ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
こんばんは、ふらみいです。
苛立ちと過食に悩まされる毎日です。
苛立ちはたぶん、いろんなことから。
正社員になかなかなれない~とか、スマホの速度遅い~とか、些細なことが重なっていくから。
過食もそのせいだと思うのだが、まじめに危ない。危機感パない。
さて、巷で話題の「アナと雪の女王」を観てきたぜ。レディースディ万歳。
もっと早くこの方法が使えたらなと思ったけど、前は正社員だったから間に合わなかったんだよね。
レイトショーって、レディースディ効くのかな。
最近は映画館に直接観に行くことも多くなってきて、それが苦ではなくなりました。
前はあんまり好きじゃなかったのですよね、人が多いとこ苦手だから。
それに、もし上映中でも喋りまくる人の近くとか、大声で泣き喚くお子さんの近くになったら、せっかくお金払っているのに台無しになってしまうし。
というわけで、家でじっくり観賞派だったのです。
しかし、映画館の設備で観る映画って、やはり特別だよな。
音も迫力あるし、映像も綺麗だし。3Dは苦手だな、遊戯王で辛い目に遭った。
さて、アナ~ですが、一言でいえば、楽 し か っ た !!!
さすがのディズニー。
観たのは吹き替え版でしたが、音楽も歌もすごく気に入りました。
これはサントラ欲しいなぁ。
アナもエルサも歌が巧い上に、耳に心地よく響く声だから、聴いていて感動する。
キャラは魅力的な人ばかりだけど、やっぱりアナとエルサが一番。
アナはノリのいい元気娘で、直感で行動するだけあって決断も早く、やることに迷いが無い。
エルサは心優しいひとで、ひとりでずっといろんなものを抱えてきた強さがある。そして美人。
まぁ、本編を観ていて、つっこみたいとこはあったのですよ。
両親は確かにエルサを愛していて、守ろうとしていたのだろうけど、あのやり方じゃ何も解決できないだろ。
もっと根本から解決を目指すべきだったよ。しかも途中で退場しちゃうし。
もうね、あの姉妹は年月の中でまっすぐ育ってきたのが不思議なぐらい。それぐらい良い子で優しい。
仲良しきょうだいの話とか、近年、弱っている心に突き刺さるので、何度か泣きそうにもなったんだ。
それから、クリストフ、スヴェン、オラフの3人組よ! お前ら良い奴だ!!
クリストフとアナの掛け合いが面白くてねぇ。
オラフの、いとも簡単に定義された愛に、感心してしまったよ。小難しいことは無いんだね。
映像もキラキラ綺麗で、なのに姉妹のそばかすとかリアルで、ディズニーってすげぇな!!!
しかし、推したいのはやはり音楽。歌。
もーね、ほんと好き。わくわくが止まらない。
いつだったか、「魔法にかけられて」も観にいきましたが、これも歌でわくわくしたなぁ。
ディズニーの歌って、聴いていてわくわくするものが多い。
エルサが歌いながら氷の城を造るところは圧巻です!
……と、どっかで聞いたのですが、うん、綺麗だったなぁ。
ふらみいは属性としては火が好きなんだけど、氷も良いなと思った(何の話か)
特にネタバレ無しで感想を書いておきます。
ネタバレするほどのことは無いんだけど、まぁまぁ……映画館で観てもらった方が感動するし、入り込めるから、是非そちらで。
生まれついて大きな力を持っているってのは、難儀ですね。
使い方を間違えたら、何が起きてしまうのか解らない。
初代スパイダーマンで、主人公の叔父さんが言ったことばが思い出される。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」
この一言がすごく好きで、実際にそうだなと思うのです。
アナとエルサが以降も幸せに暮らしていけますよう(´ω`)
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こんばんは、ふらみいです。
手違いで、一番上にきちゃいました。画像。
ふらみいは誕生日ってのぁ、自分が不要な存在であるってことを再確認する日だから嫌いなんですが。
友人が誕生日プレゼントをくれまして。
いや、もらってはいるんですけど、今回は額が額だし、買っていただいたものがいただいたものなので、日記を書いてしまうほどなんだ!
ロリィタ物は勿論好きだけど、他のジャンルも好きなんです。
んで、昔から好きなOzzOnあらため、OzzOnesteで鞄を買っていただきました。ウヒョー!!!
これが表側。フリルがひらひらっとついた豪奢な見た目。
これが裏側。いたってシンプルな見た目。
どうですか、この両方の使い方が楽しめるという仕様!!! 素晴らしい!!!!!
色は黒、白、この桜色とありまして。この淡い色合いがなんとも素敵だったので、桜色にしました。
実物はもうちょいくすんだ感じの色みだけどね。
ふらみいも結構、その友人に買っているんですけどね、身辺回りで使えそうな物とか、服とか。
彼女はパンクがすごく似合う人で、個人的には和ゴスも似合うと思うんだけど、なかなか着てくれないな。
アルゴンキンとかヘルキャとかセクダイとか、似合うです。もうそのへん全部着てほしい。
ふらみいはパンクとか、着られてロリパンクしか着られないので、彼女のカッコよさに毎回「すげー」と思います。
よくパンクとロリィタでお出掛けしています。横浜とか新宿とか。
最近はそういう格好している人もあまり見なくなりました。
パンクは特に・・・・・・普通服みたいに着こなしている人が多いのやもしれん。
ロリィタは都心に行けば見られるんですけどね。それでも何年か前より減った気がする。
ロリィタ服とか、どうしても高いから、着る年代が上にいきがち。金がね、金がさ・・・・・・!
そういう人達が加齢とともに着ていくことをやめているから、結果的に減ってしまっているのかも。
今の若い娘さん達はあまりロリィタに関心が無いとも聞きました。そっかー。
まぁ、コスプレ感覚で着られるよりはマシかな。
ふらみいはロリィタ着始めて、6年ぐらい経ちました。ふへー。
服もだいぶ増えてきたし、嗜好も変わってきたなぁ。
まだPUTUMAYO好きだけど、BPNとか、イノワとか、もっと着てみたいと思うようになった。
何故潰れた、BPN・・・・・・!!
最初は柄ものとか着るの怖くて、黒ロリばかりでした。黒×白ばっか。
そのうち、周りの勧めもあって柄ものや色ものを着るようになりました。ピンクとか、チェック柄とか、ワンポイントとか。
黒ロリ、カジュロリ、それにクラシカルにも興味が出てきました。あとあと、茶色もよく着るようになってきたな。
デザインにもよるけど、水色も着てみたり、花柄も着てみたり。ゴシックは大事なお出掛けの時に着てみたりして。
王子っぽいデザインの物も買ってみたけど、脚をあんまり出したくないので、お蔵入りしそうです。せめて1回は着たいよ、BPN・・・・・・!!!
こうやって書いてみると、自分の着たいものとか持っているものって本当に増えたな。
しかも似たような奴とかじゃなくて、冒険していたりして。良いことだわ。
加齢とともに着られなくなっていくことはもう解っているのだから、残された時間で精一杯、自分に似合うおしゃれを、悔いのないように。
これだ。
自分に似合うものを見つけた時の喜び、忘れません。
早くあの鞄でお出掛けしたいよーぅ。
作業用BGM
イナクナリナサイ / MOTHER2
・・・・・・何でこの話題でこの選曲なんだwwwwww
こんばんは、ふらみいです。
急に暖かくなったり寒くなったりで、服装に試行錯誤しております。
ちょーどいい上着は捨ててしまったんだ……やっちまった。
もう木曜の話だけど、上野の動物園に行ってきたんす。
動物園とか、小さい頃に行った思い出がそんなに無い。馬に乗った記憶はある……ような。
上野に行ったのは、ハシビロコウが見たかったから!
あの、「あまり私を怒らせない方がいい」の画像で有名な、目つきの怖い鳥です。これが見たかった。
でも、他にもっといろんな種類の動物が生で見られたので、楽しかったですよー。
ヒグマも見たし、シロフクロウも見たし、フラミンゴも見たし、アライグマも見たし、ホッキョクグマも見たし。
惜しむらくは、パンダとライオンとトラとゴリラが見られなかったこと。
繁殖期?の為だったり、檻の改装中とかで、まったくもって見られませんでした。
これ、遠いけどハシビロコウであります。
動かない鳥といわれて有名らしいけど、ふらみいが見た時はめっちゃ毛づくろいしていたぜ(´ω`)
気になったのは、
ヒグマの近くにあった銅像。
何故、壁から出てくるスタイルをとったのか。センスが光る。
モアとバオバブ。どちらも銅像だけど、存在感がありますねー。
動物ってかわいいとこもあるけど、やっぱ大きいから怖いですね。
モアの銅像もそうだし、カバやサイもそう感じました。ヒグマは言わずもがな。
分厚い壁一枚を隔てているとはいえ、襲いかかってきたら、逃げることも考えつかなそうすよ。
あと、牛や馬も居ました。日本古来の種類の子達ですって。
牛は目が本当に可愛い。日本の種類は気性が大人しくて、見ていてほんわかする。
ちょうど毛づくろいの時に見ていたので、係員の方ともお話しました。
まさか屠畜場で働いていたから、とか言えなくて、牛が好きとだけ言って。
豚よりは牛が好き。食うなら豚。
一度は訪れるといいです、上野!
平日の、しかも行った時は雨が降っていたもんで、スイスイ見られました。
これが休日だったら、すごかったんだろうなー。
今週は慌ただしく過ぎて、次も慌ただしく過ぎていきそうです。
金曜は大学の友人と久しぶりに会い、土曜は今お世話になっているパート先の人達と飲み会して、日曜は古い付き合いになってきた友人とおしゃれして出掛けます。彼女はパンク、ふらみいはロリィタで。
こうして毎日、仕事もしつつ遊びに行きつつだと、驚くほど穏やかになれますな。
そりゃ一人になった途端に思い出すことや、考え始めてしまうことはあるけど。
健康になったと思います、心身が。胃腸炎はさておき。
正社員になりたくていろいろ受けていますが、落ちる日々です。
気にしないふりしているけど、たまには落ち込む。やっぱり自分なんかは、もう正社員になれないのかなーと。
今のパート先に居る人達は、ほんとに良い人達だなぁ。あんまり離れたくないな。
でも、保険料とか年金とか考えたら、今のままだと何もできない。貯金も何もするほど稼げていないし。
いつの自分の為になるのかも解らないような年金やら何やらに払うより、今確実に生きている自分に金を渡してやりたい。
64歳まで生きていられるかなんて解らんしなー。
自分のやっていること、全部が無駄になるかもしれんが。
その時の充実感と、いっときの満たされた幸福と、生み出せる飢餓の為に、もう少しだけ生きるです(´ω`)
こんばんは、ふらみいです。
今日は本当は何も書かないつもりだったよだけど、少しだけ残しておこうと思います。
今日で、東北の大震災から3年が経ちましたね。
未だに仮設住宅に住む方も多いというし、復興もちゃんと進んでいるのか解らないし……どうなっていくのだろう。
震災の話題を口にするのは、あまり好ましくないですね。
現地に居ないのなら、何を言っても他人事だ。
ふらみいは関東在住で、3年前のこの日、生まれてはじめてドデカい揺れを体験しました。
まだ会社で仕事していて、最初はただの揺れだと思ったのに、その後立っていられないほど揺れて、震度5弱を体験したのですよ。
あの時は、このままどうなってしまうのだろうと思った。
宮城にいた友人が心配になって、他の県も揺れたからみんな心配になって、連絡したりしたっけ。
宮城の友人は無事でした。
後日……というか、半年ぐらい経ってから宮城に行く機会があったので、松島付近にも行ったけど、痕がすごかったな。
松島付近の、津波が襲った辺りは、マンホールが浮かび、コンクリートに罅が入り、建物の窓は全て割れていて、ガードレールもひしゃげていて。
何も無くなってしまった土地にたてられたお地蔵さんが、今もまだ鮮明に思い出せるのでした。
そうそう、物も急に無くなりました。
お店で買い占める人がたくさん居て、ガソリン入れるのにも長蛇の列で、混迷していましたよね。
毎日テレビでは地震のことばかりやっていて、そのうち津波の話になって、原発の話になって。
テレビをつける旅に増えていく死者の数が、もう途方もないものに思えました。
身内の話で言えば、震災が起きた理由もあるのですが、それはあまりにも突飛なことで。
自然の摂理だと言えば、それで納得できるかってぐらい、いろんなことが起きて。
被災された方のために寄付しようと思って、いろんなとこでお金入れたけど、ある日、それも店によっては寄付されずに遣われると聞いて、できなくなりました。
何のために寄付してんだか、解らなくなっちゃうよ。
できることなんて微かも無いから、こつこつ続けていけばいいと思っていた。
でも、それも正しいのか、よく解らなくなった。
だから、震災についてあーだこーだ言うのはやめた。
本当にできることだけすることにした。
それできっと、いいはずだ。
本当のことになってしまいそうで、言えないのであります。
こんばんは、ふらみいです。
一昨日、いろいろ考えすぎたのか、久しぶりに胃腸炎になりました。ぐふぁ。
あの痛みだけは何度来ようと、慣れないものです。ほんとに痛いんよ、痛いんよ!
"最終兵器彼女"を描いた、高橋しん先生の作品の中に"君のカケラ"というものがありまして。
ふらみいはこれが好きなんです。サイカノよりこっち派。恋愛物より子ども達の冒険活劇派。
この話の中に出てくる主人公のシロって男の子が、
「忘れっぽいから、一度でもここから出たモンは・・・たとえ、ほんの少しでも出たものは信じてるんだ」と、自分の口を指差して言うのです。
口から出ていった言葉は、どんなことであれ小さいことであれ、本当のことなんだと信じているのだ--と、ふらみいは解釈しました。
この言葉が、頭から離れなくて。
自分の声で伝えるそれは、嘘なのか本当なのか。
繰り返しているうちに、力を帯びて言霊になるそれは、信じていいのか。
未熟ながらも書いてきた身としては、言葉に対して思うことはたくさんあります。
伝える為の手段なのに、今の自分の心境をちゃんと表す言葉が無いことなんてザラです。
例えば、一口に「死にたい」と言っても、それは衝動から吐いたもので、本当ではないと思ったことがあります。
本当は死にたいのではなく、消えたいとか、あいつを消したいとか、もっと雁字搦めになった奥の気持ちが知りたいのですよ。自他共に。
言葉は吐く人によって嘘にも本当にもなるけど、あくまでも伝える為の手段。
でも、言葉にしたことによって、本質から離れていってしまうらしいですね。言葉にした時点で、それはもう元のものとは少しばかり異質なものへと変化しているという。
だけど、言葉を遣わなければ、人と人とは意思を伝達しあうことができない。それも正確じゃないのだとすれば、「解り合っている」という感覚はとんでもない大嘘になるのですね。
6日が誕生日だったふらみいですが、その日にまた寂しさが爆発して、死にたいなと思いながら外をふらついていました。
2時間余り、あちこち歩いて歩いて、どう死ぬのかを考えて、その時に思い出した人が居て、家路につきました。
その時浮かんだ人は、大阪でいつもお世話になっている子なのですけどね。
どうしてその子だったのだろうと、考えました。いや、ちゃんと理由はあるのだけど。
それにしたって、その子を巻き込み過ぎました。こんなに自分の心に近い場所へ誰かを招くことがあるだろうか、と自分で驚きます。
幼馴染みよりも、他の友人よりも、もう一歩だけ近い場所に居るその子と離れるのが、どうしても怖い。
死ぬ間際になって、いろんなものが惜しくなるのは御免だから、そういう未練は残したくないのです。
だから、死にたいというよりも「停止したい」が正解なのだと知りました。
ふらみいはこの際限なく広がる思考を、もやもやを、止めたい。誰の記憶からも消えないと、死んだ後もふらみいが残ってしまう。それでは器を失っても消去しきれない。
誰かの記憶に残るほどの存在ではないし、どうせ残していてもらっても忘れられていくのなら、今直ぐ居なくなりたい。
出会いと別れという、単純な宿命に抗っているのです。オトナになりきれないってやつになるのか。
今まで生きてきた中で出会った友人達が、人間の宿命に則って家庭を作り、自分の人生を歩んでいくことを素直に喜べないのは、もう会えなくなるからでした。
ふらみいはいつまでも自分の為にしか物を考えられず、他に大事にしたいこともなかった。
大好きな人達に忘れられるぐらいなら、今すぐ死んでしまえ。消えてしまえ。停止してしまえ。
そうしなければ、この膨らみ続ける寂しさだとか怒りだとか嫉妬だとか憎悪だとか、そういったものがふらみいを包んで、ふらみいそのものになってしまうだろう。
いつしかそんな危機感を抱いて、そうなってしまったら最後なんだと理解して、それでも襲いくる寂しさを受け止めきれずに歩き続けました。
ここまで考えて、さぁ死ぬぞと思ったのに、たった1人の人間の為にやめてしまうなんてな。
でも、その子が相手なら仕方ないのですよ。自分でも解っています。
自分の心の近くまで招いた、と言ったぐらいだから、ふらみいも解っているのです。その子を呼んだのは、ふらみい自身。
そこに居てほしくて、話を聞いてほしくて、離れたくなくて、その子が流れてくれるままにいろんなことを求めました。
んで、その子もちゃんと応えてくれたしね。たまには「それ違うよ!」て時もあったし、「ぶっ殺すぞ!」といきりたつ時(何)もあったけど。
解り合っているかどうかは今ひとつ自信無いけど、周りの友人よりふらみいを知っているのは確かだし、ふらみいもその子の周りの人より、その子を知っていると自負しております。
精神の潰し合いをしたというか、まぁふらみいが潰されることが多かったけど、そんなこともありました。
その子はずっと逃げないでいてくれたし、ふらみいが欲しいものをくれました。ともだちとして欲しいものをくれました。
だから、その子を悲しませてはいけないという気持ちひとつで、立ち止まってしまったことは、仕方ないのですよ。
とはいえ、その子だって伴侶ができれば、ふらみいのことに構っていられないでしょうから、今だけなんかなぁとか思ってしまう。
そんな自分の、依存しすぎた性分が嫌だ。嫌だけど、その寂しさは無視できない。
その子が恋人を作ったら、家庭を作ったら、きっとふらみいとは連絡を取れなくなるのでしょう。
あっちは関西、こっちは関東。間違っても出会うことは無いだろうから、そこがせめてもの救いになるのかしら。
その子を祝ってあげたい気持ちもあるけど、目の前で幸せオーラ全開で楽しくやられても、何も言ってあげられないや。
そうやって離れていく人達が、大事で大好きな筈なのに、自分のことばっかりだ。
この思考も随分と長い間、ふらみいの中を廻っております。疲れてきました。
そして、文章にして出していっても消えない。声にして言霊にしたら、それでもう終わりになってしまう。
死にたいのではなく、消えたいのではなく、停止したい。
停止しなくて済む世界なんて、どんなものだろう。ふらみいが変わらなくては、そんな世界には行けない。
変わることが結局できそうにないんだな、と諦め始めているのでした。
去年のサイコパスちっくなアホに構わなければ、もう少しだけまともに人生を見ていたのでしょうが。
アホに関わり、どでかいトラウマと罪を背負い、精神を病んで会社を辞めて、死にたい死にたいとのたまう日々。
書いたりゲームしたり人に会ったりしているけど、集中できないのは病んだ所為なのかなと思います。また病院行くべきなのか。
こんな人と友人関係をまだ続けてくれている周りに感謝する。何かを返してあげたいと思う。
でもなぁ、ぼくが何かせずとも、みんな自分の力で生きているし、助けてくれる友人らも居るし、どんな時でも信じられる伴侶が居るからなー。
そうなると、やっぱりふらみいは無用の長物そのものだと思うのでした。
こう書くと、自分には伴侶が居ないから拗ねているみたい。
だって、伴侶を作りようがない。この病んだままでは。この身体では、望める筈がない。
こんなぐずぐずでも生きてこられたのは友人達のおかげで、その友人達も居なくなったら、生きている意味なんて解りっこないである!
人に依存した罰だから、こうやって苦しみながらも緩慢に死んでいくしかないのかな。
精神を削って、身体はただ老いて、みんなを眺めながら忘れられていくことが、最後の罰になるのかな。
そんなふうに考えるぐらい、去年のことは自分の中では大事件でしたから。
罰だの罪だの、そんな単語では括れそうにないほどの。
人に忘れられることも、このまま自殺もできずに生きていくことも、自分に課せられた罰なら、甘受すべきでしょうかね。
それでもやっぱり辛くなったら、寂しさがもう臨界点を越えてしまったら、また泣き場所と死に場所を求めて歩くのでしょうね。
そうやって繰り返していくうちに磨耗する精神から生まれるものって、何だろう。
その子の顔を思い出すことも無くなって、言葉も忘れてしまったら、自分が死ぬべき時であると、定めました。
その子が伴侶を得て、ちゃんと軌道にのったことを確認したら、死んでもいいと、不可視の存在は言いました。
それまでは、それまでは、生きていなければならないのか。
ああ、なんか辛い。辛いよ。生かされているけど、この状態で生きるのかよ。
その子に会いたい、けど、会ってどうすんだろ。その子に依存するのも、もうやめないといけないのにな。
受け止めてくれるのも、動じないでいてくれるのも、ちゃんと返してくれるのも、その子ぐらいのもんだったんです。土壇場で、ぼくが落ち着かない時にも。
だから、大好きだし、大事にしたいのにな。ぼくなんかがするより、真っ当に生きている人間がその子にしてあげた方が、良いのだろうな。
そうやって自分を逃がすのは、卑怯だな。
こんなふうに考えていることを、その子に話してみたいが、また叱られるだろうか。
後何回、そうやって伝えられるだろうか。死ななくてごめんなって、目を見て言えるだろうか。
文章に託して、まだまだ書いていきたいと思います。
作業用BGM
vivi / 米津玄師
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