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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

こんばんは、ふらみいです。
2日ぶりくらいに、パソ美がついたので、PCから書いています。
毎日何かしら思うことが出てくるから、何かしら言葉を残しておきたい。


今日は高校から付き合いのある友人の誕生日でした。
いつもなら何か贈り物を買って会いにいっているところだけど、今年はそうはいきませんでした。
彼女はもう結婚していて、子どもを身ごもっています。もうすぐ産まれる筈です。
だから、会うことはできませんでした。

彼女の結婚も出産も、喜ぶべきことなのでしょう。友人であるなら当然、喜ぶべきなのでしょう。
だけど、わたしは「良かったね」と、ただ一言だけしか言えない。「おめでとう」とか、そんな気の利いた言葉も出てこなくて、その事象がきっと良いことなのだという実感の無い認識しか持てない。
自分の中で、それ以上の言葉を言い募ることは、ただの社交辞令でしかなく、友人相手にするべきではないと警鐘が鳴る。
わたしはわたしの自尊心の為に、友人に何も言えない。何かをわたしが言うことなど、できるのだろうか。
わたしが何か言おうと言わなかろうと、それは良いことだし、嬉しいことなのだ。
そんなふうに思ってしまいます。

自分でも「友だち甲斐の無い奴だなぁ」と感じはする。感じるだけ。
わたしにとって大事なのは、そのひととわたしとの関係。他のことは、そのひとが大事にしているから、大事にしなければと思えるだけ。自主的に大事にしようとしたことなんて、無かった。
それはわたしが興味を持った人間皆に対して、そうだ。わたしはわたしが関係したことにしか、興味が持てなかった。
だから、たとえそのひとが結婚しようが、出産しようが、わたしとのことさえ忘れないでいてくれるのなら、と、そっちばかり気にしていたのだ。

そのことを改めて、思い知る。
彼女に誕生日おめでとうとメールを打って、妊婦さんだから心労をかけてはいけまいと遊びに誘えなかったことを書いて、結びの文句などはまるで今生の別れのようだった。

そうだ、会えるかどうか解らない。この後、出産、子育てと、激動の日々が始まる。わたしの話など、聞いている余裕は無いだろう。
生活が完全に違ってくる。話せる内容だって変わってくる。
いつかまた、なんて、本当に来るかどうかも解らない。

わたしの役目は何なのだろう。彼女がもし子育てでストレスなど溜まった時に、その話相手になってあげることが、一番できる役なのではないだろうか。
それができないにしても、子どもが大きくなるまで待って、また以前の様にお出掛けとかしたらいいんじゃないのか。
それまで、お互いに生きていればいいんじゃないのか。

そんなことさえ、信じることができない。
いつかは死ぬ、それが明日か明後日かも解らない。
いつかは忘れられる、それが一年後か十年後かも解らない。
それだけのことを抱えて毎日、生きている。大事にしたいものを眺めながら、生きている。
自分のことが信じられない。他者のことも信じられない。では、何故、生きているのか。

この先、もっと会えなくなる。都合がつかなくなる。それは仕方ないことだと割り切ったつもりだった。
結婚、出産に関わって、引越しやら何やら、いろんなことが起きるのだ。
それら全部のなかでは、もっと荷物を少なくしなければ越えていけない場面もあるだろう。
人間、抱えられる荷物の質と量は決まっている。そこに見合わないもの、重すぎるものは、捨てられて然るべきだ。そうしなければ、当人が進むことさえ敵わなくなってしまう。

捨てることそのものを責めることはできない。わたしとて、そうやって進んできたに違いない。
いつかは自分も捨てられる側に回される。それも仕方ないことだ。こちらがいくら大事に思っていたとて、それはこちらだけの話。向こうがそれに応えなきゃいけない義理なんて、どこにもない。

そんな不確かなものを大事にしようとして、自分ばっかり依存して、そりゃー気が違ってしまうだろうな。
どれだけ名前を呼んでも、存在に縋っても、わたしは所詮、これだけの存在だ。大事にされるわけがないだろう。


久しぶりにタロットで占ってみたところ、わたしが覚悟を決めさえすれば、全ては好転されるような予感があった。
覚悟、それは周りの人間を見守り、妬むことなく自分の役目を遵守すること、でいいのか?
覚悟なんて、どう決めたって、やはり羨ましくなったり、寂しくなったり、悲しくなったりする。その脆さと弱さは周りを傷つけるし、自分も傷つける。どういうことだ。

わたしはこの先、何の為に生きていくつもりなのだろう。
今は仕事に精を出しているし、書くのだって楽しい。ゲームは新作が気になるし、歌うことだってどんどん上手くなっていきたいと思っている。
けれど、他のことは何も無い。それでいいのか解らないまま、時間が過ぎる。どのように考えれば正常だと言えるのか。

わたしの言葉は暗く深く重たい。それは誰と比べて言っていることなのか、解らない。
わたしはわたしの言葉でしか語ることはない。それで不愉快になる人間が居るのなら、きっと関わってはいけない人間だったのだろう。
言葉を止めて、無理に笑えば、どこかが歪む。その歪みをわたしは必要としていない。その人間にだって必要とされていない。

ますます何の為に生きていくつもりなのか、解らなくなる。
わたしはここに居ていいのだろうか、生きていていいのだろうか。
誰からも忘れられるのに、誰かからも嫌われていくのに、どうしてまだ縋っているのだろうか。


「まだ、誰も何も言っていないんだよ。君は君を虐めぬいて死のうとしているけれど、それは逆効果というものだ。私達は知っているよ、君が只淋しいだけなのだと云う事を。だから私達は常に君に寄り添い、君の言葉を聴き、君の物語の完成を待っているんだ」
そう語るのは、わたしとだいぶ長い付き合いになるモノたちのうちの、1人。
いつものように微笑を浮かべて、妖しい紅の眼を細める。

「只、素直になるだけでいい。君は君が思う程、酷い事を言っているわけではない。誰もが感じるような事を口にして、露悪的に語っているだけだ。何も心配は要らない、遠慮だって要らない。信じるだけでいいのに、何故そんなに距離を置いているんだい?」


気付いたのだ、わたしは全く信じていないんだな、と。
大事にしたいと、ただ1人だけサヨナラとか言えないと思っていた子ですら、きっとわたしのことを忘れてしまうのだろうと。
あぁ信じたくて自分の言葉を話したいけど、そうしたら皆、暗いだのうざいだの言って逃げてしまうんじゃないかと。
ぼくは知っているだけだ、解っているだけだ。そのことを話せば、周りとどんどん離れていってしまうと。
だけど、話さなければ話さない分だけ、自分が言葉と感情に殺されていくことも知っている。

生きようともがくことは愚かか。それとも、やり方が悪いだけなのか。
ぼくは今どこに居て、誰の目を気にして、何の為に進んでいるのだろう。


10年前の今頃は、大事にしてくれる相方と出逢っていた頃だ。
あの頃のわたしが現状を知ったら、どんな反応をするだろう。

小学生の時の、一番強く傲慢なわたしはどう思うだろう。
「だから幼馴染み以外を信じるなって言ったんだ」と、現状を嘲笑うだろうか。

どうして、信じたいものすら、ずっと信じることができないのだろう。
少しでも違ってしまえば、すぐに切り離そうとする。そのことを、彼らは「君は本当に臆病だな」と笑うだけだった。
この先、大事に持っていても、喧嘩をして仲直りして絆が強くなったと思えても、失ってしまうのなら、どうして持っていこうとするのだろう。
失ってしまうと決め付けるなと言うのなら、どうして失わないと言うことができるのだろう。


ぼくは大事なものを持ち続けてきた筈だ。全て解った上で動いてきた筈だ。
なのに、また立ち止まっている。悲しくなったり、寂しくなったり、辛くなったり、それでも生きている。
何でまだどこかへ往こうとする。呼ばれてもいないのに。必要とされてもいないのに。
どうしてまだそんなことを気にしている。今までのことを忘れたのか、言葉を嘘に摩り替えてしまったのか。
ぼくが信じるべきものは、いったい何だったのか。

話を誰かに聞いてほしいと思うけど、誰にも話せない。
そんなことを考えている人は、そうそう居ないのだ。
考えても答えの出ないことだし、ずっと考えていては精神に異常を来すから。
ぼくは止まることができない。歯止めが欲しい。
だけど、君はぼくの暗い言葉なんて、聞きたくないのだろう。ぼくが話せば、空気が凍り、思考が腐る。

「気を遣いすぎるんだ、君は。もっと自由に、そのまま、話してごらん」と、言われても。
解らない。解らない。


幸せになりたいと思わない。もう充分に幸せだったのだ。
ぼくが結婚して出産しても、皆のようにはなれない。ぼくにはぼくなりの幸せがある。
だから、こんなふうに寂しくなったりする。後悔もいつかはするかもしれない。
だけど、大事にしたいひと達のことを忘れたくないとだけ、思える。信じたいとも、思えた。


身体は石の様に硬く、荒野に転がり冷たくなった。






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