ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
久しぶりに幼馴染みメンバーの兄、そしてキングとお話してきた。
いつも4人で集まりたいのだけど、それが不思議と上手くいかない。今日は双子の姉の方が欠席になってしまったのだ。
それでも兄と会うのは久しぶりだから、楽しんでこようと思って向かったのだが。
ここで話していても死にたくなってしまったのかと、ショックを受けた。
兄が妊娠していることを初めて聞かされて、「おめでとう」と言えたものの、心の底から言えていたかどうか定かではない。
また自分のことばかりで申し訳ないが、心の底から「おめでとう」を言えない心境が続いている。どうしても、子どものことになると敬遠しがちになってしまう。
兄から言わない辺り、あまり報告する気が無かったのかもしれない。
幼馴染みメンバーだって変わりゆく。そのことを寂しく思って、大阪の子に泣きついたこともある。
さて、今はそんな相手は居ない。寂しくなっても、悲しくなっても、辛くなっても、誰にも頼ることができない。
それは僕の所為で訪れた環境で、僕はそのなかで自分を奮い立たせなければならないのだ。
だけど、今、あまりにも何も考えられない。
死にたい死にたい誰か助けてと思いながら帰ってきた。このまま家に入れば、また死ぬ機会を失うぞと悲しくなった。
気分だけの絶望なのだから越えなければと思う自分も居る。しかし、これ以上、生きていく必要はない、もう死んでいい要因が揃ったではないかと思う自分も居た。
どうしたらいいのだ、これは。気分の上下が激しすぎる。
それに、今、死んだところでまた後悔するのだろう。死んでいても生きていてもいい存在は、誰かに存在を肯定してほしくて足掻いている。でも、まだ何も為していない。そんなことじゃ誰からも認めてもらえないのだ。
誰かにそれを知ってほしい。辛くても苦しくても生きているのだということを、誰かに知ってほしかった。大阪の子にだろうか、幼馴染みにだろうか。
僕はいつも誰かに話しかけている。誰かに応えてほしいと願っている。
仲間なんて居ない。いつも繋がっている仲間なんて、どこにも居ない。
死ぬ時に思い出せるような顔だって、もう無い。ひとりで死んでいくし、誰にも思い出してもらえない。
認めてほしいけど、今すぐになんて無理なんだ。そう解っていて、何故まだこんなにも死にたくなるのだ。
僕は仲間が欲しかった。人間の仲間が欲しかった。どんな時でも、繋がりを信じられるような仲間が。
だけど、今の僕がそう言ったところで、嘘にしかならないのだろうか。僕はまた間違えているのだろうか。僕はそういったものを望んでいい存在ではないのだ。
死にたい。死にたい。何度も口走るが、実際に何をしたらいいのか解らない。
誰にも会いたくない。誰かに助けてほしい。自分で立ち上がらなければ意味がない。もう生きていくのは嫌だ。もう辛い目に遭うのは嫌だ。死ぬ直前に思い出せる顔を憶えておきたかった。誰かに憶えていてほしかった。誰かにじゃない、自分の好きな者達に憶えていてほしかった。
僕は誰にも憶えていてもらえず、何も果たせずに死ぬだけの負け犬なのか。それでいいのか。あの子に認めてほしくて、でもあの子には仲間が居るのだ、僕など必要ないのだ、それは幼馴染みとて同じだ。
僕はこんなにもひとりなんだな。それをまるっきり気にしない人も居れば、僕みたいな弱い奴は気にするんだな。
どこに行けばいい、誰と会ったらいい、僕にできることなんてあったっけ。
死にたい。死にたい。それだけが僕の理性を繋ぎとめることばのように感じられる。
まさか幼馴染みと会うというのに死にたくなるなんて、思わなかった。
それは精神が病んでいるからなのか、僕が弱い所為なのか、解らない。
あの子に電話したいと思ったけど、もうそういうことで電話できないんだ。辛いな。聞いてほしい。また言ってほしい。でも、僕に対する意識や接し方が変わるなら、こんな話をしても鬱陶しいだけかもしれないな。そんなの、ともだちじゃないな。
僕はみんなのともだちでいたい。いさせてください。
人でなければ、それはできますか。僕がこの姿じゃなければ。
助けてほしい。そう言う前に先ず自分で頑張らないといけないんだけど。
僕はもう歩けないのか、どこを歩いているのか。
眠り続けて、この世を去りたい。
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良い岩盤と悪い岩盤、というのは、ニコニコで好きなMADで言われていた台詞なのだが、これが真っ先に浮かんできてしまったのだった。
とても久しぶりに普通の日記を書くのではなかろうか。
今日は幼馴染みメンバーのうちの1人、キングが宮前平まで連れていってくれたのだ。
そこにある「湯けむりの里」なる岩盤浴と温泉の施設が最高なのだとか。
僕はあまり風呂ひいては入浴に対して、特別な感慨は持っていなかった。
しかし、近年、LUSHのソープを使い始めたことで、入浴を楽しむということを知ったのだ。
加えて、友人と入る風呂が結構好きなのだ。他愛ない話をしながら露天風呂とか、これこそ正に最高なのだ。
岩盤浴は行ったことがなかったので、物は試しと連れていってもらった次第。
そして、とても良かったです。ゆっくりできました。
仕事で、自分の所為でささくれた神経に、汗をたっぷりかかせる岩盤浴は、不思議と苦にはならなかったのです。
サウナは苦手なんだな。肺が焼けるように感じられて、すぐに出てしまう。
岩盤浴は過ごしやすいからかな。岩塩のとこは、なかなか暑かった。でも、2回も入ってしまった。
予約して入れる岩盤浴場も入った。光がきらきらしてて、水の音がずっとしてて、25分がすごく短かった。
「天」に入り、「塩」に入り、休憩して「氷」に入り、また「塩」に入り、「岩」に入り、休憩して温泉に入り、塩サウナに入り、温泉に入り、出てきた。
3時間くらい居たのかな。ごはんも美味しかったです。お腹ほんといっぱいになった。
温泉とか入った後って、本当に肌がすべすべするな。つるつる。
あんなに荒れていて治らんかった肌荒れも、ちょっとおとなしい。もっと早く浸かりに行けば良かったか。
冬場とか気持ち良さそうなので、また行きたいです。
デトックスとか思いながら何度も入ったわけだけど、そうして自分の中から悪いものが出ていくと感じられることは、結構、今の自分には重要なのではないかと思う。
ミサトさんも「風呂は命の洗濯よ♪」なんて言っていたが、あながち間違いではない。
自分の内側も外側も綺麗にしなくてはいけない。濁ってしまうのは避けたい。
僕はさんぽに行く機会も減っていたから、どんどん悪いものを溜め込んでしまって発散することが上手くできなかった。
更に、この依存してしまった2年より前の自分が、思い出せない。こうなる前の自分は何を考えて、何を糧にして、生きていただろう。
確かに人と一緒には居たが、ここまで依存してはいなかった、筈だ。
今は云わば、毒気を抜くという一番辛い時期。だから、ついったもやめた。
依存してしまった心は楽に生きることを覚えている為、何かあるとすぐにそっちへ向かってしまう。
僕は誰かを想うふりをしていた方が、楽に生きられるようだ。だから依存する先を探す。その人を相手に愛憎を膨らませ、何でもできるような気になれる、それが気持ちいいのだと、思う。
一番長く付き合った子は、確かにすごく好きだった。
だが、ここは相容れないという部分がしっかりあったのだ。それでも優しい人だったし、誰よりも誠実だったから、信じていた。
今回、壊れるきっかけになった事象にて、渦中の人物となってしまった あの子は、優しいけど残酷ともいえる。誠実とは言い難いが、僕に対して嘘を吐く気配も無い。そして、相容れない部分というものが、曖昧だった。
本人も言っていたが、僕の話を聞き入れようとしていた部分が大きかった。それが自然に思えてしまって、依存できる土台が出来上がってしまった。
僕は、長く付き合った子に依存はしたくなかった。勿論、今回の子にも。でも、土台の出来方は違ったのだ。依存しやすい土台だと、思えていたのだろう。
僕は僕で在りたいと、何度も願う。
辛い、苦しいと、何度も呟く。
僕にとって僕の生きた価値も意味も無いけど、誰かにとっては意味のあることだったと思いたい。
幼馴染みメンバーの、いつも遠くを見ているような、兄が言っていた。
誰にどう思われたかはでなく、自分が「正しい」と信じたことをやる、遺す。
この歳まで生きて、何ができるかを考えて、何か遺したいと思って、ただ考えるだけでは止まらずに成し続ける。
それは時々、辛くて、悲しくて、負けそうになることだけど、漠然と生きるのではなく、何かを成す為に生きているのだということを教えてくれる。
僕は「生きていかなきゃ」なんて思ったこと、一度も無い。
いつも自分は死ぬべき存在だと思っていたし、僕なんかが頑張ったところでどうにもならない、結果はこの2年で出ていると感じていた。
だけど、初めて「生きていかなきゃという目標を持てるようになりたい」と、思えるようになってきた。
たくさんあるのだ、思うことなど。辛くなることなど。
今だって前向きに見えて、明日の朝にはリセットされてまた落ち込むかもしれない。
自分でももう前だけ見て、繰り返したくないのに、どこかから手が伸びてくる、忘れるなと囁かれるようだった。
こんな時にあの子に電話できたのに、もうできないんだって、思ってしまう。
しかし、よく考えてみろ。昔から何かある度に電話やらメールやらしていたが、時間差はあったろうが。
繋がりやすくなったのは本当にここ何年かの話だが、だからといって何も変わらんのだ。向こうは変わらんかった、岡山に居る時から。僕は変わった、神奈川に居続けながら。
僕は僕で在り続けたいのだ。その為に書き続けるのだ。
何かを遺したいのだ。僕自身に価値や意味が無くても、僕の物語には価値や意味がきっと見つかる。それは何よりも幸福なことだと信じる。
僕が歩き続ければ、信じ続ければ、成長したいと願えば、離れた距離も、途切れたことばも再び息を吹き返すだろう。
その時、あの子に逢うことができたら、きっとちゃんと目を見て話せるだろう。
再構築されるそのなかで、また僕が信じてもらえる日は来るだろうか。
明日になれば変わってしまうような心を、奮い立たせることはできますか。
気分だけの絶望を、拒否する力を持ち続けたい。
金曜から日曜までの3日間で、青森に行ってきた。
母の帰省に毎回くっついていくのだけど、今年は行けないことを予想していたのだ。
だけど、帰ることができた。今の店は結構、休みに関して緩い。僕が居なくても店が回るなら、三連休でもいいよと言ってくれたのだ。
それで行ってきた。青森はやはり良い場所だね。そして、お盆の時期であること、山と海が近いことも手伝ってか、とても濃厚な境界線に居るのだと思うんだ。
あっち側とこっち側に、望めばすぐにでも行けそうな距離でさ。明け方や真夜中、ひとりで起きた時は怖かったんだ。家の中はまだ安全だと思っていたけど、ちょっと開いた箪笥の隙間とか、外と通じている窓の向こうとか、何かが見ているんじゃないかって怖かった。
それが、姉さんに会ってから変わった。そいつらと渡り合えるよう、必要以上に怖がらないよう、世界の見方を変えたの。
そうしたら、怖がること自体を考えるようになった。何故、怖がる。何故、恐れる。そこにどんな理由があって、僕は何を感じているのだろう、と。
いろいろと考え事するのに適しているのが青森だったので、今年も行けて良かった。
あと、ばあちゃんが気がかりだ。3年前にじいちゃんが亡くなってから、弱った身体に鞭打って、ばあちゃんはひとりで生きている。
以前、じいちゃんと住んでいた家は引き払って、小さなアパートで一人暮らし。何の思い出もない場所で、ひとりで生きている。
その孤独がどんなものか計り知れなくて、僕は毎年帰る度にばあちゃんの心身の状態が悪化していく様に壮絶さを思う。
「本当は今すぐにでもじいちゃんの後を追いたいけど、頑張って生きるから」と、ばあちゃんは言っていた。
その言葉通り、寂しくても悲しくても調子悪くても、ばあちゃんは生きている。今年も、寝たきりだけど笑顔で会話してくれた。
その姿がいつ最後になってしまうのかって思うと、勝手に涙が出る。怖かった。
自分が生きている日常が、不変なものなんて何一つないんだって解って、怖くなるのだ。
変わってしまった。いろんなことが変わってしまった。
じいちゃんはもう居ないし、ばあちゃんも調子悪くて寝たきりだ。昔はよく料理してくれて、墓参りの弁当だって、ばあちゃんの手作りだった。
僕は昔からばあちゃんの作る塩のきいたおにぎりが好きだった。それだってもう食べられないのだろう。否、今度は僕がばあちゃんに作ってあげるべきなのだ。
失ったものばかり数えている。
そのなかで、「生きていかなきゃ」と言える人達の背中を見ていて、取り残されたような気持ちになる。
僕は「生きていかなきゃ」と思ったことはない。堕胎の時も、「死ぬことはできない」と罰を受けたような気持ちでいた。「生きていかなきゃ」とは厳しくも前を向いた発言ばかりが該当していたように思うのだが。
僕はそんな気持ちになれない。いつだって死ぬことばかり頭の中を巡っていた。そのことで人に怒られてけなされて、それでもやめられなかった。だって、勝手に頭の中でそんなふうに片付いてしまうんだから。僕だって、本当は。
この歳まで生きてきて、何だか自分がひどく無駄な時間を重ねたように見えてきた。
それでも、僕自身に価値が無くても、生み出した物語には価値があるのだと思えた瞬間、少しは生きることが楽になってきたのだ。
僕に価値が無くても、意味が無くても、僕にしか生み出せなかった物語が意味を持ち、価値を与えられて、残っていく。それは今までの僕の成してきたことのなかで、一番、尊いことだと思えた。
そう思えることこそが幸せなのかもしれない。本当は価値なんて、意味なんて、無いかもしれないけど。それでも、僕が信じることで、変わってくるものがあったのだ。
生きていくとは、斯様に難しいものか。って、知っていたけど、その壁にまた阻まれた。
自分の所為で失ったものを数えて、その痕跡に涙が止まらなくて、もう自分がどうしたいのかなんて、どうすればいいのかなんて、解らない。
そんな時に頼っていたひとを失ったのだ。どこを見ていいのか、何を聴いていいのか、解らなくなった。そこで、そのひとにこんなにも依存していたのか、と途方に暮れる。あれだけ「依存しちゃだめだ」と言い聞かせていた自分は、どこで抹殺されたのだろう。
何度振り返っても、何度考えても、解らない。その時の自分に近付けやしない。
解っていることは、もう以前のように遊べないこと。話せないこと。思えないこと。
今までのことなんてこれからには関係ない、関係を再構築するのだと言われても、僕にはもう繋げられないのではないかと危惧する。
これだけ離れているのに。会いにきてくれたことだってないのに。いつも僕から動いていたのに。今回もそうしろと? それで君は笑ってくれるのか? 笑わないのだろう。それが僕への罰なのだから。
周りの人間より劣る僕が、どうしたら近付けるんだ。
また思考停止しているのだろうか。何も思いたくないと、考えたくないと、立ち止っているのだろうか。
自分の悪いところにだけ目を向けて、この先のことを考えられないようにしているだけなのか。
辛くて苦しくて、でもそこに当てはまる言葉は「死にたい」ではなく「寂しい」だった。僕は寂しいのか。どうして寂しいんだ。もう会えないって思うからだ。あぁ、死にたい。
どうして、あと一歩なのに、死ねないんだ。怖いのか。怖いんだな。僕もだよ。
Komm,süsser Tod~甘き死よ、来れ
内容にもよると思うけど。
いつもお世話になっている病院から紹介されたカウンセリングルームに行ってきました。
各停しか止まらない駅だけど、静かで良い場所だったと思われ。
そういえば、大学の頃に一人暮らししたいなって思った時、そこの駅が最寄りだったらいいなぁなんて考えていたっけな。
そのカウンセリングルームはアパートの個室を貸りて営業している場所で、随分と落ち着いた雰囲気のなかで話をさせてもらえたのだった。
今は自分でも結構、気分が大人しくなったなと思うけど、どうだったろう。
先生に45分の間、思いつく限り、いろいろ話した。順を追って話していこうとしていたけど、途中から伝えたいことがいっぱい出てきて、結局、プロのまとめる能力に頼ってしまった。
その先生をして、「何でもありな、いろんな経験をなさっているのねぇ」なんて、呆れとも何ともつかないコメントをいただく。
まぁ、自分でもそんじょそこらでは経験できない類のことしてきたなって思うけど。
今回の話が起こった原因と自分で思っている、とある姉さんと、子ども堕ろすことになったサイコパスとの一件を話した。
今回、僕が駄目になってしまった話を聞いた先生は、相手の子を「とてもしっかりしているし、冷静に話ができている。良い人ね」と評価する。
それは僕がどんな状態だったなら、言えたことだろう。確かに冷静だし、しっかりしているのだけど、僕がこんなだから時折それが冷たく見えることもあるの。
と、同時に、それだけ冷静で落ち着いて、しっかりしている人間に対しての、この僕の愚かさと浅ましさが浮き彫りになって、生きるのが辛い。
相手を称賛すればするほど、僕は汚い生き物のままで、向かい合っていると自分の本当に駄目な部分が見えすぎる。
僕は逃げたいだけだろうか。だって、相手がすごいからそれに合わせて自分もすごくなろうなんて、それこそ馬鹿だ。身の程を弁えていない。
相手が僕に話してくれたことを、僕はちゃんと聞いていなかった。
弱音とも取れるようなその話をされたことを、僕は信頼の証のように捉えることができなかった。周りの人間の方が、よっぽどあの子の話を聞いて、役立つことを言えて、楽しい思いをさせて、気分を変えられるだろう。あの子を変えられるだろう。
僕にそんな力は無いんだ。あの子の為にできること、少しはあると思っていたけど、全然無かったんだ。当たり前だ、自分のこともままらないのに、あの子の為にできることなんて。
「なんだか、寂しいね。あなたは自分が糧になれている思えない。それが、あなたの一番辛い部分だね。相手が弱音を吐いてきても、何で? と思って話を聞いてあげられない。何かしたい、何かしないと捨てられるといつも思ってしまう」
「いつも現物支給のような形だけど、気持ちのやりとりをしないと。その方は自分から動くような方ではないから、あなたが会いにいって話に行っている。押しかけなんとやらね」
「そんな部分を変えたいのなら、最低でも4、5年はかかる。カウンセリングしていくなかでも、自分と向き合わなくてはいけないから、ストレスも溜まるしね」
「あなたはピッチャー役が多いね。自分の気持ちは素直にぶつけている。でも、たまにはキャッチャー役もやらないと。対等に言って、言われての関係を作るなら、そうしていかないとね」
と、大体、そんな感じで言われてしまった。当たっているので、特に何も言い返すことはできず。
僕は自分の話ばかりで、相手の話を聞けないのだろうか。
思い返せば、その子に関しては、ずっとそうだった。
その子が弱ったような姿勢を見せた時に、ただ話を聞くということができなかった。何かしなくちゃ、僕が何かしなくちゃとそればっかりで、自分のことばっかりで、恩着せがましかったのは言うまでもない。
他の友達にはできるんだ、できたんだ、普通に。
捨てられるかもしれないとか、いなくなってしまうかもしれないと思っても、また繋ぎにいけばいいと思えたんだ。
その子を失うことが怖くて、何でもいいから必要としてほしくて、無茶なことばかりをやっていた。否、それが無茶だなんて思うことなく、できると思っていたんだ。
何もできない。自分のことだって、零している。
新しいPCが来たので、暫く書くことに専念しようと思います。
自分のなかが、ちからが、穢れを溜め込んでいるのだということが、すごくよく解る。
部屋を真っ暗にして、不可視の存在にひたすら語り掛けました。
自分のなかから言葉にして出したものが、漂っている。
自然に触れることがなくなった所為なのか、発散することが下手くそなのか。
僕はその子と友達でいることを選んだけれど、今の僕にはそれができないだろう。
ただ暗く狭く続く道が、僕とその子を繋いでいるとは限らない。
それでも、不可視の存在にすら見えている、薄い細い糸を切らずにおこう。
書き続ければ見えてくるものがある。僕の中のものが、その子に対する感情やことばも。
4、5年が経っても、同じことを言っているかもしれない。
それでも、僕は最低限、そこから逃げずにあの子と友達でいたいと思えるのでした。
その資格が無いとしても。必要とされていないとしても。
こんばんは、ふらみいです。
先日より、暑さでまたしても立ち上がりにくくなったパソ美が完全にイカレてしまいました。
まったくつかない。まっっったくつかないよ!!!
何度も試して1週間が経ちました。
もう仕方ないなってことで諦めかけていましたが、セーフモードにてついたので、バックアップをとって終了。
先延ばしにしていたけど、本当に新しいパソコンを買う予定を立てなくては。お金無いのに(´;ω;`)
ノートが安いよと いろんな方にお勧めされましたが、ぼくはデスクトップ派なのです。
画面とキーボードが独立しあっていないと嫌なのです。
ノートの小ささが気になる……っても、最近のノートって画面が大きいんだよなぁ。
いっそ、赤いノート買ってしまおうか。親父と共用になるんだけども。
新しいパソコンを買うなら買うで急がないといけません。
8月には艦これのイベントが……!
さて、今日は大学時代のサークルでお世話になった先輩とお出かけしてきました。
カオス会でも何度も会っているので、久しぶりってこともないんですが。
行ったのは江ノ島です。否、えのすいです。
何度も行きたいなーと思っていたけど、1人でどこか行くことができない為に、ずっと我慢していました。
水族館の中では、えのすいが一番好きですよ!
なんといっても、ショーに出てくるオキゴンドウのセーラが好きなのです。
……でも、この子の名前は「セーラー」らしいですね。ずっとセーラだと思っていた。
まぁいいか、かわいいから٩(ˊᗜˋ*)و♪
クラゲホールが大好きです(真顔)
なんだろな、昔からクラゲは好きだったんです。刺されたこともあるけど、好きなんです。
脳も心臓も無いってホラーに感じますけれど、あのふわふわ何も無くただ生きている姿が好きなんです。
チンアナゴってほんとかわいい。
ニシキアナゴも綺麗だけど、チンアナゴの方が好きかもしんない。
この動きね、動きがツボなのだよ!
今日は海がシケで、波がざばざばと落ち着きなかったのです。
おかげで生しらすおあずけだったよ(''A`)
あっ、生しらすと言えば!!!!
ぼくのお気に入りのごはん屋さんが無くなっていました……なんてこったorz
去年、大阪の子と食べに行った時が最後になってしまいました。もっとハナビ丼を味わいたかったのになぁ。
江ノ島っていいなー。住みたいとは思わないけど(潮風がね…)
とはいえ、江ノ島そのものには行ってないので、そっちも行きたいなと思っております。今回の本命はえのすいだったからね、うん。
また話を聞いてもらったんですが、やっぱり言葉が足りないんだな、お互いに。
言わないでも解るだろこれぐらいって思っていても、相手が必ず全部を拾ってくれるわけではないし。
それは或る意味、怠慢ですかね。ちゃんと言わなきゃいけないことを言えない、言わないのは。だろうな。
まだ、大阪の子に伝えてないのです。話ができていないのです。
答えを求めているわけじゃなくても、伝えたいと思うのです。向こうにとって、それが意味の無いことだとしても。伝えたら何かが変わるかもしれない。
ぼく自身に価値が無くても、物語には価値が生まれてほしいと願うように。
ぼくには理解できなくても、あの子の中で価値や意味があってほしいと願います。
そんなふうに思える人には、もう逢えないでしょう。
作業用BGM
八相 / .hack