ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
誰かが見つけてくれることを、切に願う。
何度も同じ苦痛を繰り返し味わって、擦り切れても尚生きる心から、感情が無くなっていくのは当然だ。
感情が無いのか、それとも感情の発露はあるけど、それを感じられない程に疲弊し、感度が鈍くなっているのか、自分では判断できない。
そうまでして生きていくことの意味もよく解らない。
大事なものを幾つもつくってきたが、いずれも人生の伴侶を得て去っていったように思う。
それが人間の正しい形なのだといくら理解しようとしても、孤独感は消えない。
伴侶をつくり、子を成し、それだけで満たされるのなら、彼らに出会うまでに築いてきたものはいったいどんな意味を持っていたのか。
勿論、まっさらな状態から伴侶を得ることはできないし、子を成すにしても親となる人間に経験や知識が無ければ、蛙の子は蛙のままだ。
だから、自分の家族をつくって、人間として殖めよ増やせよという目的を達することが、皆の中に無意識に刷り込まれた本能なのだと思うことにした。
そのためには個人が抱えられる荷物の質と量は決まっており、そこにそぐわなければ、いくら大事にしていたと嘯いても容赦なく捨てられるのだと気付いた。
捨てられる側の気持ちは、捨てる側には理解できないだろう。
持たざる者の孤独は、持てる者に気付かれることはないだろう。
そうやってすれ違って、でも最後には家族に看取られ、親しき者の死を悼みながら、自らの生を終わらせることが人間らしさなのかもしれない。
そこにそぐわない自分こそが可笑しく、成長できていないのかもしれない。
子を欲しいとは思わない。愚者が愚者を産んでも何の役にも立てはしない。自分のことで手一杯なのに、また他者を中心に生きていくことなど御免だ。
誰かの期待通りに生きても、自分が満たされることは少ない。本当は望んでいないのに、誰かに認められて、必要とされたいからと、自分に嘘を吐いて生きていたって虚しいと感じる。
わたしの大事にしたいものは皆、伴侶を得、或いは生き甲斐を得、自分の力で生きている。
それに比べてわたしの幼いこと、無力なこと。人として生きるには、社会でまっとうに生きるには、わたしには何の能力も無い。
生まれてくるべきではなかった、その言葉がこれほど似合う人間も居ないだろうと自嘲する。もう何度もそう思ってきた。使い古した自嘲の言葉は、もうわたしの心を如何程にもできない。
何度も何度も考えてきたのだ。誰の言うことも予想できるくらい、一人で自分のことを考えてきたのだ。
だから偏りはあるだろうし、間違いはあるかもしれない。重要なのはわたしにとってそれが現実だっていう意識だけだった。
そこに踏み込める人間は数少ない。もしかしたら一生会わないで終わっていたかもしれない。
そうして会えたものを、何故諦めねばならない。どうして失わなければならない。
人間を信じることの、最後の砦だと思っていた。それはわたしの勝手な言い分。
何でも預けることができて、故に甘えてしまった。それはわたしの勝手な行動。
何とか一緒に居たくて様々な方法を使ってみた。それはわたしの勝手な愚挙。
どんなことをやっても、気持ちが通じ合えた感覚を摑めなくて、わたしばかりが相手を必要としているような状況が苦しくてしょうがなかった。
相手にそう言えば、そんなことはないと言うだろう。
だが、わたしがもう感じ取れないのだ。その部分がどうしようもなく壊れてしまっていたのだ。
相手に必要とされていても、それを感じ取ることができない。嘘なのだろう、きっと他に良いものを見つけて去っていくのだろうと、信じきれずに心を潰す。
それは同様に相手の心を潰す結果となり、信じたかった人間と離れてしまうことになる。つまりは自分の所為だ。
ここ四年近く、苛まれ続けた。わたしはわたしの大事にしたかった者が伴侶を持ったことにより、変質してしまうことを強く恐れていたから。
本人は「自分は変わらない」と言うが、解っていないだけだ。わたしには見えているだけだ。
その子は変わってきていた。というか、伴侶を得たことによって、普通の人間に近くなったと感じた。
もうわたしと過ごしていた時のように、不思議な話に耳を傾けてはくれないだろう。同じ床で話をすることもないだろうと、わたしの中で何かが終わった。
とはいえ、わたしとその子が常に一緒に居たわけではない。あの子がどんな人間なのかなど、わたしが知らない部分はきっと今でもたくさんある。
わたしはその子の伴侶にはなれない。選ばれない。そんなことは十年も前から解っていた。
ただ一緒に居たいとか、話を聞いてほしいとか、頼ってほしいとか、そう思っていた。それを本人に伝えてもいた。
吾ながら重かっただろうと思う。しかし、あの子は慣れていた。わたしがどれだけ重くなろうと、醜くなろうと、慣れていたのだ。
だからわたしが今どれだけ傷付いていても、自重で潰れかけていても、きっと慣れているから気付かない。
否、気付いたとしても、何もしないだろう。自身の伴侶を裏切るわけにはいかないから。
それだけ、わたしとその子を隔てるものが増えた。
何がいけなかった。わたしがいけないのか。それとも異性愛が横行しているからいけないのか。
わたしは異性愛者を憎む。わたしからすぐに大事なものを奪うから。奪っても、それが当然だという顔をするから。
わたしの大事な友人を、大事なものを、人間の本能に勝るわけがないと奪っていく。お前達はわたしにとって比類なき敵でしかない。お前達の大事なものを奪ってやりたい。
しかし、わたしはどうしようもなく無力だ。
いつか居た姉さんみたいに不可思議なことができれば、意のままに異変を起こして、奴らを引っ搔き回してやれたことだろう。
異能の力が無くとも、知恵があればどうにかできたかもしれない。
わたしには異能の力も、誰かを負かすための知恵も無い。
わたしに人は殺せない。それも二十年も前に知ったことだった。
その子に伴侶ができたこと、いずれは自分の家族を持って人間の目的を果たせることを祝福できない。
そうして祝福してやれない自分の狭量さに辟易する。まぁ、わたしが祝おうが祝わなかろうが、その子は勝手に生きていくのだが。
わたしのことも時々でいいから思い出してほしい、などと思ったものだ。
だって君はわたしのことを思い出さないでしょう。君が辛くなった時、悲しくなった時は今までもあったけど、わたしを思い出してくれることはなかったでしょう。
これからは、君の隣には君が選んだ伴侶が居る。その幸福を噛み締めて、明日を生きるのでしょう。
わたしはまるで日陰者だ。そんなわたしもいつか、その子に相棒となってほしいことを願った。
だけど、それはすげなく断られてしまった。日常を変えることを恐れたと言うが、わたしと共に居るのが苦痛だったのもあるだろう。
今のあの子なら、頷いてくれるのか?
わたしの相棒になってくれと、何かあったら止めてほしいと、願えば聞き届けてくれるのか?
君もまたわたしに何か役割を望み、必要としてくれるのか?
そんな機会、もう永劫に訪れない。君は君自身の問題をどうにかできるだけの力を持っているし、わたしのことを思い出さないだろうから。
その子への未練を断ち切るには、まだ時間が掛かる。
どこかでいきなり糸が途切れるように切り替えられない限り、わたしのその子への依存は続くのだろう。
相手にはもう家庭があり、まっとうな人間として社会で生きているのにな。なんと哀れで、気持ちの悪い話であろうか。
幼馴染み、友人たち、姉さんへの気持ちを一つずつ、時間を掛けて片づけてきた。
まさかこの子への感情まで片づけねばならないとは、人生とは何が起きるか解らないものだな。
この子への気持ちを片付けるのは、いったいどれほどの時間を掛けることになるだろう。
代わりとなる存在を探してみようと思ったことも何度もあるけど、代わりなんて居ないのだ。この子がわたしの代わりを得る必要は、無いだろうけどね。
どうしたらこの気持ちは、苦痛は、終わるだろうか。何度も考えた。
結局は死ぬことしか思いつかない。死ぬことしかできないとは、現状を言うのだ。
死が救いになればいいけど、そんな都合のいい話はきっと無い。
それにわたしは生前に手に入れたものに愛着がある。
それらをすべて捨ててまで死ぬことに価値はあるだろうか。
いずれは死ぬだろうが、自決なのか、病死なのかは解らない。
わたしは今すぐに止まりたい。それも何度も願ったことだ。
死にたい、死にたいと口にするほど、本当は死にたいわけじゃないと気付くものだ。
救われたい。わたしはわたしを救いたい。もう苦しまなくていいようにしてあげたかった。
わたしが大事にしてきたものを手放すのには、勇気が要る。
もしわたしが本当に死ぬのに成功したとして、いったい何人が気付いてくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。
あの子がそれを知ることはないだろうけど、知ったら花を手向けに来てくれたりするのかな。
それすらも無いかもしれない。君がわたしに会いにきたことなんてないし、そんなことできるなら僕が生きているうちに会いにきてほしかったよ。
同じ気持ちを持つことはできない。そう解っているのに、こんなにも悲しい。
諦めるとその分だけ、心が死ぬ。それは誰も気付かない死体で、腐っていくだけだ。
地上がこんなに変わってしまうとは思わなかった。病気、人心の荒廃、社会に潜む巨悪などなど、まるで映画の世界だと誰もが思ったことだろう。
その中でわたしの心は同様に荒れている。そんな時に必要な人が、もうどこにも居ない。心細くて、寂しいな。
そうやって感じるのもわたしだけなのだろう?
いつまで経っても、どこに行っても、わたしだけ。
誰かと繋がれたと思っても気の所為で、相手は別のものを大事にして去っていく。
そんなことを繰り返すだけなら、どうして僕はここまで生きてきたのだろう。
本当は僕が生まれるべきじゃなかったから、こうやって失っていくだけなのか。
妄想だって信じ切れば現実だ。僕はいつか僕が夢見た世界へ帰る。
その前に大事にしていた人と話をして、仲良くしたかった。こんなこと書きなぐっているようじゃ、到底、無理だ。
何も楽しくない、心にいつも影を感じる日々も、やっぱり何度も体験してきた日常だ。
僕の心はもうどこも傷付く余白なんて無いのにね。どうしてこんなに自分で自分を苦しめるのだろうね。
君に話せたら、また苦しむのだろうか。それとも、新しい何かを得られるだろうか。
少しは僕の気持ちも解ってほしい。現在の、人に対する執着を覚えた君なら、僕の計り知れない感情も、少しは解るようになったのだろうか。
君は正しいことをしているだけなのに、受け入れられない僕が悪いのだ。
そうやってあの子への気持ちを片付ければ、死に一歩ずつ近付ける。
いつかは死ぬことに恐れを抱かなくなる。失敗した時のこととか、今ある大事なもののことを頭から捨てて、次の段階へ進むことができる。
そうやって「僕が死んだら泣いてくれるかな」とかも浮かばなくなった時、初めて僕は僕のために死ぬことができるのだろう。
わたしが居なくなっても、悲しくはない。寂しくはない。君には君の選んだものが傍にあるから。
君に選ばれなかった者の嘆きが、届く奇跡などあろう筈もない。
これが依存ということだ。これが共に過ごした時間の中で得てしまった感情だ。
もっと大事にしてあげられたら良かった。すまない。
死ぬ準備をもっと進めよう。この先を生きるには、あまりにも心許ないから。
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