ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
先日の妄想がはかどりすぎて悲しい結末を迎えた日から何日か経ちました。
今はすっかり落ち着いて……とも言い難いけど、まぁ冷静に物を見られるようになったと思われる。
まぁ、ねぇ……元から暗い性格ではあったけど、二次元でぐらい少しはまともな幸せを夢見ても良いと思うけどなぁ。
何で自分に不利なことばかり考えてしまうのだ。
そういう気質だからと言ってしまえばそれまでだが、その後の衝撃やら辛さやらを考えると、もうそろそろそういう考え方はやめたい。
三次元で上手くいかないのなら、せめて二次元では上手くいこうよ。楽しくやろうよ。
でないと、現実も夢も見られなくなっちやうよ。
考え方を変えていくにあたって、いろんなことを整理していかなくてはなりません。
カウンセリングもそれに有効で、後は友人に会って話すのが一番だとも思いました。
それから、自分の世界を膨らませることだな。これが一番、大事だったのかもしれない。
今回の落ち込みから浮上するにあたり、とうらぶという新しく嵌れるものに出逢えた奇跡は、実にタイミングの良いものだったと考えれるのだ。
何てったって、四六時中、本丸のこと考えているからな。溢れる創作物を楽しんで、自分の世界を更に潤しているからな。
一期一振という新しい旦那に出逢えたことも、総じて良い結果をもたらすキッカケになりました。
とは言いつつ、やはり辛い時は辛い。許せないと、再燃する怨嗟が消えたわけではない。思い出せばまだ疼くような傷がたくさんある。
しかし、しかし、だ。それはそれ、これはこれで片付けることを、そろそろできるようになっている筈なのだ。
そこにまたひとつ、新しい要因として、志方あきこさんの“朱隠し”や和風コンセプトの「をかし」などが来ます。
和風は元から好きだし、白川郷に行った時に「日本人の血で物を見ているんだな」と強く意識したので、日本ならではのモノは大事に感じなくてはーと考えていたのだが。
歌でもそう、文化でもそう。場所でもそうだと思うのです。
“朱隠し”を聴いて、例の三条MADを思い出すからかな、神社の鳥居や神聖な水鏡を容易く描ける。
それはもう想像の刷り込みかなって思わんくもないけど、日本特有のあの逢魔ヶ刻の危うさと妖しさが、僕は大好きなのだ。軽く忘我状態に入れる。
水面の上で歌いさえすれば、すぐにでもあちら側に行けると思えるのだ。
その危うさを、美しさを、僕は大事にしなければならない。
辛いことはある、苦しいことはある。思い出せば悲しくなり、憎くなり、自分を見失うことも多い。
だけど、草原を吹き渡る風の音と、草いきれの匂いと、境界が無くなる世界の狭間に於いて、僕は何もかもから切り離されることになり、留まることのない風や水を思い描かなければならない。
留まれば濁る執着の水、流れてこそ……何だったか忘れたが、確かにその通りなのだ。
風も水もそう、みんなそう。
停滞は死を意味する。何も生み出せなくなる。心が死んでいく。
だから、何があるか解らなくても進むものだ。感じるものだ。
濁った風や水では、物語など書けないし、歌も歌えない。僕は僕にしかなれなかったが、それすらも放棄した時に、風でも水でもないベツモノに変わる。
それでもいいと言えるほど、まだ未練が消えたわけじゃなかった。
変化を恐れることこそが、忌むべき習慣だと気付いていた。
だからね、追い詰められて辛くなって、何もかも嫌だーと逃げたくなっても、僕は変わるんだって身構えたら、何とかなるもんなんだ。
何とかなる。ならない時は、なるようになる。
時間は常に動いている。無駄にしていいもんなんか、本当はいっこもない。
もっと強く自覚して、変わり始めたら、きっとまた話せるだろう。
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