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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

こんばんは、ふらみいです。
前回、面接に行った所から連絡が無いので、そろそろ諦めたいと思います。
っても、またどっか別の所を見つけなくちゃいけないのだが。
バイトですら上手くいかんもんですね。

そんなことより、友人から寺山修司監督の作品「田園に死す」を借りました。
観ました。観ましたよ。自分でもちょっと欲しいと思ってしまった。

最初から考えることはなく、終始、何を感じているのかよく解らないまま観ていました。
「少女椿」を観た時のような? 「ライチ☆光クラブ」を読んだ後のような?
これがアングラというものかーと、やっと自分がその周辺に着けたのだということは解ったのですが。

感想はネタバレするので隠しておきますが、これは一見の価値ありですよ。
あ、でも嫌いな人は嫌いみたいですね。幾つかレビューを見ましたが、意見はさっぱり分かれるようでした。
わたしは好きだし、気持ち悪いとか感じることもなかったけど、人によっては理解不能で不快感を覚えてしまうのだろうな。

あらすじとしては、現代の「私」が自分の少年時代を振り返り、それを映像作品に仕上げていくのですが、その途中で挑戦と挫折が待っているのです。
東北の恐山近くに住む15歳の「私」と、口五月蝿い母。子を産む女。サーカス団がやってきて、イタコ達が物憂げに話をして、隣家の人妻は美しい。いろんな人が犇きあって、物語としてまとめられていく。
映画を作る「私」は、とある知人からの一言により過去を改変しようとするのですが――

と、こんな感じか。過去と現在が入り混じる、不思議な映像作品だと思いますよ。
この「私」の鬱屈とした思いがすごい。暗喩がそこかしこにあって、自分を構築、破壊、再構築しているのかなぁと。

音楽は「少女革命ウテナ」や「少女椿」を担当されていた、J.A.シーザー氏です。
ほんとこの方の曲って耳に残るなぁ。一部では「古臭い」と言われていましたが、逆にこれぐらい古く、どこか毒々しい曲の方が、この世界には合っているのではないでしょうか。
曲が無くてもそのまま観られそうなぐらい、映像に引き込まれていたので、シーザー氏のおかげでより良く観られたのだと思います。うんうん。


さて、以下に自分の感じたことを好きに書いていきます。
いつもどおりの好き勝手とネタバレ!



作業用BGM
 眼球うらがへる病 / J.A.シーザー






いやーいやーもう、ひたすらにアングラ。アングラっていう言葉が解らなくなるほど。
そもそもこういったものをどんなふうにカテゴライズしているのか解らないので、アングラって言うしかない自分の知識の浅さに悲しくなります。おおぅ。

でも、要所要所にツボがある。昭和、大正の時代に変な憧れがあります。
これって何なんだ。昭和生まれとはいえ、ほぼ平成から記憶があるのに、昭和や大正を懐かしむ気持ちがどこからともなくやってくる。
これをわたしは「日本人の血でものを見る(感じる)」と表現しているのですが、「田園に死す」もそんな感じでしょうか。わたしにとっては。

まず、学ラン、学帽に白塗りの男子学生がツボ。かっこいい。かわいい。しかも童貞だって。いや、それはいいんだ。
本人はどう思っているのでしょうね、15歳という年齢を。昔なら元服の歳だけど、そんなふうに意識は作られていないから、まだ子どもだったのかな。でしょうね。
あの幼さの残る顔に学ランってのがまたいいんです。成長しそうな、はちきれそうな果実みたい。

とある方のレビューがすごく適切に内容をまとめられていて、それを読んで理解したつもりになっていたのですが。
あの話に出てくる、隣家の美人妻、出産したけど間引きした女、空気女はそれぞれが主人公の「私」に於ける女性の象徴だったんですね。そう考えれば納得。

というか、元から「私」の母親は息子に性愛を抱いていたと思うけどなぁ。母親というだけではなく、女としての面が見えているというか・・・・・・あ、だから象徴として3人が出てきているのか。
あの母親のべったりとした愛情っていうのは、旦那(父親)が居ないことによって、息子に傾いた性愛の類かなと、すぐに感じた。旦那が居ないと、近しい異性に性愛や役割を求めるもんだと、心理学の本で読んだ気がする。
その表れが、出産したけど間引きした女(母親になったけど子を捨てた女)にあって、そんな女相手だから御堂で交わる時に、「私」はさんざん逃げたのかなと思ったんだが。

レビューを書いた方が、その出産の女との交わりは近親相姦であるという見方をされていて、それがとても興味深かった。
歳相応に性について知りたそうだった「私」があんなにも逃げていたのは、相手が「母親」だったからなんだな。
交わった後の自分が戻ってこなかったのも、「母親」を通して汚れて、そのまま東京についていってしまったから。それがまた別の未来か?

「私」は性に対して臆病だった。それは、いつか見てしまったという、母親と知らない男の逢引現場からきているのかしら。
汚らわしいと感じていたみたいだし、性に対して憎悪しか持てなくなる或いは距離を置いてしまうっていうのは、シリアルキラーなどにもある傾向かと。
母親の影響が強すぎたのか、良くも悪くも。父親が居れば、もう少し均衡がとれていたのだろうが、もう崩れてしまっていたから、元に戻すことができなかったのかな。


話の舞台が青森の恐山ということで、ただ単に故郷なんだなーと思っていたら、「あの世とこの世の境目だから」らしいです(これもまたレビューに依る。ほんとこのレビューのまとめ方が綺麗でね!)
白塗りなのもその所為で、恐山は過去と現実と未来とが交わる超空間ということだとか。ほへー。

恐山で出遭う人達みんな、何かしら抱えて話して、どこかへ行ってしまう。
3人の女達も同様にどこかへ行ってしまう。
「私」は15歳の「私」と一緒に、過去を変えようとしていたのに、結局、母親に逆らうことができず、現代へ戻ってきていた。

それもこれも、「私」の知人が言った「3代前のばあさんを殺したら、自分は今も存在するのか」という問題が引っかかっているんだろ。
勿論、無理じゃないかって思うけど、もしかしたら違う可能性も出てくるかもしれない。それを試す為に、「私」は15歳の私に遭ったっていうのにね。
「過ぎ去った物事は虚構である」と知人が言っていたが、それならば現実なんて虚ろなものだな。
夢をずっと見る為には、現実を見なくてはならない。現実にこそ夢があるという。
なんか、北村透谷の「我牢獄」を思い出すな。実世界と想世界ってやつですか。どっちもどっちが無ければ成立しないものだよ。


濡れ場というか、ちょろっとだけエロティックも映るのですが、こういう作品のエロスって何であんなに魅力的且つ蠱惑的なのかしら!
出産した女が全裸を晒していましたが、そのくたびれ具合といい気だるさといい、とんでもなくエロティックでした。逃げ回る「私」がむしゃぶりつかないのが不思議なほど。

とはいえ、エロスって奥深いもんですよね。自分の中を探る行為ですよね。忘我状態になると同時に、解放されて、相手を通して自分を探る儀式ですよね。
うーん、逃げるのは自分から逃げているっていうふうに感じられるな。相手を通して自分から逃げて、でもそのうち捕まる。暴かれる。喰われる。
変化を恐れるなかれ。


自分がとんでもないものを観た気がするのだけど、それを言葉にできない。
「考えるな、感じろ」系と思って観ていたけど、予想以上にいろんなものを受け取れました。言葉にすると、違うものになってしまうのです。
だけど、映画を観た後でひとつ物語を仕上げました。自分って、なんて深くて濃くて近くて鬱陶しくも愛すべき存在なのだろう。寺山監督も自分を愛してあげたことはあるのだろうか。

自分でDVD買おうかなって思うぐらい、気に入っております。勧めてくれた友人に感謝。
昭和、大正の時代を追いたいものです。少しずつ。それが自分を遡ることにも繋がる。
知りたいものは、もっと奥にある。



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