ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
行けました。行けるの当然てな気持ちで聴いてきました。
一緒に行ってくれた友人も楽しめたようなので良かったです。
25周年コンサートに一緒に行った時の友人とも聴きたかったけど、無理でした。
次は35周年? 40周年?
その時、僕は誰と一緒に聴きに行けるのだろうと考えます。
その時まで、自分も周りも生きている保障なんてどこにもないです。
25周年コンサートに一緒に行った友人でさえ、今は居ないのだから、嫌になる。
約束なんてするもんじゃあない。
だけど、約束があった方が繋がれている感じがするし、安心できてしまう。
これだけの馬鹿だから、離れていっちゃったのかもしれません。
僕の礎は永久のものです。誰にも崩せません。
いつまでも追いかけていたいです。僕が消えるまでは。消えてからも。
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僕の幸せを壊した人が居る。
安心できる場所を奪い、時間を奪い、それでも自分は幸せになれると思っている人が居る。
安心の代償はその人自身が払えばいいものを、ツケを払うことなく人生を謳歌している。
自分が幸せになれるだなんて、信じないでほしい。
僕がどういう人間か、もう忘れてしまったのか。
なら、何度でも思い出させてやろうと思った。
その為の手段を選ぶことはないやと開き直った。
その人にとって僕は取るに足らない存在だったが、僕にとっては大事な人だったのだ。
そこで得られるものは等しく宝で、代わりなんてどこにもなかったのだ。
しかし、その人は代わるものを見つけていた。
僕など必要なくなり、否、元から必要なかったことを裏付けるかのように、選択した。
僕はまた選ばれなかった。また傷つけられてしまった。
被害者面をすることは容易いが、このまま泣き寝入りなんて御免だ。
だから、比類なき悪としてやってやろうと意気込みを顕にする。
お前らは加害者になることを恐れて理屈を並べ立てるだろうが、僕は諦めた。
お前らを被害者側にしてやる。これでちゃんとした被害者になれるぞ。
きっと代償なんて、誰も払いたくない。
だから勝手に払ってもらう。気付かないうちに失って嘆けばいい。
それも運命だったと諦められるなら、人間として成熟しているんだなって思える気がする。
僕のことは諦めるの早そうだけど、他の人間に対しては諦めないだろうから。
誰にも恨みなんてない。恨めるほど知らないから。
今まであったことが虚偽とは思わない。立場や環境が違えば、主義思想は幾らでも変わるから。
でも、それはそれとして許せない。居場所を奪ったことが、どうしても許せない。
その気持ちを晴らすために、犠牲を強いることになろうとも、僕は一向に構わない。
周りの人間には理解されなくてもいい。理解できるわけがない。
無茶苦茶なことを言っているのかもしれないし、途方もない阿呆なのかもしれない。
ただ許せない。許してなるものか。
許せるようになる日が来るまで、絶対に離れないものを送ってやる。
どんな結果が出ても、許せるその時までやめることはない。
そこまで拘る程の価値があるのか? と問われる。
無いかもしれない。
だからこそ、余計に許せない。
そんなものに気を許して長い時間を掛けて理解し合った気でいた、愚かな自分も同罪だ。
僕だけが地獄に堕ちるのは納得いかない。足を引っ張っても尚足りない。
許せない。たったそれだけで時間が過ぎていくけど、きっと必要なことだと思う。
理性に感謝してほしい。
誰かが見つけてくれることを、切に願う。
何度も同じ苦痛を繰り返し味わって、擦り切れても尚生きる心から、感情が無くなっていくのは当然だ。
感情が無いのか、それとも感情の発露はあるけど、それを感じられない程に疲弊し、感度が鈍くなっているのか、自分では判断できない。
そうまでして生きていくことの意味もよく解らない。
大事なものを幾つもつくってきたが、いずれも人生の伴侶を得て去っていったように思う。
それが人間の正しい形なのだといくら理解しようとしても、孤独感は消えない。
伴侶をつくり、子を成し、それだけで満たされるのなら、彼らに出会うまでに築いてきたものはいったいどんな意味を持っていたのか。
勿論、まっさらな状態から伴侶を得ることはできないし、子を成すにしても親となる人間に経験や知識が無ければ、蛙の子は蛙のままだ。
だから、自分の家族をつくって、人間として殖めよ増やせよという目的を達することが、皆の中に無意識に刷り込まれた本能なのだと思うことにした。
そのためには個人が抱えられる荷物の質と量は決まっており、そこにそぐわなければ、いくら大事にしていたと嘯いても容赦なく捨てられるのだと気付いた。
捨てられる側の気持ちは、捨てる側には理解できないだろう。
持たざる者の孤独は、持てる者に気付かれることはないだろう。
そうやってすれ違って、でも最後には家族に看取られ、親しき者の死を悼みながら、自らの生を終わらせることが人間らしさなのかもしれない。
そこにそぐわない自分こそが可笑しく、成長できていないのかもしれない。
子を欲しいとは思わない。愚者が愚者を産んでも何の役にも立てはしない。自分のことで手一杯なのに、また他者を中心に生きていくことなど御免だ。
誰かの期待通りに生きても、自分が満たされることは少ない。本当は望んでいないのに、誰かに認められて、必要とされたいからと、自分に嘘を吐いて生きていたって虚しいと感じる。
わたしの大事にしたいものは皆、伴侶を得、或いは生き甲斐を得、自分の力で生きている。
それに比べてわたしの幼いこと、無力なこと。人として生きるには、社会でまっとうに生きるには、わたしには何の能力も無い。
生まれてくるべきではなかった、その言葉がこれほど似合う人間も居ないだろうと自嘲する。もう何度もそう思ってきた。使い古した自嘲の言葉は、もうわたしの心を如何程にもできない。
何度も何度も考えてきたのだ。誰の言うことも予想できるくらい、一人で自分のことを考えてきたのだ。
だから偏りはあるだろうし、間違いはあるかもしれない。重要なのはわたしにとってそれが現実だっていう意識だけだった。
そこに踏み込める人間は数少ない。もしかしたら一生会わないで終わっていたかもしれない。
そうして会えたものを、何故諦めねばならない。どうして失わなければならない。
人間を信じることの、最後の砦だと思っていた。それはわたしの勝手な言い分。
何でも預けることができて、故に甘えてしまった。それはわたしの勝手な行動。
何とか一緒に居たくて様々な方法を使ってみた。それはわたしの勝手な愚挙。
どんなことをやっても、気持ちが通じ合えた感覚を摑めなくて、わたしばかりが相手を必要としているような状況が苦しくてしょうがなかった。
相手にそう言えば、そんなことはないと言うだろう。
だが、わたしがもう感じ取れないのだ。その部分がどうしようもなく壊れてしまっていたのだ。
相手に必要とされていても、それを感じ取ることができない。嘘なのだろう、きっと他に良いものを見つけて去っていくのだろうと、信じきれずに心を潰す。
それは同様に相手の心を潰す結果となり、信じたかった人間と離れてしまうことになる。つまりは自分の所為だ。
ここ四年近く、苛まれ続けた。わたしはわたしの大事にしたかった者が伴侶を持ったことにより、変質してしまうことを強く恐れていたから。
本人は「自分は変わらない」と言うが、解っていないだけだ。わたしには見えているだけだ。
その子は変わってきていた。というか、伴侶を得たことによって、普通の人間に近くなったと感じた。
もうわたしと過ごしていた時のように、不思議な話に耳を傾けてはくれないだろう。同じ床で話をすることもないだろうと、わたしの中で何かが終わった。
とはいえ、わたしとその子が常に一緒に居たわけではない。あの子がどんな人間なのかなど、わたしが知らない部分はきっと今でもたくさんある。
わたしはその子の伴侶にはなれない。選ばれない。そんなことは十年も前から解っていた。
ただ一緒に居たいとか、話を聞いてほしいとか、頼ってほしいとか、そう思っていた。それを本人に伝えてもいた。
吾ながら重かっただろうと思う。しかし、あの子は慣れていた。わたしがどれだけ重くなろうと、醜くなろうと、慣れていたのだ。
だからわたしが今どれだけ傷付いていても、自重で潰れかけていても、きっと慣れているから気付かない。
否、気付いたとしても、何もしないだろう。自身の伴侶を裏切るわけにはいかないから。
それだけ、わたしとその子を隔てるものが増えた。
何がいけなかった。わたしがいけないのか。それとも異性愛が横行しているからいけないのか。
わたしは異性愛者を憎む。わたしからすぐに大事なものを奪うから。奪っても、それが当然だという顔をするから。
わたしの大事な友人を、大事なものを、人間の本能に勝るわけがないと奪っていく。お前達はわたしにとって比類なき敵でしかない。お前達の大事なものを奪ってやりたい。
しかし、わたしはどうしようもなく無力だ。
いつか居た姉さんみたいに不可思議なことができれば、意のままに異変を起こして、奴らを引っ搔き回してやれたことだろう。
異能の力が無くとも、知恵があればどうにかできたかもしれない。
わたしには異能の力も、誰かを負かすための知恵も無い。
わたしに人は殺せない。それも二十年も前に知ったことだった。
その子に伴侶ができたこと、いずれは自分の家族を持って人間の目的を果たせることを祝福できない。
そうして祝福してやれない自分の狭量さに辟易する。まぁ、わたしが祝おうが祝わなかろうが、その子は勝手に生きていくのだが。
わたしのことも時々でいいから思い出してほしい、などと思ったものだ。
だって君はわたしのことを思い出さないでしょう。君が辛くなった時、悲しくなった時は今までもあったけど、わたしを思い出してくれることはなかったでしょう。
これからは、君の隣には君が選んだ伴侶が居る。その幸福を噛み締めて、明日を生きるのでしょう。
わたしはまるで日陰者だ。そんなわたしもいつか、その子に相棒となってほしいことを願った。
だけど、それはすげなく断られてしまった。日常を変えることを恐れたと言うが、わたしと共に居るのが苦痛だったのもあるだろう。
今のあの子なら、頷いてくれるのか?
わたしの相棒になってくれと、何かあったら止めてほしいと、願えば聞き届けてくれるのか?
君もまたわたしに何か役割を望み、必要としてくれるのか?
そんな機会、もう永劫に訪れない。君は君自身の問題をどうにかできるだけの力を持っているし、わたしのことを思い出さないだろうから。
その子への未練を断ち切るには、まだ時間が掛かる。
どこかでいきなり糸が途切れるように切り替えられない限り、わたしのその子への依存は続くのだろう。
相手にはもう家庭があり、まっとうな人間として社会で生きているのにな。なんと哀れで、気持ちの悪い話であろうか。
幼馴染み、友人たち、姉さんへの気持ちを一つずつ、時間を掛けて片づけてきた。
まさかこの子への感情まで片づけねばならないとは、人生とは何が起きるか解らないものだな。
この子への気持ちを片付けるのは、いったいどれほどの時間を掛けることになるだろう。
代わりとなる存在を探してみようと思ったことも何度もあるけど、代わりなんて居ないのだ。この子がわたしの代わりを得る必要は、無いだろうけどね。
どうしたらこの気持ちは、苦痛は、終わるだろうか。何度も考えた。
結局は死ぬことしか思いつかない。死ぬことしかできないとは、現状を言うのだ。
死が救いになればいいけど、そんな都合のいい話はきっと無い。
それにわたしは生前に手に入れたものに愛着がある。
それらをすべて捨ててまで死ぬことに価値はあるだろうか。
いずれは死ぬだろうが、自決なのか、病死なのかは解らない。
わたしは今すぐに止まりたい。それも何度も願ったことだ。
死にたい、死にたいと口にするほど、本当は死にたいわけじゃないと気付くものだ。
救われたい。わたしはわたしを救いたい。もう苦しまなくていいようにしてあげたかった。
わたしが大事にしてきたものを手放すのには、勇気が要る。
もしわたしが本当に死ぬのに成功したとして、いったい何人が気付いてくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。
あの子がそれを知ることはないだろうけど、知ったら花を手向けに来てくれたりするのかな。
それすらも無いかもしれない。君がわたしに会いにきたことなんてないし、そんなことできるなら僕が生きているうちに会いにきてほしかったよ。
同じ気持ちを持つことはできない。そう解っているのに、こんなにも悲しい。
諦めるとその分だけ、心が死ぬ。それは誰も気付かない死体で、腐っていくだけだ。
地上がこんなに変わってしまうとは思わなかった。病気、人心の荒廃、社会に潜む巨悪などなど、まるで映画の世界だと誰もが思ったことだろう。
その中でわたしの心は同様に荒れている。そんな時に必要な人が、もうどこにも居ない。心細くて、寂しいな。
そうやって感じるのもわたしだけなのだろう?
いつまで経っても、どこに行っても、わたしだけ。
誰かと繋がれたと思っても気の所為で、相手は別のものを大事にして去っていく。
そんなことを繰り返すだけなら、どうして僕はここまで生きてきたのだろう。
本当は僕が生まれるべきじゃなかったから、こうやって失っていくだけなのか。
妄想だって信じ切れば現実だ。僕はいつか僕が夢見た世界へ帰る。
その前に大事にしていた人と話をして、仲良くしたかった。こんなこと書きなぐっているようじゃ、到底、無理だ。
何も楽しくない、心にいつも影を感じる日々も、やっぱり何度も体験してきた日常だ。
僕の心はもうどこも傷付く余白なんて無いのにね。どうしてこんなに自分で自分を苦しめるのだろうね。
君に話せたら、また苦しむのだろうか。それとも、新しい何かを得られるだろうか。
少しは僕の気持ちも解ってほしい。現在の、人に対する執着を覚えた君なら、僕の計り知れない感情も、少しは解るようになったのだろうか。
君は正しいことをしているだけなのに、受け入れられない僕が悪いのだ。
そうやってあの子への気持ちを片付ければ、死に一歩ずつ近付ける。
いつかは死ぬことに恐れを抱かなくなる。失敗した時のこととか、今ある大事なもののことを頭から捨てて、次の段階へ進むことができる。
そうやって「僕が死んだら泣いてくれるかな」とかも浮かばなくなった時、初めて僕は僕のために死ぬことができるのだろう。
わたしが居なくなっても、悲しくはない。寂しくはない。君には君の選んだものが傍にあるから。
君に選ばれなかった者の嘆きが、届く奇跡などあろう筈もない。
これが依存ということだ。これが共に過ごした時間の中で得てしまった感情だ。
もっと大事にしてあげられたら良かった。すまない。
死ぬ準備をもっと進めよう。この先を生きるには、あまりにも心許ないから。
そんなもの、上手く取れた試しがない。
いつでも踏み越え、踏み間違え、踏み込まれず、踏み荒らされ、踏み荒らしてしまう。
どうしたら距離感を間違えずに付き合いを続けていけるのか、それが解らずに半分も生きてきた。
そのツケを、いつ払うことになるのかと、ヒヤヒヤする。
家族計画が軌道にまったく乗らない為に、再び仕事に就くことにした。
それまで、やれ集団は苦手だの、やれトラウマがあるから事務は嫌だの、言い訳を並べてはいたけれど、動くしかなかった。
会社での疲れに比べれば、家事の疲れなど、どうということもない。少なくとも、わたしはそう感じた。
だから、相手がいくら「家事をやってもらっているから」と言ってくれても、金銭を生んでいないこと、自分の食い扶持を人(配偶者だが)任せにしていること、それらが頭をもたげる。
そのくせ、何を生み出すわけでもない。金銭に繋がることは何もしていない。物語も書いていないし、絵の練習もできていなかった。
わたしができることは、無駄に人様の稼ぎで食い繋ぐこと、家族計画も満足にこなせない器の活動を維持することだった。これは落ち込む。
だったら、さっさと死ねばいいだろう、と言われるかもしれない。
本当にこの一分後で死ぬという時、「やはり死にたくなかった」と気付く瞬間が何よりも恐ろしい。痛いのも嫌だ。
そんな理由で、自分で自分を殺すことができない。
昔から付き合ってきた友人たちは、変わってしまった人達も居れば、変わっていない人達も居る。
去年の十二月から続いていた、友人への憂慮はつい最近、一気に弾け飛んだ。
相手にとってわたしはどうということもない存在になり、その行為にわたしがいちいち傷付き、そんなことに彼女が心を動かされるわけもなく。
わたしから連絡することは、もうあるまい。そうしないと、わたしが辛いのだ。
相手は新しい友人と、上辺だけの付き合いを続けていく。そんなふうに見える。
しかし、わたしからすれば薄っぺらいその付き合いは、彼女とわたしの持続する関係より、ずっと素晴らしく、傷付く恐れもないのだった。
まぁ、売り言葉に買い言葉ってやつだ。彼女の勝気さに、わたしの生意気さはさぞやストレスであったろう。
友人とは何だ。
せっかく作ってきた関係が、十年、二十年の月日で変貌していくのなら、更に喪失してしまうなら、いったい何の為にそんなものを作るのだ。
わたしにも原因がある。人との距離感が取れず、何でも自分のことのように感じてそのまま口にする。
人によっては、それは重たく、耐え難いものだ。それを最近になって知ったのだから、わたしが失っていくのは当然の結果なのだろう。
友人付き合いもまともに維持できず、配偶者の人生にぶらさがっている。
それが嫌だから、仕事を何とか始めようと思った。
女性の集団に馴染めない、仕事のミスが多い、緊張状態が続くと眠ってまでも自分を守ろうとする。
どこへ行っても、こんな状態ではやっていけるものか。
歪んだ時から、カウンセリングを受け続けている。薬を飲み続けている。
この状態で出産となると、どうなってしまうのか。わたしにできることは、本当にあるのか。
初めて行く仕事は緊張するし、同じような職種だからといって方法も統一されているわけではない。
こんな時に思い出すのは、いつも食肉センターに居た頃のことばかりだ。結局、わたしの仕事に対する価値観は、あそこで育まれた。
それに、女性だと嫌悪することのない人達と仕事ができたのだ。見習いたい人達ばかりだったのだ。
そんな人に遭えることこそ、稀少だというのに、何故わたしは当然のものだと信じてしまうのか。
新しく就いた仕事場でも、やはり女性の集団の中では浮く。
第一印象が大事なんだと思っていたのに、いざ目の前にして挨拶をして相手の表情が硬いと「ここに来たのは間違いなのか」と、自分のことばかり気になった。
教えてもらった仕事で何回かミスをした。初めてなのだし、と思う反面、入力程度でミスしているなんて裏で何か言われたらどうしよう? と思ってしまった。
彼女達も、きっと他者を受け入れることに必死だ。
どう接していいか解らず、手探りで会話をする。日常の中で、わたしはまだ特殊な存在だから、扱いに困るだろう。
わたしも一刻も早く慣れなくては、と思いながら、自分から話しかけることは躊躇われた。しかも、話しても上手く話せなかった。
自信が無いから声が小さくなる。相手との会話で「あ、まずい」と思っても、頭が回らなくて言葉にならない。
これじゃ不審なだけじゃないか。挨拶も会話もロクにできない奴と、誰が一緒に仕事をしたいものか。
自分の失敗だと解っている。
けれど、彼女達のよそよそしい態度を見て「そんなとこ、初めて来た人に見せるか?」とか感じていた。
何でわたしは入れてもらった側で、受け入れてもらう為に努力する側なのに、こんなに偉そうになるのか。自分のことがそんなに大事か。大事だ。
いやでも先ずは順応だろ。態度デカいだろ、それ。
上手くやっていけない、もう嫌だ、やっぱり自分に社会生活は無理なんだ・・・・・・とか何とか、ぐるぐる考えながら仕事をしていた。
危うく意識が途切れそうだった。帰る頃には腹痛の気配を感じていた。
わたしは他者に甘えすぎているか。集団に馴染む努力を何もしていない。
最初から固まっている奴らが新入りを招こうと思ったら、その輪をほぐして中に入れるしかないと思っていた。
新入りが輪に入ろうと思っても、どこから行けばいいのか解らないじゃないか。だから話しかけるのだろう、輪から。
そんなふうに偉そうだから、集団に入れないのだな。
招き入れるのが普通の対応だと思っているから。自分なら、そうするから。
あんまりにも自分の意思を見せてくれないと困るけど、初めての場所で見せるのも困難だと思うから話しかけるのだ。
誰もが同じことを感じるわけじゃない。
当たり前のことだけど、失念しがちだった。
謙虚さが不足しているわたしは、成程、確かにどこの輪にも入れない。
輪を形成するだけのものが、何もない。
同じようなことを思って、もう嫌だってすぐに辞めたくなる自分にも、うんざりした。
また繰り返すのか。せっかく雇ってもらえたのに。
しかも初日じゃないか。嫌になるの早いな。
何でこんなに堪え性がないんだよ、と自分自身に苦笑する。いや、笑えないわ。
我儘ばかりだ。何も果たさずに、我儘ばかりだ。
頑張るのも、努力も嫌いだ。報われたことがない。
友人を大事にしたいと言いながら、次々に失っている。誰の所為だ。
自分から歩み寄っても、無駄になる。だから行きたくない。
苦労して繋げたところで、次の風が吹いたらどこにも居ない。そんなことばかりだ。
どこへ逃げても同じことが起きる。わたしが変わらないからだ。
生きることへ不満を連ねても、死ぬことに変わりはないのに。だったら生きた方が得か。
言い訳ばかりで、泣き言ばかりで、他者とどう関わったら自分が傷付かないのか、考えている。
こんなことでは、どこにも行けないし、何にもなれない。
無理に関わる必要はないけど、孤立していればいいというもんでもない。
駄目なら、いずれ会社から切られる。今は試用期間だ、きっとな。
言い訳しても、泣き言ばかりでも、仕事に行けたらいいと思う。
まして、正社員でもないし、毎日行くわけでもない。
「今の自分なら、これくらいで働けるかな」と思ったから、その条件に近い場所に行った筈だ。
報われないことが怖い。ミスばかりで呆れられるのが怖い。
また、わたしは結局何もできないんだと思い知らされるのは、辛く苦しい。
死のうとすると、景色は輝きだすし、郷愁のようなものが湧いてくる。
何故、今になってそんな感情が湧いてくるのやら。身体が防衛反応として見せているのか。
死ぬことは怖いが、生きていくことはもっと怖い。
何もかも奪われて、失って、自分が忘れられていくことの苦痛は、耐え難い。
圧倒的な存在感、生身の感情の表現、全ての言葉が尻尾を巻いて逃げ出すのだ。
それは人でも例外なく。誰も居なくなった心の場所を眺めて、後悔したり、憎悪したりする日々だ。
病んでいるから駄目になった?
これは性格だから、生来の気質だから仕方ないとでも?
依存した先の崩壊は、不可視の友人らも畏怖するものだった。
これから自分がどうなるのか、解らない。
完全に壊れてはいない。けど、限りなく潰れた。
それは環境の変化に適応できなかった自分の責任だ。
弱いものは淘汰されて当たり前だ。心理的な要因とて、淘汰の対象になるだろう。
こんなことで悲しんで、悔しくなって、何も信じられないなど、哀しい生き物だ。
そうして自分を憐れんでも、苦痛は和らぐことなんて無い。
自分の人間関係の作り方が可笑しかったのだと、解った。
依存して、頼って、相手が自分を受け入れてくれるように動かしているかのような。
勿論、耐えられない人間とは離れていった。残った人間は皆、優しい。
誰かの役に立てないのなら死ぬしかない、なんて言って、死ななかった。
何度も死ぬことを考えて、何度も景色が輝くのを目の当りにして、言葉が出てこなかった。
誰も皆、最初は「話を聞くよ」と言ってくれる。それは長続きしない。
露悪的な言葉は、空気は、人間の心を蝕む。
鬱の人間の近くに居ると鬱が伝染する、という現象に似ている。
僕から渡されるそれらの感情は、著しく人間を蝕んでしまうのだという。
その所為で話を拒否されたことも、ある。相手を傷付けてしまうしね。
それでも聞いてくれた人が、僕の中で大事にされる理由なんて、挙げるだけでもばかばかしい。
受け入れてもらえることのありがたみを、嬉しさを、誰もが知っていると思っていた。
だけど、それは依存していいということではない。
甘えと絆を勘違いしてはいけない、と教わった。
愛してもらえなくても愛することはできる、と教わった。
僕は何も実践していない。できることを放棄してきた。
辛くて苦しくて、自分のことばかりだ。
こんな自分にも友人が居たというのに。
仲良くしてくれた人を、遠く遠くに感じる。
皆は陽だまりの住人なのだと、何度感じたことか。
僕はまだ、階段の暗がりに居て、皆の後ろ姿を眺めている。
すべてのものは美しく、腐って、また甦って、素晴らしい。
なんてくだらない世界だ、素晴らしい。そんな気分だ。
没入した世界でも、ひとりだ。
それは嘆くほどのことだろうか。どこに行っても自由じゃないか。
未熟な絶望、気分だけの絶望、それでも死にたくなるほどの辛苦がある。
素晴らしいものの中で、自分だけが不細工だ。
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