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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録

最近、「はじめの一歩」のアニメを第1話から追って観ている。
以前やっていた「はじめの一歩 Rising」が面白かったので、一歩の強くなる過程を順に追っていきたいなーと思っていたのだ。
いじめられっこだった一歩がどのようにしてボクシングと向き合っていくのか、その途中でどんなボクサー達と出遭うのか。

一番好きなキャラは決め難いけれど、中堅どころが好きなので、青木と木村が好き・・・・・・かなぁ?
鷹村さんも好きだけど、あの人はジョーカー的存在ね。るろ剣で言う比古清十郎みたいな。
宮田君も実は熱い男だということが解り(スラダンの流川みたいな性格かと思っていた)、千堂や伊達さんなど、魅力的なキャラがまだまだ居ることを知った。

MADで知ったゲロ道も気になっているんだ。今やっと彼が出てきたので、これから輝く瞬間を期待している。
試合で一番面白かったと言われたのは、鷹村さんvsブライアン・ホーク戦なんだが、いったい何話目なのか解らないから、とにかく追わなければ。
まだ一期の40話くらい。道のりはまだまだ長い。一期は77話まであるんだってね。その後も映画とかOVAとかあるみたいね。
でも、OVAは青木の話のようだから観たいぞ!


さて、その「はじめの一歩」と並行するようにして追いかけている作品が、もうひとつ。
友人から借りた「ストレイト・ジャケット」というラノベだ。
昔懐かしい富士見ファンタジアで、ラノベとは言ったけれど、およそラノベに思えないハードボイルドさと、流暢な文章の造り、的確に嵌まっている単語と設定の数々に圧倒されて、今ものすごい勢いで読んでいるところ。

とにかく設定の濃厚さが目を引く。正直、自分の書いた作品の設定が浅くて、恥ずかしくなるぐらいだ。
挫折とは違うけど、新しい壁を目の前にしたような重圧と軽い絶望がある。自分はやっぱり下手なんだ、こんな話は書けそうにもない、と。

今年の1月に聖剣ライヴに行き、いろんなことを考えたけれど、その集大成とも言える作品は未だ書けない。
寧ろ停滞している。修正に次ぐ修正がまだ終わらないのは、ストジャに影響を受けてのことだ。ここはこう表現した方がいい、ここは削っておいた方がいいなど、まだまだ自分の作品が荒削りな状態であったことが解る。
加えて、今は何も『降りて』こない。いつもなら「書くぞ!」という勢いで、自分の手がまるで自動速記のように動き、脳裡でめまぐるしく映像が展開されて、言葉の選択なんて考える必要すら無いのに、それが今のところ全く無い。

そこで焦っても仕方ないさーとか言って、もう1年の半分を過ぎた。
去年の今頃は急にとうらぶにハマって、いろんな物語を書いていたような。途中で止まったものもいっぱいあるけど。
そんでまた精霊の歌キャラを動かして、現代ものの話をずっと書いていたんだっけ。あのペースは自分でも凄かったなーとか思う。
その勢いは、今は無い。無いのだ。エンジンがかかる気配すら無い。どうしたことか。

ストジャに叩きのめされたのかとも考えたけど、絶望しきっているわけではない。
自分の書き方を見失いそうになっても、ストジャの筆者と僕とは違う存在だ。違う書き方とテーマがあって、当たり前なのだ。比べることがそもそも可笑しい。
まして、プロとアマの違いを知らないわけではあるまい。同じ土俵にすら立っていないのに、叩きのめされるなどと高慢だろうよ。

では、何なのか。
それが「はじめの一歩」を観ていて、何となく解った気がする。

今は一歩も宮田君も、それぞれの目標を掲げて歩き始めていた。
最初は新人王を狙っていたけれど、いつの間にかその目標には辿り着き、もっと上を目指すようになった。
一歩はこの後、伊達さんとやり合うことになるのだろうか。日本ランク5位の沖田さんを倒したんだものな。
その敗因として、沖田は憧れの伊達さんに追いつこうとしていたけど、追い抜こうとはしていなかったことが上げられた。一歩とは、目標に対しての在り方が違ったんだ。

目標、これほど見失いやすく、邪魔なものと思ったことはない。
僕は「目標を掲げてコツコツと努力する」ということが、心底、苦手だ。
その努力は報われることがないと思っている。努力が報われるのは、奥底に生まれ持った才能を秘めた人間だけだ。
才能すら持たない、努力しても実らない者は、報われず、気付かれず、陰日向に咲く花のように散るだろう。
それでも花は何も恨まない。誰かを羨ましがったりしない。
僕はどうだろう。日向で陽光を浴びる、自分とは違う咲き方をした花々を恨めしく、疎ましく、羨ましく思うだろうか。

今なら、少しは違うと思いたい。今なら僕は僕でいられる。
10代の頃にさんざん悩んだことも、つい近年まで苦しかったことも、全て繋げて今の過程を為している。
それなら、目標を立てて、それに向かって邁進する自分を、信じていられるだろうか。

先が見えない。真っ暗だ。見えていたものも霞む。足元に道が無いというのは恐ろしいことだ。
それでも生きてきた。どうしようもない苦汁を舐めて、自分の価値を見失って、無様に依存して、狂気と殺意とを孕んで、それでも生きてきた。

まだ見える景色がある。
小学生の頃、幼馴染みメンバーの家で初めて見た聖剣2のゲーム画面。
全てを奪われ、満たされ、過ぎ去ってしまったような感覚があった。
遠くにマナの要塞を見据えながら、暮れなずむ空に浮かぶ白い獣のような竜。
遠雷が響くなかで聴こえる神秘的な音楽と、眼下に広がる世界の果てしなさ。
全てが、言葉を越えて僕に届いた。そしてその世界へと足を踏み入れた。
僕は聖剣伝説によって僕の世界を獲得し、この世界こそが自分の帰るべき場所だと『解った』んだ。

とある人にその話をした時、「君にとっての永遠なんだ」と表現されたことがある。
上手く言葉が思いつかなかった僕は「そうか、”永遠”ってこういうものなんだ」と思った。
だけど、今は違うんじゃないかと思う。永遠ではないのだ。いつか終わるのだ。連続して見えている景色だって、終点を目指すから目の前に広がるんだ。
僕にとって世界は連続した終焉と誕生そのもので、永遠でなくてもいいのだ。
世界に関連した事象は普遍的なものだろうから、それは永遠と呼べると思うけど。

僕の目標はどこにある。それは世界の構築と拡大。
常に夢を見続ける為に、次の世界を歩いていく為に、今を生きていくしかなかった。
繋がった絆の糸を合わせて、結んで、大事にしながら生きていく。
書くことも歌うことも大事だけど、それだけではなかった。解っているんだ。

目標を掲げるって、何もそんな大それたことをしなくていい。
あの光景をまだ憶えている。見たい場面がある。その為に書くという選択だって、僕らしい。
言葉にも想いにも囚われ過ぎてはならないんだね。

目標の先にあるものが見たい。その先でまたきっと見つかる。次へ次へと進むんだろう。
川の水が海に辿り着くように、僕もまたどこかに辿り着き、旅立つのだろうか。


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常に古い殻を脱ぎ捨てて、世界が日々前進する様を「成長している」と呼べるのなら、今の僕の《世界》はどうなっているだろう。

今日でセレナと契約を結んで9年目?
まだ大阪に遊びに行ってて、簡易的な契約をし、家に戻ってからあの雑木林の中に逢いに行って、正式な契約を結んだ。
当時、僕を可愛がってくれていた姉様が知っていたその存在は「セレス」と名乗っていたが、僕と逢った時は「せれな」だったので、後に契約の証として「セレナ(Selena)」と呼ぶことにした。

セレナは闇の精霊の欠片で、妖精とは違うという。
しかし、姉様が器として仕えていた気高き闇の主と繋がった存在であることに間違いはなく、僕の力に寄り添う為に随分と無茶な守り方をしていた。
自分より強い存在に当たっても、僕を守る為に立ち向かってくれた。
僕が早く契約していれば、彼女が辛い目に遭うこともなかったのだが。

そうして始まった、巫としての時間。
仲間が増え、時に別れ、また増えて、今は僕とて正確な数字が解らない。
前線から退いた老兵が如く、時々もたらされる情報を聞くだけだ。
姉様と疎遠になってより、主の気配をあまり感じない。きっと眠っているか、事態を静観しているのだろう。

僕は日常に追われれば、セレナ達と話すことは少なくなる。
だが、ひとたび病んでしまい、心が浮上しにくい時はセレナ達と話し、落ち着きを取り戻す。
このこと自体が病気なのかもしれない。誰と話しているのかと訊かれても、答えようがない。僕だけの現実だから。

セレナはつい最近また無茶をして、僕が生み直しをしたんだ。
子宮はもう力の源じゃないけど、力が溜まりやすいから、そこで眠らせ、胸にある華を開き、力を注ぎ込んだ。

外見こそ少し変われど、セレナはまた僕の所へ戻ってきてくれた。
そんなに慕われるような要素なんて無いけどね。うん。

あれからもう少しで10年経つのか。
なのに、力の発展はこんなもんだらけ。
もっといろんなことができたり、姉様の役に立ててると思っていた。
人生は何がどう転ぶのか解らんな。

だから「行きなさい」とセレナは言う。
たとえ僕にみんなの姿が知覚できたり、解らなくなっても見上げた場所に、光を灯して。闇と光といっしょ。

きっとまだ繋がっていく。

ブログを書くこともだんだん少なくなってきたのは、良いことなのか、悪いことなのか。
心の中に溜まったものをアウトプットする前に、どうにかできている証拠なのか。
何かあった時は人に話してばかりだったけど、それも控えるようにしている。
自分の力で解決しているとか、そんな立派なもんじゃないけど、耐えようとしているのだろう。
それは周りに嫌われない為なのか、それとも自分をより良い存在へと導く為なのか。

まぁいろんなことがあったと思うけど、取り立ててどうこうってことは無かったんだよな。
仕事は時間が短くなって収入が減ってしまったけど、心の余裕は保てている。
だからお盆の混雑にも対応できたし、たまに変なことやらかすけど、その失敗を成功へ繋げる気力もまだ残っている。

相手様とは順調。結婚の話は出ていないけど、こうだったらいいねって話はしているのだから、向こうも視野に入れてくれているのだろう。
不安だった料理のこと、それから子どもを産みたいと思うかどうかについても、僕の考えは徐々に変わりつつある。
それはやっぱり相手様と過ごしている穏やかな時間の中で、愛されている、大事にされていると解るからだろう。
そうだな、それが解りさえすれば、僕にも理解できれば、怖いことや哀しいことを相手に強要しなくて済むんだ。
そのことに気付いていたけど、こんなふうに穏やかに過ごせるなんて思ってもみなかった。
僕は挫折と失敗とを繰り返して、やっとこの人に逢えたのだな。

でもべつに去年のことを忘れたわけじゃない。
まだ会うべき時じゃないけど、そのうち会いにいきたいな。また二人でゆっくり話したいな。
最後に会ったのは今年1月の聖剣ライブだけど、それ以降は特に連絡を取っていない。
夜中に電話をすることも、急に遊びに行くことも無いけれど、僕にとってあの子が大事な友人であることは変わりない。
形に拘る必要が無いのだ。解っているのだ。もっと早くに解っていれば、こんなふうにならなかっただろうけど。
だからって、この3年ほど一緒に居た時間を恨んだり、無かったことにしたり、そんなふうに逃げたりはしない。必要な時間だったと思う。
これからつくるものの土台にできるのは、僕とあの子だけだろう。


その傍ら、久しぶりに空を見る機会に恵まれたので、ばっしゃばっしゃ撮ってやったぜ。



酒匂川の花火を見にいった時の空。
この時は15時半とかに外を歩いたのが久しぶりだったから、暑すぎて熱中症になりかけていた。
夕焼けが消えていく頃には、川の近くだったから、だいぶ涼しくなっていたけど。



青森にも行った。最短の1泊2日。
何もしないで帰るのは嫌だと言って、墓参りに行ってきたのだ。
久しぶりの三内霊園。空は透けるように青くて綺麗だった。



これはさんぽに行った時のもの。
線路沿いに歩いて、大きな公園をぐるりと一周。
ちょっと傾いているのが気になる。



運動公園の中で。太陽が落ちる。色が変わる。



夕陽が沈んでいく淡い色が、とってもノスタルジー。



白い月を見つけた。ぼんやりと姿を現した。僕は家に帰る。



次の日、帰る時の空。雲だらけ。



自室の窓から撮った夕焼け。朝焼けも好きだけど、夕焼けの色のが好きかもしれない。



そんなこんなで、空を見ては撮って、今日を思う。
明日はきっと楽しいぞ。その先も。
でも、またいつか辛くなる時が来る。試される時が来る。
僕はその時も僕のままでいられるだろうか。何が大事なのかを忘れずにいられるだろうか。
変わり始めた世界に戸惑うことなかれ。


ちゃんと言葉にしなくちゃ、物語にすらならないものだ。

ここ2ヶ月近く繰り返す、希望と絶望の繰り返し。
熱意が醒めてしまった仕事を辞めたくて、もっと情熱的になりたくて、でも今は何もしたくなくて、そんな悪循環が自分で歯痒い。
ゲームしてみたり、本を読んでみたり、日常を変えようと動いてみるけど、劇的に変わることなど有りえないのだった。

何年、人間をやっているのか。そんな夢を見たところで、まだ僕は空を飛ぶことすら自由にできやしないじゃないか。
夢を見るなら現実を見なければならない。ずっと解っていたことなのに、何故また現実からも夢からも目を背けるのだ。

気力も体力も精魂も消えそうだと、助けてほしいと願った。
仕事中に、闇の王と話すような非現実。
彼は言った、「おまえの周りにはおまえに必要な縁しか残っていない」と。
彼は言った、「おまえにはおまえにだけ解る真実があるのだ」と。

真実を抱えて、僕のものではない事実に向き合った時、僕には不可視の仲間が居る。
僕は僕だけで事実に向き合うことができなかった。
人間の仲間はもう居ない。だけど、形に拘る必要はない。
僕には僕なりのやり方があって、大事にしたいものを上手く大事にできれば、それでいいんだ。

今日、やっと『ユメヒトヤ:再誕』の一編が仕上がった。まだ起承転結の起が終わったぐらいだ。
ここまで書くのにそうとうな時間を要した。合間に他の話を書いたり、他のことに煩わされたりして、気が散っていたんだ。
仲良くできていると思っていた人と実は離れてしまっていたり、新しく読んだ本に刺激を受けた所為で自分の文章というものが解らなくなったり、また挫折しそうな気配がする。

僕はやっぱり書くの下手なんだなぁと思った。言葉の選び方もいまひとつ、上手くなれていない気がする。
書きたいことが先行して、技術が追いつかないのかもしれない。いつもそうだ。だけど、これだけ書いてきて、まだその気があるってのが悲しい。

僕に価値が無くても、僕の書いた物語には価値がある。そのことをずっと信じている。
願わくば、
『ユメヒトヤ:再誕』は濃霧のなかをふらつくかのように生きている人へ、光明となるものを孕んで届けばいい。
それを光と為すか、災いと為すかは本人次第だが、生きることと死ぬことを限りなく見つめて、ことばを綴ろうではないか。

僕は何処へ行く。何処へも行かない。
言葉を操れている? まだ操られている。
何をしているのだろう。まだ何もしていない。
巫であることに変わりはない。失われた力は花となり、綻ぶその刻を待つ。
僕には僕しか居ない。満たされないのは、完成したくないからだ。
壊れてなんかいない。無理して僕を変えようとしないで。

考えるだけじゃ駄目なんだ。書いていかなきゃ駄目なんだ。
まだ僕は言いたいことの半分も言えていない。
『ユメヒトヤ:再誕』を届けて、君に伝えたいことがあるんだ。


すぐに自分の行動に意味を求める辺り、自分で自分の首を絞めているのかなーと思うけれど。

今日は久しぶりのカオス会だった。
いつもの4人が久しぶりに揃って、両声類の子と冥王できるよねって背丈の子と、6人でわいわい。
いつもの4人は多かれ少なかれ歌うことに関してはガチ勢なもんで、いつもここで歌うと「このままじゃだめだな」という気持ちになる。
いや、べつに何の団体を目指しているわけでもないけれど。

ここで歌うのも、もう何回目になるだろうか。
元々は大学卒業後くらいに、サンホラを歌おうという名目で集まり、それぞれのパート分けなども上手くできて、それぞれの特性も活かされて、ここで歌うことが恒例行事になったのだ。
それがもう何年続いているだろう。5年? もっと??
この間に、サンホラ以外も歌うようになり、寧ろそれが普通になり、今ではサンホラよりも他の歌を歌うことが増えてきた。

僕はハモるの大好きハモラーで、他にも熱意あるハモラーが居る。
声楽やっている娘も居れば、特撮界隈の歌は大抵歌えるという方も居る。
個性豊かな面子の中で、僕は一番、声量が無いのだった。それが難点。
だけど、僕にはソプラノ~テノールまで出せる声があり、わりとどんなジャンルの歌も歌える。それが強みといえば強み。
一般人からは「普通の歌を歌っても普通に上手いんだけど、ふらみいの真価はサンホラ、アリプロ、志方さんにある」と言っていただけて、自分でもそうだろうなって感じる。

まぁ、そんなこんなで自分の強みを活かせて且つ楽しく歌えるから、ここに来るの好きなんすよ。
何歌ってもフォローくれるし、合いの手入るし、なにより僕がハモることができるってのが嬉しいんよ。
基本的に音程ちゃんとしている人じゃないと、ハモりにいけないし。
生意気ながらも、僕にとっては僕がハモれる人かどうかで、その人の歌の上手い下手を判断する。大抵は普通に上手ければハモれる。のびのびとハモれるのは、やっぱり歌うことが好きな人達だけど。

今日も楽しく歌って、ごはん食べながら「ここで歌うのは良いね」なんて話して周りに喧嘩売るような言い方しちゃったけど、そもそも僕にとって歌うことって何だろうって考えた。
それは表現の手段のひとつ。けど、そもそも僕は自分で作詞作曲はしないので、人の歌を歌うだけである。
それじゃあ歌うのが好きというより、人の真似をするのが好きと言った方が正しいかな。
元の歌い手に敬意を表して、なるべく似せて歌うのが信条だから、あながち間違いではない。作った人が何を思って作詞したのか、作曲したのかに思いを馳せることもある。それもきっと間違いじゃない。
でも、一番は僕の世界を潤してくれたものを、僕が自分を置き去りにして表現できるかどうかだ。その間だけ、僕は作品を表現する一部でありたい。だから、こんなに歌うことに対して妥協しないのだと解った。

物語を書くことは、自分の世界を表現すること。僕の視たもの聴いたことを、言葉によって現世に表すのだ。
歌を歌うことは、込められた抽象的な世界を僕なりになぞらえて表現すること。頭の中で溢れる想像を、詳細に、上手く、綺麗に表現したい。それは何の為とかじゃなく、歌がそういうものであるから、忠実になぞらえて表したいのだと解った。

そういえば、僕はちゃんと考えたことが無かったのだ。
僕自身が歌いたいのなら、作詞作曲を自分で行えばいい。そうじゃなく、人の造ったものをなぞって歌ってばかりいるのは、何なのか。
誰かの作った歌に込められたものを受け取りたいのか、それとも自分なりに解釈したものを表現したいのか、ただ単にその歌が好きだから歌いたいのか。
恐らくどれも当てはまるけど、僕がその作品を表すただの一部品になることを望んでいるのかもしれない。電子の歌姫のように、曲の一部となって違和感なくその世界を完成したいのかもしれない。

それを考えたら、何故、人から褒められても、あんなに納得できないのか解る。
足りないのだ、まだ。僕は一部になれていない。もっと近づきたいのに、自分の力不足の所為で思うように表現できないのだ。
だから、物足りない。いつも飢えているような状態。それは物語にも繋がる部分があるけど、こっちの方がもう少し浅い場所にある問題なのかな。

歌うということは、表現するということ。
歌うということは、自分じゃないものになるということ。
だとしたら、僕はまだ歌えるだろう。巧くなるだろう。


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