ふらみいの、とうかの、言葉吐しと成長録
たった一週間の間、山のドン底に居て、谷の頂点へと昇った。
死にたい、生きたい、苦しい、辛い、悲しい、ごめんなさい、などなど様々な感情が交錯して、消えて、浮かんで、また生まれて死んだような状態。
今までで何度目かの挫折と苦痛で、何もする気が起きなくて、食欲まで落ちて、もう生きていく気が無いのだと思った。
その一方で、最後に縋りたい、話したいと、片っ端から友人らに話をした。
去年からここまで、話し始めたら際限がないからと遠慮していた間柄にも話をしまくった。
みんな、快く話を聞いてくれた。「抱え過ぎないで、辛くなったら話してくれ」と言ってくれた。
これが自分の築いてきた財産なのだと、改めて知った。
べつに友人らを軽んじていたつもりはない。話が通じないなどと思っていたわけでもない。
だけど、何となく僕は一度頼ると依存して相手に迷惑を掛けてしまうのでは、と恐れていた。それを恐れて、あまり人に話をしないようになっていた。
あの子しか頼れないと思っていたわけじゃない。でも、憚られると思って、話をしないでいた。
あの子と話せなくなってから、いろんなことを感じた。多くは負の感情ばかりだったけど。
その間、友人らとただ一緒に遊んだ。話をした。それがどれほど救いになっていたか、解らない。
家族にも救われた。もう前の家族のように、知らぬ存ぜぬはしない。ちゃんと解決策を共に考えてくれて、カウンセリングや病院にも理解があって、援助だって惜しまずにいてくれる。
今の僕には、これまで泣き言を零して自分に自信が無いながらも築いてきた、多くの関係があった。ちゃんとあった。
そう考えたら、やっぱり二十年を重く受け止めるあの関係を、簡単に諦めることはできない。
それでも、今は時間と距離を置くのがいいのかもしれないと、やっと思えるようになってきた。まだ先のことは解らないけど、もしかしたらまた話せるようになるかもしれないと。
その反対の可能性だってある。二度と話せず、このまま会えないまま、関わらないまま、それぞれ生きていく可能性。
それを考えるのはまだ怖いし、悲しい。未だにどうしてこんなに拘るのか、自分でも解らないけど、離れるのが耐え難く、ただ痛かった頃より、少しだけ楽になれた。
この先で交わるということを、信じられるようになったのかもしれない。
未来を信じるというのは、誰にでもできることではないと思う。
自分がいつ死ぬか解らない、この先を生きていくなんて考えられない、そういう年数を重ねてきたから、十年後とか二十年後のことなんて真剣に思ったことはない。
長期戦になると分が悪いから、いつも短期決戦だった。明日死ぬかもしれないから、さくさく決めて刹那を生きるのが正しいと思っていた。
それが、少しだけ自分が長く生きることを許せるのではないかと、初めて思えた。
勿論、今は友人らに聞いてもらった直後だから、奇跡に感動して楽観視しているだけという見方もできる。人間、すぐさま明るくなれるというわけじゃない。
だけど、明らかに四日前と比べて、冷静になれた気がするのだ。思考に変化が起きたのだ。
おまじないでも、音楽でも何でも使えるものは使って、相変わらず会いたい。
会って話がしたいと思うし、ともだちやめたくないし、失いたくない。
だけど、本当にここで会えなくなったとしても、もしかしたら受け入れられるかもしれない。
次の世界で会えたらいいなって思えるようになれるかもしれない。
可能性ばかりだが、今までは顔を背けて言葉にもしたくなかったものを、少しずつ受け入れている。
僕は会いたい、話したい、失いたくない。相手にもそう思ってもらえたらいいと、願っている。
それが無理だったとしても、あまり責めたくない。もう責めたくないとか、善人ぶって思っている。
悲しくないわけじゃない。虚しくないわけじゃない。トラウマになったし、思い出すと引き戻されて辛くなる。
だけど、誰もが「それ以上もう傷付く必要はない」と言ってくれた。「自分のことを貶める必要はない」と言ってくれた。
僕はそう言ってもらえるだけの価値があったんだ。そういう関係を、この三十五年の中で苦しみながら、失敗しながら、作ってこれたんだ。これが僕の築いたものなんだ。
まだあの子に話し掛けてしまう。呼び掛けてしまう。癖みたいなものだ。
だけど、その声から険が薄れていくのが解る。ちょっとずつ。
僕はまた凄い速さで変わり始めたのだろう。その中でも変わらずにいよう、大事にしようと新たに決めたものがある。
馬鹿を見ることが多いけど、やっぱり素直に誠実に在りたい。
また挫折するだろうか、傷付くだろうか、辛い苦しい死にたいと涙することはあるだろうか。
そこで手に入れたものを手放さず、大事にできたらいい。僕にならできる筈だ。
そうやって信じて、みっともなく生き恥を晒しても、また会えるかもしれないなら、その方がいい。会いたいし、話したい。きっとそうなると信じたい。
僕は寂しがり屋だから、やっぱり自分の相棒のような人が欲しいと思ってしまう。
家族は居るけど、僕の物語を読んで、歌を聴いて、僕の深奥に触れてくれる相棒が欲しいと思ってしまう。
あの子はそこに近かった。そういう人間をまた欲してしまうだろう。
新しい関係を手に入れられるかもしれないと、そんな予感はある。きっとまた素敵なものを見つけられる。
あの子に会えるなら、また会いたい。何度でも言える。しつこいかもしれん。
もうちょっと成長したら、きっと今度は君を支えられる。役に立てる。
だから、また話したい。遊びたい。ちゃんと受け止められるようになりたい。なる。
死にたい、生きたい、苦しい、辛い、悲しい、ごめんなさい、などなど様々な感情が交錯して、消えて、浮かんで、また生まれて死んだような状態。
今までで何度目かの挫折と苦痛で、何もする気が起きなくて、食欲まで落ちて、もう生きていく気が無いのだと思った。
その一方で、最後に縋りたい、話したいと、片っ端から友人らに話をした。
去年からここまで、話し始めたら際限がないからと遠慮していた間柄にも話をしまくった。
みんな、快く話を聞いてくれた。「抱え過ぎないで、辛くなったら話してくれ」と言ってくれた。
これが自分の築いてきた財産なのだと、改めて知った。
べつに友人らを軽んじていたつもりはない。話が通じないなどと思っていたわけでもない。
だけど、何となく僕は一度頼ると依存して相手に迷惑を掛けてしまうのでは、と恐れていた。それを恐れて、あまり人に話をしないようになっていた。
あの子しか頼れないと思っていたわけじゃない。でも、憚られると思って、話をしないでいた。
あの子と話せなくなってから、いろんなことを感じた。多くは負の感情ばかりだったけど。
その間、友人らとただ一緒に遊んだ。話をした。それがどれほど救いになっていたか、解らない。
家族にも救われた。もう前の家族のように、知らぬ存ぜぬはしない。ちゃんと解決策を共に考えてくれて、カウンセリングや病院にも理解があって、援助だって惜しまずにいてくれる。
今の僕には、これまで泣き言を零して自分に自信が無いながらも築いてきた、多くの関係があった。ちゃんとあった。
そう考えたら、やっぱり二十年を重く受け止めるあの関係を、簡単に諦めることはできない。
それでも、今は時間と距離を置くのがいいのかもしれないと、やっと思えるようになってきた。まだ先のことは解らないけど、もしかしたらまた話せるようになるかもしれないと。
その反対の可能性だってある。二度と話せず、このまま会えないまま、関わらないまま、それぞれ生きていく可能性。
それを考えるのはまだ怖いし、悲しい。未だにどうしてこんなに拘るのか、自分でも解らないけど、離れるのが耐え難く、ただ痛かった頃より、少しだけ楽になれた。
この先で交わるということを、信じられるようになったのかもしれない。
未来を信じるというのは、誰にでもできることではないと思う。
自分がいつ死ぬか解らない、この先を生きていくなんて考えられない、そういう年数を重ねてきたから、十年後とか二十年後のことなんて真剣に思ったことはない。
長期戦になると分が悪いから、いつも短期決戦だった。明日死ぬかもしれないから、さくさく決めて刹那を生きるのが正しいと思っていた。
それが、少しだけ自分が長く生きることを許せるのではないかと、初めて思えた。
勿論、今は友人らに聞いてもらった直後だから、奇跡に感動して楽観視しているだけという見方もできる。人間、すぐさま明るくなれるというわけじゃない。
だけど、明らかに四日前と比べて、冷静になれた気がするのだ。思考に変化が起きたのだ。
おまじないでも、音楽でも何でも使えるものは使って、相変わらず会いたい。
会って話がしたいと思うし、ともだちやめたくないし、失いたくない。
だけど、本当にここで会えなくなったとしても、もしかしたら受け入れられるかもしれない。
次の世界で会えたらいいなって思えるようになれるかもしれない。
可能性ばかりだが、今までは顔を背けて言葉にもしたくなかったものを、少しずつ受け入れている。
僕は会いたい、話したい、失いたくない。相手にもそう思ってもらえたらいいと、願っている。
それが無理だったとしても、あまり責めたくない。もう責めたくないとか、善人ぶって思っている。
悲しくないわけじゃない。虚しくないわけじゃない。トラウマになったし、思い出すと引き戻されて辛くなる。
だけど、誰もが「それ以上もう傷付く必要はない」と言ってくれた。「自分のことを貶める必要はない」と言ってくれた。
僕はそう言ってもらえるだけの価値があったんだ。そういう関係を、この三十五年の中で苦しみながら、失敗しながら、作ってこれたんだ。これが僕の築いたものなんだ。
まだあの子に話し掛けてしまう。呼び掛けてしまう。癖みたいなものだ。
だけど、その声から険が薄れていくのが解る。ちょっとずつ。
僕はまた凄い速さで変わり始めたのだろう。その中でも変わらずにいよう、大事にしようと新たに決めたものがある。
馬鹿を見ることが多いけど、やっぱり素直に誠実に在りたい。
また挫折するだろうか、傷付くだろうか、辛い苦しい死にたいと涙することはあるだろうか。
そこで手に入れたものを手放さず、大事にできたらいい。僕にならできる筈だ。
そうやって信じて、みっともなく生き恥を晒しても、また会えるかもしれないなら、その方がいい。会いたいし、話したい。きっとそうなると信じたい。
僕は寂しがり屋だから、やっぱり自分の相棒のような人が欲しいと思ってしまう。
家族は居るけど、僕の物語を読んで、歌を聴いて、僕の深奥に触れてくれる相棒が欲しいと思ってしまう。
あの子はそこに近かった。そういう人間をまた欲してしまうだろう。
新しい関係を手に入れられるかもしれないと、そんな予感はある。きっとまた素敵なものを見つけられる。
あの子に会えるなら、また会いたい。何度でも言える。しつこいかもしれん。
もうちょっと成長したら、きっと今度は君を支えられる。役に立てる。
だから、また話したい。遊びたい。ちゃんと受け止められるようになりたい。なる。
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