ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
ついったーのタイムラインを荒らすほどの長文を書くのもなんだなーってことで、ここでぽけぽけ書いて置いていこうかな、と。
そんな人に気を遣って書きたいことも書けないとか、馬鹿馬鹿しいけども。
そう、でも、馬鹿馬鹿しい。全てに於いて馬鹿馬鹿しいっつーか、あほくさい。
人の何気ない一言が気になって、そこに意見しに行って、わたしはいったい何をしようとしているのだろう。
そう思うことが最近増えてきました。
誰かが軽い愚痴を書いて、わたしが反応を示しても示さなくても、その人の中で愚痴は治まる。
それをわたしはわざわざ拾いに行って、あーでもないこーでもないと意見して、その人の手助けに勝手になろうとしていたんだって気付いたら、なんて恩着せがましくて、馬鹿馬鹿しいのだろうって思ったのだった。
相手が何をどんなふうに感じたのか知りたくて、辛いのならはきだしてほしーなぁと思って話を膨らませようとしたけど、必ずしもそうすることで楽になるわけじゃないのね。
中には、「お前に話しても無駄だわ」と思って、話すことを面倒くさがる人も居るんだわ。
そんな人からしてみたら、ぼくは暑苦しかったろうなぁ。
でも、ぼくはそこで何を感じているのだろう。
ぼくの意見によって、相手を更生したいのか。それとも、感謝されたいのか。
相手にとって、その悩みとか愚痴の内容は考えなきゃいけないことだろうし、1人で悩むよりも話してもらった方が相手も楽になるって、そう思うのは、独善的だったろうか。
人の悩みに真剣になることが悪いことだなんて、思いたくはないんだな。
しかし、わたしみたいな存在に話したところで状況が良くなることはないから、だから濁されたり、笑って終わりにされるのかな。
わかんないや。
相手にとっては、ただそれだけのちっぽけな悩みでも、わたしはきっと大変なことだと思って、聞こうと思っただけだもの。
それが余計なお世話なら、独善的で気に入らないとか思われるなら、ともだちって何なの。
ただ遊ぶだけの、ただ笑い合うだけの、ただなんとなく一緒に居るだけの、暇潰しであるか。恋人ができるまでの繋ぎであるか。
思考がものすごい速さで答えを叩きだす。何年も続く習慣。
同じように誰かの話を聞いていたけど、それは迷惑に近かったらしい。わたしが真剣になるほどのことではなかったらしい。
わからない、わからないな。
たまたまタイミングが悪くて、相手はふざけ半分で、わたしは本気で聞いてしまったよって、それだけのことなのかな。
でも、今はそんなことばかりだ。
わたしが真剣に聞かなくたって、相手の中でまとまることばかり。
みんなすごいね、ちゃんと自分のこと始末つけられて。それができないわたしがいけないんだね。
巫の座に就いていながら、頼りないわたしですが、誰かの役に立つことはわたしの為に必要だった。
ともだちに求めるのが間違いだったのかしら。恋人を作って、そいつに証明してもらえば良かったのかしら。
もうすぐ堕ろして1年が経つ。
悪化するだけ悪化した環境と心境に、まだ光明は無い。
誰の役にも立てないまま、自分だけにできることも無くしたまま、誰に必要とされずに死んでいく毎日である。
そりゃ、認めてくれる人だって居るけどさ。
その子だって、いつかは伴侶を作るのだろ。独りのままではないのだろ。
じゃあ、わたしに向けてくれるものも、その伴侶のものになるのだろ。それが人間の生き方なんだから。
いつまでも隣に居てくれるわけもないのに、どうしてその子の為にわたしが生きていくのだ。
悲しませたくないとか言ったって、その子に伴侶ができれば、わたしがたとえ死んだってその悲しみだの何だのは、埋まるだろう。そうやって生きていくだろう。
その子に依存したまま、こうやって思考に食い潰されることを望んだのは、わたし自身でしたよ。
その最中で、誰かしらの話を聞いて何か伝えていきたかったのに、上手く伝わらず、わたしが聞かなくてもよかったんだって気が付いた時の、あの虚しさと馬鹿馬鹿しさ。
もう死んでいいすかねー!?って、やけっぱちになる。
なにを言ったら叱られないのか。なにを言ったら伝わるのか。
そんなことばかり、考えては消えて、眠れなくなるよ。
こんなに荒れても、誰かがまた愚痴ったり落ち込んでいたら、話を聞こうとするんだけど。
もう自分が何の為に、何をしているのか、忘れたい。
巫として完全に成形されれば、そうなれるだろうか。
人の話を真面目に聞くのは、損得じゃなくて、その人が好きで何か役に立ちたいからじゃない?
それこそ、気持ち悪い思い込みだったろうか。
作業用BGM
楽園のリンゴ売り / 谷山浩子
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