それでいいの?」という判決やら何やら出ていると感じるのも否めない。
あの席に座っているのは、ちゃんと勉強した偉い方々ではないのか。どうして加害者の方が助かっている場合があるのだ、解らない。僕が感情に押し流され過ぎているだけだろうか。
感情的な人間に断罪などさせるべきではない。じゃあ、どんな人間だったら向いているというんだ。解らない。
自分の愚かさも見えてきたが、そんなこんなで『断罪室』は考えさせられるゲームである。是非プレイを。
例の怪獣映画を勧めてくれたフレが満を持して勧めてきた、気になっていたタイトル。
振り返れば『バトル・シップ』を観た頃くらいに名前を見かけていて、同じような感じかな~気になるな~なんて思いながら、結局観る機会が無いまま、ここまで来てしまった。気が付いたら十年。
勧めてきたフレの感性と度々重なることが多く、怪獣映画を嗜むようになった今なら観られるんじゃないかと思い、視聴を開始。
ギレルモ・デル・トロ監督の作品は幾つか観ていたので、映像もきっと綺麗なんだろうなぁと期待しながらのことだった。
結論から言えば満足。映像美、機体のかっこよさ、怪獣の容赦の無さなど、あらゆる点で楽しませてもらったと思う。
人間ドラマと見せたいバトルとの比率が、デルトロさんだったらこうなるだろうって予想の範囲内だったので、熱くなり過ぎることもなく、かといって冷めることもなく。良い塩梅で楽しめたんじゃないだろうか。
デルトロさんの映画を観ていて常々感じてしまうのは、映像は綺麗なんだけどあともうちょっとだけ何か欲しいなっていう、何某かの欲。
観たのがホラー作品ばっかりだからそう思うのかもしれないが、あともうちょい、もう少し、これだけでいいから一つまみの何かをくれって、いっつも感じてしまう。それだけデルトロさんの作品に感応して期待しているんだろうけど。
『パンズ・ラビリンス』、『クリムゾン・ピーク』、『MAMA』と観てきて、「もう少し何かあるんじゃないか!?」と思って待っているけど、起きずに終わるということが多い。
じゃあ何を求めているんだって言われると、何だろうな。何かが足りない、もっと欲しい、いろいろ当て嵌まるけど、そう感じているということだけは確か。
ただ、映像は本当に綺麗だよね。小道具ひとつ取っても凝っているから、画面の隅々まで観察しようという気になる。
特にそう感じたのはパンズ~とクリムゾンかな。クリムゾンは時代も相まって、女性の着るドレスが豪奢で、見ていて楽しかった。
今回はホラーではなく、怪獣映画に分類される・・・・・・んだろうか?
ホラー以外のデルトロさんってどんなんかしらって、先入観を捨てて観ていたつもりなので、だから満足したのかもしれない。
吹替版の声優陣が豪華と聞いたので、吹替版で観たけど、本当に大御所ばっかりだったな。
玄田さんはシュワちゃんの吹替とかやっていたから違和感無いのは解っていたけど、杉田さん、めぐさん、浪川さん、古谷さん、池田さん、千葉さん、三ツ矢さんって面子がすっごい。
そして吹替版らしい自然な演技で、アニメ色をあまり感じなかった。めぐさんと古谷さんとか、声がそれっぽいけど違う方か? って、最初は気付けなかったくらいだ。
ここでやっとアニメの声優と、洋画の吹替声優の演技ってこんなにも違うのかと認識させられる。でも、どっちの声優もどっちの現場に行ったって完璧な演技をするんだから、プロって凄い。なんて薄っぺらい感想だ!
あとはネタバレ必須の感想。
この後にまた『バトル・シップ』観ようと思っていたけど、満足していたから観ませんでした。
あんまりたくさん観たらアドレナリン出過ぎて、誰かに語らないと済まなくなってしまう!
妊娠中は兎角、何をやるにしても集中力や体力が長続きせず、なかなかに歯痒い思いをする。
「その間、やることないならコレやってみ」と勧められたのが、ポイントを貯める活動だった。これを略してポイ活と皆が言っているのだろうか。
そのポイ活でぼんやりと動画を流し見していたところ、見つけたのが『狂つた一頁』なる映画だった。
彼の有名な川端康成氏が脚本を書いていたり、撮影の助手に円谷英二氏が居たりと、何やら豪勢そうなスタッフだなぁと制作された年を見てみたら、1926年とあった。魂消た。大正時代の貴重なフィルムとは。
しかも脚本があると言っても、川端氏の脚本を基に作られたわけではなく、映画そのものを作った後に川端氏があれこれ書き加えた物が存在している、という体なのだとか。どういうことだ。
あらすじを知った上で視聴を開始すると、その理由も何となく解ってきた。
この映画は日本で初めての前衛的な映画という位置づけで、物語云々よりもその撮影技法だとか、表現しようとした内容について高い評価を得ているらしい。
撮影技法については素人同然なので、この撮影はこういうやり方だという認識がほぼ無いまま観ることになったが、意欲的な作品なのだということは理解できる。それだけの熱意を感じられるのが、素人の救い。
妄想と現実を描き出すというテーマは興味深い。この頭の中を他の人の視界に投影した時、どんなふうに見えるだろうか。支離滅裂で、暗くて、怖くて、救いの無いものに見えるのだろうか。
観たのはアマプラにあった、尺の短い、BGM付きの方だった。
オリジナルは70分超えでBGMも無いらしいのだが、そちらを衣笠監督が自ら編集したとかで、音楽がある分、多少は見やすくなっているのではないだろうか。
とはいえ、その音楽も物々しいというか、おどろおどろしい雰囲気を伴って鳴っているので、これはホラー映画だと言われてもしょうがないかもしれない。個人的にはホラーではなかったんだが。
「難解な話」と聞いていたので、そんなにやべー話なのかなぁと思っていたら、字幕が無いことに端を発するものだったらしい。
モノクロ、無声映画だろうとは思っていたが、字幕まで無いとは。そうきたか。そりゃ話を理解するのに骨が折れるわ。
登場人物があれこれ何やら喋っていることは解るけど、何を言っているのかは解らない。読唇術でもできれば、少しは助けになったろうか。いや、無いものをねだっても仕方ない。とにかく雰囲気から何が起きているかを知っていかねば。
そんな努力をしながら50分余りにまとめられた本編を見たが、結局、登場人物のおおまかなところしか解らず、ウィキや考察サイトなどを見ることになった。夫と妻しか解らんかったぞ。
昔の言い方で言うと、精神病院に入院している妻。その妻を見守るために病院付きの小使いになった夫。母が入院しているために婚約が破談になりそうな娘。独房にしか見えない病室で踊り狂う女。大勢の患者が不可解な動きを見せ、それを胡散臭い笑顔で見る医者と看護婦達。
先ず内容が内容なだけにフィルム化が難しいと聞いたが、これは確かに難しい・・・・・・いや、そうなのか? かなり貴重なフィルムなんだし、DVDで欲しいって人もたくさん居るのでは?
精神病院云々というと、思い出すのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』。こちらも難解故に途中で挫折したのだが、これを読んでいた時に感じた鬱屈としたものをこの映画からも感じた。
妻が入院する羽目になったのは、そもそも夫が水夫で家をあけがちだったこと、暴力を振るってくることが原因。それを苦にして我が子と心中しようとしたけど、我が子だけ死んで自分は生き残ってしまったから、それで気がふれてしまったという。
ということは、子どもは二人は居たって設定なのね。上の娘は立派に育って婚礼の話も出ていたけど、母が入院していることが問題で破談になりかかっていると。
それを知った夫は妻を病院から連れ出そうとするが、妻は嫌がり、自分から病室に戻る素振りまで見せた。夫の方こそ気が昂って、夢とも現実ともつかぬ世界で妻をまた殴りつけたり、娘が無事に結婚していく様を見たりと、逆に堕ちていく様が見て取れる。
夫は妻に対して暴力を振るっていたっていうけど、妻を心配して病院で働くなんて反省しているじゃないか~と思わせておいて、妄想の中では妻をしっかり殴っていたね。これがこの人の本性なんだね。
娘の婚礼が上手くいくためにと妻を病院から連れ出すつもりだったみたいだけど、それができそうにない時点で妻のことを疎んじていたのかもしれない。精神を病んだら、別人にしか見えないだろうしね。愛情だけで持ち堪えられるもんでもないだろう。
その結果、夫が今度は病んでいったように見えて、この映画は終わっている。当然の帰結というか、そうなるよなと納得の終わり方だった。病んだ人間を相手にすると自分も病むものだ。まぁその原因はそも誰にあったのかっていうと、自業自得な気がするね。
精神世界を描いたもの、その上辺だけじゃなく奥にあるものを映像化しようとしたり、または言語化しようとしたりっていう試みは、いつの時代もされているんだと思う。
それでも表面化できるのは、ごく一部。誰かが知ることができるのも、ごく一部だ。それだけ人の心は迷宮であって、複雑で、崩れやすいんだろう。
狂つた一頁なんて題名が付くくらいだもの、こんなの一幕の間のことで、どこでも起こり得る事象だ。一頁だけじゃない、次の頁でもきっと妄想は続いている。
妄想に堕ちている間は楽になれることもある。救われたような気がすることさえ、ある。
だけど、どこかでそんな都合のいい自分を罰する自分が現れる。「こんな夢を見ているなんて、どうしようもない奴だ。お前を断罪する」と言って、脳内会議が行われる。その間、妄想は止め処なく続いているけど、もう浸ることができない。罪だと解ったら、その妄想はもう使えない。
次の妄想へと渡り歩いているうちに、現実を生きる力が失われる。肉体が必要なくなる。いろんなしがらみから解放されて、何だか楽しくなる。でも、自分がそういう状態に陥っていることにも気付かない。完成される。そんな感じだ。
『ドグラ・マグラ』を思い出したって言ったけど、感想を書いているうちに『さよならを教えて』も思い出した。正に主人公の気持ち。
僕には難しいことは解らない。言語化するにあたって、壊れた精神からいろいろ引っ張り出しているから、文章もまだ整理できない。
だけど、何となく解る気がする。解る気がするだけでいい。解ってしまうと、僕の中にも流れてくるから。妄想とは、病とは、そういうものじゃなかろうか。
と、感応を起こせばしんどいことになるが、映像としてはとても貴重なものなので、その価値を感じるためにも視聴をお勧めしたい。
しれっと載せているアマプラに感謝だ。まだ暫く月額は払うことにしよう。
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