ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
本当のことになってしまいそうで、言えないのであります。
こんばんは、ふらみいです。
一昨日、いろいろ考えすぎたのか、久しぶりに胃腸炎になりました。ぐふぁ。
あの痛みだけは何度来ようと、慣れないものです。ほんとに痛いんよ、痛いんよ!
"最終兵器彼女"を描いた、高橋しん先生の作品の中に"君のカケラ"というものがありまして。
ふらみいはこれが好きなんです。サイカノよりこっち派。恋愛物より子ども達の冒険活劇派。
この話の中に出てくる主人公のシロって男の子が、
「忘れっぽいから、一度でもここから出たモンは・・・たとえ、ほんの少しでも出たものは信じてるんだ」と、自分の口を指差して言うのです。
口から出ていった言葉は、どんなことであれ小さいことであれ、本当のことなんだと信じているのだ--と、ふらみいは解釈しました。
この言葉が、頭から離れなくて。
自分の声で伝えるそれは、嘘なのか本当なのか。
繰り返しているうちに、力を帯びて言霊になるそれは、信じていいのか。
未熟ながらも書いてきた身としては、言葉に対して思うことはたくさんあります。
伝える為の手段なのに、今の自分の心境をちゃんと表す言葉が無いことなんてザラです。
例えば、一口に「死にたい」と言っても、それは衝動から吐いたもので、本当ではないと思ったことがあります。
本当は死にたいのではなく、消えたいとか、あいつを消したいとか、もっと雁字搦めになった奥の気持ちが知りたいのですよ。自他共に。
言葉は吐く人によって嘘にも本当にもなるけど、あくまでも伝える為の手段。
でも、言葉にしたことによって、本質から離れていってしまうらしいですね。言葉にした時点で、それはもう元のものとは少しばかり異質なものへと変化しているという。
だけど、言葉を遣わなければ、人と人とは意思を伝達しあうことができない。それも正確じゃないのだとすれば、「解り合っている」という感覚はとんでもない大嘘になるのですね。
6日が誕生日だったふらみいですが、その日にまた寂しさが爆発して、死にたいなと思いながら外をふらついていました。
2時間余り、あちこち歩いて歩いて、どう死ぬのかを考えて、その時に思い出した人が居て、家路につきました。
その時浮かんだ人は、大阪でいつもお世話になっている子なのですけどね。
どうしてその子だったのだろうと、考えました。いや、ちゃんと理由はあるのだけど。
それにしたって、その子を巻き込み過ぎました。こんなに自分の心に近い場所へ誰かを招くことがあるだろうか、と自分で驚きます。
幼馴染みよりも、他の友人よりも、もう一歩だけ近い場所に居るその子と離れるのが、どうしても怖い。
死ぬ間際になって、いろんなものが惜しくなるのは御免だから、そういう未練は残したくないのです。
だから、死にたいというよりも「停止したい」が正解なのだと知りました。
ふらみいはこの際限なく広がる思考を、もやもやを、止めたい。誰の記憶からも消えないと、死んだ後もふらみいが残ってしまう。それでは器を失っても消去しきれない。
誰かの記憶に残るほどの存在ではないし、どうせ残していてもらっても忘れられていくのなら、今直ぐ居なくなりたい。
出会いと別れという、単純な宿命に抗っているのです。オトナになりきれないってやつになるのか。
今まで生きてきた中で出会った友人達が、人間の宿命に則って家庭を作り、自分の人生を歩んでいくことを素直に喜べないのは、もう会えなくなるからでした。
ふらみいはいつまでも自分の為にしか物を考えられず、他に大事にしたいこともなかった。
大好きな人達に忘れられるぐらいなら、今すぐ死んでしまえ。消えてしまえ。停止してしまえ。
そうしなければ、この膨らみ続ける寂しさだとか怒りだとか嫉妬だとか憎悪だとか、そういったものがふらみいを包んで、ふらみいそのものになってしまうだろう。
いつしかそんな危機感を抱いて、そうなってしまったら最後なんだと理解して、それでも襲いくる寂しさを受け止めきれずに歩き続けました。
ここまで考えて、さぁ死ぬぞと思ったのに、たった1人の人間の為にやめてしまうなんてな。
でも、その子が相手なら仕方ないのですよ。自分でも解っています。
自分の心の近くまで招いた、と言ったぐらいだから、ふらみいも解っているのです。その子を呼んだのは、ふらみい自身。
そこに居てほしくて、話を聞いてほしくて、離れたくなくて、その子が流れてくれるままにいろんなことを求めました。
んで、その子もちゃんと応えてくれたしね。たまには「それ違うよ!」て時もあったし、「ぶっ殺すぞ!」といきりたつ時(何)もあったけど。
解り合っているかどうかは今ひとつ自信無いけど、周りの友人よりふらみいを知っているのは確かだし、ふらみいもその子の周りの人より、その子を知っていると自負しております。
精神の潰し合いをしたというか、まぁふらみいが潰されることが多かったけど、そんなこともありました。
その子はずっと逃げないでいてくれたし、ふらみいが欲しいものをくれました。ともだちとして欲しいものをくれました。
だから、その子を悲しませてはいけないという気持ちひとつで、立ち止まってしまったことは、仕方ないのですよ。
とはいえ、その子だって伴侶ができれば、ふらみいのことに構っていられないでしょうから、今だけなんかなぁとか思ってしまう。
そんな自分の、依存しすぎた性分が嫌だ。嫌だけど、その寂しさは無視できない。
その子が恋人を作ったら、家庭を作ったら、きっとふらみいとは連絡を取れなくなるのでしょう。
あっちは関西、こっちは関東。間違っても出会うことは無いだろうから、そこがせめてもの救いになるのかしら。
その子を祝ってあげたい気持ちもあるけど、目の前で幸せオーラ全開で楽しくやられても、何も言ってあげられないや。
そうやって離れていく人達が、大事で大好きな筈なのに、自分のことばっかりだ。
この思考も随分と長い間、ふらみいの中を廻っております。疲れてきました。
そして、文章にして出していっても消えない。声にして言霊にしたら、それでもう終わりになってしまう。
死にたいのではなく、消えたいのではなく、停止したい。
停止しなくて済む世界なんて、どんなものだろう。ふらみいが変わらなくては、そんな世界には行けない。
変わることが結局できそうにないんだな、と諦め始めているのでした。
去年のサイコパスちっくなアホに構わなければ、もう少しだけまともに人生を見ていたのでしょうが。
アホに関わり、どでかいトラウマと罪を背負い、精神を病んで会社を辞めて、死にたい死にたいとのたまう日々。
書いたりゲームしたり人に会ったりしているけど、集中できないのは病んだ所為なのかなと思います。また病院行くべきなのか。
こんな人と友人関係をまだ続けてくれている周りに感謝する。何かを返してあげたいと思う。
でもなぁ、ぼくが何かせずとも、みんな自分の力で生きているし、助けてくれる友人らも居るし、どんな時でも信じられる伴侶が居るからなー。
そうなると、やっぱりふらみいは無用の長物そのものだと思うのでした。
こう書くと、自分には伴侶が居ないから拗ねているみたい。
だって、伴侶を作りようがない。この病んだままでは。この身体では、望める筈がない。
こんなぐずぐずでも生きてこられたのは友人達のおかげで、その友人達も居なくなったら、生きている意味なんて解りっこないである!
人に依存した罰だから、こうやって苦しみながらも緩慢に死んでいくしかないのかな。
精神を削って、身体はただ老いて、みんなを眺めながら忘れられていくことが、最後の罰になるのかな。
そんなふうに考えるぐらい、去年のことは自分の中では大事件でしたから。
罰だの罪だの、そんな単語では括れそうにないほどの。
人に忘れられることも、このまま自殺もできずに生きていくことも、自分に課せられた罰なら、甘受すべきでしょうかね。
それでもやっぱり辛くなったら、寂しさがもう臨界点を越えてしまったら、また泣き場所と死に場所を求めて歩くのでしょうね。
そうやって繰り返していくうちに磨耗する精神から生まれるものって、何だろう。
その子の顔を思い出すことも無くなって、言葉も忘れてしまったら、自分が死ぬべき時であると、定めました。
その子が伴侶を得て、ちゃんと軌道にのったことを確認したら、死んでもいいと、不可視の存在は言いました。
それまでは、それまでは、生きていなければならないのか。
ああ、なんか辛い。辛いよ。生かされているけど、この状態で生きるのかよ。
その子に会いたい、けど、会ってどうすんだろ。その子に依存するのも、もうやめないといけないのにな。
受け止めてくれるのも、動じないでいてくれるのも、ちゃんと返してくれるのも、その子ぐらいのもんだったんです。土壇場で、ぼくが落ち着かない時にも。
だから、大好きだし、大事にしたいのにな。ぼくなんかがするより、真っ当に生きている人間がその子にしてあげた方が、良いのだろうな。
そうやって自分を逃がすのは、卑怯だな。
こんなふうに考えていることを、その子に話してみたいが、また叱られるだろうか。
後何回、そうやって伝えられるだろうか。死ななくてごめんなって、目を見て言えるだろうか。
文章に託して、まだまだ書いていきたいと思います。
作業用BGM
vivi / 米津玄師
PR
Comment
最新記事
(04/22)
(04/12)
(03/06)
(01/22)
(10/04)