ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
僕によくおかしなモノを勧めてくる無性愛者と思しき友人が、この前の酉の市の時に言っていた。
「観てほしい映画がある、『ジョニーは戦場へ行った』という映画なんだ」
内容をかいつまんで聞いた僕は、仕事の帰りに駅前でその映画を借りてきた。
他にもうひとつ気になるものがあったんだけど、それは観てからまた語ることにする。
『ジョニーは戦場へ行った』は、ダルトン・トランボという方の小説が基になっているらしい。
内容としては、反戦映画と言えるのだろうか。
第二次世界大戦中に発表されたものだから、書籍は絶版にされ、時を経て復活、しかしまた絶版と、なかなか落ち着かない遍歴を辿る。
あらすじ、というか、本筋も以下に。
第一次世界大戦へと出兵することになった主人公のジョーは、死んだドイツ兵を弔う為に塹壕から仲間と共に出てきたため、敵の砲弾の直撃を被ってしまった。
次に意識が戻った時には、彼は壊疽した四肢を切り落とされ、被弾によって目も耳も口も失っていた。
ただ生きるだけの肉塊となった彼を、軍の医療機関は秘密裡に生かしておくことにする。軍は彼の大脳はもう機能しておらず、何か動きを示したとしても筋肉の反射運動と考えることにして、経過観察を行っていた。
だが、実際にはジョーにはちゃんと意識があった。自分が誰なのかを思い出し、ここがどこであるか、今が何年何月何日なのか、どこの国なのかを知ろうとする。
そのさなかで、段々と自分の現状が解ってくる。絶望し、苦痛に苛まれ、鎮痛剤を投与されることによって、現実なのか夢なのか解らない時間を生きる。
彼は周りに何とかして会話を試み、指で文字を書くことで話そうとしてくれた看護婦や、モールス信号を解読してくれる者に語りかける。
「外に出たい。僕を見世物にしてくれ、それで僕は自分で稼げるから。それができないのなら、殺してくれ」
軍の関係者も、医療に携わっていた者も、今までジョーに意識が無いと思っていたので、今更、彼に意識があることを外には明かせなかった。
せっかく開けるようになった窓を閉め、彼の「殺してほしい」という願いを聞き入れた看護婦も閉め出され、彼はやがて理解する。
「彼らは僕をここから出したくないんだ。けど、僕は何かせずにはいられない」
そして、脳内で、或いは頭を使って、語りかける。
”S.O.S...助けてくれ...”
もうほぼ内容書いてしまったけど、こんな感じかな。
ショッキングな映像は何も映らないけれど、ジョーが感じる希望や孤独は画を通して伝わるものがあり、涙を流せないような壮絶さを知ることになる。
物置部屋に運ばれて、意識なんて無いと思われて、自分の四肢が無くなり顔も無くなったことに気付き、出兵前に愛し合った恋人にも逢えず、家族とも逢えず、何時なのかどこなのかも解らないまま、誰にも関心を持たれないまま、ただ生きていく。
それはどんなにか孤独なことで、どんなにか恐ろしいことだろう。
夢の中でジョーは、出兵前に死んだ父親と話したり、仲間達と話したり、愛した恋人を追いかけたりするのだが、もう現実と夢の境目が薄くなっていくのだ。
薬によってもたらされるその感覚は、少し解る気がする。誤魔化されて、意識が落ちていく。自分の意思では動かせない身体を、誰か他の者に委ねるしかない。
ジョーも言っているが、「腕があれば自殺ができる」し、「脚があれば逃げられる」し、「声が出れば、話して慰められる」のだ。
それができない。誰も自分の話を聞いてくれない。否、人間として扱われはしない。老いさらばえて、やがて忘れられていく。
それが孤独でなければ、何が孤独だろう。魂が死なずして、肉体だけが死んでいく。人にとって、この上ない苦痛だと感じるよ。
この話は、1930代半ばに英国皇太子がカナダの病院を訪問した時のことが基と言われているらしい。
そこの病院の『立ち入り禁止」の看板が掛かったドアの向こうに、ジョーのような状態で生かされている兵士が居たという。皇太子は挨拶として、その額にキスをした。それしか挨拶の方法が無かったのだって。
それとまた別に、身体を切り刻まれた英国少佐が、故意に作戦行動中、行方不明として報告されていて、でも実は何年も軍病院で生かされ、孤独に死亡したという事実を、少佐が死んでから聞かされた家族が居たという話がある、らしい。
このふたつの話が、ダルトン・トランボの心を打ったのだ、ということだったが、このような話を聞かされては、描かずにはいられなかったろうよ。
こうして話に残るだけならまだいいのかもしれない。こうして知られることすらなく、死んでいった者達がきっとたくさん居る。
生きていたのに、死んだことにされた。まだ生きたいのに、身体がそれに追いつかない。親しい者達に会いたいのに、言葉が話せない、歩けない、帰れない。
人が人として生きるとは、どういうことでしょう。
言葉を交わして、五体満足で生きられることは、何にも勝る幸福なのでしょう。
それを知るには、やはりこういう作品がまだまだ必要だと思うのだよな。
友人にこの作品を紹介された時、頭をよぎったのは『累』だった。
丹沢ニナ、彼女は四肢はあれど、植物人間のような状態で生きていくことを余儀なくされた。
しかも、その顔は累が使っている。本当に、ニナのことは誰も知らないままになった。
そこに現れた存在と、会話ができること。自分の意思を伝えられること。ここに辿り着くまでの時間は、ニナにとって、どれほどの孤独をもたらした時間だったのだろうね。
映画の方で、久しぶりに太陽の光を浴びたと感覚で解ったジョーが、とても歓喜している場面がある。
やはり人は太陽の下に出たいのだね。あの光を浴びて、光を感じられるから暗闇が怖くなくなるのだね。
看護婦が胸に文字を描いてくれた時も、嬉しそうに何度も頭を振った。相槌を打っていたわけだが、それが解った看護婦にも自然な笑みが浮かんでいたのだ。
声が出れば、容易く交わせると思えるもの。それがこんなにも難しい。
それでも、全く話せないのよりはマシだ。孤独ではないと解るから、どんなに時間が掛かったって、話したい。交わしたい。
戦争の間に起こったこと全てを知るのは、なかなか難しい。
だけど、こういうことがあったんだよと、伝えるものはまだある筈だ。
知ってどうなるわけでもない。ジョーの孤独は癒せない。僕と彼の生きる時間と境遇はあまりにも違う。
それでお、知らなければならない。知れば、何か見つけられる。
手足があること、目が見えること、声が聴こえること、話ができること、全て尊い。
光を浴びられること、温かな腕で死の冷たさを払えること、大事にしたい人を時間から守れること、頭を使って考えること、夢と現実を分けること、望みを叶えること、ジョーはどれだけの時間を遣っていたのだろう。
それでも孤独だ。「神さえもいない」と、彼は理解していた。
理解できるということもまた、残酷で、孤独なことだ。
追加記事。
いくつかレビューを見て回ったけれど、「これは名作だ」とか「ひたすら暗くて地味で救いがない」とか、意見がなかなか割れるなぁ。
僕は好きでも嫌いでもないです。事実として、こういうことがあったのかもしれないなーって思ったには思った。
けれど、とある人の感想を読んで、成程なぁと納得。
確かに、この映画を観て「だから戦争はいけないんだ!」と簡単に言えることでもない気がする。
たまたまこのジョーにスポットが当たっているだけで、このジョーが兵士として行ってきたことで同じような目に遭っている人が居るかもしれないものね。
んで、反戦映画を観て「つまんねぇなぁ」と言ったら、あっちこっちから批判を受けることも、ままあるらしい。
批判しちゃう人はこの映画がとても好ましいものなんだろうね、解ってほしいんだろうね。
だけど、みんながみんな同じ感覚でものを見ることはできないよね。それができたら、そもそも戦争だ何だって起きないだろうね。
僕は映画を観る時に、あまり難しいことは考えない。
娯楽だ~なんて気持ちで観ることも、あんまり無いや。ゲームする時とかと同じ感じ。
ただそれだけのものを、あるがままに受け入れたいだけ。知りたいだけ。
映画を観るスタンスとか、考えたこともない。観てみたいと思ったから観ただけ。
だから、そこに教訓とか寓意とか無くても、何も思わない。ただそれだけの話が表れているだけだから、それ自体に文句を言う気はない。
映画や音楽がお説教ばかりしていたら、うんざりしないかい。僕はうんざりする。否、お説教だと気付かないかも。ただそれだけのものだ、と受け取ってしまうから。
その、とある感想を書いた方は「映画は娯楽であるべきだ。個人の意識や主義に干渉すべきではない」と言っていた。そういう方も居るんだなぁ。
作業用BGM
「傷もてるわれら、光のなかを進まん」 / ゼノギアスサントラ 光田康典
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