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ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
何かの役に立つかもしれないから。
 ここではずっと軌跡を綴っているから。
 精神的なものではなく、肉体的なものはあんまり書いたことないけど。


 金曜の仕事に行く前、昼食を摂った時にたぶん量が多かった。
 その所為でいつものように腹痛になった。
 仕事先でわりと重たい腹痛を抱えたまま仕事をして、家に帰るのも苦労して、気持ちはとても苛ついていた。

 去年、一昨年とあれだけ苛まれ、失い、叩き落されたのに、相変わらず身体は身体の都合で悪くなる。
 特にその週の前の土曜は友人らと久しぶりにディズニーに行ったのだが、夕刻頃に少し早い月経を迎えてしまい、夜のパレード時も帰りの車の中でも鈍痛に襲われ、吐き気と戦っていた。
 あまりにも酷いタイミングで月経になったり、腹痛になったりする自分の身体に心底、嫌気が差していたのである。

「どうして自分ばっかり、こんな目に遭わなければならないのか。少しの楽しみもすっきりと享受させてもらえないのか。どうして自分の身体はこんな出来なのか」
 そんな思考が止まらなくなり、仕事中も帰りの間もずっと考えていた。
 何で自分ばっかり。傷付けてきた奴らは何も気にせず幸せを謳歌して、謝罪の意思すら見せないというのに。
 何で自分ばっかり、失って、痛がって、辛くなって、あいつらは明るい方だけ見るようにして生きている。恨めしい。何だ、この差は。

 思考が止まらないまま帰宅して、口から身体への怨み言を呟いて、少し良くなってきていた腹を思いっきり殴りつけた。何度か殴った。
 どうして言うことをきかない。わたしのものなのに、お前が言うことをきかなくてどうするんだ。もう嫌だ。敵になるな。

 そのまま夕食を摂ったが、少しして腹痛がぶり返したことに気付いた。それも、時々くる激痛の方だとすぐに解った。
 胃腸薬を服用し、耐えられる体勢を取っていつものように身構えたが、その夜の痛みは通常よりも強く、長かった。
 脂汗が出てきて、両脚で立っていられなくて、でもこの痛みのピークを越えれば楽になると思っていた。
 腹痛そのものが始まって、既に五時間は経過していた。

 この苦痛の一時間を越えればどうとでもなると思っていたが、夜が深まっても、痛みのピークが再び来て、これはいつものと違うとやっと気付いた。
 一回の痛みを耐えるだけでも体力を消耗し、精神にも余裕が無くなっていたので、家族に頼み、救急車を手配してもらった。
 救急車が来る前に薬手帳や保険証などを出さねばという意識は働いたが、その場からどうにも動けず、家族に取り出してもらった。

 程なくして救急車が来て、自分の足で歩き、車に乗り込んだ。
 相手の質問全てには答えられず、家族があれこれ説明して、市内の病院に搬送された。
 一口に腹痛で、と言っても先ずは原因を調べねばならず、腹痛の痛みが少し治まるのを待ちながら、CTを撮り、採血をしようとした。
 だが、こちらは痛みで仰向けで寝ることもできず、腕を差し出すこともままならず、ひたすら身体をくの字に曲げるしかない。腹痛時に寝転がった方が楽ではないかという意見が信じられなかった。尚のこと痛むんじゃないか?
 時間は掛かったが何とか撮影できたCTができるのを待つ間、ロキソニンをもらったが、まるで効かなかった。

 診てくださった先生曰く、原因は小腸の軸捻転とのことだった。
 捻転という症状があることは知っていたが、小腸も捻転するとは知らなかった。
「しかも二回りくらい捻れているんだよね。手術が必要になるだろうから、ここだと無理なので別の病院に行きましょう」
 別の病院が決まるまで、わたしはこの断続的な痛みと戦うのかと絶望した。
 だが、もう病院側の判断に委ねるしかない。その時にはもう「痛い」しか言えなかった。

 わたしは血管の見えにくいタイプらしく、点滴をしようとした看護師が少し困っていた。
 結局、左の手の甲に針を刺し、点滴を受けることになったが、痛みが一旦引いたと同時に今度は吐き気に襲われ、嘔吐した。
 とはいえ、昼間からの腹痛で夕食は少なめにしていたので、吐く量も少なかったのだが、吐くのは体力を消耗する。長時間、痛みに耐えていた所為で膝ががくがくしていたが、吐かずにはいられなかった。

 その間、あれよあれよと準備は進んでおり、受け入れてくれる病院が見つかった。隣の市の市民病院だった。
 救急車は十五分ほどで来てくれたが、その時のわたしは吐いて、痛みで朦朧としていて、歩くのもやっとだった。
 本当は歩きたくなかったし、この痛みが続くならもう死にたいとさえ思っていたが、救急隊員の方々も病院の看護師も優しかった。
 そんな方々を待たせるわけにはいかない、困らせたくないという意思で何とか足を運び、自分で救急車に乗ろうとした。
 そこで看護師が「少し強めの鎮痛剤を入れる」と言い、点滴にそれを混ぜたのか、それとも薬そのものに差し替えたのか・・・・・・記憶は曖昧だが、処方をしてくれた。

 救急車に二回乗ったわけだが、どちらでもストレッチャーに寝転がることができず、無理を通してストレッチャーの上で蹲っていた。本当は運転で揺れるからいけないのだろうが。
 市民病院に急ぐ間に強い鎮痛剤が効いてきたのか、痛みが遠のいていった。病院に着いた頃には、通常時にほぼ戻っていたくらいだ。
 ストレッチャーで運ばれ、処置をするための部屋に着き、検査を受けることになった。
 この頃には痛みが一時的に治まっていて、自分で受け答えもできるようになっていたから、鎮痛剤は偉大だとか考えていたように思う。

 市民病院でも血液検査とCTスキャンをすることになり、今度はちゃんと協力することができた。
 こっちでも看護師はどこに針を刺すか迷い、右手の甲に針を入れられた。両手に点滴か薬なんて、まるでブラボの実験棟だなぁなんてぼんやり思った。
 この時点で夜中の一時は過ぎており、検査とその結果が出るまでは二時間を要していたように思う。
 痛みがほぼ無かったので、自分の足で歩けそうだったのだが、トイレに行こうとすると車椅子を押してくれた。
 CTの部屋が機械のために温度を下げていたので、そこであまりにも冷えていたわたしは何度もトイレに行きたがり、そこは申し訳なく思った。向こうだって暇じゃないのに、と。

 市民病院に来て三時間、激しい痛みに苛まれていたのが嘘のように鎮まっていて、わたしは余裕を持って待つことができた。
 結果を教えに来てくれた消化器科の先生も、先の病院の先生とやはり同じことを言った。
「確かに小腸が軸捻転を起こしています。それも二回りくらい捻れているので、手術した方がいいかもしれない。血行が悪くなると、最悪、小腸が腐ってしまう恐れがあります」
 何時間も待ってうつらうつらとしていた家族とその話を聞いて、すぐに手術を受けることにした。
 痛いのは嫌だけど、腐ってしまったらそれまでだ。最悪の結果を避けるためなら、多少の代償は払うべきかもしれない。事ここに至って「嫌です」なんて頭に過るわけがなかった。
 先生は丁寧に説明してくれて、こちらの不安を最大限に無くそうと言葉を尽くしてくれていた。「外科部長と麻酔科の者も立ち会って手術に臨みます」と言われたのが、何だか印象的だった。
 市民病院の方々は親切で、仕事は丁寧だけど迅速だった。そんな雰囲気を肌で感じていたから、手術を受けることに不安は無かったのかもしれない。

 手術への同意書にサインすると、手術着に着替えることになった。
 この時点でわたしは寝間着だったので、それらを袋に入れて家族に渡し、手術の準備ができるのを待つことになる。
 その間に別の方が「手術したらそのまま入院になりますので、こちらを読んでくださいね」とパンフレットを渡してくれた。入院する時に必要なものとか、家族が持ってくる羽目になってしまった。

 同意書を書いているニ十分程の間で手術の準備は整い、わたしはベッドに寝転んで運ばれることとなった。
 「ご家族に何か言っておきますか?」と訊かれて、少なからず動揺した。そんな大事だと思っていなかった。
 それに場合は違うが、麻酔を使うような手術は以前も受けたことがあったから、不思議と怖いとか嫌だとか浮かんでこなかったので、家族に手を振って手術に臨んだ。
 と言っても、わたしが憶えているのは微かな場面だけだ。

 全身麻酔をかけるために背中に細い管を入れ、酸素マスクをつけ、「点滴入れているところから注入します。ちょっとチクッとしますけど、すぐ眠くなりますからね」と声を掛けられた。
 何かがチューブと針を通して、強い熱と共に入ってきた。思っていたより痛くて熱かったので、びっくりした。
 「うわ、熱いし痛い! 何!?」と思った次の瞬間、もう眠っていた。憶えていない。

 そして目が覚めた時、時計を見たら七時過ぎだった。そこでとても驚いた。
 熱い、痛い、何だろって言って瞬きをした覚えも無く、気付いたら七時過ぎ。確かこの部屋に入った時は四時過ぎだった筈なのに。麻酔って凄い。
 けど、自分で身体は動かせなかったので、ストレッチャーか別のベッドに数人がかりで移され、「移動しますね」と声を掛けられた。


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