ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
入院一日目
病院の中は明るくて、光に溢れていると感じた。どこをどう曲がったのか、行ったのかは覚えていないが、四人の大部屋に通された。
酸素マスクはまだつけたまま、何故か足にマッサージ機を装着され、左手の針がやっと外れた。
部屋に着いた頃には意識がはっきりしてきたのだが、全身麻酔の間、酸素を送るために挿管をしていた影響で、声が上手く出せなかった。
嗄れた声で家族のことを訊いたら、一旦帰ったと聞かされた。
本当はスマホくらいは置いていってほしかった。入院が急遽決まったから、友人らとの約束や仕事先への連絡などをしなければと気が急いていたのだと思う。
こんな時にまで他人に気を遣って馬鹿だなぁと自分に笑えてきた。
「飲めるようになったら飲んでください」と水のペットボトルが置かれたが、ベッド脇ではなく、ベッドの側に設置された棚の上だった。
仰向けの体勢から少しずつ身を捩って、どこが痛いのか、どのように痛いのかを確かめながら、何とか水を取ろうとしたけどまだ無理だった。
更には「十五時を過ぎたら飲んでも大丈夫ですよ」と言われたので、待つしかなかった。
酸素マスクが外れたのは三時間ばかり経ってからだったか。
酸素マスクが取れて、水も飲める時間になってくると、だいぶ現在の体勢が想像できるようになった。
背中にまだ強い薬を流す管は繋がれていて、右手から点滴を受けていて、腰回りが重く痛く、トイレに行けないからか尿道に管が入っているようだった。
何もかも初めてのことだったから、少しずつ慣れていけばいいと思いつつも、ちょっと嫌だった。
特に、トイレに行けないけど、意識しないでそのまま用を足してもいいという状態が理解できず、「歩けるほどじゃないから仕方ないけど、こんなものをつけなきゃいけないのか・・・・・・」なんて思ってしまった。
夕方、着替えなどを持ってきてくれた看護師にスマホを渡され、急いで約束をしていた人達へ事情を説明し、やっと気掛かりが一つ減った。
大部屋で一緒になった先住の患者は、大したことが無くても騒ぐ方だった。
今思えば、ナースコールを取り上げられていたのか、「すみませーん。誰かー。誰かお願いしまーす」と二時間か一時間に一度は聞こえた気がする。
最初聞いた時は何かあったのかと驚いて、わたしの方のナースコールを押して看護師を呼んでいたが、やってきた看護師と患者の会話を聞くに、呼ぶ必要が無かったかもしれないと思った。
それが二回続いた時、看護師に「部屋を移動しますね」と言われた。その患者は朝も夜もあんな調子で、ずっと誰かを呼びつけては、どこが痛いとかあれが嫌だとか言うらしい。
それでは夜眠れないだろうと、気遣いで移動させてもらえた。ありがたいことだ。
移動した先の大部屋は、先住の患者三人が朗らかに話しているのが聞こえた。
年若い患者と、恐らく五十代くらいの方と、七十代だと名乗った方とが居て、年若い患者の話で和気藹々としていた。
頃は夕暮れだったので、その話を聞きながら、カーテンの引かれた小窓をぼんやりと見ていた。
最近プレイした『さよならを教えて』を何となく思い出したら、脳内BGMはずっと『さよならを教えて』になった。
病院に泊まるってこんな感じなんだなぁ。お腹痛いて騒いで、救急車に乗って、病院二つも行って、流れで手術になって、まさか入院までする羽目になるとは。
怒涛の展開に現実感が薄れていたのかとも思うけど、未だ恐れは無く、落ち着いた心境で受け止めていた。
陰で、この一因とも言える去年や一昨年の辛かったことを思い出したけど、同時に自分の身体を激しく憎んだことも思い出し、もっと大事にしてやるべきだったと反省した。
殴ることはなかったよな。
夜の消灯は二十一時。随分と早い時間だ。まぁ、何時だろうとわたしは眠れない。
精神的な不安で早朝の覚醒が増えたり、浅い睡眠ばかりだったわたしは、入眠剤を使わないと自力で眠れなくなっていた。
なので、家族に頼んで常用している入眠剤を持ってきてもらったのだが、使うには薬剤師と先生の許可が必要だと言う。
さすがにこの一日では無理だろうと解っていたので、その日の夜は眠らないつもりでいた。
目を閉じても閉じているだけ。ちょっと眠くなったかもって思って目を開けると、たった三十分しか経っていない。
そんなことを何度も繰り返しながら、一時間に一度は来ていたかな、点滴チェックにやってきた看護師に氷枕を変えてもらったり、痛み止めを流してもらったりしていた。
目覚めてからずっと微熱が続いていて、まさか先週の風邪がぶり返したのかと思っていたら、術後は微熱が出るものらしい。
三十八度とか、それ以上となるとさすがに異常事態だけど、三十七度台はまだ許容範囲のようだ。
それでも解熱剤などはもらえないので、ゆっくり付き合っていくしかない。
何もできない夜は長い。精神だけ飛ぶやり方を試そうとか思ったけど、こんな状態で集中できるわけもなく。
誰とも話さず、何も見ず、足元についた明かりで影絵を楽しんだりして、時折眠った気がして、空が白むのを待った。
入院二日目
朝は六時起床。朝食は七時頃で、各々ゆっくり食べている。九時に回診があるので、ベッドで待機している人が多かった印象。
回診前にも先生がちょこちょこ見にきては、腹部の傷や腸の動きを診てくれた。今のところ正常だと言われて、とても安心した。
その後来た看護師に「レントゲンを撮りに行きます」と言われて、術後、初めてベッドからちゃんと身を起こした。ここでやっと一日中稼働していた足のマッサージ機が外れた。解放感がある。
起き上がる動作はとても大変だった。
下腹部全体がじんわり痛いが、動いて一番反応するのは左側だったので、なるべくそちらに負担を掛けないよう、右側を向いて身体を起こそうとしたが、右手の甲に点滴の針が刺さっているので、右手に力を入れられない。
右肘と左手で上半身を支えながら、ゆっくり身を起こす。痛みはあるけど、予想できていた範囲内だった。
車椅子に乗せられて、改めて院内の様子をぼんやりと観察した。ここは綺麗だし、何だか活気があるなぁと思った。
レントゲンを撮る時もまた大変で、立ったままの撮影と寝転がっての撮影と二回あったので、随分と時間を掛けて移動した。
スタッフの方も手伝ってくれて、痛みながらも何とか立ち上がり、寝転がり、再び車椅子に戻れた。
一日寝ているだけで、腹部にちょっと穴が開いただけで、えらく人は弱る。知見が深まった。
ここでは早期離床を推していると、看護師が言っていた。
ベッドにずっと寝ているだけで筋力はどんどん低下し、気持ちも後ろ向きになりがちだ。自分の足で動ける者には、院内をゆっくりでもいいから歩くことを推奨していると言う。歩くと血行が促進され、傷の治りも良くなるのだとか。
ずっとベッドに居て動けなくなることが怖かったわたしは、すぐさま院内を歩きたいと申し出た。
加圧の凄いストッキングのようなものを履かされ、時間を掛けて起き上がり、看護師と一緒に病棟のその階だけを二周した。
自分の足で歩けることは素晴らしい。ベッドに転がって止め処ないことを考えるより、自分の足で進んで塗り替えられる景色の方が、新しい何かを手に入れられる。そう思う。
ただ、歩く速度は健常時よりずっと遅い。歩く振動や、筋肉の動きで傷に多かれ少なかれ痛みは走る。それでも歩けるのが嬉しい。
点滴を掛けたスタンドを支えにして、下部に尿の袋を掛けて、首には背中の薬の瓶を提げて、そんな重装備で歩き回った。あぁ、本当に病人のようだとも思った。
自分の足で歩けて、腸の動きも良いということで、昼ぐらいから流動食が出てくるようになった。
とはいえ、激痛や嘔吐の記憶が真新しかったので、食べるのが恐ろしく、出されたブドウジュースを飲んで、ちょっとだけ流動食を口にするだけだった。
腹は空いている感じがしない。この状態で空腹感を訴えられても困るのだが、わたしの精神状態など関係無く食べ物を求めるのが胃なので、多分に警戒していた。
どうやらわたしの胃の胃酸は強いようで、空腹を暫く放置しておくと、胃がずきずきと痛みだすことが多かった。だから食べ過ぎてしまうのかもしれない。
まぁ、でも状況が状況だ。空腹感を訴えられていたとしても、わたしは水分だけ摂りたかった。
午後になって、段々と体調が悪くなってきた。吐きそうな、そうでもないような吐き気に襲われて、看護師にそれを訴えた。
曰く、背中に管を通した薬の副作用で起きる吐き気とのことで、薬の濃度を一段階下げてもらうことにした。その分痛むかもしれないとも思ったが、すぐに動けるわけじゃない今は吐き気の方が嫌だった。
午後は歩き回ることができず、ベッドに横になってカーテンの引かれた窓の外を想像していた。あぁ、気持ち悪い、歩きたいと怨み言のように思いながら、吐き気が解消されるのをひたすら待つ。
その間、実に多くの意味の無いことを考えた。存外、そういったどうでもいいことを追求していると、気持ち悪さを誤魔化せるものだ・・・・・・個人の感想です。
その時考えていたのは、ジブリのハウルに出てきたヒンのことだった。あれはどういう犬なんだろう、モップみたいだったな、どんな姿だったっけ、頭に描いてみよう・・・・・・そんなことを考えていたら、夕食の十八時になった。
夕食を食べる気にはなれなかったけど、その頃にはだいぶ気持ち悪さは薄れていた。
今どの装置を外してほしいかと言ったら、点滴の針だと答える。それぐらい、右手の甲に針がある状態は支障が出ていた。無意識に動かしてぶつけたりするし。
夕食を食べたくないというより、あれこれ四苦八苦して起き上がるのが苦痛なだけだったかもしれない。
夕食も流動食。けど、昼よりは食べる量が増えたかな。
豚のペーストにパプリカソースをかけたものが美味しかった。あまり味のしないアイスクリームや、ヨーグルトも出てきたけど、全部は食べられなかった。
あ、でも毎回出てくるほうじ茶かな、あれは美味しかった。あれだけは気付いてから、よく飲み切っていた。
そしてまた夜が来て、影絵で遊んだ。看護師が来た時に氷枕を変えてもらい、驚かせないようにしながら、その仕事ぶりを見ていた。
わたしは愚かだし、頭の出来も良くないから、医療系の仕事に就けることは来世であっても有り得ないだろうから、こういう仕事に就いている方々は尊敬する。朝も昼も夜も、交代とはいえ、過酷な環境で仕事しているな。
けど、この病院の看護師も先生も何だか朗らかだ。よく気が付くし、説明も丁寧だし、仕事態度が一貫していて、見ていて気持ちがいい。
小さな病院の先生は優しかったけど、規模が大きくなるにつれ、横柄な態度を見せる人が多かったから、そういうもんだと思っていたのに。
勿論、病院によって変わるものだとは思うけど、初めて大きな病院でこんなに良い場所に会ったなぁという印象がずっとあった。
病院の中は明るくて、光に溢れていると感じた。どこをどう曲がったのか、行ったのかは覚えていないが、四人の大部屋に通された。
酸素マスクはまだつけたまま、何故か足にマッサージ機を装着され、左手の針がやっと外れた。
部屋に着いた頃には意識がはっきりしてきたのだが、全身麻酔の間、酸素を送るために挿管をしていた影響で、声が上手く出せなかった。
嗄れた声で家族のことを訊いたら、一旦帰ったと聞かされた。
本当はスマホくらいは置いていってほしかった。入院が急遽決まったから、友人らとの約束や仕事先への連絡などをしなければと気が急いていたのだと思う。
こんな時にまで他人に気を遣って馬鹿だなぁと自分に笑えてきた。
「飲めるようになったら飲んでください」と水のペットボトルが置かれたが、ベッド脇ではなく、ベッドの側に設置された棚の上だった。
仰向けの体勢から少しずつ身を捩って、どこが痛いのか、どのように痛いのかを確かめながら、何とか水を取ろうとしたけどまだ無理だった。
更には「十五時を過ぎたら飲んでも大丈夫ですよ」と言われたので、待つしかなかった。
酸素マスクが外れたのは三時間ばかり経ってからだったか。
酸素マスクが取れて、水も飲める時間になってくると、だいぶ現在の体勢が想像できるようになった。
背中にまだ強い薬を流す管は繋がれていて、右手から点滴を受けていて、腰回りが重く痛く、トイレに行けないからか尿道に管が入っているようだった。
何もかも初めてのことだったから、少しずつ慣れていけばいいと思いつつも、ちょっと嫌だった。
特に、トイレに行けないけど、意識しないでそのまま用を足してもいいという状態が理解できず、「歩けるほどじゃないから仕方ないけど、こんなものをつけなきゃいけないのか・・・・・・」なんて思ってしまった。
夕方、着替えなどを持ってきてくれた看護師にスマホを渡され、急いで約束をしていた人達へ事情を説明し、やっと気掛かりが一つ減った。
大部屋で一緒になった先住の患者は、大したことが無くても騒ぐ方だった。
今思えば、ナースコールを取り上げられていたのか、「すみませーん。誰かー。誰かお願いしまーす」と二時間か一時間に一度は聞こえた気がする。
最初聞いた時は何かあったのかと驚いて、わたしの方のナースコールを押して看護師を呼んでいたが、やってきた看護師と患者の会話を聞くに、呼ぶ必要が無かったかもしれないと思った。
それが二回続いた時、看護師に「部屋を移動しますね」と言われた。その患者は朝も夜もあんな調子で、ずっと誰かを呼びつけては、どこが痛いとかあれが嫌だとか言うらしい。
それでは夜眠れないだろうと、気遣いで移動させてもらえた。ありがたいことだ。
移動した先の大部屋は、先住の患者三人が朗らかに話しているのが聞こえた。
年若い患者と、恐らく五十代くらいの方と、七十代だと名乗った方とが居て、年若い患者の話で和気藹々としていた。
頃は夕暮れだったので、その話を聞きながら、カーテンの引かれた小窓をぼんやりと見ていた。
最近プレイした『さよならを教えて』を何となく思い出したら、脳内BGMはずっと『さよならを教えて』になった。
病院に泊まるってこんな感じなんだなぁ。お腹痛いて騒いで、救急車に乗って、病院二つも行って、流れで手術になって、まさか入院までする羽目になるとは。
怒涛の展開に現実感が薄れていたのかとも思うけど、未だ恐れは無く、落ち着いた心境で受け止めていた。
陰で、この一因とも言える去年や一昨年の辛かったことを思い出したけど、同時に自分の身体を激しく憎んだことも思い出し、もっと大事にしてやるべきだったと反省した。
殴ることはなかったよな。
夜の消灯は二十一時。随分と早い時間だ。まぁ、何時だろうとわたしは眠れない。
精神的な不安で早朝の覚醒が増えたり、浅い睡眠ばかりだったわたしは、入眠剤を使わないと自力で眠れなくなっていた。
なので、家族に頼んで常用している入眠剤を持ってきてもらったのだが、使うには薬剤師と先生の許可が必要だと言う。
さすがにこの一日では無理だろうと解っていたので、その日の夜は眠らないつもりでいた。
目を閉じても閉じているだけ。ちょっと眠くなったかもって思って目を開けると、たった三十分しか経っていない。
そんなことを何度も繰り返しながら、一時間に一度は来ていたかな、点滴チェックにやってきた看護師に氷枕を変えてもらったり、痛み止めを流してもらったりしていた。
目覚めてからずっと微熱が続いていて、まさか先週の風邪がぶり返したのかと思っていたら、術後は微熱が出るものらしい。
三十八度とか、それ以上となるとさすがに異常事態だけど、三十七度台はまだ許容範囲のようだ。
それでも解熱剤などはもらえないので、ゆっくり付き合っていくしかない。
何もできない夜は長い。精神だけ飛ぶやり方を試そうとか思ったけど、こんな状態で集中できるわけもなく。
誰とも話さず、何も見ず、足元についた明かりで影絵を楽しんだりして、時折眠った気がして、空が白むのを待った。
入院二日目
朝は六時起床。朝食は七時頃で、各々ゆっくり食べている。九時に回診があるので、ベッドで待機している人が多かった印象。
回診前にも先生がちょこちょこ見にきては、腹部の傷や腸の動きを診てくれた。今のところ正常だと言われて、とても安心した。
その後来た看護師に「レントゲンを撮りに行きます」と言われて、術後、初めてベッドからちゃんと身を起こした。ここでやっと一日中稼働していた足のマッサージ機が外れた。解放感がある。
起き上がる動作はとても大変だった。
下腹部全体がじんわり痛いが、動いて一番反応するのは左側だったので、なるべくそちらに負担を掛けないよう、右側を向いて身体を起こそうとしたが、右手の甲に点滴の針が刺さっているので、右手に力を入れられない。
右肘と左手で上半身を支えながら、ゆっくり身を起こす。痛みはあるけど、予想できていた範囲内だった。
車椅子に乗せられて、改めて院内の様子をぼんやりと観察した。ここは綺麗だし、何だか活気があるなぁと思った。
レントゲンを撮る時もまた大変で、立ったままの撮影と寝転がっての撮影と二回あったので、随分と時間を掛けて移動した。
スタッフの方も手伝ってくれて、痛みながらも何とか立ち上がり、寝転がり、再び車椅子に戻れた。
一日寝ているだけで、腹部にちょっと穴が開いただけで、えらく人は弱る。知見が深まった。
ここでは早期離床を推していると、看護師が言っていた。
ベッドにずっと寝ているだけで筋力はどんどん低下し、気持ちも後ろ向きになりがちだ。自分の足で動ける者には、院内をゆっくりでもいいから歩くことを推奨していると言う。歩くと血行が促進され、傷の治りも良くなるのだとか。
ずっとベッドに居て動けなくなることが怖かったわたしは、すぐさま院内を歩きたいと申し出た。
加圧の凄いストッキングのようなものを履かされ、時間を掛けて起き上がり、看護師と一緒に病棟のその階だけを二周した。
自分の足で歩けることは素晴らしい。ベッドに転がって止め処ないことを考えるより、自分の足で進んで塗り替えられる景色の方が、新しい何かを手に入れられる。そう思う。
ただ、歩く速度は健常時よりずっと遅い。歩く振動や、筋肉の動きで傷に多かれ少なかれ痛みは走る。それでも歩けるのが嬉しい。
点滴を掛けたスタンドを支えにして、下部に尿の袋を掛けて、首には背中の薬の瓶を提げて、そんな重装備で歩き回った。あぁ、本当に病人のようだとも思った。
自分の足で歩けて、腸の動きも良いということで、昼ぐらいから流動食が出てくるようになった。
とはいえ、激痛や嘔吐の記憶が真新しかったので、食べるのが恐ろしく、出されたブドウジュースを飲んで、ちょっとだけ流動食を口にするだけだった。
腹は空いている感じがしない。この状態で空腹感を訴えられても困るのだが、わたしの精神状態など関係無く食べ物を求めるのが胃なので、多分に警戒していた。
どうやらわたしの胃の胃酸は強いようで、空腹を暫く放置しておくと、胃がずきずきと痛みだすことが多かった。だから食べ過ぎてしまうのかもしれない。
まぁ、でも状況が状況だ。空腹感を訴えられていたとしても、わたしは水分だけ摂りたかった。
午後になって、段々と体調が悪くなってきた。吐きそうな、そうでもないような吐き気に襲われて、看護師にそれを訴えた。
曰く、背中に管を通した薬の副作用で起きる吐き気とのことで、薬の濃度を一段階下げてもらうことにした。その分痛むかもしれないとも思ったが、すぐに動けるわけじゃない今は吐き気の方が嫌だった。
午後は歩き回ることができず、ベッドに横になってカーテンの引かれた窓の外を想像していた。あぁ、気持ち悪い、歩きたいと怨み言のように思いながら、吐き気が解消されるのをひたすら待つ。
その間、実に多くの意味の無いことを考えた。存外、そういったどうでもいいことを追求していると、気持ち悪さを誤魔化せるものだ・・・・・・個人の感想です。
その時考えていたのは、ジブリのハウルに出てきたヒンのことだった。あれはどういう犬なんだろう、モップみたいだったな、どんな姿だったっけ、頭に描いてみよう・・・・・・そんなことを考えていたら、夕食の十八時になった。
夕食を食べる気にはなれなかったけど、その頃にはだいぶ気持ち悪さは薄れていた。
今どの装置を外してほしいかと言ったら、点滴の針だと答える。それぐらい、右手の甲に針がある状態は支障が出ていた。無意識に動かしてぶつけたりするし。
夕食を食べたくないというより、あれこれ四苦八苦して起き上がるのが苦痛なだけだったかもしれない。
夕食も流動食。けど、昼よりは食べる量が増えたかな。
豚のペーストにパプリカソースをかけたものが美味しかった。あまり味のしないアイスクリームや、ヨーグルトも出てきたけど、全部は食べられなかった。
あ、でも毎回出てくるほうじ茶かな、あれは美味しかった。あれだけは気付いてから、よく飲み切っていた。
そしてまた夜が来て、影絵で遊んだ。看護師が来た時に氷枕を変えてもらい、驚かせないようにしながら、その仕事ぶりを見ていた。
わたしは愚かだし、頭の出来も良くないから、医療系の仕事に就けることは来世であっても有り得ないだろうから、こういう仕事に就いている方々は尊敬する。朝も昼も夜も、交代とはいえ、過酷な環境で仕事しているな。
けど、この病院の看護師も先生も何だか朗らかだ。よく気が付くし、説明も丁寧だし、仕事態度が一貫していて、見ていて気持ちがいい。
小さな病院の先生は優しかったけど、規模が大きくなるにつれ、横柄な態度を見せる人が多かったから、そういうもんだと思っていたのに。
勿論、病院によって変わるものだとは思うけど、初めて大きな病院でこんなに良い場所に会ったなぁという印象がずっとあった。
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