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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
精神的な疾患と言ってしまうと、人同士の間で溝やら壁ができる。
「よく解らないから触れないでおこう」っていう壁や、
「そういう人と付き合うとロクなこと起きないし」っていう溝がある。
そのどちらも経験した身としては、やっぱりこの御時世でも精神的な疾患にはまだまだ偏見の方が多いよな、と思った。
人間、自分がなってみなければ解らないことの方が多い。

精神的な疾患なんて、ならないに越したことないんだけど、なってしまうことの方が多い。
そういった時、良くなろうと思うならば周りからの助力や理解は必要不可欠だと思うんだけど、これを得るのがとても難しい。
わたしはたまたま、人より感受性が強くて、相手の領域の空気や色を知ることができるだけ。
だから、偏見を嫌うし、色眼鏡で見ることも拒む。理解を示そうとすることはできる。
それでも相手の苦痛を共有するに至らない。それはやっぱり相手と自分は同じ人間ではないから。理解しきるってのは無理だ。
だけど、心を寄せるだけで少しは落ち着いてくれるかもしれないと、悩む友人あらばその傍らに居たいと思ったものだ。

娯楽は人それぞれで、精神的な疾患を抱えていても、ストレス発散の為にそれを楽しむ人も居る。
というか、楽しむ元気が残っている人は、その方法で以て何とか自分を取り返そうと足掻く。
わたしの場合はゲームなんだが、まぁこれは見た目が悪い。「お前、体調悪いのにゲームしてんのかよ」って思われても仕方ない。
しかし、これ以外にわたしはわたしを取り戻す方法が無い。人に会うことも恐ろしく、まとまらない思考で物語を書いても駄作ばかりで逆に腹立たしく、歌いたくてもその場所にまで行けない。
だから自分の中に閉じこもれる、最も没入できる世界へと逃避する。それがわたしにとっての精神安定剤ともいえる「ゲーム」だ。
人に話したとて、相手の荷物にしかならない。物語はアウトプットするなら最強の手段だが、上手く書けなくていらつくことの方が多い。
だけど、ゲームは引き込む世界観がある。五感を刺激してくるかのようなあのめくるめく世界は、わたしと捉えて離さない。
だから、わたしは落ち込んだ時にゲームをする。
ゲームできないほど落ち込んでいたら、それはもう死ぬしかない時だろうと察する。

一般的に精神疾患を患った人ってのは、きっと元気が無くて寝たきりなんだろう。
薬漬けで、病院に幾つも通っていて、人と会うことはおろか外にすら出られないと思われるのだろう。
実際は程度の差がある。重篤な方は上記の様な状態に陥っていることもしばしばあるだろうが、殆どの人は疾患があっても食い扶持の為に無理をする。無理をするから治るのも遅くなる。自分を誤魔化して無理をする。
無理をして手に入れた金で病院に行く。薬を飲んで脳をぼんやりさせて、思考を止めて、次の日の為に眠る。これは生きているのか、それとも生かされているのか。何が楽しくて生きているのか解らない。

誰もが寝たきりなのではない。薬を飲み続けているわけではない。
自分なりの抱え方と苦しみ方があって、その中で折り合いつけてがんばらなきゃいけないのが現状だ。それを生きていると呼ぶしかないのが現実だ。
わたしはまだ元気だ。だけど、一度壊れた精神は戻らない。元に戻す前にまた壊れた。何度も壊れた。ジェンガじゃねーんだからやめろと言っても、わたしの壊れた心はわたしにしか見えない。
誰もがそうなのかもしれない。話を聞いてほしいと願っても誤解され、助けてほしいと乞うても無視され、それは何でだ、周りにも余裕が無いからか。

想像通りの病人ってのは、もうある境を飛び越えてしまった方々だ。
そうなりたくてなったわけじゃないと思うが、なかには、そんな方も居るかもしれない。
見えないだけで、相手の話も聞かないで、決めつけるのはやめてくれないか。
わたしの話なら、わたしは確かに適応障害だが、問題の場所から離れれば普通に生活できる。ただし、壊れた精神は何かを引鉄にして急にまた崩れる。溜めこんだ不満と怒りはわたしの身体を苛んで、頭痛や腹痛、倦怠感といった調子で外に出る。
言葉にできない悔しさとか悲しさが病気になって、身体に出る。そんなこと、本当にあるんだね。わたしだって驚いた。
だけど、こんな身体になってしまったのだから仕方ない。恨むより悔やむより、この先を如何に丈夫に生きていくかが課題となった。

だけど、傷付かないわけじゃない。壊れなくなったわけじゃない。
余計なことはしないでほしい。寝たきりじゃなくても、あなた達の期待通りの行動をしなくても、わたしは確かに辛いし苦しいのだ。
それを理解してくれ、とは言えない。だからこそ、余計なことはしないでほしい。放っておいてくれないか。
あなた方の想像する病人とやらになる頃には、わたし自身は器を置いてもう死んでいるだろうからね。そんな無様、晒したくないんだよ。

精神疾患のある人間が組織に居ると、自然と目の上のたんこぶ扱いされるのは仕方ない。
向こうも恐れている。自分達の言動で相手が壊れないか、恐れている。そして面倒になってくるのだ。
わたしはそういう扱いを受けてまで、ここに居ることあるのか?
いや、雇ってもらえているだけでもありがたいのだから、或る程度の偏見とか色眼鏡には我慢しないと。

・・・・・・なんて言っていると、また頭痛がするんだ。終わりゃしねぇ。










壊れた原因は奇しくも五年前のこの日に遡る。
あれから五年も経った。わたしは相変わらずだと思うが、そんなこともないか。
また一部欠けて、補って、欠けた部分がそろそろ丸くなってきた頃だと思う。

今年中には第一子が欲しいなんて言って、その話とこの日と重なって思い出して、落ち込んだのはつい最近。
落ち込んだというか、フラッシュバックってやつか。
わたしは本当に愚かで、弱かった。子どもの産めない身体になっていたら良かったのになぁ。

わたしが幸せになることを誰が許してくれるだろうか。
わたしは幸せになることを誰に許してもらうつもりか。
壊れて立て直したものにどれほどの価値があるかは解らないが、わたしはまだ償いきれていない。
そうやって被害者ぶって、自分が一番かわいそうだと思うのは、馬鹿のやることだ。
わたしはまた悲劇ぶるのか?
だったら、さっさと死ねばいい。悲劇ぶるのなら、最後まで飾ってしまえばいいのに。
それができないなら、みっともなく足掻いてみるしかないのだろうか。
答えもまだ出ていない。五年もわたしは何をしていたのか。

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