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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

 どちらにもなるという万能なる概念が死であると思った。
 どうにも鬱の気が治まらず、さりとて望む変化も起きない日常に、精神の均衡がだいぶ崩されているこの頃。
 夫婦でのカウンセリングだとか、こっちらから連絡を入れてみるとか、そういった行動を起こしてみようと幾つかやってみたものの、余計に絶望する機会が増えただけだった。
 何故、一つの物事に対して三つも四つも悪感情を持たねばならないのだ。
 それだけ感度が良いのかもしれないが、生き難いことこの上ない。今更でもあるか。

 終わらない絶望と失望に加えて、呪詛の行程もなかなか進まず、まんじりともせずに過ごすのは結構辛いものがある。
 変化がもし起きていたとしても、目視で確認できる距離ではない。それも痛い点かもしれぬ。
 相手の近況を知るにはSNSに頼るのが一番だが、それだって見れば多少なりとも傷付くものだ。
 あぁ、こいつはやっぱりわたしが居ない場所の方が生き生きしているな、と残酷にも突き付けられてくるから、キツイのだ。

 いったいどれだけ繰り返せば終わるのか。
 これは呪詛を始めたからではなく、わたしが生きることをやめないから続いているのか。
 どうしてここまで手に入れたものを、他の人間にむざむざと奪われなければならない?
 異性愛が悪いのか、わたしの性質が悪いのか、あの子が悪いのか、たくさんの要因が絡んでいるから断定できないのか。

 わたしは異性愛者を憎む。すぐにわたしから大事なものを奪うから。
 奪っても「恋人、夫婦になるのが当たり前だ」と思っているから、悪びれもしない。
 浮気をしろ、不倫は正義と宣っているわけではない。
 立場を弁えろと言うなら、ぽっと出のお前達こそ弁えたらどうだ。
 こうして傲慢なのはわたしも同じなのだから、そりゃあ衝突するだろうな。

 今まで何度も死にたいと願ったが、その度に苦しくなって誰かしらに助けを求めてきた。
 助けられて繋いだ命だが、それも人生の黄昏時にはきっと多くを失ってしまうのだろう。
 そんな寂寞の時の為に培った人間関係ではない。
 子を産んだからなんだ。伴侶を見つけたからなんだ。
 わたしはわたしを忘れられたくないだけで、こんなことばかり言っているから捨てられるのだということも理解している。
 理解しているが、やはり悔しい。何故、わたしよりも秀でたものを愛していくのだ。矛盾。

 それで、死にたいという話だが、これはどう頑張っても達成できそうにないと思っていた。
 なにせ死に方が解らない。否、方法を知ったとしても、そこに向かうまでの精神状態を保つことができない。
 首を吊ろうと思って縄を買うとして、買い物に行く時にはたと気付いてしまわないか?
 いざ飛び降りようと眼下の景色を見て、足が竦んだ瞬間にあぁと気付いてしまわないか?
 自分が本当は生きていたいんだと、気付いてしまったらどうするのだろう。
 それが怖くて身体が動かない。
 死のうと思うと、世界が急に淡い光を帯びて美しく見えてくる。
 こんなに美しい場所から、自ら去ろうとういうのか? と語り掛けてくる、気がする。

 わたしは臆病だし、痛がり屋だ。だから死の間際まで怖いことは感じていたくない。
 しかし、このまま漫然と生きていくのも恰好が悪い。とにかく次の段階へ進みたい。
 誰かに殺してくれとでも頼むか。そいつはわたしの辛苦を呑み込んでくれるだろうか。
 わたしのことを全て聞いて、それでもわたしを殺してくれる人間が居るのなら、きっとわたしはその人間の芯まで愛するだろうに。
 執着したとて、それもまた無意味なのだが。

 無意味、無価値であるなら、わたしはどうしてここまで生きてきたのだろう。
 本当はそれに気付いていたけど、気付いていないふりをして希望に縋っていたのか。
 縋る希望を全て失って、改めて突き付けられた現実を認めざるを得ないのか。
 人並みの幸せを知っただろう。それ以外の苦痛も或る程度、味わってきただろう。
 絶望と希望の繰り返し、持てる荷物の質と量のきまり、わたしがどれだけ欲しても振り向かない人々、全てが無意味で無価値なものの群れか。
 わたしこそが無意味で無価値だということは、大前提としてある。
 なにしろそんなことを三十年近く考えてきたのだ。わたしの命は夏の短い間に死ぬ蝉みたいなものだ。
 幼稚園の園庭で見た蝉の死体は、遠からず今のわたしの惨状だったのかもしれない。

 本当はもっと早くに死にたかった。
 人を信じることの砦が崩される予感はあったから、そうなる前に終わっておきたかった。
 でも、失った後も死ぬのは悪いことだと思っていた。
 今はあまり思っていない。きっとわたしが居なくても、伴侶となった人間は生きていけるから。
 友人達もそれぞれの家庭や居場所を持っているから、わたし一人失われたところで、それはいつか忘れ去られるのだ。
 それほどわたしの死は小さく、無意味で無価値だと知ったのだ。

 わたしが死んで動揺する世界を見てみたかったぞ。
 みんな、どれほど泣いてくれるのだろう。あの子ははるばる大阪から来てくれたりするのかな。前も言ったけど、死んだ後に来るぐらいなら生きている間に来てほしいよな。
 ちったぁ自分が求められる側に居たんだって、自覚できたりするのかな。
 そして、不可視だった守護者達と同じ次元に来て、永久に会えなくなるのかな。

 世界はループしているんだって、誰かが話していた。
 わたしがここで自殺したとして、次に目が覚めてもまた自意識の芽生えが幼稚園の頃からだったら、この何も得られない人生をもう一度体験しないといけないのか。
 それとも、どこかで分岐が発生して、望む未来へ渡れたりするのかな。
 そしたら、みんなともう一度会える。今度は大事にできるし、してもらえるかもしれない。
 前世の記憶を引き継いでループできることって、幸せなのだろうか。
 死んだ瞬間に次の自分へ意識が移るなら、それは拷問になったりするんだろうか。

 同じことの繰り返しを回避できるんなら、してみたいもんだ。
 堕胎を回避、別離を回避、喧嘩を回避・・・・・・そうやってルートを変えてしまったら、ここにはもう着かないんだろうけど。
 今の自分に満足はしていないが、ループしなきゃいけないと思うほどの嫌悪感も無かった。
 ただ死んで戻れるなら、それもいいかって思ったりした。

 夏は死にたくなる季節だ。冬は眠りに就きたくなる季節だ。
 一年の殆どをそんなことばかり考えて、なんて愚かな生き物だろうと笑ってほしい。
 代わりなんて居ない筈だけど、代わりが欲しいと思った。
 わたしと対を為して世界を愛する人間が居るなら、わたしを見つけてほしいものだ。

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