ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
勿論、それもあるけど、見ようと思って考え続けるから見えるんだってことに気付く。
それができるだけの力は昔からあって、ちょっとくらい軌道を間違えても、周りの人間関係によって救われて戻ってくることができる。
僕はなんて運がいいのだろう。つくづく周りに恵まれた人生なのだと痛感することが増えてきた。
一ヶ月以上も傷付いて考えていたのは、相手との関係性の変化だった。
相手の環境が変わり、それに伴い考え方や振る舞い方すらも変わり、その変化に戸惑っていたけれど、少しずつ「そうだよね、そうやって変わっていかなきゃ生きていけなかったんだよね」と理解を示すことができるようになった。
無論、相手にとってはそんな理解なんて何の役にも立たなくて、寧ろ余計なお世話だと言われそうだけど。
相手は今後、どう変わっていくのだろうか。脆弱な自分に気付いて、過去の過ちを悔いて、そこから成長は始まると思うけれど、別に人間的な成長なんてしなくたって生きていくことは可能だから、それで満足するのかもしれない。
人生なんて、結局は当人がどう満足できるかに懸かっている。他者を蹴落としても、慮ることができなくても、当人が「この人生は上々だ」と信じればそのように映るのだろう。当人にだけは。
周りの人間関係は破綻するかもしれないが、昨今では友人など居なくても大丈夫だという風潮も生まれつつあるらしい。どんな言い方にせよ、自分を正当化できる術は必要だ。
だもんで、相手もきっとそのように自分を奮い立たせながら、或いはどこかで後ろめたさを感じながら生きていくに違いない。
それは僕が許す許さないといった範疇に無いことで、そこから弾かれるのは悲しいけど、彼女の抱えられる荷物の質と量もまた決まっているのだと、違う場所から理解を示している。
えぇ、これもやっぱり彼女が知ったら、自分を馬鹿にされているんじゃないかって怒りそうだね。
そんなに違う人間だとは思わない。寧ろ似通った部分が多いから、反発する時は思いっきりするのだと思う。
その刺激が時々きつくて僕は参ってしまうけど、時間が経てばその傷を見つめられるようになり、悲しみを受け止められるようになり、どうすべきかを自分で決めることができる。
相手がそこまでできるかは解らない。向き合う気が無いのなら、きっといつまでもそこに停滞することになるけど、それでもいいのではないか。先述の通り、人間的な成長などしなくても生きていけるから。
というより、そういった魂を懸けて何かを為そうとする行いは、ともすれば日常を生きる力に影響することがあるから、普通は避けるのかもしれない。病んだりしたら生きていくのがしんどくてしょうがないもんね。
成長できるようなきっかけに遭って、悩んで傷付くことに時間を割いたとしても、それが今後の人生をより充実させるなら、その方がいい。そういった損得勘定を行うことができるようになるのも、やはり経験から来るのだろうか。
兎にも角にも僕と相手は似通った部分が多いけど、そこだけ決定的に違う。その違いを話し合うこともできないまま、十二年が流れた。もう彼女に僕の言葉は届かないだろう。
カウンセリングで話をした時、先生からもその指摘を受けた気がする。
相手に言われたことで僕は深く傷付き、その傷は永劫癒えることがないのだが、そこについても言及された。
曰く、「彼女とあなたでは状況が違う。彼女はあなたを通して自分に言い聞かせている。自分で選択したかのように言っているけれど、どうしようと迷っている間に時間が過ぎて、そうせざるを得なくなっただけ。あなたは自分で選び、今もまだ苦しんでいる。彼女が言うように、けっして甘えからその選択に至ったわけではない」
そうだったらいいけど、相手はそうは考えないだろう。そう考えることは今までの自分の行いを否定し、いろんなことを無に帰すから。その重みに耐えるような余裕は、もう彼女に生まれない。
そうやって向き合わなかった分の歪みを僕が知って、抱えてあげる必要は無いという。
それらは身近な人間が肩代わりする羽目になる。家族が居れば配偶者とか子どもとか。
あぁ、そういうことかと納得がいった。僕は肩代わりする羽目になった側だから、得心がいくことばかりだ。
僕みたいな思いを、或いはそれよりもっと酷いものを、彼女の近親者は背負うことになるのかもしれない。
だけど、そこについて僕が心を痛める必要は無いらしい。
思うところはいろいろあっても、やっぱり友達だから僕は相手に何かしてあげたいし、話も聞いて助言でも何でもって気があるんだが、それはきっと相手からすれば癇に障る行為に値するだろう。僕が関わるべき領域ではなかった。
相手と話す度に僕を通して相手は自己肯定感を高めていると錯覚するほど、いろんなことをあけすけに言われてきたけど、その分の歪みを抱えるのは僕ではないのだ。
話している相手は僕でも、僕を通して相手は自分に言い続けている。これでいいんだ、こうするしかなかったんだと。
そんな相手を務める必要無いよねって話だと解釈しているが、それも役目ならば少しはいいかな、なんて。
そういうところが、僕の人間に対する甘さだ。人間嫌いと称されるけど、僕は一度でも仲良くなった人間に対しては、かなり甘やかしてしまう性分らしい。
何でそうするのかって、勿体ないからだろう。伸びしろがあるのにどうしてそのままにするのって、お節介なんだ。人間はそういうものを嫌がる。
まるで自分が別の次元から相手を見下ろしているかのように語ってしまうが、実際そうなんじゃないかって気もしている。
僕はもう抜けてきたところで、相手と同じ土俵に立つこともない。そこはもう通過して、そういった伸びしろのある人間が悩む様を見守る位置に就いている。
本当にそうかどうかは解らない。やっぱ同じ穴の貉だよなって感じる時もあるし。
相手も同じような見解を僕に抱いているとしたら、僕らは対等な友達になるところからやり直しだ。
その重要性も解らないようなら・・・・・・うーん、現世では無理なのかもな。来世で魂を磨いてから、また会いましょう。
自然とそう思えるようになったのは、余裕からだろうか。相手にも、いつか苦しめられた子に対しても、何の抵抗も無くそう考えられる。
だって違うもの。僕は君らと違う。選択してきた、向き合ってきた、成長してきた。それだけの自負と矜持を以てしても、未だに君らの行いに傷付き、悲しむことがある。それは弱さかもしれない。
さんざん感情を発散して、呪えるだけ呪った後、残ったのはこんなものばかりだ。僕は人間に甘くて、可能性をいつまでも信じている。奇跡のような面をしているが、人間にとっては重荷となるようなことを言いまくっているな。
これが時間を掛けて見えるようになった物事だった。僕にはそれだけの目と思考能力があるんだと思うようになった。昔からそうじゃなかったっけ。
輪廻があるなら、その先で成長した君らと会いたい。今は僕も勉強中だけど、もう少しだけ先に居る。きっと何を言っているのか解らないと思う。
現世に居る間は仲良くしたいし、また好きなもので話せたらいいな。それができなかったとしても、もう怒ったり呆れたりしたくない。それは僕の我儘というものだ。
人間にはそれぞれ役割があって、果たすべきことのために成長しなきゃならない。僕はそれを見守る側なんだ。僕にも役割はあるし、果たすべきことはあるんだけどね。
変わっていくものを恐れない勇気が欲しい。
いつもどこかで怯えている。全てをあるがまま受け止めて、流せる境地にはまだ至れない。
けど、今はこれでいいや。やっと少しだけ楽になれた。
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こんなことが嫌だった、こんなことを言われて傷付いた、こんな目に遭って悲しかった、という諸々のことを思い出し、勝手に反芻し、傷付き直すこと幾星霜。
それが自分の悪癖であると理解できていても、なかなか治すには至らなかった。そも自力で何とかできるなら、カウンセリングなど不要だったのだ。それはカウンセラーにも言われたことである。
僕が相手のことを侮っていて、その相手から言われたことに納得がいっていないから、今回の歪みが引き起こされた。
そりゃあ君からすれば大した話ではないだろうが、僕からすれば生涯を通した悩みなのだと。そこに寄り添えない時点で、彼女に話を聞く態度というものは備わっていない。昔はできていたように思うけど、もうそういう姿勢をやめたのだろう。
僕はその人に何も期待せずに話している筈だった。なのに、これだけ傷付いたということは、どこかしらで何かを期待してしまったのだろう。
僕の意思とは反対に、何かがまた勝手に動いている。蘇ったこの感覚にうんざりした。
その人はそういう生き方を選んでいる。結婚して、子どもができて、出産して、離婚して、再婚して、余裕ができたように見えていたけど、根本では変わっていないのだ。歪んだ時のまま。
僕にはそう見えたし、それでいいのかって思うこともあるけど、本人が今の方が生きやすいというなら、この状態でいいのだろう。
いくら諭したところで、それを聞ける人間は少ない。誰かに言われて自分を変えるのが大嫌いなのが人間だと、どこかで見かけた。
成程、人に物を言いたがりの人間ほど、誰かに自分のことを指摘されると聞き入れないし、反発してくる。つまらない。
あの子も、彼女も、その類だった。解ってしまえばなんてことのない、つまらない人間だった。
それが解った時、まだ自分が過去の彼らを思い出していることを知った。
とはいえ、過去は過去。あの時から随分と時が流れた。僕の芯はあの頃から変わらず、何とか人の忠告を受けて自分を変化させながら生きてこられたけど、あの子もその人もそれが無理だったのだ。変わりたくなかった。言われたくなかった。
その結果、僕と二人の間には違う境界ができたように思う。もうあの頃のように共有することは叶わないし、僕の言うことや書くことを彼らが理解できることは無いだろう。
或いは、この先の人生で再び交わった時、彼らに自省の心が芽生えていれば、話も同じ次元でできるかもしれないが。
現世が魂の修練場というのは、よく聞く話だ。
その過程で、成長途中だからこそ現段階では物事を理解できない魂も多いのだと聞く。
僕は一歩先を行ったような感覚に囚われているけど、あの子達はどうかな。そんなことも考えないまま、一生懸命に今を生きているのかな。
僕とは生きていく視点が違う。でも、僕はこの視点で生きていくために今の生活を続けているから。流されて、気が付いたらその生活に収まっていた人に、とやかく言われる筋合いは無い。
その一方で、彼らの人間らしい姿は素直に称賛すべきだとも考えている。僕にはできないことだしね。ただ生きていくのも、ただ生殖に及ぶのも。
生命の本懐を果たすその様は正しく人間だし、人間としては彼らの方が遥かに優秀だってことは、何年も前から結論が出ている。
そんな彼らに目をかけて、まだ仲良くしたいと思っている自分が少し変わっているのだ。人間らしくない。
まぁ、それでいいじゃないか。僕はまだ何か学べることが、教えてもらえることがあると思って、その人に近付いた。
今回は言い返せなくて落ち込んだだけだと思う。そこに嫌なことが続いて、風邪を引いた。こんな時に風邪だなんてツイていない。
一旦止まった足の先で、今までのことを考える。
大事なのは僕がこれからどうしたいかだ。どういう存在として誰と関わりたいかだ。
けど、今はそれを考えるための大事な思考部位が熱やら倦怠感やらで、疲弊してしまっている。どうしようもない苛々だけを抱えて二日過ごすのは身体に悪い。
だから許そう。僕は上から見ているに過ぎないけど、見下してはいけない。現状を解っているなら、解っていない者の分も考えられるのは当然だ。それは理不尽などではない。
少しだけ先に居るからといって、その距離は覆せないものではない。僕にできないことをできる者達に尊敬の念を忘れてはならない。
ただ、ちょっとだけ、愚かだなって思うことがあっても許してよ。もう飽きたんだ、悲しむのも傷付くのも。
自分の捉え方次第だよってどこもかしこも言っているけど、それが上手くできなかった時にどうすればいいかは誰も教えてくれない。
大事なことを学んでこられなかった哀れな魂にも、輝ける瞬間はきっとくる。
僕はそれを見てみたい。考えるのを一旦やめたい。巫としてか、人としてかは解らないけど、見守っていようと思った。
許してあげることさ。僕にはそれができる。そういう次元にもう居るんだから。
そうやって自分を持ち上げていく度に、何か取りこぼしている気がする。
これで合っているのかどうか、教えてほしい。忖度なしで。
もし間違っていたとしても、僕は人の指摘を受け入れられるから、間違いっぱなしではないか。
それが救いにして強みだ。
詳しいことは勉強していないから解らないことが多いけど、要は「この世に変わらぬものはなし」と、そういう意味になるらしい。
それは解っているつもりで、実際に目の前にしたとしても多少は受け入れられるつもりでいたけど、今日の友人との会話を振り返るに、まるで解っていなかったように思う。
けど、これを理解することが、僕の良い意味での自立に繋がるんじゃないか、と思えた。
人にはいろんな種類の価値観があるし、思惑がある。それら全てを理解するなんてことは、同じ人間の次元に在っては恐らく不可能だ。
それでも足掛かりとして、想像力や思考、言語能力を駆使して、相手を知ろうとする。人間関係に重きを置くならば、そうする人の方が多いだろう。
僕は勿論、そうする側だ。人と関わるのが楽しいからこそ生きている、そう言える側面も持っている。
だけど、とある友人が変わってしまったのだと認識した時、そこそこの衝撃が僕を貫いた。
それからすぐに「不変なんてことは有り得ないんだ、解っていたじゃないか」と思い直したが、その言葉は浮遊感が凄くて、要するに自分の中に根付いていない言葉だと気付かされた。
変わらない人なんて居ないってのはその通りで、ライフステージなるものを経ると人は変わらざるを得ない。
それは今まで付き合ってきた人間にとって、必ずしも良い変化ではない。昔の方が良い奴だったな~とか、今の方が付き合いやすいかもな~とか、様々な感想が出てくるみたいだ。
僕がその友人に感じたのは前者だった。でも、それも僕の思い込みというか、都合よく考えがちな悪い部分だと自覚している。
友人もいろんなことがあり、変わらざるを得なかった。自分を守るために変化し、切り捨て、他者との境界線をはっきりさせたのだろう。
元は優しかったし、人に気を遣い過ぎてしまうところがあったように思う。それでは友人自身が辛くなるから、それをやめて、自分のために取捨選択をできるようになったのが、今の姿なのだろう。
きっと僕はこの人に切り捨てられる側だ、そんなことを思ったのは、僕がその人と関わるようになった近年、この人は僕が連絡しなかったことを不審に思わなかったんだ、その程度の存在だったんだと落ち込んだことがあったからだ。
僕は結局、人に依存してしまう。それもかなり多くにその根を伸ばして、何とか繋ごうとしている。
それだけ不安で、人に縋りつきたい気持ちが強いのだろう。そこも自覚はあって、それを治すためにも長年のカウンセリングを続け、自己解体を止めない。
十年前と比べても、今の自分はだいぶ生きやすくなって、物事がもう少し正確に見えるようになった筈だ。
そんな目を以てしても、何だか衝撃だった。変わってしまったんだ、そう強く感じた。
それが自分にとって都合の悪いことなんだと思っていそうで、僕はまだ友人のことを、自分を喜ばす道具のように思っているのかもしれない、そう危機感を抱いた。
大体がして、僕がその人に拘るのは何故か?
昔から僕の書いたものを読んでくれて、絵におこしてくれたりしたことが嬉しかったから、それを手放したくないと思ってしまったのだろう。
だけど、それって今の友人には何の足しにもならないんだよな。というか、本来はそういう利己的な部分を除いて付き合いたくなるのが、本当の友人ってやつだよな。
と考えれば、その人は僕が例え書いていなかったとしても話を続けてくれただろうから、友人であると言える。
一方、僕はその人が描いてもくれず、読んでもくれないと解ったら、そこで関係を切ろうとするだろうか?
答えは現状にある。切っていない。
その人にまた読んでほしいとか、描いてほしいって思うことはあるけど、そうできるだけの精神的な余裕や時間はあまり無いと知っている。
創作が魂の往く運命だという部類の人間ならともかく、そうじゃない人は余裕が無ければできない。誰かの何かを受け入れるなんて、できやしないんだ。
家庭や仕事を差し置いてでも時間を費やそうという酔狂な人間は、僕が思っていた以上に少ないのだな。
当たり前だ、皆にそれぞれの人生があり、環境があるのだから。限られた時間で、自分の為になることをするのが、人間の責務の一つなんだ。
そうして理解を示しながら、僕もまた時間を掛けて、人間のことを知っていく。
その人と再び連絡を取った時は「また読んでほしい」という気持ちが強かったが、二年が経った今は「そんな余裕無いもんね」と電話を掛けるだけに留まる。
もっと話したいことがあったように思うけど、その人の置かれた環境を知る度に配慮せねばと気を遣う。ここが自分の長所だと、いつも思うようにしている。
人間の抱えられる荷物の質と量は決まっている。何年も前から、自分に言い聞かせていることだ。
そこからあぶれた自分を嘆くことが多かったけど、今はもう少し違う視点を設けている。
僕が望んだ形や思い込みを一旦置いて、相手なりに示しているであろう親愛を受け取る。それはきつい言い方の中に含まれる親切であったり、言葉にはしないけど態度には出ていることであったり、人間の性質次第だ。
そして、僕はそれを受け取ることができて、理解することができる。それだけの力があると信じる。
だったら、自分の中の合格点ではなくて、相手なりの誠意や親愛の情を知るべきだ。思い込みは一番の敵となる。
そうやって何度も自分に言い聞かせて、漠然とした幻の不安を払って、またその人に声を掛ける。
長い人生の中で全く変化が無いって人は殆ど居なくて、誰もが何かしらの変化に見舞われる。
その過程で保ちたい自己を保てる人はよっぽど少ない。多くの人はきっとその変化に対応するため、自分を作り変えていく。
それが先述の「昔のが良かった」とか「今のがいい」に繋がるんだけど、自分だって変わるんだからそりゃあ齟齬くらい生まれる。
尤も、僕の場合は根っこが全く変わっていなくて、外側に近い部分が崩壊し、再生し、また崩壊し、再生し直したばかりだ。その経験が僕をよりよい方へと導いているという手応えはある。
そうやって成長した今の僕とあまり付き合いたくないって人は、そんな居ないんじゃないかな。こんな大それたことも言えるほど、自分の誠実さと義理固さに自信があった。
大きく出たな~と自嘲したい気持ちもあるけど、これぐらいのことを言わないと、自分に刻めない。弱気なままでは、また三年間の地獄に戻ってしまう。もう戻らない。
僕はきっとこうして生きていくしかない。周りのように変化を許容し、取捨選択を冷酷にできた方が生きやすいだろうけど、恐らくそうなれない。
なれないなりに、何とかやっていける。それだけの自力と根が自分にはある。傷付くことの方が多くて、損しているなって思っちゃうことも多いけど。
或いは、全然気を遣えていなかったりして。
否、気を遣ってはいるけど、遣い過ぎなんだ。自分を追い詰めるほど、誰かに気を遣わなくていい。それは相手をつけあがらせる。誰のためにもならない。
たくさんのことを考えて、目が回る。脳が疲れる。けど、自分をまた知ることができたし、これはきっと創作に活かせる。
つまるところ、自分は”こういう人間”なのだと自覚する度、何とも言えない充足感と安堵感、それから少しの呆れが蘇る。
いいぞ、もっと成長しろ。そうやって魂に、精神に刻まれたものが、僕をもっと豊かな世界へと導く。書けるようになる筈だ。
希望を持てば絶望の影が濃くなるもんだが、今はそれよりも確かな手応えを現実へと写したい。
あれだけの地獄をまた潜り抜けて、情けなくとも生き残ってきたんだから、もう少しだけ天狗になってもいいだろう。
諸行無常は恐ろしいが、根っこが変わらずに成長できた僕なら理解できるようになる。
その友人との良き付き合いが長く続くことを願います。離れることがあってもまた繋がれた、今回のようにね。
まぁ繋いだのは僕だけど、そうできるようになったのも成長したからだ。それは相手には解らないことだけど、魂が知っていることだと思う。人間にはまだ早い、早いよ。
それだけの自負と余裕、どこまで続くかね。続いてほしいね。
さすがに「死ぬまで続けられるさ」とは言えないのが、現状の精一杯だ。
でもまぁ・・・・・・守護者達が笑っているから、これでいいのだろう。
そんな者に終ぞなれる気はせんが、目指すことで救われる心もある。
今はそんなふうに自分を慰めて、来るべき時に備えるしかなかった。
自己肯定感というものが俄かに騒がれるようになり、僕に欠如しているものはそれなのだと解り、辛いことや苦しいことを経て、ようやっと形を摑めてきた昨今。
信頼していた友人に二十年越しに梯子を外され、そんな人間に依存して生きてきた自分を恨み、呪いながらも、それでも生きてきたのは何のためか。
勿論、書くためである。この身に起きたことを余すことなく形にし、別の物語にし、いつか自分が辿る軌跡として残していかんがため。
そう言うと崇高な目的になるけど、要はそんなことで命を手放す価値がその人間相手に無かっただけのことである。
こうして言えるようになっただけでも、生殺し状態にあった二年前の自分には僥倖であろう。
人間に縛られることなく、或いは自分を卑下し過ぎることもなく、山を下りて谷を抜けて、望んだ景色に戻ってくることができたのだから。
それだけの力がずっとあったのに、人間に遠慮して、拠り所にして、育んでいたものを大事にしまって、しまい過ぎたのではないだろうか。
それぐらい、思い出した。僕はあんな人間に頼らなくても歩けるし、よっぽど修羅場を潜って、責任を背負って、自分で決めて生きてきた。その価値も軌跡も汚されることは無く、あの子に汚すことはできない。
その矜持こそが生きていく上での重要な柱となって、いつかまた会えた時に僕があの子を支えることのできる力へと変わる。そう信じる。
あの子は最低な人間かもしれないが、そんな人間すらも許し、愛することができる偉大さに触れるといい。そんな尊大な態度だって、きっと冗談でも笑い事でもない。
だって、僕にはできる。君にはできないことをずっと続けてきた、やってきた。そんな僕が、常に一歩先を行く僕が、それくらいできないわけないだろう。
確かに、確かにこんな奴だった、僕は。尊大で、我儘で、何とか強くなろうとして、いつもあちこち見ていた気がする。
いつの間にか人間の間で小さくなって、許されなくなって、萎んでしまっていたんだ。そうなるように仕向けられた、と言ってもいい。受け入れたのは僕だが。
その洗脳状態にも近かった場所から、三年目の脱出劇だ。いいじゃないか、それで。
僕が特別なのだから、君ができないのはしょうがない。目の前でそう言ったら怒るだろう。だから追いつけないんだよ。
まぁ、そんなことよりも目下のところ気にしているのは、身重の今がどう転がっていくかだ。
重要な検査をいつできるか解らず、初動が遅れたのは手痛い。
遅れた分を取り戻すことは難しいので、今からでも調べてみて、その結果によってどうするかを決める強い心が必要だ。
何も無ければ今まで通り。何かあれば選別の対象とする。
一度は決めたことで、それ故に人の親となることなど無いだろうと決めた筈だが、今こうして目の前にもう一度その選択が浮上してくると、思うところは尽きない。
でも、それもこれも命を連れていこうとした自分の責任だ。だから考えて、決定して、その結果を受け入れねばならない。
物言わぬ人間の言葉を聞いて、自分が何をしたかを刻んで、それがやっぱり十字架のように思えても生きるしかないのだろう。
何も無かったとして、この先に起きることなんて誰も予想できない。
もしかしたら違う形で病気が見つかるかもしれないし、後天的な要素なんて幾らでもついてまわる。
自分が病気になるかもしれないし、その所為で悪影響が降りかからんとも限らない。
考えれば考えるほど暗澹たる気持ちになるし、何かをどうにかしなければと謎の焦燥感に襲われる。全く意味の無いことだが。
心配したところで、なるようにしかならない。僕の力が及ばない場所での話だ。
僕にできることと言えば、できる限りのストレスを減らして、健康と思われる生き方をするだけ。それによって保たれる命があるのだから、責任持ってその役目を果たすべきなんだろう。
当てつけのよーに責任が責任がって言っているけど、それが僕の今の矜持を支えている。
他の人間には解らない。この悲哀も孤独も伝わらない。
だから強がってみて、その強がりを本物へと変えてみせる。あんな弱虫のままでいられるか。
とはいえ、実際に命の選別をまたせねばならないとなった時、僕はどんなにか衝撃を受けるだろう。
宿っただろう魂からは同じ文言しか聞かれない。生きたいとか、外に出たいとか、そんなくらい。
僕はこの人間に遭ってみたい。ただそれだけの願いで、責任を果たそうとしている。
他の人間よりも軽い動機ではあるが、それで表面的にも社会的にも何かを果たせるなら、まぁよいではないか。
先のことは解らない。解っていることだけを意識して、乗り越えていくしかない。
次に死にたくなった時は、誰が迎えに来てくれるだろう。
燥良は笑って言っていた。拍子抜けするぐらい健康的な子が産まれてくれるよ、と。
そうなれるようにしたいけど、本当にそこは僕の力が及ばないんだ。
少しだけ歯痒い。もっと人間から乖離した存在だったなら良かった。
すごく久しぶりに普通のことを書きます。
今日はお世話になっている方の、これまたお世話になっている居酒屋の周年記念イベントでした。
居酒屋の店主がやっているという生バンドの演奏で歌えるという内容で、世話になっている方から去年誘われ、今年に入って本格的にこの話が動き始めました。
僕は歌うのは好きだけど、生バンドなんて何の縁も無い人間です。
それどころか、集団で何かを成すという体験は無しに等しい人間です。
それぐらい集団を避けてきたし、部活の人間関係も上手く馴染めなかったし、サークルで頑張ってみたけど途中で息切れしました。
その後もゲームを通じて人と何かやってみたり、誰かと合作してみたりしたけど、何人も集まってという場には居合わせないようにしていたのです。
僕はその居酒屋に何度か連れていってもらい、店主の顔は覚えていました。
何人かの常連さんにもお会いしたけど、大した話をしていないので殆どの人の記憶から消えているでしょう。
だから、八割は知らない人ばかりのなかで歌うことになります。
とても緊張しました。本当にできるのか? と何度も思いました。
だけど、生バンドの演奏で歌わせてもらえるなんて、僕みたいな引っ込み思案且つ上手く人と関係を作れない人間には、一生来ないかもしれない好機です。
これを逃したくない、体験してみたい、自分がどこまでやれるのかを試したいと思い、お誘いを受けました。今年に四月のことでした。
去年の苦しいあの時期に、ただ苦しんでいるだけでは本当に死んでしまうという危機感を覚えた僕は、個別レッスンをしてくれる歌の先生を見つけていました。
今でもその方の元には通っていて、公私ともに大変世話になっています。
その方に師事して、来る十二月の今日まで課題曲をひたすら練習しました。
聴き慣れた、或いは歌い慣れた曲だと思ってそれを選んだけど、実際に採点機能を使って歌ってみると、かなり音が違っていたり、何だか評価がいまいちだったり。
先生に「こうした方が聞き手が気持ちいいよ」とか、「こうやって歌った方がかっこいいよ」と教わりながら、一生懸命、形にしていきました。
その途中、リハーサルに呼んでもらったので三回くらい参加してみたけれど、生の音があれほどの迫力とは知らず、一度は雰囲気に吞まれました。
でも、演者の方々にとても褒めてもらえたこともあって、自信がついたり、自分でハードルを高くしすぎて落ち込んだり、一喜一憂の多い八ヶ月間でした。
客観的なものの見方はできる方だと思っていたけど、歌に関してはいまいち解らず、先生や演者の方にあれこれ褒めていただいたから、不貞腐れずに頑張れたのかとも思います。
良い声だと言ってもらえて、上手いから見ていて安心感があると言ってもらえて、正直、天狗になりかけました。こんなに真っ直ぐ褒められたことはありません。
僕は自己肯定感が低いまま育ってきて、そのまま大きくなってしまったから、人から認めてもらえていない状態などはすぐに解ります。だから評価の場に立つのは嫌でした。
けど、こうして言葉にしてもらえて、ちゃんと伝えてもらえて、僕も捨てたもんじゃないんだって思えるのがは喜ばしいことでした。
二度目のリハーサルでひどく落ち込んだものの、三度目のリハーサルを迎えた時に、何かが吹っ切れました。
良くも悪くも僕の今の限界はここで、これを出し切るしかないんだ――という気持ちをもって、最後の調整に先生と臨んだ日は、先生に「何かが吹っ切れたように感じる、声が澄んでいるよ。言うことないね」と褒めてもらえました。
背伸びするでなく、卑下するでなく、今の自分を認めてこれから来るものを受け止める覚悟を持つということが、初めてできた気がしました。
そうして迎えた当日、真夜中に起きて寝不足気味ではあったものの、朝からずっとわくわくしていました。
喉慣らしでカラオケに行き、現地へ向かい、イベントが始まってもわくわくしたままでした。
何と言っても、他の方々の歌も生演奏で聴けます。どの人も楽しそうに歌っていて、演者も楽しそうに弾いていて、見ていると笑顔が絶えませんでした。
こんな感情がまだ自分にあるのだ、と驚きもします。
自分の番が来る頃、最初の音が鳴る前までは緊張していて、自分の鼓動が五月蠅いくらいだったけど、始まったらとにかく歌に集中しました。
歌っている間、とても楽しかった。目を閉じてしまう癖があるから、開かなきゃと思っていたのだけど、それも気にならないほど、適度に閉じて開いて、周りを見回していました。
ただ、間奏の終わりで急に音の入りが解らなくなってしまったところがありました。焦ったけど、すぐに挽回し、「ミスなんてしてませんし?」という堂々たる態度で歌い切ることができました。
ドラムを叩いていた店主にお願いされた、ちょっと静かになってから一緒に入るところも、お互いの顔は見えなかったけど、音ですぐに解ってタイミングもぴったり合いました。快心の出来でした。
歌い終わった後もまだどきどきしていたけど、やがて一抹の寂しさがやってきました。
八ヶ月、あれやこれやと悩んで練習して、いろんなことを考えたのは、全てこの日のため。たかだか四分でも、完成度を上げるためにたくさんのものを積み重ねてきました。
それが今こうして成就して、終わったんだなという感慨が、少し熱を奪ってしまったように思います。
でも、その後もイベントは続いていたから、皆さんの歌に楽しくのってきました。
みんなで何かを造り上げる、それが上手くいくって、こんなにも楽しいことなんだって新しい発見をしたような気持ちでした。
厳密に言えば僕はここの関係者ではないし、一歩の距離を置いた者ですが、それでも演奏付きで歌わせてもらえたことは、大事な経験となりました。
何より楽しかったから。達成感もひとしおで、これで終わるのが寂しい、まだ歌いたい、上手くなりたい、もっと聴いてほしいって強く願えたから。
誘ってくれた方にも、演奏してくれた方々にも、聴いてくださった方々にも、ただ感謝を抱きます。
そして、ずっと頑張ってきた自分を褒めちぎります。お酒は飲めないからジンジャーエールで乾杯です。
二年前、心を完膚なきまでに壊されて、信じていたものが消えて、二十年の歳月に打ちひしがれていたけど、その間、迸る熱情を書き殴り、歌に託し、光明を得て、また暗闇に没して、そうやって傷だらけで歩いてきた自分を称えます。
人間を信じるのはもう嫌だ、また傷付けられる、壊される、捨てられると怯えまくっていた自分が、こうして人前に出て何かを成し遂げられたということを、認めます。
僕は捨てられるような存在じゃない。何かの代わりに損なわれるような存在でもない。
こうやって何かができた、人に認めてもらえた。
そりゃ物語も歌も、いつも誰かが見聞きしてくれるわけじゃない。どちらかといえば、日陰に居ることの多い存在だ。
でも、少なくとも何かと引き換えにされるほど安い存在ではない。僕が特別だったんだ、それは間違いじゃない。
そんな気持ちを強く持ちました。
勿論、相手も同じように思っているでしょうね。普通の人間は責任を回避することに長けています。例え事実と違う人間であったとしても、そのことを認めず、理想像を高く掲げて、自分は清いのだと信じ込むことで生きていけるのでしょう。
僕はそれを断罪したかった。今はどうでしょう、そんな生き方まっぴら御免よって思うけど、人間として生きるなら少しは見習うべきかしら?
でも、己の醜さを自覚しないような阿呆ではありたくないわ。
僕は僕の正体を見極め、欲しいものを儘に手に入れる。そうして生きていく、死ねないうちは。
この意味も解らないような人間に、僕と付き合っていく価値なんて無いね。不遜でも何でもなく、そう感じます。お前にはお前の正体が見えているのか?
僕は価値を持たないわけじゃない、見えづらかっただけなんだ。或いは、押し込められて見えないようになっていたんだ。
まだ何かができる。何かを望める。業の塊と評されたけど、業も背負わずして何を成せる、得られるというのでしょう。
静観し、冷笑する人間どもにもその片鱗があることを、いまに見せてやる。
それはともかく、今日は記念すべき日となりました。
僕のできることがまた増えたのです。素晴らしいことです。
夕方から何も食べてなくてお腹が減ったけど、この時間じゃもう食べれないな。
ジンジャーエールだけ飲んで、明日は小さなお祝いを自分にしてあげよう。
自己肯定感、ポジティブ、そんなものは自分と無縁だと思っていたけど、思わされていただけなんだ。
誰かに捨てられて傷付いて壊れても、僕はまだ歩ける。それこそ真似できないことでしょう。
あぁ、良い気分だ。でもやっぱり寂しい。
誰かとバンドを組むとか、そこまでは考えられないけど、またできたらいいな。
唯一無二の存在が見つかったら、一緒に歌ってくれるかな。
見つからずとも、僕ひとりでも充分なのだわ。
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