ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
大学の時の友人が、またグループ展を開くというので、銀座の画廊まで行ってきた。
今回やるテーマは前回のグループ展で聞いていたから、結構楽しみにして向かったのである。
その名も「えろ展 -わたしの形-」という。
どんなモノが見られるかなーと、わくわくはしていたんだけど、申し訳ない、正直、物足りなかった(´・ω・`)
僕は作品を見た時に、作者の思いだとか、その作品の性格や色やにおい、意義などを、言葉にしたり、或いは言葉ではないもので感じ取るのが好きなのだが、今回の作品群にはそれらがあまり感じられなかった。
僕の感性が衰えたのか? とも思ったんだけれど、何て言うかな、何も感じられないって思えるぐらい、テーマに対しのて作者の内面が薄いんだよな。
何も考えてないわけではないだろうし、美術品としての価値はあるのかもしれないけど、テーマに即した作品ってことで見たら、あまりにも何も込められていないように思えて、否、込められているけど、広くて浅くて物足りないのだ。
えろ とは、如何なるものを指す?
内面を探らずして見つけることは難しい、人間のテーマそのものに近いとは思う。
だから、個人が自分の内面を見つめないのとには、作品にするまでの純粋な何かしらは見つからんと思うのだ。
僕は見つけられなかった。皆、うわずみを作品にしただけで、自分の中は特に探らなかったのかなって感じてしまった。
中には性器を絵におこした人も居たけど、ただの綺麗な女性器だ。タイトルが面白いけど、それだけのものだ。
セクハラじゃないが、これが作者の女性器を作ったものだったなら、僕は惜しみない称賛を贈っていたと思う。
作者の性器にうわずみは無く、あるのは作者が体験した性だけだから。でも、それが見たかったのだ。
あと、圧倒的な異性愛の作品ばかりで、それもちょっと退屈だったりして。
男と女っていう性の捉え方をしたら、そりゃー異性愛だらけになるとは思うけど、そればっかりが愛ではないし、性ではないでしょう。
少なくとも、今の時代は変わってきているでしょう。
友人の絵はいつもの如く、力強かったけど、テーマに苦しめられたのか、やや説明的な仕上がりになっておりました。
ただ、その中に、ゲイが居たり、顔も知らないまま性の役割の為に結婚する男女が居たり、女装した男が居たりと、いろんな「性」が描かれていて、これには全性愛者の僕もニッコリっす!!!
そうそう、そういう感じが見たかった。
けども、奥には「されど男と女」という、根源に戻るものもあり、忘れてはいけない戒めの様なその絵も、なかなかに素敵なものだったのです。
友人とも話したけど、時代はもうただの異性愛だけではない。
他にもいろんな性があって、人間が繁栄する為の異性愛は終焉を迎えつつあるのではないでしょうか。
いや、勿論、異性愛者がまだ圧倒的に多いし、同性愛を嫌悪する人も一定数以上は居るし、同性愛者だらけになったら子ども産めないってのも、理屈は解るつもりなんだけど。
それでも、人は男女ではなく、個人として捉えられる未来に、もう差し掛かっていると感じるのです。
友人は女性だけど、女らしく振る舞うのが苦手で、好きな人が居ても女そのものの面は見せたくないんだそうな。
かといって、好きって気持ちは普通に持てるし、好かれたいという気持ちもある。ただし、女性としてではなく、ひとりの人間として好きになってほしいのだといいます。
無性愛ではないけど、随分と落ち着いた感情だ。僕には できない !
単純に裸体であればいいとか、そういうことじゃない。
もっと深みから来るものだと思っていた。ノンケにとっては違うのだろうか。
もっと自分のなかを探りませんか、探しませんか、ブラックボックスを。
自分ほど謎めいた興味深い人間は、なかなか居ないでしょう!
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まぁ、人と話す機会があまり多くないからだと思うのだが。
とうらぶにハマった9月頃から、猛烈に書く勢いが止まらないのである。
とうらぶに、というか、一期に、か。その後は長谷部に傾倒し、鶴丸、鳴狐、短刀大好きーってなったけど、今は大将組にうつつをぬかしている。
それぐらい好きには好き。まだ書きたい話もある。9月の時よりだいぶ落ち着いたけど、まだまだ吾思う本丸にて体験したいことがいっぱいあるのだ。
それとは別に、普通の恋愛の話も書きたくて、精霊の歌の学パロが止まらない。
ついこの間までは、わがまま娘ポポルとひねくれ者アシアの話を書いていた。
黒猫会談でポポルとキリカが話したから、次はアシアとメルプアが話す番かな。
それ書いたら、次は本編。何年も止まっていたけど、進めなければ。
それから、彼らを使ったパロディがわんさとあるので、それも終わらせないと。
先ずは東京喰種のパロと、花柳モノもそろそろ書かないといけないなぁ。
学パロは好きな時に書けるからいいとして・・・・・・。
あ、あと絵を描けるようになったら済むことがたくさんある。
艦これパロとか、とうらぶパロとか。絵だけで揃えて描いてみたい。自分の子が大好き過ぎて困る。
他のゲームの話も書けるなら書きたい。天地創造の現代パロも書かねばならない。
そんなこんなで、毎日あーでもないこーでもないと書きたいものがある。
それは幸せなことだと思うし、どんどん書き残していかねばと思うけど、時々やっぱり「僕なんかが書いて、それが何になるっていうんだ?」と感じる。
相変わらず誰にも読まれないし、感想だってロクにもらえない。感想が欲しいなら、もらえるような内容を書けばいいんだけど、そもそもそんな話を書きたいわけじゃない。
評価してほしいなら、それ相応のことをしなくちゃならない。だけど、自分を繋げていく為に書いているだけなら、もうこのままでいいのではないだろうか。
誰かに認めてもらいたいから、ずっと書いているのだろうか。
なら、何で認めてもらえるような話を書かないのか。それが自分の書きたいことじゃないからだよね。
だったら、もう書いていく理由なんて要らないでしょうに。何故まだ怯えるのだ。
これだけの力を持ちながら、何でまだ縛られたままなんだ。
僕は僕を認めてもらいたい。だけど、それはもうできないことだと解っている。
捨てられたもの、失われたものだからこそ、解ることもある。
人間になっていた。今はそろそろ違うものになってきた。まだ人間なんなら、どうして僕は他の人と同じことができないのだろう。
全部、嘘。解っている。少し、死にたくなってきた。
光田さんのアレンジアルバムが届いた今日は、何かと物思いに耽る一日であったなぁ。
そもそも、咳が治まらなくて、夜中もずっとゴホゴホやっていたから、明け方まで起きていたのだ。
だから、頭があんまり働いていない。まぁいつもだな!
そんなことより、アレンジアルバムを聴きましたのよ。
光田さんの作られる曲はツボなことが多くて、特にクロスは近年プレイしたこともあって、かなり心に残っております。
今でも作業用BGMにさせていただいておりますし。というか、サントラはみんな今でも聴く物が多い。気に入ったものはずっと聴く派。
最近で言えば、下村さんもLOMのアレンジアルバムを出してくださいましたな。
だから昔を振り返る機会が多かった。
LOMやクロスが出た時、自分は中1だったなぁと思うと、当然ながら時間は経っているんだと再認識。
当たり前にあったものが無くなったり、新しい何かを手に入れたり、何かしらのキッカケで昔のことを思い出してみたり。
まるで古い友人に逢ったような懐かしさが、病んだ心に大事なものを呼び覚ますかのようだよ。
やはりゲームは、曲は、その世界は、僕に生きることを教えてくれるのだなぁ。
いつなんどきも、どんな場所に居ても、どんな目に遭った後でも、思い出せるものがあるって良いことだ。
僕は弱い人間だからね、誰かが側に居ないと不安で、自分ひとりで生きていけやしない、生きてちゃいけないと思ってしまう。
そのくせ、生きていく誰かを信用できずに壊してしまう。そのように造られたとしか思えん。
そんな僕にも拠り所がある。人間に甘える以外に、否、これもやっぱり人間に甘えていることになるのかなぁ。
人の作ったものは尊い。
そこから何かを感じられる自分が造られたのも、やはり人と関わっていたからなのだな。
ひとりでできることには限界があるし。僕がぼくにだけ語れることなんて、そう多くはないから。自惚れてはいけないよな。
中1の頃から変わったことねぇ……、何かあるだろうか。
何かあるんだろうけど、すぐには浮かばない。外側の変化はいっぱいあるけど、内側はどうだろう。
性格とか気性とか、多少は感化されているだろうけど。変わったと言い切るには、まだ昔のままな気がする。
人はそう簡単に変われないと聞くが、変えられないの間違いではないだろうか。
変わろうと思えば何歳だろうが変われるんじゃなかろうか。内発的な何かに因って。
人を変えようとすることは難しいよね。僕は変えようとしたこと、あんまり無いから解らないけど。
でも、人に変えてもらったことって、どれほどの意味があるだろう。
僕を変えようとしたひとは、その時に生じる諸々のことに、どれだけ責任を背負えたのだろう。
自分も他者も、力の過信は良くないよな。
って、話が逸れるけど、とにかくあの頃から自分はそんなに変わってないかもなって、気付いたのです。
ここのとこ、自分の在り方がよく解らなかったし、辛いと思うことばかり、病んで壊れたと感じることばかりで、生きるちからを持った自分なんて残ってないと思っていました。
器がただ生きているんじゃなくて、自分で目標を持って、どこかに常に向かっていたいなぁ。
ゲームだってそうだろう、目標があった方が楽しいし続くだろう。
生きることを続けるには、何か目標とか目指すものがないと。少なくとも、僕はそうだ。
それが無くても生きていける人は、すごいよな。皮肉じゃなくて、自分にできないことだから、そう言えることです。
ゲームのキャラの年齢を、ほぼ追い越してしまった。
けど、いつまで経ってもランディは16歳で、僕は出逢った年齢の時のままなんだ。他のキャラに対してもそう。
クロスでさえ、10代の時のような感覚で考えている。ほぼ年下ばかりのキャラの筈が、そう見えないのだ。
ゲームをする時の自分って、あれか、年齢とかいろんなもんを置いてってんだな。
ゲームするのに必要なのは、楽しむ心だもんね。感受性ぐらいかな。
静かで綺麗な夜空を見ていると、誰かと一緒に見たいとか、すぐ考えてしまう。
長いこと一緒にいたいと願っていたから、居なくなった今もまだ居てくれる気がしてしまうのだ。寂しがりか。
そんで、この夜空のどこかでアークが白い翼を翻して飛んでいるんだなぁと、思うんだよ。
わりとEDを見た後に、そう思うようになった。あの鳥の鳴き声を聴くと、「もしかしてアークが?」とか真面目に考えちゃったりする。
自分が育てた地球を眺める夢は、どんな気持ちで見られるものだろう。
本当にこの世界を創ったのが、アークだったりしたら。すげぇぜ!!!
僕は何が創れるんだろうなぁ。
幼馴染みメンバーのひとりと、そんな話をした。以来、ずっと考えている。
他人がどう思うかではなく、自分が正しいと信じてやったことが後世に評価されることであればいい、と聞いて、自分にも当て嵌めて考えてみた。
僕はいつも人の評価に左右されて生きてきたから、認めてもらえないこと、必要としてもらえないこと、否定されることが怖くて仕方ない。
だけど、今ここまで壊れて、まだ生きている最中で、「周りって本当に僕に興味が無いんだな」と感じて、僕が何していようと何を考えようと、どうでもいいんだって解って、それでも生きていたいのは何の為かって考えて、イマココー。
僕は自分の欲望にも感情にも敗けてしまうからなぁ。
敗けないのは、空想する心だけね。聖剣の世界に戻る心だけが、何にも敗けずに君臨している。
大事にしたいものの為に暴走した力も気持ちも、その心にだけは敵わないと信じたい。
だから、ずっと子どものままなんだな。絵でも物語でも。
女として、男として、それも大事なことなんだけど、先ずは自分として、だな。
何も面倒なことなどない、逃げなければならないことなどない。受け入れて流すことができたらなぁ。
僕がそんなふうにできて、周りが僕に興味がないってことを笑えるようになったら、また生きていけるし、逢えるだろう。
あの頃より、たくさん手に入れたなぁ。
ひとつひとつ数えていたら、魂が老いていきそうだよ。だから、あまり数えないけど。
ぼくに残せるものは何だろうな。たくさん書いて話して歌っていりゃ、いつかは形になるんかな。
このアレンジアルバムみたいに、約束として蘇ったり、結末として結ばれたりするのだろうか。
そこまで生きていくのに、まだ時間が掛かる。途中で死ぬとしても、後悔のないように生きねばなぁ。
生きるのか、まだ生きるのか。また失うかもしれないのに。
手に入れたものだって、あるだろうに。
その大切さを説く為に、泣いている誰かの肩を温める為に、いろんな物語を書こうじゃないか。
作業用BGM
天地創造ED曲
ハルカナルトキノカナタヘ
って、そんなもんがあったら、楽しいじゃないすか。
生きていくの、辛くなくなりそうじゃないすか。
そんなふうに思えて、腹が立って、どうにならない昨今の妄想事情。
前回の日記でも触れたけど、とうらぶがキッカケとなって自分の調子が浮上したように思ったのだ。
そこから何度か堕ちそうなことはあったけれど、「ここで堕ちたら今までと変わらん、もう停滞は嫌だ、変わるのだ、次へ行きたい」と思えて、何とか自分を見失わずに来られた……つもりだった。
しかし、何だろうな、自分とは何なのだろうな。
不可視の存在を感じ取り、話すってだけならまだしも、最近じゃあ自分の脳内妄想が勝手に語りかけてくる。不可視の仲間達のとこに、ちゃっかり居たりする。
つまり、自分の妄想が自分の頭の外に感じられる状態だ。何だこれ。
妄想しているのが脳内だけなら、どんな都合のいい設定でも活かせるのだ。……まぁ、僕の場合は書く時と同じで、自動で物語や空想や妄想が進んでいくのだが。
それが自分の脳内だと解っているから、「こんな妄想もいいよね!」なんて笑っていられる。
でも、これが外から来たら、抱く感想はまったく違うものになる。
不可視の仲間よろしく、とうらぶの面々が勝手に僕の目の前に現れて、話しかけてきて、相談に乗ってくれて、励ましてくれるようなものだ。
イタイっつーか怖い。
低級霊が相手の思考を読んで、油断を誘う為に化けているんじゃなかろうか。
とうらぶの場合は、基がある。あれは付喪神という設定だ。
媒介も無いのに、刀剣男士だけ出てきたら、それは僕の妄想を何かが乗っ取っているに違いない。精神攻撃か。
けど、誰が攻撃するのだろう。とんと能力者の人とは会っていないのに。
確かにきついことはあったし、自分のことを見失ったし、辛いやら悲しいやらで今回も心が壊れてしまった。
それでもまだこうして楽しくやれている部分はあるし、何もかも駄目になったわけではないから、少しずつ良くなれば、いつかは話せる、会えると思っていたのだ。
それなのに、何でこんなことになっているんだろう。
自分の妄想が乗っ取られる? 誰に?
そういう奴らから守ってくれる為の守護者は何をしている?
不可視の仲間に訊いても、これが僕の新しい力なんだ力が強くなりすぎたんだっていう、都合のいい答えしかない。
そのうち、この子達も乗っ取られて、僕を騙すように使われているんじゃないかって感じてしまった。
こうやって、どんどん追い詰められていくのか?
ひとりになって、頭がおかしくなって、耐えられなくなって、死ぬのか?
誰が僕の死を望んだ? 僕自身か?
僕がぼくを呪った、死を願った、だからこんなやり方で徹底的に潰そうというのか?
頭の中で想像を掻き立てて、それが自由に動き回って、物語を書き出す時の様に楽しめることは、良いんだ。今まで通りで良いんだ。
だけど、妄想がまるで実体を持ち始めたかの様に動き出して、自分の目の前で展開されているように感じ始めたら、もう自分の正気を信じられない。
今回の決壊にあたって、ぼくと僕が分かれることになった。
どっちも自分だけど、生きる為に少しだけ分けて、鍵をかけて封印しようって考えたのだ。
見て見ぬふりをするには自分の中で強くなりすぎた心だし、捨てることなんてできなかった。しまっておいて、いつかそのちからを振るう日が来たら、勢いよく開けるつもりだったのだ。
そこから洩れているのだろうか。こうなってほしい、あぁしたかった、そんな想いが洩れて、細くとも確かにぼくを塗り潰して、こんな狂人紛いな物言いができるようになったのだろうか。
きっと大丈夫になる。
だけど、不可視のはずが感じられる とうらぶの面々は、相変わらず警戒しなければならない。
守護者達も、下手すりゃ警戒の対象になってしまう。
もう人間の仲間もいないのに、大事なものを自分の所為で失ったのに、これ以上の悲しい目に遭いたくない。もう何も失いたくない。
誰に話したところで、ますます可笑しくなるばかり。
見極めよう、全て。今までと同じように。
ぼくの力はぼくだけのものだ、誰にも呪わせないし奪わせない。
こんな時に誰かに頼れたらって思うけど、それこそ今までと一緒にしかならない。
変わらねばなるまい。ぼくがそれを決めたんだ。
先日の妄想がはかどりすぎて悲しい結末を迎えた日から何日か経ちました。
今はすっかり落ち着いて……とも言い難いけど、まぁ冷静に物を見られるようになったと思われる。
まぁ、ねぇ……元から暗い性格ではあったけど、二次元でぐらい少しはまともな幸せを夢見ても良いと思うけどなぁ。
何で自分に不利なことばかり考えてしまうのだ。
そういう気質だからと言ってしまえばそれまでだが、その後の衝撃やら辛さやらを考えると、もうそろそろそういう考え方はやめたい。
三次元で上手くいかないのなら、せめて二次元では上手くいこうよ。楽しくやろうよ。
でないと、現実も夢も見られなくなっちやうよ。
考え方を変えていくにあたって、いろんなことを整理していかなくてはなりません。
カウンセリングもそれに有効で、後は友人に会って話すのが一番だとも思いました。
それから、自分の世界を膨らませることだな。これが一番、大事だったのかもしれない。
今回の落ち込みから浮上するにあたり、とうらぶという新しく嵌れるものに出逢えた奇跡は、実にタイミングの良いものだったと考えれるのだ。
何てったって、四六時中、本丸のこと考えているからな。溢れる創作物を楽しんで、自分の世界を更に潤しているからな。
一期一振という新しい旦那に出逢えたことも、総じて良い結果をもたらすキッカケになりました。
とは言いつつ、やはり辛い時は辛い。許せないと、再燃する怨嗟が消えたわけではない。思い出せばまだ疼くような傷がたくさんある。
しかし、しかし、だ。それはそれ、これはこれで片付けることを、そろそろできるようになっている筈なのだ。
そこにまたひとつ、新しい要因として、志方あきこさんの“朱隠し”や和風コンセプトの「をかし」などが来ます。
和風は元から好きだし、白川郷に行った時に「日本人の血で物を見ているんだな」と強く意識したので、日本ならではのモノは大事に感じなくてはーと考えていたのだが。
歌でもそう、文化でもそう。場所でもそうだと思うのです。
“朱隠し”を聴いて、例の三条MADを思い出すからかな、神社の鳥居や神聖な水鏡を容易く描ける。
それはもう想像の刷り込みかなって思わんくもないけど、日本特有のあの逢魔ヶ刻の危うさと妖しさが、僕は大好きなのだ。軽く忘我状態に入れる。
水面の上で歌いさえすれば、すぐにでもあちら側に行けると思えるのだ。
その危うさを、美しさを、僕は大事にしなければならない。
辛いことはある、苦しいことはある。思い出せば悲しくなり、憎くなり、自分を見失うことも多い。
だけど、草原を吹き渡る風の音と、草いきれの匂いと、境界が無くなる世界の狭間に於いて、僕は何もかもから切り離されることになり、留まることのない風や水を思い描かなければならない。
留まれば濁る執着の水、流れてこそ……何だったか忘れたが、確かにその通りなのだ。
風も水もそう、みんなそう。
停滞は死を意味する。何も生み出せなくなる。心が死んでいく。
だから、何があるか解らなくても進むものだ。感じるものだ。
濁った風や水では、物語など書けないし、歌も歌えない。僕は僕にしかなれなかったが、それすらも放棄した時に、風でも水でもないベツモノに変わる。
それでもいいと言えるほど、まだ未練が消えたわけじゃなかった。
変化を恐れることこそが、忌むべき習慣だと気付いていた。
だからね、追い詰められて辛くなって、何もかも嫌だーと逃げたくなっても、僕は変わるんだって身構えたら、何とかなるもんなんだ。
何とかなる。ならない時は、なるようになる。
時間は常に動いている。無駄にしていいもんなんか、本当はいっこもない。
もっと強く自覚して、変わり始めたら、きっとまた話せるだろう。
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