ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
ちょうど以前の満月の時か、こんな時間に外に出て、ゆっくりと小さな丘を目指した。
驚くべきことに、こんな時間の、こんな時期でも人は歩いているものだ。殆どがじいさまだったけど。
自分一人しか歩いてないと思っていたから、道行く先に人影を見つけては、構えた。向こうもかなり驚いたとは思うがね。
以前の日記より三ヶ月しか経っていなかった。
それでも状況は激変したと自ら捉える。
僕は均衡を保てなくなった。もとより危険であったが、それはより顕著になり、言葉の半分以上が虚ろなものだ。
心の問題について、人に話せなくなった。どうせこの人も離れていく、理解しようとしてくれないと思うと、口から次いで出ていくのは上滑りというか、意味のない単語ばかりになった。
僕の状態が悪化しようとも、その心根に何が潜み腐っていこうとも、周りの関心を引くことはない。
それが正しい反応だ。人間が生きていく為に必要なものなんだ。抱えられる荷物の質と量は決まっている。
だけど、それでは僕が納得しなかった。わたしは諦めるしかなかった。
不安定になり、言葉と思考は尖り、孤独感は増し、己の不甲斐なさに呆れ、奥底にあった独占欲の復活に頭痛がする。
僕もまた、いつかの姉さんのように諦めるのか。その方が楽だし、生きていけるから。
どうやって生きていたいのか、今となっては夢にすら出てこない。
友人のネット付き合いに伴い、稀薄になった現実の関係を嘆いて、傷付いて、とうとう自分から話しかけるのをやめてしまった。
元からあまり人の話を聞かないひとだったけど、それにしたって対応が酷い。
そのくせ、ネット先での関係には注意して、楽しげにしている。
今まで辛かったのだから、好きなことを優先したらいい。
だけど、現実に友人を支えてきたものを、彼女は忘れていったのだろうか。
そのなかに僕が居ないことは明白だ。やりきれないな。
大事なひとに大事なものができて、それを喜ぶ反面、昔から気にしていたこと、許せなかったことが溢れてしまった。
もうその大事なひとに近付くことすら、痛く、怖いのだ。これまで幾度となく話を聞いてもらい、助けてもらって、今度は此方の番だと思っていたというのに。
昔から、恋とやら、僕から大事なものを奪っていくんだ。だから嫌い、虫唾が走る。
優先されるべきは恋人という風潮で、それまであった友愛や親愛の情は恋慕以下と捉えられるが、世の習いだ。
では、今までの経験は全て、恋人とやらができるまでの予行演習だったとでも?
そんな人間関係の踏み台になる価値があったとは、自分に驚きだ!
怒りが治まらず、かといって誰かに話すこともできない。
伴侶からは「もっと強くなってほしい」と言われてしまった。そういう問題に捉えているのか。
強くなるとはどういうことだ、物事に鈍感になればいいのか?
僕は自分のことを理解してほしくて、言葉を尽くして語っていた。
聞いてくれる人は居たし、そのお蔭で築けた関係も少なからずあったろう。
だけど、満たされない。満たされずに来た。
生死を懸けて冒険すれば、本当の仲間はつくれると思っていた。
平穏の上の友情は瓦解しやすく、ともすれば虚構になるのだから、お互いの心理を追い詰め、本音を出さなければ信用できないと思っていた。
十年前と比べて、僕のチカラは弱くなったと感じている。
姉さんが居ない影響か、薬の影響か、守護者たちは相変わらず居てくれるけど、自分が解らなくなる時がある。
人間とも繋がれず、守護者とも離れてしまったら、僕は何処に行くべきなのだ。
帰りたいと思う。
自分の帰るべき場所は、ずっと前から解っている。
皆、裏切る。捨てゆく。忘れて、去った。
恋人とやら、僕を殺しにくればいい。割礼でも施せば、少しは気も紛れるだろう。
ネットで繋がるのは、手軽で安心か。かつて、僕らもそうだった。ネットから繋がったものだが、正面からぶつかれないのなら、姿の見えない隣人に過ぎないな。
愚かなのは僕だ。けど、そうさせたのはおまえ達だと、責めたい。
こんなにも壊れたのは僕の責任だが、キッカケはおまえ達なのだと、責めたい。
いつでも向き合うつもりでいたけれど、僕の言葉は強すぎた。いつも相手が居なくなる。
そも向き合うことを必要とされていない。付かず離れずの曖昧な関係を、皆は好むようだった。
たかが恋人、家族に心の居場所まで取られた気がした。その重要性が解らないのは、僕がイカれているから。
ひとが幸福になることに邪魔になるのなら、殺されて然るべきだ。
それすら、ひとは与えてくれない。自分達の手は汚したくないのだ。
なにひとつ、以前のままではいられない。そんなことは解っていた筈だ。
離れゆくものを思うと、自分を破壊しなければ気が済まない。
もう行き場のない気持ちは、ひとや自らを呪う以外に消しようがなくなってきた。
耐えてきた。今まで同じようなことがあっても、耐えてきたんだ。
だが、今回は違う。支えが無いんだ。少なくても存在していた支えがひとつひとつ離れて、最後の支えすらも失ったような、そんな寂しさなんだ。
人間は忘れてしまう。忘れるから生きていけるらしい。
僕は忘れられてしまう。忘れるから会えるのかもしれない。
すごく怒っている。同時に傷付いて、悲しくなった。
自分がどれだけ周りに依存していたか。
その周りの為に何かしたくても、気持ちが邪魔をする。自分の感情を優先してしまう。
友だち甲斐が無いよなぁ。こんなことでは、失うばかりだ。
しかし、自分を矯正するのも疲れた。
踏みにじられたものを元に戻すのは、気力が要る。たとえ、自分の仕業であっても。
もう消えたいのだ。
或いは、この器さえ動いていればいいというのなら、僕自身はもう眠らせておくれ。
姉さんみたいに、違う人格を宿せたらいいのにな。皆と距離を取り、不必要な接触はしない、伴侶を支えるだけの肉塊だ。
僕の物語が終わる時は、まだか。
自分で終わらせるのなら、その一時が重要になってくるぞ。
疲れたな。疲れたよ。何でこんなに苦しんでいるのだろう。
ひとの中の順位、気持ちの範囲、そんなものを常に占有したいだなんて、馬鹿だなぁ。最も忌み嫌われる。これが誰の中にある欲求だとしても、向き合うことは稀だ。
自由にはなれそうにない。
誰もが忘れてしまっただろう景色を、僕ひとりが憶えている。
夜に歩いたことも、夕焼けに家路を目指したことも、みんなは忘れているだろう。
その景色を上書きできる程の存在に逢っただろう。
人間の営みの中に紛れこめなかった自分が悪いのだ。
認めるしかあるまい。ここでさよならだということ。
書き終わるまでは。自分が保てるうちは。
苦しいので、誰かに話したい。上手く話せない。
もう聞けるひとなど居ないんだ。
幼馴染みメンバーの一人から、「愛されずとも、誰かを愛することはできるだろう」と言われた。
僕にはそんな高尚なこと、できそうにないよ。
みんな居なくなる。居なくなった。他の人間が、感情が奪っていった。違う、幸せになりに行ったのだ。
僕の幸せは、帰ること。
みんなが憶えていてくれること。
必要として、忘れずにいてくれることだ。
驚くべきことに、こんな時間の、こんな時期でも人は歩いているものだ。殆どがじいさまだったけど。
自分一人しか歩いてないと思っていたから、道行く先に人影を見つけては、構えた。向こうもかなり驚いたとは思うがね。
以前の日記より三ヶ月しか経っていなかった。
それでも状況は激変したと自ら捉える。
僕は均衡を保てなくなった。もとより危険であったが、それはより顕著になり、言葉の半分以上が虚ろなものだ。
心の問題について、人に話せなくなった。どうせこの人も離れていく、理解しようとしてくれないと思うと、口から次いで出ていくのは上滑りというか、意味のない単語ばかりになった。
僕の状態が悪化しようとも、その心根に何が潜み腐っていこうとも、周りの関心を引くことはない。
それが正しい反応だ。人間が生きていく為に必要なものなんだ。抱えられる荷物の質と量は決まっている。
だけど、それでは僕が納得しなかった。わたしは諦めるしかなかった。
不安定になり、言葉と思考は尖り、孤独感は増し、己の不甲斐なさに呆れ、奥底にあった独占欲の復活に頭痛がする。
僕もまた、いつかの姉さんのように諦めるのか。その方が楽だし、生きていけるから。
どうやって生きていたいのか、今となっては夢にすら出てこない。
友人のネット付き合いに伴い、稀薄になった現実の関係を嘆いて、傷付いて、とうとう自分から話しかけるのをやめてしまった。
元からあまり人の話を聞かないひとだったけど、それにしたって対応が酷い。
そのくせ、ネット先での関係には注意して、楽しげにしている。
今まで辛かったのだから、好きなことを優先したらいい。
だけど、現実に友人を支えてきたものを、彼女は忘れていったのだろうか。
そのなかに僕が居ないことは明白だ。やりきれないな。
大事なひとに大事なものができて、それを喜ぶ反面、昔から気にしていたこと、許せなかったことが溢れてしまった。
もうその大事なひとに近付くことすら、痛く、怖いのだ。これまで幾度となく話を聞いてもらい、助けてもらって、今度は此方の番だと思っていたというのに。
昔から、恋とやら、僕から大事なものを奪っていくんだ。だから嫌い、虫唾が走る。
優先されるべきは恋人という風潮で、それまであった友愛や親愛の情は恋慕以下と捉えられるが、世の習いだ。
では、今までの経験は全て、恋人とやらができるまでの予行演習だったとでも?
そんな人間関係の踏み台になる価値があったとは、自分に驚きだ!
怒りが治まらず、かといって誰かに話すこともできない。
伴侶からは「もっと強くなってほしい」と言われてしまった。そういう問題に捉えているのか。
強くなるとはどういうことだ、物事に鈍感になればいいのか?
僕は自分のことを理解してほしくて、言葉を尽くして語っていた。
聞いてくれる人は居たし、そのお蔭で築けた関係も少なからずあったろう。
だけど、満たされない。満たされずに来た。
生死を懸けて冒険すれば、本当の仲間はつくれると思っていた。
平穏の上の友情は瓦解しやすく、ともすれば虚構になるのだから、お互いの心理を追い詰め、本音を出さなければ信用できないと思っていた。
十年前と比べて、僕のチカラは弱くなったと感じている。
姉さんが居ない影響か、薬の影響か、守護者たちは相変わらず居てくれるけど、自分が解らなくなる時がある。
人間とも繋がれず、守護者とも離れてしまったら、僕は何処に行くべきなのだ。
帰りたいと思う。
自分の帰るべき場所は、ずっと前から解っている。
皆、裏切る。捨てゆく。忘れて、去った。
恋人とやら、僕を殺しにくればいい。割礼でも施せば、少しは気も紛れるだろう。
ネットで繋がるのは、手軽で安心か。かつて、僕らもそうだった。ネットから繋がったものだが、正面からぶつかれないのなら、姿の見えない隣人に過ぎないな。
愚かなのは僕だ。けど、そうさせたのはおまえ達だと、責めたい。
こんなにも壊れたのは僕の責任だが、キッカケはおまえ達なのだと、責めたい。
いつでも向き合うつもりでいたけれど、僕の言葉は強すぎた。いつも相手が居なくなる。
そも向き合うことを必要とされていない。付かず離れずの曖昧な関係を、皆は好むようだった。
たかが恋人、家族に心の居場所まで取られた気がした。その重要性が解らないのは、僕がイカれているから。
ひとが幸福になることに邪魔になるのなら、殺されて然るべきだ。
それすら、ひとは与えてくれない。自分達の手は汚したくないのだ。
なにひとつ、以前のままではいられない。そんなことは解っていた筈だ。
離れゆくものを思うと、自分を破壊しなければ気が済まない。
もう行き場のない気持ちは、ひとや自らを呪う以外に消しようがなくなってきた。
耐えてきた。今まで同じようなことがあっても、耐えてきたんだ。
だが、今回は違う。支えが無いんだ。少なくても存在していた支えがひとつひとつ離れて、最後の支えすらも失ったような、そんな寂しさなんだ。
人間は忘れてしまう。忘れるから生きていけるらしい。
僕は忘れられてしまう。忘れるから会えるのかもしれない。
すごく怒っている。同時に傷付いて、悲しくなった。
自分がどれだけ周りに依存していたか。
その周りの為に何かしたくても、気持ちが邪魔をする。自分の感情を優先してしまう。
友だち甲斐が無いよなぁ。こんなことでは、失うばかりだ。
しかし、自分を矯正するのも疲れた。
踏みにじられたものを元に戻すのは、気力が要る。たとえ、自分の仕業であっても。
もう消えたいのだ。
或いは、この器さえ動いていればいいというのなら、僕自身はもう眠らせておくれ。
姉さんみたいに、違う人格を宿せたらいいのにな。皆と距離を取り、不必要な接触はしない、伴侶を支えるだけの肉塊だ。
僕の物語が終わる時は、まだか。
自分で終わらせるのなら、その一時が重要になってくるぞ。
疲れたな。疲れたよ。何でこんなに苦しんでいるのだろう。
ひとの中の順位、気持ちの範囲、そんなものを常に占有したいだなんて、馬鹿だなぁ。最も忌み嫌われる。これが誰の中にある欲求だとしても、向き合うことは稀だ。
自由にはなれそうにない。
誰もが忘れてしまっただろう景色を、僕ひとりが憶えている。
夜に歩いたことも、夕焼けに家路を目指したことも、みんなは忘れているだろう。
その景色を上書きできる程の存在に逢っただろう。
人間の営みの中に紛れこめなかった自分が悪いのだ。
認めるしかあるまい。ここでさよならだということ。
書き終わるまでは。自分が保てるうちは。
苦しいので、誰かに話したい。上手く話せない。
もう聞けるひとなど居ないんだ。
幼馴染みメンバーの一人から、「愛されずとも、誰かを愛することはできるだろう」と言われた。
僕にはそんな高尚なこと、できそうにないよ。
みんな居なくなる。居なくなった。他の人間が、感情が奪っていった。違う、幸せになりに行ったのだ。
僕の幸せは、帰ること。
みんなが憶えていてくれること。
必要として、忘れずにいてくれることだ。
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そんなことから逃げたくて、今の男性が多い職場に行ったのだがなぁ。
そういうところに居る女性、しかも或る程度の年代に達している方は精神的に熟していなければ、紅一点でやっていけないものだと思っていたが、全然そんなことなかった。
今の事務所で病むキッカケになった先輩二人、男性と女性は四十代。
あまねく四十代がそうだとは言えないのは解っているのだが、あまりにもあまりにで最近強く辞めたいなぁと感じている。
当たりは強いわ、二人揃えばすぐに誰かの悪口で盛り上がるわ、言い方はキツいわ、そのくせ自分にキツい言い方されるのは嫌だわって、相手するのもう疲れたんじゃ。
四十代ってこんなだっけ!? とか思ってしまったのだ、世界の四十代の皆様、申し訳ありませんでした。
特に女性の先輩と一緒に居るのが辛い。
多少なりとも言い方キツい人は今まで会ってきたことあるけど、いつもキツいってすげーな。何をそんなカリカリしてんだ。
五十代で不倫だの何だのでお盛んで昔は男性にちやほやされていたから他の人がちやほやされるの気に食わないって女性には、前に嫌なことズケズケ言われたから、そこが鬼門なのは解っている。
でも、それも自分が恋愛体質に近くて、もしくは不倫相手に逃げられたから、余計に若さを妬んだだけかなーと感じていたんだ。
つまり、辛く当たってくるのは男性絡みだからだと感じていたんだ。
事務所の先輩♀は旦那様と二人きりで、しかも旦那様は単身赴任中と聞く。
誰かと不倫しているという噂も聞かない。二十代前半の事務員♀には特に嫌悪感は無いようだ。
しかし、わたしともう一人、別会社の事務員♀には当たりがキツい。
わたしとその事務員♀に共通しているのはアラサーってことぐらい。
若さを妬むだけなら、二十代前半に突っかかりそうなもんだが、そうではないならわたしどもの態度か何かが気に入らんのだろう。
だけど、アラサーの事務員♀からは、
「私達は先輩♂に食事に誘われたりしますけど、そういうの先輩♀は無いみたいですし、そこで『私を女として見て!』て思っちゃうんじゃないですかね。先輩♂に若手の前で『先輩♀のこと、お母さんって呼ぶなよ!』て言われるのも嫌みたいだし」
と聞かされた。
んんー、お母さんの件については冗談で済ませられないほど腹立つなら、先輩♂に直接抗議すりゃえぇけど、それ以外のとこって、わたしらに非があるのか…?
そもわたしには「若さを妬む」というものが、よく解らない。
四十、五十ともなれば解るのだろうか。
だってみんな二十代の頃あったでしょ。人生がいきなり五十から始まったわけでもなし。
二十代の頃を活かしきれなかったというなら、それはご自身の所為でしょう。いつかは損なわれるものだと認識していなかったのか?
ALI PROJECTの『地獄の季節』の歌詞に、
「死を抱くよりも恐れるものは
揺蕩う時間に流されて 魂が老いてゆくこと」
とある。
そうね、外見が老いてゆくのは恐ろしいことよね。着られたものが着られなくなる。身体のあちこちが劣化していく。型が崩れて、いつかは死ぬ。
けど、それは等しく存在する理でしょう。そういう場所で生きていると、どこかで気付いたでしょう。
女として見てほしいってのが先ずわたしには不思議だよ、自分の好きな男が居るのなら、その人に女として見てもらえるように年相応の努力したらいいんじゃないのか。
他の男からの称賛が必要なほど女性で在りたいという思いは、斯くも荒々しく根強いものか。
わたしと彼女では思考の形態も変遷も、まるで違う。だから嫌われているのかもしれない。
若さだけじゃなく、どこかに落ち度があったのかもしれない。今のとこそれ言われてないから、邪推でしかないけど。
でもねぇ、男性方には年齢問わず自分から話しかけて挨拶もちゃんとしているのに、かたやわたしの挨拶には目も合わせてくれない、話もそんなにしないってのは…結構、傷付くもんなんだよ。
先日の新婚旅行の時も、買掛がわたしの間違いで合わなかったのをいたく怒っていたようで、「ふらみいさんは休みだったからいいけどさ、こっちは数字追わなくちゃいけなくて大変なんだよね」と言われてしまって、あーーめんどくさって感じてしまったよ。
買掛合わなかったのは悪かったが、わたしは事前に旅行の日程を伝えていたぞ。
「買掛あるからそこはやめて」と言えば良かったろう。
ただ休んだんじゃない、許可もらって一週間居なかったのを何でそんな責められにゃーいけんのじゃい。
この時、ぷつりと切れたんだ。
もういいや、もっと自分の言うこと聞いてくれる四十代の方を事務所に入れなよって思ったんだ。
わたしは居なくなるからさ。今年中には子ども欲しいから、マタハラ喰らう前に去ぬ。
カウンセリングでは「被害者的になりやすくなっているから、受け流せるといいわね」と言われて、確かに被害者ぶってるなーと痛感。
向こうも大変だったわけだから、そこは謝罪すべきなのだ。いや、ちゃんと謝ったが。
でも、もうわたしはあそこでやっていく自信を無くしたぞ。
以前まで居たヘイトの対象が無くなって、再びわたしがヘイトの対象になったのか? と思うぐらいには、疲れたし、疑心暗鬼だ。
そうしてわたしを追い詰めて辞めさせる気なんじゃないか、なんてな。
女性同士は難しい、と聞く。
わたしは特に異性にも同性にも好かれないと解っている。
それでも、もう目の前で自分と他者とで違う態度を見せられるのは嫌なんだ。
そういう諸々を避けたかったのに、避けられない。
ならば、わたしがまた変わるしかないのだろう。
ノンケの女性だからいけないのか、それとも彼女だからやりにくいのか。
わたしの心の殻が厚くなっていく、それって被害者ぶってるだけなのか。
挨拶も返されないなんて、人間以下の扱いよ。
路傍の石と同じよ。
それでも我慢できるのは、たぶん子どもができるまで。
もしくは、理性が保たれるまでだ。
その先は知らん。もう知らん。
大事なのは、どの病気かなのではなく、あなたがどうしたいかなのだ……と、ずっと前に別の先生から言われた。
確かにその通りだと思って、どうしたいかを考えた。
その人は、「ふらみいさんには自分で自分をどうにかする力を持っている」と言われた。
実際にその通りだと思って、自分のことはじぶんで決めて考えて、どうしたいかを選択したつもりでいた。
現在、一週間近く休んでしまっている。
周りに迷惑や心配を掛けて、早く行かなければと思うのに、身体が言うことをきかない。
でも、休んで午後になると、身体は動く。土日は「月曜からがんばるよ」と思って、普通に動ける。
なのに、月曜は準備までして駄目になったりする。ふとんから起きようとしても力が入らず、一時間もぐだぐだやっていた。
これは甘えなのか、それとも本当に適応障害なのか、新型うつ? とかいうのもあるらしいが、どれかに当てはまるのか。
しかしわたしは何をしている。
そんな自責の念が込み上げて、一週間ずっと怠くて辛くて情けなかった。
何もできないわけじゃない。ちからを入れて、全身を動かすことは可能だ。きっと薬に頼らずともカウンセリングだけで動くことも可能だ。
お金だって必要だし、人との付き合いも無駄にはしたくないし、仕事そのものは嫌いじゃない。
わたし自身がストレスに弱いのも、環境変化に弱いのも解っている。なら、次の手も打てるというものだ。
何で同じとこでつまづくんだ、そればかり考えた。
下手の考え休むに似たり、とは言うが、わたし休みすぎではなかろうか。
昼頃になって動けるようになると、洗濯をする。
好きなことをしてみて、大丈夫だなと思ったら、明日行くのだと考える。
夜になると落ち込む。自分は何もできないやつだと感じてしまう。
朝になれば身体は鉛のように重くなる。そして怖々と休みの連絡を入れる。
おぉ、情けない。何しとるか。
適応障害になってから四年は経ったろうか。再発は幾度となくあって、きっとここらで転機を掴まねば永遠にこのままだ。
ずっと嫌なことから逃げて、身体の言う通りになってしまう。
わたしの意思はどちらにある。どちらにもあるんだけど、本当のこと言ったら、どうしたいんだ。それを何度も問いかける。
前に居たセンターで、すげー強気な人を思い出した。
朝起きる時にいつも「俺は負けない、あいつらには絶対に負けない」と起きる奴が居た。
負けん気強い人で、すぐに泣く人が嫌いで、でも義理人情には厚い奴だ。
少なからず憧れた、そのことを思い出した。
わたしは今ただ負けているだけだ。
誰に負けたのかは明白で、そも事務所は先輩二人だけではない。
こうなった原因が二人にあっても、それを覆すかのような助力は周りからもらっている。
カウンセリングでも「嫌なことがあると、そこしか見えなくなる。そこがあなたの今後の課題」と言われた。
わたしは負けているだけだ。このままだともっと負けて消える。会社からなのか、自分がなのかは解らないけど。
負けん気はないし、人と喧嘩するのは嫌だけど、わたしがわたしに勝てなくて駄目になってしまうのは悲しいことだ。たぶん。
どうせ皆、夕飯食べる頃には忘れているだろうことを、わたしはよくもまぁ一日のみならず気に病んだものだ。
時間の遣い方が勿体ない。気に病んだところで、それはわたしだけを蝕む。
その呪いは外へ出す。わたしか呪われるくらいなら、お前が呪われろ。先輩達に対して、それぐらいは思っているくせにな。
負けたわたしの行き先なんて、どこにもない。
明日こそ、明日こそと思っていたが、なんでもない顔して行けたらいいや。
何も言い訳にできない。
まずは腹ごしらえして、好きなことを始めようかの。
どんだけ怖いもの見たさだよ!!
……と友人と笑いながら行ってきた「怖い絵展」。
そして夕方からは、恒例の酉の市へ。今年も見てきたよ、見世物小屋!
先ずは「怖い絵展」なんだが、本当に申し訳ないことに、わたしの中ではいつかお邪魔した「えろ展」と同じ感想しか抱けなかった。
表面的だなぁと強く感じたんだよな。扱う題材に真新しさが無いというか。
歴史を踏まえての絵画に、真新しさもクソもないかもしれんが。
作品から感じる感情や音や気配も特に無かったのは、周りに掻き消されていたからか、それともまだ恐怖が足りなかったからか。
単純に見た目だけで怖い絵ならあったろうけど、本質を突くような怖さは感じられなかった。そこが想像と違ってて残念だったんよなぁ。
一番驚いたのは、この展覧会に人がごった返していたこと。
我らが行った時間は正午過ぎで、そんな遅くないと高を括っていたのに、現地に着いたらもう90分待ちだった。
「まるでアトラクションみたいだね」なんて友人と話していたけど、有名な絵画展って、えてしてこんなものよね。ダリ展の時もすごく待った気がする。
もっと言えば、何故他の人達はそこまでこの絵画展に来たかったんだ。
あなた達にとっての恐怖って何??
寧ろそっちが知りたいよ!
んで夕方から、見世物小屋へ。
今回は新人太夫さんがはいったので、瓶の悪食と口中火炎の使い分けも見せてもらいました。
あれできる人はなかなか居ないみたいだ。
来年も居るといいなぁ。
毎度のことながら慣れない。
先日、友人と一緒にペルソナのコンサートへ行ってきた。
ゲーム音楽の生音を聴くのは片手で数える程度だけど、今回もやはり感動してきた。
個人的には、挫折したけど女神異聞録は曲がかっこよくて好きなので、「神話覚醒」が生で聴けただけでも、行って良かったと思えた。
他にも、歌い手の方々が目の前で歌ってくださって、感無量。ゲームで聴いたおしゃれなあの曲この曲、全部とまではいかないけど、いっぱい聴けて満足でした。
技術的なことや難しいことは解らないけど、わたしは少なくとも誰もがペルソナを盛り上げようと頑張ってくれていたのだと思っている。
そういった場面に立ち会えたことも、純粋に誉れであると感じるしね。良かった。
しかし、こういった生の作品に触れて、いつも思うんだ。
わたしはいったい何をしているのだろう、何を残してきただろう、と。
結婚してから精神的には少し落ち着いてきたと思う。
だけど、その分だけ平和ボケしたよなぁと感じる時が増えてきた。
平和ボケっていうのか、なんつーのか、ハングリー精神がいまいち欠けているような。
わたしの人生の正体は欲望に正直であることのみで、そこから生み出されれる言葉と感情の奔流こそがわたし自身であると思うけれど、それが今ではチョロチョロパッパだよ。なんたる様だ。
それが完全に悪いことだと思わない。実家に居た時よりも閉塞感は無いし、旦那には感謝している。
この暮らしやすさは旦那の属する会社の福利厚生のおかげであり、わたしはその恩恵無くしてこんな良い暮らしはさせてもらえないからな。実家に居た時よりも生活水準が落ちてないって、良いことだろう。
なんだけど、その分だけ自分に課せられた役割を全うしようとして、無理をしている――らしい。これはカウンセリングで言われることだった。
良き社会人であろうと、良き妻であろうと、仕事ないし家事を行う。自分を追い込んででも全うしようとするあまり、自分がどんどん辛くなっても止まることができない。
家事はともかく、仕事に関しては「有り得るな」なんて思ってしまった。実際に無理しないと会社行けないし。薬飲んでカウンセリング行って、そこで均衡を保つ努力をしないと会社に行くなんて、到底、無理だ。
それほどまでに誰かと関わるのが面倒になってしまった。それほど以前の場所で、或いはその前で培ってきたものがわたしを蝕んでしまった。これは変質だろうか。そうでないと良いのだが。
そうなるかどうかは自分次第だというのなら、勿論、そんなつまらん変質なんぞ迎えたくないのだが、今の自分の立ち位置が解っていない。
わたしは元来、つまらない存在だ。置いていかれるだけの、選ばれずに忘れ去られるだけの、無力なままの存在だ。
だけど、そんなわたしでも人並み以上にできることが幾つかあり、それを表現、続行することで、わたしの望む世界に行けると信じている。それこそがわたしがこの次元で生きる意味だ、と壮大に、しかし当たり前に考えているのだ。そうでなければ、こんな脳味噌で生きてられっか。
そのつまらない存在は、どうやったら光り、輝く?
或いは広がり、深まりゆく?
万人に受け入れられずとも、誰にも見向きされずとも、たとえ伴侶が認めずとも、わたしがわたしで在ることの証は穢れず損なわれず、確かに存在する筈だ。
それを護り、育み、愛し、強めていくことで、わたしの思う高みへと近づける筈だ。
その過程を、最近自分は疎かにしているのではないか。
安定した生活を続ける為、伴侶を心配させない為、会社で周りにこれ以上の迷惑を掛けない為にと仕事でも家事でもしてきたけど、わたしはもう疲れた。たぶん、それが一番近い心情だ。
良い人間であること、良い役割を演じ続けること、それはわたしと周りを繋ぎとめるが、わたし自身の中に違和感は堆積する。
崩して何を手に入れようというのか?
否、きっと手に入れるのではなく、単純に邪魔なんだ。わたしがわたしで在る為に、日々の生活で無理をしてきた疲れを溜めこんで、その所為で自分がどうしたいのか解っていない。
勿論、そんな状態のままは怖いから、どうにかして自分を解放しようと目論む。ゲームしたり、書いたり、歌ったり。
でも、自分ひとりの時間だけではだめだと思って、旦那と一緒に居たり、友人らと会ったり。
友人らと会うのは問題ないけど、旦那と居る時は結構、我慢をしているのかもしれない。
そして10月最初に大阪に行ったことで旦那とケジメだなんだという話になって、それもあって「もうどうにでもなーれ」と放り出してしまったのかもしれない。
わたしだけが我慢したり、頑張っているわけではない。誰だってそうだろうさ。
なのに、わたしにはわたしばかりが疲弊して、不平不満を抑え込んでいるように見える。もっと上手いやり方をこれまでに学んできた筈なのに、何でこんなにもやり方が不細工なのだろう。
わたしは何をしているのだろう。ゲームしなきゃ、書かなきゃ、読まなきゃ、そんなふうに強制してばかりだ。
前はもっと自由にやっていなかったっけ。いや、強制してでも自分を取り戻そうとしていたけど、ここまで毎日言い聞かせていなかったぞ。
言い聞かせるには退屈だ。強制なんてやめてくれ。もっと自由に、もっといろんなことを望んだっていいじゃないか。
失った時間を取り戻すことは不可能だ。だから、これから訪れる時間を楽しく過ごす。
それはきっと間違っていないのに、強制してでも取り戻さないといけないと思うのは窮屈だろう。
生の作品に遭うと、わたしはいったい何をしてきたんだと思う。妙な焦りが生まれる。
だけど、焦ってどうにかなるものではない。わたしはプロでこそないけど、自分の遺せるだろうものに誇りを持っている筈だ。
だけど、だけど、でも、でも、だって・・・・・・何度言っても自分は恐れている。窮屈で疲れて辛くてつまらなくて、そんな毎日を過ごすことに魅力を感じるのは難しい。
そんな生き方を望んだわけじゃない。どこかでテコ入れしよう。しかし、どこで。わたしはそんな自由が効く身なのか?
足枷を増やしたかったわけじゃないのに、こうしてまたどんどん心にしこりが生まれる。降り積もったらその分だけ固まって、それを溶かす為に無茶をする必要が出てくる。
こんなわたしに残せるもの、生み出せるものはまだあるだろうか。
時間が勿体ないからと自らに強制する全ては、はたしてその後のわたしに何か残せるだろうか。
わたしはまだ何の結果も出せていない。だから焦る。
個展を開いた友人、好きに人生を謳歌する友人、早くに人生設計をして子をもうけた友人、何年も一緒に居た人々が変わりゆく様を、わたしはわたしのままでいられることを、まだよく呑み込めていないのか。
きっと誰かからすれば、これは贅沢な悩みだ。
だけどわたしにとっては死活問題だ。
生み出せ、生み出せ。強いられた場所では足も腐り、心に穴が開く。
会いたい人に会いにいく、それぐらい簡単なことの筈なのに、本当にわたしは何をやっているのだろう。
やっと自分の立ち位置が、本当の位置が見えてきて、絶望をまた覚えたのだろうか。
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